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2013年7月

彩雲

Saiun01

いいのこすこと-5 二山の成績分布がクラスの「まとまり」に与える影響

 「テストだけで成績が決まるわけではない」とはいいながら,

 「テストの得点」と「評定=成績」の間にはそれなりの相関がありますから,

 テストの得点が二山ある場合は,「できる方の生徒」と「できない方の生徒」が

 はっきりと分かれている学級であるということになります。

 私の経験では,数学でこのような分布が見られることがあります。

 「できる子はできるが,できない子はできない」とはっきりしている。

 どこにその原因があるか,「小中連携」では明らかになっていますか?

 ・・・・ところで,「成績の二山」は,すべての教科で起こり得るものなのでしょうか。

 もし,すべての教科でそれが当たり前のように起こっている状況では,

 「習熟度別・少人数学習集団」の編成が効果的になる場合がありますが,

 実際のところ,それほど極端な「2グループ」「3グループ」はできにくいのが一般的です。

 

 まだお子さんが小さい方が,何十年か前のことばかり書かれているブログを読むと不安になられるかもしれないので,私のここ20数年来の経験で申し上げますと,


 「クラスのまとまり」と「成績の分布状況」に相関関係はありません。

 つまり,成績がいい生徒と悪い生徒に分かれてしまっているようなクラスで,

 「まとまりがない」という状況は,逆に生じにくいとも言えるのです。

 いろいろ,想像力を働かせてみると,その理由に気づかれるかもしれません。

 要は,クラスのリーダー次第,学年主任や学級担任の経営能力次第,ということです。

クラスの「まとまり」といっても,それがいい意味で発揮できる場面と,

 決してよくない「まとまり」もあるわけですから,

 「まとまっていないといけない」というのも一面的な子ども観,教育観です。

 

 ごくごくまれに,二つの小学校から一つの中学校に進学してくる子どもたちが,

 小学校のグループに分かれて対立する,なんてことが起こることはあり得ます。

 そして,荒れ放題だった片方の小学校の生徒が軒並み低学力だったりすると,なおさらに。

 
 クラスのまとまり,というのは,だれでも小中学校時代を思い起こせばわかるように,

 「成績」とはあまり関係がないのです。


 しかし,担任教師などが「先入観」「固定観念」にとらわれて,

 「二山あるクラスは,まとまりがない印象がある」なんて思い込んでいると,

 実際にそのようになってしまう,というのが中学校の学級というものです。


 言っている通り,思っている通りの学級になっていく。


 二山がある学級を受け持って,「チャンスだ」と思えるような教師が,

 「指導力のある教師」だろうと思われます。


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いいのこすこと-4 正しい「テスト」の見方・考え方

 「目の上のたんこぶ」がなかなかなくならないで,

 いらいらしてしる人の顔が目に浮かぶようです。


 学習指導要領が改訂された趣旨を一度も読んだことがないことが

 分かってしまう人が,「教育改革」の記事を書いています。

 その人はもう公務員ではないから,それを読む「義務」はないのですが,

 教育改革について元教員として発言したいのだったら,


>私が改革しなければいけないと思うのは、簡単に言えばテストの結果が人間としての力と乖離しているということです。


 まさに,資格はとっても,全くお話にならない社会性のなさを

 わざわざ紹介されているご自分を指して言っているだけのこと。

 それを自らさらけ出しているのが,最後に指摘した内容です。


 金融機関には,お金を引き出しに来た人が,そのお金をどう処理するかを調べて,

 その結果に応じて,

 「あなたにこのお金をお支払いすることができません」なんて判断する責任がありますか・・・・・?


 「~ということになっている」

 というのは,法令を遵守する立場の人間としての「決まり文句」であって,

 「それでは困る」と言っても始まらないのです。

 「平等に権利があります。だから,3人には,お渡ししたお金を平等に分けてもらえる権利があります。そういうことになっているのです。でも,1人が全額自分のものにしてしまうなんて,信じられません。私には理解できません。許せない人ですね」
 
 なんて発言を金融機関の人間がするわけがないのです。


 「あとは察してください」という「気持ち」が伝わらない人間かどうかは,テストで見破ることはなかなかできません。


 現金を受け取った後,それを分けなければならないのであれば,分ければよい,それだけのことでしょう。

 独り占めする人がいたら,金融機関が責任をとらないといけないでしょうか?

 自分の仕事と,ほかの人の仕事の区別ができない人間は,

 資格がとれないように「改革する」必要があるのではないでしょうか。

 
 3人で1000円ずつ出して,ジャンボ宝くじを買ったとします。

 当たったら,3等分する約束で。

 3000万円が当たりました。

 銀行には,3人の口座に1000万円ずつ振り込む責任がありますか? 
 

