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小学校の教師にはない?「成績」の概念

 小学校の教師の一部には,真面目に「成績」をつけようとする気のない人がいる。

 教科の目標が何だか分からないで教えているからである。

 「7・5・3」とはよく言ったもので,小学校では,ほとんどの子どもが同じような課題を

 同じように解決することができるようになる。

 だから,「3 十分満足できる」「2 おおむね満足できる」の違いが分からない教師がいてもおかしくはない。

 何度もここでは書いているが,

 「3 十分満足できる」「2 おおむね満足できる」の評価の「妥当な境界線」は,

 10人教師がいたら,10通りのものができるほどあいまいだし,

 その評価の質も様々だし,

 評価されている子どもの実際の力も様々である。

 異なる「目標」のもとで教育が行われていたら,

 「目標準拠評価」そのものの意味が変わってしまう。

 中高一貫校を受験する子どもを受け持っていない

 小学校の教師にはほとんど縁のない話だが,

 ほとんどの中学生にとって,「学校の成績」は,

 そのまま「内申点」として

 上級校の受験の合否の判定資料となるのだから,

 評定の「4と5」では大違いなのである。

 中学生がふつう「成績が上がった」というと,

 テストの直後なら「テストの点数が上がった」「順位が上がった」

 ことを指すこともありうるが,

 一般的には「評定が上がった」ことを指す。

 「2から3に上がる」と,子どもだけでなく親も喜んでくれる。

 日本人は「ふつう」「平均点」が大好きなのだ。

 5段階評価で,「3 おおむね満足」の生徒の数は,かなり多くなる。

 昔は「相対評価」だったから,割合で「3をとる生徒の数」は

 決まっていたが,今は「目標準拠評価」であり,

 1~5までの評定をもらう生徒の数は,教師によって,

 教科によって,まちまちである。

 実際につけられた「評価・評定」と,入試のための資料として

 提出されたものが異なると困るので,それが同じものであることの

 チェックが行われている。

 だから,ときどき,「1と2の生徒が一人もいない教科」

 とか,「4とか5がとても多い教科」が問題になる。

 ある議員は,自分の区と,隣の区の「評定分布の違い」に目をつけて,

 自分の区の子どもが入試で損をしているのではないか,

 と主張したことがある(と記憶している)。

 そういうことはもちろんあり得るわけだ。


 どうでもいい話ばかりだったが,とりあえず「質問」「疑問」には答えた。


 「回路」をぐるぐるまわっている「質問者」は,

 エンドレスで「質問に答えようとしない」などと文句を垂れているが,

 この記事は読んでくれるだろうか。


 中学校にも勤務し,確か学年主任をつとめていたらしいが,

 「成績が上がる」ことの意味を想像することができないとは意外である。

 
 こんな主任のもとでは,保護者は不安になって塾を頼ることになるのは不思議ではない。


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  • 雲のうえに頂をもつ高山を登ろうとするのに、その山相のすさまじさに圧倒され、おじけづいていては何もはじまらない。最初の一歩を踏み出さねば、山頂は近づいてこない。
    「楽毅」第四巻より
  • みごとなものだ。斂(おさ)めるところは斂め、棄てるところは棄てている。楽氏が棄てたところに、われわれの生きる道がある。
    「楽毅」第四巻より
  • 去ってゆく千里の馬を追っても、とても追いつかぬぞ。千里の馬の尾をつかむには、その脚が停まったときしかない
    「楽毅」第四巻より
  • ・・・つくづく人のふしぎさを感じた。道を歩く者は、足もとの石をたしかめようとしないということである。千里のかなたを照らす宝石がころがっていても、気がつかない。それほどの名宝は深山幽谷に踏みこまなければ得られないとおもいこんでいる。
    「楽毅」第三巻より
  • この城をもっとたやすく落とすべきであった。たやすく得たものは、たやすく手放せる。
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    「歴史の活力」より
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    「奇貨居くべし 春風篇」より
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    「晏子」(第四巻)より
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    「中国古典の言行録」より