 「お話にならない」というのは,こういうことです。


 教育について,何十年前と全く同じことを言っていないで,

 少なくとも現行の指導要領は,どのような趣旨によって改訂され,

 その趣旨に沿って今,どのような教育が行われているか,

 考えてみるべきなのですね。

 そして,もしご自分の勤務状況もふり返って見て,

 「そういう趣旨の指導ができない教師がいる」ことに

 気づけるのであれば,そこを問題にすべきなのです。

 「テストでいい点がとれれば,それだけでいい」

 なんて評価をしている学校は,よほどそのテストが難しく,

 論文みたいなものまで書かせるようなところは別として,

 今の公立学校にはほとんどありません。

 大事なことは,「テストがよくても~ができないとだめ」ということで,

 「~ができれば,テストはできなくてもよい」というわけではない,

 ということです。

 小学校の教員が,中学校に異動すると,様々な困難に直面するのは分かります。

 ただ言われたことを機械的にこなすだけならできるかもしれませんが。

 こういう教師のなかに,上記のような「テストの意味」が分かっていない

 人がいる。そもそも,「テスト問題」が作れない。

 今時,マークシートで採点できる「四択問題」ばかりのようなテストを

 つくっている教師は,よほどたくさんのことを授業中に書かせたり

 宿題にしたりして,テストをはるかに上回る評価材料をもっているのでしょう。 

 
 「テスト」については,たとえば,東大の入試と慶応や早稲田の入試問題を

 比較してみてください。

 
 難易度だけの問題ではありません。

 
 それだけで,大事なことがたくさんわかるでしょう。

 
 最後に一つ。

 資格をとっただけで,それで浮かれてはいけないのです。

 教員の初任者がどういう立場かは多くの方はご存じでしょう。

 「仮免許」みたいなものです。

 
 自動車運転免許も,免許をもらってすぐに事故を起こす

 高校生や大学生がいるのはなぜかをよく考えてください。

 
 免許を手にしたら,「うれしさ」を感じるのは勝手ですが,

 ハンドルを握ったら,「責任」を感じてほしいのです。


 無免許運転による事故と,免許を持っている人間の事故の比率を

 ご存知ですか?

  
 警察のような話になってしまいました。

 
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いいのこすこと-3 正しい成績の見方・考え方

 中学校では,担任教師がクラス別の得点分布をながめながら,

 「ああ,うちのクラスは下が多いな」とか,

 クラス数が多い時は,

 「A先生のクラスは高くて,B先生のクラスは低いな」

 などといった会話がかわされることがあります。

 ただ,これはグラフを見ただけで,中学生でもわかることです。

 「B先生の授業を,もっと真剣に受けるように!」なんていう

 アドバイス?は,生徒でも予想できるものです。

 二つのテストを比べた時,後の方のテストの得点分布が,

 100点に近い方に移動した・・・つまり,平均点が上がった・・・・
 
 とき,どんな素人でも,「先生の指導力が高い」とは

 考えず,「問題が易しくなった」と考えるのが普通です。

 あるいは,「易しい内容の範囲だった」とか。

 「正しい成績の見方・考え方」とは,言うまでもなく,

 あくまでも「個人」を対象にするものです。

 中学校では,得点分布を公開しているところが多いと思いますので,

 自分の子どもの順位を教えてくれなくても,何位から何位までにいそうだ,

 ということは分かってしまうようになっています。

 ただ,順位を見ても,学習状況は分かりません。

 もし得点だけで分析したかったら,得点の推移だったり,偏差値だったり(平均点より,何点上とか,下とかいう見方でもかまいません),2つの教科の得点の相関を考えなければなりません。

 学習状況は,「評定」で見るのです。

 そうすれば,「テストの得点は高いのに,評定が低いということは,・・・・ができていないのだな」などということが想像できます。

 保護者としては,担任教師と面談があれば,「どこができていなかったのか」が聞けるメリットがあります。

 ここで,学校による格差がはっきり出てきてしまう。

 担任教師は,自分が受け持っている教科の学習状況は語れても,情報が入ってこなければ,他教科の状況は評定でしか判断できないのです。

 つまり,数学を教えている担任に,「どうして歌が上手いのに,音楽の評定がこんなに低いのか」と聞かれても,理由を伝えられていなければ分からないことはあるのです。


 「成績」のことで言えば,「評定分布」というのも,それなりに大切なものです。・・・・たとえば,国語では5が何人,4が何人といったもの・・・・が示されていれば,全体の学習達成度のなかで,子どもがどんな状況かを知ることができます。

 「5」が異常に多かったりすると,「怪しいな」と感じられるのが,中学校の教科の成績です。

 

 今回のあのあてにならない記事で気を付けたいのは,次のことです。 

 大事なことは,

 「成績」というのは,生徒個人の学習状況を示すものであって,

 「教師の指導力」を考える材料にはなっていない,ということです。

 もちろん,目標準拠評価ですから,

 全員が「十分満足な状況」にさせることもできるだろう!

 という批判も分かりますが,小学校はともかく,中学校や高校になりますと,目標そのものがやや高度になるため,学校では「おおむね満足な状況」を「最も多くの生徒が示す」ことを想定して指導を行います。

 保護者としては,5段階評価で「2」がついていた子どもが,もし「3」になったら,褒めてあげてほしいと思います。そして,励ましてあげることが大切です。

 あまり書くと私が勤務していた学校がばれてしまいますが,

 中学校の教科担任は,学期末,単に「評定」という数字によって,子どもに「成績」を示すだけではなく,何がどのようにできていて,どのような課題が残っているのかを生徒に自覚させることが大事です。自分の課題を生徒自身が語れるような「自己評価能力」も高めながら,日々の授業を行っていくべきなのです。

 教育のド素人が,数字を打ち込んだだけでできあがる表を得意気に出していますね。

 あれでは「塾以下」です。


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いいのこすこと-2 学校の成績を上げるということ

>「成績」というのは、学校の「成績」だけではありません。

>とても狭い見解である」とだけ言っておきます。

 なんてコメントを返しておきながら,

 自分で説明しているのは学校の評価の話。

 「教育論・教育問題」「中学校教育」という場なのだから,

 当たり前と言えば当たり前なのですが。

>私は以前のブログで、TOEICの例を出しました。
TOEICでは点数が上がれば成績が上がったことになり、これは絶対評価です(評定なんかつけません:笑)

 この人は,学校教育の意味が分かっていないのです。

 学校は,「カリキュラム」に沿って,「決められた単元(大単元,中単元,小単元などがある)」ごとに学んでいく場。

 資格試験などは,すでに「こういう内容のようなもの,こういうレベルのものが出題される」ことがわかっているもの。つまり,企業も同じですが,「学校」を卒業した人が取り組むものなのです。

 後者の「成績」を上げたいなら,自分で勉強しなおす,教えてくれるところに行って勉強すればよい。

 なぜ「学校教育の意味が分かっていない」と言えるのか。

 次のような表現から,教師の仕事と塾の講師の仕事を混同していることが分かるからです。

>教師に指導力があるとは、一般的に考えたら・・・(グラフの説明)・・・のようになるということです。

>つまり、全員の得点が上がるということです。

 塾の教師のことを言っているとしか考えられないのです。

 教師が指導力がある,というときは,たとえば中1のとき,Aという英語の教師に学んでいた生徒たちが基本を身に付けられず,興味も失っていたのに,中2になって教師がBに変わったら,打って変わって真面目に学習に取り組みだし,よりよい達成状況を見せるようになった,

という例が考えられますが,学校というのは,常に新しい「単元」を学んでおり,単に同じような内容のテストを繰り返しているわけではないので・・・・。漢字の復習テストやスペリングテストなどはありますが,そういう場合,教師の指導力うんぬんより,生徒個人の努力や準備の仕方にかかっているのです。

 「全員の得点が上がる」ようにならなければ,優れた教師とは言えない,ということはないのです。

 補習塾なら,別の話ですよ。

 学校で学習したはずの内容が理解できておらず,もう一度,教え直して,「得点が上がる」というのは,

生徒の努力ももちろんありますが,塾の教師の指導のおかげでしょう。

 なぜ,「全員の得点が上がるようにならなければ,優れた教師とは言えない」なんてことが言えないのか。

 もしそういうことが言えるのなら,テストを繰り返すうちに,全員が100点をとれるようにならないといけないでしょう。

 この人は,本当に教師をしていたことがあるのか?と疑問に思えてしまうくらい,学校教育のことが分かっていない。音楽の教師でも,ペーパーテストを作った経験が1回くらいはあるのでは?

 テストを作った経験がない人には分からないかもしれませんが,中学校では,平均点が70点くらいになるように問題を作成します。

 小学校の教師が使っている,みんなが100点をとれるような業者のテストとは全く異なります。

 だから,「すごくできる生徒が多い学年」なら,私なら,問題のレベルを上げて,チャレンジさせていくので,「平均点が変わらない」ということなら,「例年の生徒よりもよくできる」ことが分かるくらいのことです。

 「学校の成績を上げる」ということは,「新しい単元の学習」において,「以前の単元の学習」よりもよりよい目標の達成状況を教師に示すことができた,という意味になります。

 国語や英語,数学の場合には,「新しい単元」でも,「以前の単元」の能力をベースにしていく面があるので,「成績を上げる」ことは難しいのです。だから,塾がある,という説明も成り立つのでしょう。

 繰り返しになりますが,

 中1で学校の成績が振るわなくても,こういうことに力を入れておけば,やがて成績が上がるようになる「ツボ」「ポイント」があることに気づいたのが,私のアルバイト時代の話でした。


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妄想もそこまで行けば・・・・

 びっくりのコメントを発見。

 私が高校・大学と野球部に所属していたから,というわけでもなく,

 「素人でも見破れるウソ」を「おだて役」の自分に書かせてしまった。

 暑さのせいもあるのか,末期的ですね。

 お知り合いの人がいたら,ご訪問されることをお勧めします。

 「熱中症で倒れる高校球児」

 に厳しい言葉をかけている人たちがバッシングされていますが,

 それよりはるかに興味を引くコメントだと思います。

>中学2年から投手だけ。私は打てませんでしたから。

 ・・・・・・・中学校にDH制はありません。「打てないから投手」なんていう選ばれ方は存在しません。

 「投手だけど打てない」中学生はいますが,「打てないから投手にされる」中学生はいません。

>向かい風になると不規則な変化をして、高校1年のとき大学チームも押さえられました。

 ・・・・・・・バレーボールでも投げたのでしょうか? ナックルボールは球速が遅く,キャッチャーも取りにくいので,
  
 それで「抑えられる人」は大リーグに1人いたくらいでしょう。

 ・・・・・・・また,高校野球のチームが大学野球と試合をすることはまずありません。使うバットが違います。

>一番ショックだったのはマウンドに上がるとキャッチャーが遠くに見えたこと。
 ストライクが入らなくなっていたのです。
 練習試合でやけくそで投げたら打たれました。
 他チームの選手は後にプロに言った人でしたがうぬぼれ屋にはショック。