  • 礼儀という熟語がある。礼とは万物を成り立たせている根元に人がどうかかわるかという哲理のことで、儀とは礼をどう表現するかというレトリックをいう。その二つが組み合わさって礼儀ということばが生まれた。
    「春秋の色」より
  • 都邑が矩形であるのは、この大地が巨大な矩形であると想像するところからきている。したがってかぎりない天地と形容するのは正確さに欠ける。大地にはかぎりがある。ただし大地は四方を高い壁でかこまれているわけではない。とにかく独創とか創見というものは、思考が狭い矩形をもたぬということではないか。人はいつのまにか思考を防衛的にしてきた。他者を拒絶しがちである。思考の四方に感情という壁を立てて、他者と共有してきた天を極端にせばめてしまった。
    「子産(下)」より
  • 人というものは、恩は忘れるが、怨みは忘れぬ。
    「孟嘗君 5」より
  • 人はたれにもあやまちがあります。あやまちを犯しても改めれば、これほど善いことはありません。『詩』に、初めはたれでも善いが、終わりを善くする者は鮮(すくな)い、とあるように、あやまちをおぎなう者はすくないのです。
    「沙中の回廊(下)」より
  • 「わたしは侈っている者を烈しく憎まない。なぜなら侈っている者はおのずと滅ぶ。が、なまけている者はどうか。わたしはなまけている者をもっとも憎む」
    「沙中の回廊(下)」より
  • 人を得ようとしたければ、まずその人のために勤めねばならぬ。すなわち、晋が諸侯を従えたいのであれば、諸侯のために骨折りをしなければならない。
    「子産(上)」より
  • 知るということは、活かすということをして、はじめて知るといえる。
    「青雲はるかに(上)」より
  • 師はつねに偉く、弟子はつねに劣っているものでもない。弟子の美点に敬意をいだける師こそ、真に師とよんでさしつかえない人なのではないか。
    「孟嘗君 2」より
  • 人を家にたとえると、目は窓にあたる。窓は外光や外気を室内にとりいれるが、室内の明暗をもうつす。そのように目は心の清濁や明暗をうつす。
    「孟嘗君 2」より
  • 人にものごとを問うということは、質問そのものに、問うた者の叡知があらわれるものである。
    「孟嘗君 3」より
  • 人から嫌われることを、避けようとする者は、心の修養ができていないことである。
    「中国古典の言行録」より
  • 人を利用すれば、かならず人に利用される。・・・企てというのは、人に頼ろうとする気が生じたとき、すでに失敗しているといってよい。
    「太公望 中」より
  • 与えられてばかりで、与えることをしないことを、むさぼると申します。むさぼった者は、なべて終わりがよくない
    「孟夏の太陽」より
  • ・・・料理をつくりながら、人と組織とをみきわめたのか。素材が人であれば、素材を合わせてつくった料理が組織である。それ自体はにがく、からいものでも、他の素材と合わされば、うまさを引きだすことができる。煮るとか蒸すとかいうことが、政治なのかもしれない。
    「太公望 中」より
  • 他人を変革するためには、まず自己を改革しなければならね。
    「太公望 中」より
  • 人が何かを得るには、二通りあります。与えられるか、自分で取るかです。(中略)与えられることになれた者は、その物の価値がわからず、真の保有を知りませんから、けっきょく豊さに達しないのです。
    「奇貨居くべし 春風篇」より
  • みじかいなわしかついていないつるべでは、深い井戸の水を汲むことはできない。
    「奇貨居くべし 黄河編」より
  • 人は目にみえるものを信じるが、そのことにはかぎりがあり、けっきょく、人が本当に信じるものは、目にみえぬものだ
    「晏子」第二巻より
  • 人にはそれぞれこだわりがあり、そのこだわりを捨てて、変化してゆく現実や環境に順応してゆくことの、何とむずかしいことか。
    「奇貨居くべし 飛翔篇」より
  • 失敗を心中でひきずりつづけると、起死回生の機をとらえそこなう。それは戦場における教訓にすぎないともいえるが、大きな勝利とは、相手の失敗につけこむのではなく、自分の失敗を活かすところにある。楽毅の信念はそうである。
    「楽毅」第四巻より
  • 人の頭脳のなかの眼力は、木の幹にあたるであろうが、幹をささえるものは知識という葉ではない。根である。根は地上の者ではどうすることもできない伸びかたをする。その根は天から落ちてくる水を吸い、人からあたえられる水も吸って太ってゆく。
    「奇貨居くべし 春風篇」より
  • 大木にするためには、幹の生長に目をうばわれがちであるが、地中の根を大きく張らせることを忘れてはならない。花を咲かせることをいそぐと、花のあとの結実をおろそかにしてしまう。要するに、大木でなければ豊かな実をつけないということである。
    「奇貨居くべし 春風篇」より
  • あらゆる事態を想定して準備を怠らず、変化に対応できるようなトップでいなければならない。
    「中国古典の言行録」より