 ・・・・・・・ストライクが投げられない選手は試合には出られません。

 ・・・・・・・ピッチャーが打たれたくらいでショックを受けていたら,試合なんてできません。

>だから投手の一番の要件は心臓だと今は思います。
 頭脳とホルモンの相関の結果かも。
 スピードもコントロールも結局は人間性の結果なのでしょう。

 ・・・・・・・もうそれなりの「域」に達していますね。

 「心臓」「頭脳」「ホルモン」「人間性」・・・・・すべてがばらばらで,「統合」されておりません。


>受験勉強に集中した私は、心臓が小さくなっていたのです。ミスが怖い人間になっていた。

 ・・・・・・・もう言葉が出ません。


 重いですよ。

 早く助けてあげてください。

 本人が,無意識に救いを求めているレベルです。


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教育ブログ村の正常化のために

 私がお休みすることは,

 ブログ村の「正常化」に貢献できるようです。

 今回のことでいただいたコメントをご紹介します。

*****************

>帰ってくるな、やっと、村が正常化する。お前が癌だったんだよ。

*****************

 村のみなさんによろしくお伝えください。

 でも,中学生の方が度胸がありますよ。

上のコメントの続きを公開すると,だれからのコメントかが,ばれてしまうんですね。

 だから,冒頭の部分だけご紹介します。

 自分がやっていることを,「お前がやっている」と書いてしまう

 「ミラー現象」のご本尊です。

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いいのこすこと-1 正しい成績の見方

 (再追記) 何だか,タイムマシンに乗って四十年以上前の人とやりとりをしている

 気になります。新しい本の紹介はあっても,書かれている内容ははるか昔のことばかり。

 私の父親が大学で習っていたようなことしか書かれていない。

 やはり,学習指導要領の意味や目標準拠評価の課題が分かっていない人と,

 「教育論・教育問題」の場で話すのは無駄のようです。

 すでに退職しているからいい,というわけではありません。

 このような人が今でも現場にいることを忘れてはならないのです。

 

 (追記) そこまで露骨な「逃げ」を打つとは・・・・。

 中学生の「成績」の話から,「企業」の話に飛んでいる。

 それは,「評定がつけられない教師」であることがばれるのを防ぐためですかね。

 「企業」の話ですら,「数字」にこだわっている「視野の狭さ」も十分に批判の対象になっているのに・・・。

>広い意味での例を挙げて書いてあるのに、それらを統合して解釈できないのは、統合する能力に欠けるのではと思います。

 また登場。自分が書いていることの方が「視野の狭い」「小さい」話なのに・・・・。

 「視野の広さ」などと言っているものが,学校が「別の点数がものをいうもの」にすり替わっているだけであることにすら,気がつかないことを,私は

 ~の能力に欠けるなどとは「評価」しません。

 質問に答えなくていいように,逃げているだけ,というのが「真相」でしょう。

 だれの何のためのブログなんでしたっけ?

 「目標は何か?」ということへの関心や探究心がない人が「成績」を語るのは

 哀れでしかありません。


******************************

 どのような回答が寄せられるでしょうかね?

 たいていは無視してくるタイプの内容です。

 下線は,私がここで引きました。

*****************

>成績は順位や割合に基づいて行うのではなく、ある点数に達すれば人数に関係なく、相当の成績をつけるというのが絶対評価である。

 目標準拠評価になってから,もう10年以上もたつのですが,dolceさんはご存じないようですね。

 上記に引用した表現や記事の内容は,「テストでよい点がとれたら自動的に成績は上がる」という誤解を生むおそれがあります。

 「テストで測定できる力は限られている」というのは常識的なことで,dolceさんも述べられています。

 それなのに,今,実施されている「目標準拠評価」と「絶対評価」を混同しているのは,「教科の目標の実現」を意識して授業をしてこなかった長年の経験のせいなのでしょうか。

 音楽の成績を想像してみてください。dolceさんは厳密なる採点基準をもって,音楽の表現能力を「点数化」できるのかもしれませんが,「点数化」はできないが,「十分満足できる」とか,「そのなかでも特に優れている」という質的な評価を行うのが,いわゆる「絶対評価」,正しくは「目標に準拠した評価」のあり方です。

 学校の教師ではなく,音楽の専門家の指導を受けた子どもの能力が急に高まっている,という実感をもっているのは,ご自身も経験があるのではないですか。

 理科の実験の技能や観察の表現力も,評定には十二分に反映されてるのですよ。

 「成績が上がった」といったら,普通は「評定が上がった」という意味です。

 そして,「評定が上がった」ということは,目標に照らした学習状況が改善したこと・・・簡単に言えば,学力が向上したことを示すのです。

 「おおむね満足できる」学習状況にも達していなかった生徒が,きちんとした個別指導を受けることで,「おおむね満足できる」状況には達した,というとき,「評定は上がる」のです。

 「成績が上がる」ことの意味はこのように捉えるのが普通であり,

>ある集団を、ある指導者が指導した時、その集団のその後の伸びはどうなっているのか、全体と個人の両方で考察すべきである。

 これは小学生を受け入れている中学校の教師が,小学校の授業を参観することでよりよく「発見」できるような内容で,普通の読者はそんなことを考えないのが「ふつう」だと思われます。

****************

 ご自分の中学校時代の「音楽」の評定の付け方をご説明いただければ,

 「学習の評価」とはどのような意義があるのか,より明確になるのですが,

 まず99%,そういうことは書くことができないでしょう。


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少し早いですが・・・・・夏休みに入ります!

 教員て,夏休みがあっていいな!

 とおっしゃる人も多いでしょうが,

 一番忙しいのが夏休みなのです・・・・。

 しばらく,こちらのブログも更新できなくなります。

 ご愛読いただいている皆様,

 しばらくのお別れです。

 涼しくなったと感じられる前には,

 戻ってこれると思います。

 では,心身ともに健康な夏を過ごしましょう!

小学校の教師にはない?「成績」の概念

 小学校の教師の一部には,真面目に「成績」をつけようとする気のない人がいる。

 教科の目標が何だか分からないで教えているからである。

 「7・5・3」とはよく言ったもので,小学校では,ほとんどの子どもが同じような課題を

 同じように解決することができるようになる。

 だから,「3 十分満足できる」「2 おおむね満足できる」の違いが分からない教師がいてもおかしくはない。

 何度もここでは書いているが,

 「3 十分満足できる」「2 おおむね満足できる」の評価の「妥当な境界線」は,

 10人教師がいたら,10通りのものができるほどあいまいだし,

 その評価の質も様々だし,

 評価されている子どもの実際の力も様々である。

 異なる「目標」のもとで教育が行われていたら,

 「目標準拠評価」そのものの意味が変わってしまう。

 中高一貫校を受験する子どもを受け持っていない

 小学校の教師にはほとんど縁のない話だが,

 ほとんどの中学生にとって,「学校の成績」は,

 そのまま「内申点」として

 上級校の受験の合否の判定資料となるのだから,

 評定の「4と5」では大違いなのである。

 中学生がふつう「成績が上がった」というと,

 テストの直後なら「テストの点数が上がった」「順位が上がった」

 ことを指すこともありうるが,

 一般的には「評定が上がった」ことを指す。

 「2から3に上がる」と,子どもだけでなく親も喜んでくれる。

 日本人は「ふつう」「平均点」が大好きなのだ。

 5段階評価で,「3 おおむね満足」の生徒の数は,かなり多くなる。

 昔は「相対評価」だったから,割合で「3をとる生徒の数」は

 決まっていたが,今は「目標準拠評価」であり,

 1~5までの評定をもらう生徒の数は,教師によって,

 教科によって,まちまちである。

 実際につけられた「評価・評定」と,入試のための資料として

 提出されたものが異なると困るので,それが同じものであることの

 チェックが行われている。

 だから,ときどき,「1と2の生徒が一人もいない教科」

 とか,「4とか5がとても多い教科」が問題になる。

 ある議員は,自分の区と,隣の区の「評定分布の違い」に目をつけて,

 自分の区の子どもが入試で損をしているのではないか,

 と主張したことがある(と記憶している)。

 そういうことはもちろんあり得るわけだ。


 どうでもいい話ばかりだったが,とりあえず「質問」「疑問」には答えた。


 「回路」をぐるぐるまわっている「質問者」は,

 エンドレスで「質問に答えようとしない」などと文句を垂れているが,

 この記事は読んでくれるだろうか。


 中学校にも勤務し,確か学年主任をつとめていたらしいが,

 「成績が上がる」ことの意味を想像することができないとは意外である。

 
 こんな主任のもとでは,保護者は不安になって塾を頼ることになるのは不思議ではない。


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学校の授業は分からないけど,塾の授業は分かる

 塾でアルバイトをしていたころ,

 不思議だったのは,なぜ「学校の授業が分からない」と

 子どもが話すのか,ということだった。


 私は英語の教師を志していた人間ではない。

 中学から大学まで,自分が通っていた学校で教師に

 英語を習っていただけである。

 
 以前にも書いたように,耳で音を聴いて理解できるように

 することを心がけた結果,中2になって英語が得意になった,

 英語が好きになったという子どもが増え始めた。


 もちろん中学校の教師は,私が教えていたレベルの子どもたちに

 個別指導をしてくれたわけではない。

 授業ではできないまま,放置していたわけではないかもしれない。

 でも,学校では「できる自信」「分かる喜び」が味わえなかった。

 なぜだろう。

 「学校の授業は分からない」という言葉の「裏」にあるものに

 気づいたのは,自分が教師になってからであった。

 「授業が分からない」と生徒が言う理由には三通りある。

 「本当に理解できていない場合」と,

 「本当は理解できるのに理解しようとしない場合」と, 

 「理解できてない部分が理解できている場合」である。

 私は三番目の意味で「分からない」と言ってほしいから,

 テストでも「以上の資料だけからは『分からないこと』は何か」

 なんて問題を出したりする。

 塾で生き生きしている子どものパターンは,

 一番目も多いが,二番目の場合であるケースが多いのではないか。

 「理解しようとしない」生徒を「理解しようとする」ようにすれば,

 塾で何も教えなくても,学校の成績は向上するはずである。

 
 でも,それはなかなか実現できなかった。

 「おまえが勉強しないのが悪い」

 「おまえの授業態度が悪い」

 などと悪態をつく教師の姿が目に浮かんだ。


 これが「法治国家」の現実なのだ。

 

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法治国家だから,堂々と手を抜ける人間がいる?

 「塾の先生だから,教えるのが下手でも仕方がない」

 と言われることはないが,

 「学校の先生だけどまだ若いから,教えるのが下手でも仕方がない」

 「あの先生はもう定年が近いから,生活指導はお願いできない」

 とあきらめられることがある。

 「あの先生は部活のためにとったから,授業は期待していない」

 と胸をはられることがある。


 情けない話である。


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【保護者必見!?】 伸びる子どもの特徴

 私の勤務する中学校には,担任教師との面談のほかに,希望者のみだが,

 教科の先生方との面談ができる期間がある。

 主には学習上のアドバイスを受けに来るのであるが,

 長年やっていると,学力が伸びる子どもには共通した特徴があることに気づかされる。

 (裏返して,「そうでなければ子どもの学力は伸びない」とは考えないでほしい。)

 私が体感している「伸びる子どもの特徴」とは,

 「大きく考える」「長いスパンで考える」ことと

 「小さく考える」「短いスパンで考える」ことを使い分ける意味や意義が

 分かることである。

 社会科では,地理でこのことを繰り返して学ぶことができるのだが,

 歴史でも,同じような指導を私は心がけている。

 日本全体の動きを考えることと,

 「いまここ」の動きを考えることの違いは,たいていの子どもが

 理解できる。

 しかし,「長いスパン」と「短いスパン」というのは,

 何となく理解できても,考えることを実行するのが難しい。

 1年間の計画と2時間の部活のメニューを考える違いのようなイメージだが,

 これらには,次元が異なる「目標」というのがセットになってくる。

 「何を,いつまで」と問われたときに,

 すぐにできることと,時間がかかることを同時に思い浮かべられる

 子どもは,学力を伸ばすことができる。

 単純に,量的な面だけでなく,質的な面が向上するのである。

 実は,このことを最も強く意識しているはずであるのは

 小学校なのだが,それを子どもに「意識付け」させないようにしている。

 小中連携で大きな効果を生むための秘訣は,これを「意識付け」させることにある。

 短期的な目標(達成したら,すぐに次の目標にうつるもの),

 中期的な目標(達成するまで,しばらく時間がかかるので,タイミングを見て意識させるもの),

 長期的な目標(これはどの学校でも基本的には指導しているが,「自分でつくらせる」

 ことを指導の重点にしているところは少ない)を

 つくらせたり示したりして,自分なりの振り返りを課し,それに基づいて教師が個別面談を

 繰り返すのである。

 
 もし小中学生の保護者なら,常に3つくらいのスパンの異なる目標を持たせて,

 「行動」させたり「思考」させる習慣を家庭でもつけさせるとよいと思う。


 実は,「本当の管理職研修」を受けた管理職は,

 それをすでに学校の教師たちに対して実行し,成果を上げている。

 (ただ,「伸びない人」はいる。その理由だけは,上のことを「裏返し」にして

  考えていただいて差し支えない。)


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心清き人の音楽

 教師の性分として,何かに集中しているときも,

 気になる子どものことは忘れることができません。

 「それでは集中しているとは言えないのではないか」

 と言われるかもしれませんが,

 「集中している頭」と,「特定の子どもを気にかけている頭」

 というのは同居できるのです。

 でも,「気にかけている子どもが気にかかることをする」

 ことで,やはり「集中力」は落ちることになるでしょう。

 ある子どもに気持ちがいけば,「見えるべきこと」が「見えなくなる」

 可能性が高まります。

 指揮や演奏のベテランは,仕事中に,

 本当に仕事のことに完全に集中できるものでしょうか。

 今頃ブログで悪口を書かれているんじゃないか,

 なんて気になることはないのでしょうか。

 心清き人はどうなのでしょう。

 もし,ほんの少しでも「気になる」のなら,

 ブログなんてやるべきではないですね・・・・・

 ・・・・指揮や演奏をやるべきではない,なんて言えません。

 なんていう話をする相手は,中学生です。

 LINEをめぐるトラブルを持ち込まれて指導に困る

 中学校も急増中でしょう。

 表現されている内容だけでなく,

 「強制退会」をめぐるトラブルも多いようです。

 情報をやりとするのに便利な道具は,

 友だちを「仲間はずれにする」なども簡単にできてしまう

 便利な道具でもあるのです。

 心清き人は,日々,こういう「悩み事」の発生で

 苦しむ中学生たちを想像するだけで,

 集中力を失ってしまいそうです。

 もし,集中力を失ってしまった人が,指揮や演奏をすると,

 どういうことになるのでしょうか。

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「感動」や「個性」の意味を知らない人のために

 戦争の時代を生き抜いた人でなければ,分からないことかもしれない。

 日本では,なぜ長期にわたる戦争の遂行が可能だったのか。

 それは,それが可能になるように,多くの人が知恵を絞り,それを実行してきた成果である。

 
 特に,どんなに戦局が悪化しようが,
 
 「戦争をやめよう」という声が出せないように,最大限の「工夫」がこらされてきた。


 新聞やラジオなどのメディア,そして「学校教育」が,

 その大きな役割を果たしてきたことは,今の中学生でも理解できる。

 人は,何に対してどのように「感動」するかを「植え付けられてしまう」存在なのである。

 「感動させるように語れ!」と命令されたら,

 そのように「語る」ことができる子どもや大人がどれだけたくさんいたか。

 (今も,どれだけいるか・・・・そもそもそういうことを「職業」にしているのが「役者」であるし,教師にもそれができることが求められる場面が必ずある。)


 音楽家のなかに,「人を感動させたい」と思うのがいても不思議ではないのである。

 「感動したい」という聞き手の欲求と,「感動させたい」という「演奏者」の欲求が

 マッチしたときの「盛り上がり」を想像することは難しくないだろう。

 どんなに下手くそな演奏で,どんなに最悪な教師が指揮者をつとめていようが,

 親が子どもの演奏を聴くときは感動してしまうものである。


 「感動してもらえるように演奏しよう」などという「いやらしい言葉」を,

 少なくとも「教育者」は口にするべきではない。 


 人間の心は,自然に動かされてしまうものだし,容易に人から

 コントロールされてしまうものだということを知っていなければ,

 今後,「演説の技術」だけで騙されてしまう人が増えていくだろう。


 
 次に,「個性」である。

 教育の場で使う「個性」という言葉には,

 生物学的な「個体の性質」とは次元の異なる意味がある。

 人は姿や形が異なるが,もちろんこれだけが個性ではない。

 ただ,中学生は,姿や形にかかわる「個性」については,

 涙ぐましい努力をして,それを「自分や友達の気に入ったもの」

 にするために「変えたい」と願い,実際に「変えて」いく。

 「生まれつきのものだから何をしても無駄だ」という「冷たい教師」の

 言動が想像されるが,中学生レベルだと,最も分かりやすい「個性」とは

 「外見」のことである。


 ファッションの世界で「個性がない」という評価は何を意味するのだろう。


 どんなに「冷たい教師」でも,生まれつき「冷たい人間」だったわけではない。

 生育歴が子どもの「個性」に影響を与えることなど,教師になる人間なら

 だれでも知っている。

 人には,それぞれ必ずその人固有のよさがある,というのが

 「教育」の世界の人間の考え方である。

 「学校教育」の世界のなかには,そういう考え方ができない人間がいるようだが。

 その「個性」は,生かされ,伸ばされる「場」を待っている。

 「学校」をそういう「場」にしようとするのが,教師の仕事である。

 生徒の「個性」は,様々な広がりをもって「伸びていく」。

 それを「生まれつきあったものだ」と語ることもいいが,

 「人と人との関係性のなかで,生まれる良さもある」というのが,

 教師の語るべき言葉である。

 「個性」とは,「人との違い」などという単純なものではない。

 「だれ一人もっていない,自分だけの良さ」だけを追求する人間を想像してみてほしい。

 おかしな話である。

 まずは,他の人にもある,「自分のいいところ」を見つけさせることが大切である。

 しかし,中学生には,「自分のいいところ」を「自分で見つける」ことが難しい。

 だから,生徒相互の信頼関係を深めさせ,互いに「いいところ」を指摘し合い,

 高め合う指導が求められる。

 クラスをもったことがない,つまり,35時間の道徳教育を実践したことがない人間の

 書くことは,こんな人間でも採用試験に合格してしまうことのおそろしさを

 物語っている。

 教員採用試験に大学生を合格させるための塾でも,

 これくらいのことは教えてくれているはずなのに。


 太平洋戦争中も,日本は法治国家であった。

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閉ざされた「思考回路」のなかで自分を守っている人の「教育論」

 無責任な人間の「思考回路」の見本が公開されている。

 「おれは悪くない」ことを言いたいのだが,

 どう見ても「責任逃れ」のための主張である。
 


 私は塾でアルバイトをしていたとき,

 「学校の教師を信用していない」

 「学校の教師を嫌っている」

 「学校の教師に嫌われていると思っている」

 多くの子どもたちと接してきたし,相談にものってきた。

 学校が楽しくなるコツも,教えてきた。

 授業を大切にすることが,学力向上の一番のコツだと教えてきた。

 それを実行できた子どもは学力も自信も伸びていった。

 塾で子どもを教える人間のなかには,

 担任の教師以上のアドバイスができる人がたくさんいる。

 アルバイト時代,私の父親が教育長と親しかったので,

 学校教育の現場の状況は,よく耳に入っていたが,

 少なくとも,

 子どもたちは様々な意味で

 「塾で救われている」ことを実感していた。

 塾は,受験指導だけをしている場ではない。

 単純な「思考回路」しか持たない者にとっては,

 「塾とは,こういうところ」

 「だから,塾はこういうところではない」

 と判断してしまって,仕舞には「教育」の話で

 塾の人間が学校の教師と「対等に張り合おうと思うな」

 などとくる。

 最も単純な「思考回路」に基づく「教育観」とは,

 学校は法律でこのようなことをすることが定められている場である。

 塾はそうではない。

 そもそも,塾の人間の中には教員免許をもたない人間がいる。

 だから,教員免許をもってからの話だ。

 こんな調子である。お前とは,教育論はかわせない・・・などという,「門前払い」の立場となる。

 こんな人間と「教育論」をかわすのがそもそも無理なわけであるし,

 無意味なわけだが,

 このような話しかできないのは,

 採用試験に出るレベルの法律の内容すら知らないことも背景にあり,

 「教育」にかかわる身としては,いろいろと教えてあげたくなる,というのが私の心情である。

 「思考回路」のレベルが低すぎるから,そんな努力もほとんど無になってしまうのだが。

 学校は法律で定められている内容を教えているのだから,

 その内容が身に付かないのは子どものせいだ,ということも以前に書いていた。

 日本の学校は,年齢になると,学力がついていなくても進級させるのだから,

 教師には学力がつかないことについて責任がない,とも書いていた。

 こんな人間が教育現場にいたし,今もいるのである。

 公立学校の質の低下は以前から問題になっているし,

 国立大学の附属学校にも,同じような教員の質の低下が問題になり,

 そもそも公務員を減らしたい国の意向から,附属学校そのものの不要論も

 以前から続けている。

 アルバイトをしていたころの率直な印象は,

 塾がなければ,この国の子どもは救われない,というものであった。


 ピアノを習わせることが「教育」の一環であるのと同じように,

 塾で学習させることも,「教育」の一環である,というのが

 一般的な家庭の親がもっている認識であろう。

 あえてそこに異論を唱える意味がどこにあるのか。

 そんなに自分が行ってきた「学校教育」における「教育」の質が高いと言いたいのか。

 今,そんなふうに胸をはれないで苦しんでいる「学校」や「教師」がどれだけいるか,

 そういうことへの想像力を欠いた人間に,

 「教育」を語る資格はない。

 そもそもが,道徳教育を行う資質・能力のない人間が,

 教育現場に立っていたということが,

 この国の教員の質や教員採用の質の問題を象徴している。
 


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「自分は異常ではない」ことを信じ抜ける「正常さ」

 何年前の経験だったろうか。

 いじめをしている子どものなかには,

 「自分が悪いことをしている」

 「いけないことをしている」

 という自覚が全くないのがいた。

 あのブロガーのようにである。

 「開き直り」というのとも少し違う。

 生まれてから中学校に上がるまで,

 親から「お前が悪い」ということを

 言われたことが一度もないからか,

 などと想像してしまうのは,

 こういう中学生の親が,決まって

 「うちの子どもはいい子です」

 という言葉を学校で口にしたからである。

 「いじめにかかわる言動を除けば,

 たしかに『いい子』だと思いますが,

 今,問題にしているのは,そのとき

 この子がしたこと,言ったことです」

 と教師が語りかけても,話をそらすだけで,

 問題を直視しようとしない。

 あり得ない「仮説」を述べ始めることもあった。

 子どもが反省しない背景には,

 数々の問題を直視しないまま育ってきた

 長い長い「家庭教育」の「成果」があるのか。

 責任が問われる,という経験をいっさい

 したことがない子どもでも,自らの過ちに

 気づけば,少なくとも相手に謝ろうとか,

 そういう「気持ち」が芽生えてもよいのだが,
 
 そういう「気持ち」が芽生える気配すらない

 子どもは今も増え続けているのではないか。

 保護者を呼んで話をすると,

 確信に近いものが得られる,その繰り返しだった。

 子どもの方が,ごくわずかだが「正常」に近く見えたほどだ。


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「教えたくてしかたがない」という情熱に出会う幸せ

 「人に教えたい」という情熱に満ちた教師と出会う子どもは幸せである。

 ある程度の経験を積まないと,「こういう経験をさせて,成長させたい」

 などというレベルの高い「指導観」はもてない。

 そういう「指導観」を耳で聴いたり本で読んだりして,

 「知識として分かったつもり」になっている教師が,

 それらしく子どもにかかわろうとしても,

 自分自身で子どもの成長だけでなく挫折に寄り添う経験がないと,

 本当の意味での「指導」はできないのが,教師という仕事である。

 だから,若い教師は,「人に教えたくてしかたがない」という

 情熱を優先してほしい。そして,自らが挫折する経験をして,

 それを乗り越えて成長するプロセスを体感することが,

 「よい教師」になるための条件であると考えることができる。

 誤解してはならないのは,「生徒と同じような挫折」なんかではだめなのだ。

 「同情するなら,どうすればいいか教えてくれ!」

 という生徒に寄り添いながら,大事なことを「教える」のが教師の仕事である。

 寄り添ってくれるのは友達でよい。

 教師としての挫折が,強い教師をつくる。

 自分で挫折を乗り越えられない人間に,

 挫折した子どもに寄り添い,導くことはできない。

 教師の「試用期間」は,1年では短すぎるかもしれない。

 1年目に挫折できるほど,重たい仕事をさせられることはまずないからである。

 さて,

 小学校の教師に限らず,「学ぶ意欲にあふれている子ども像」,

 「積極的に自分の考えを発表する姿」を理想としている人が多いと思う。

 そのとき,教師の一方的な講義形式の授業が,

 それを阻害するまずいものだ,という「主張」を耳にしたり,自分でも

 語っている人が多いと思う。

 しかし,そういう人たちは,一方的な講義にもかかわらず,

 子どもが「学ぶ意欲にあふれ」,表現はしないまでも,

 頭のなかで「自分の考えをめぐらせる」ことで能力を高めている姿を

 見たことはないのだろうか。

 自分がそういう講義を受けたことは一度もないのだろうか。

 そういう講義ができる人でなければ,教師をやる資格はないと

 考えたことはないのだろうか。

 子どもたちは,「教えたくてしかたがない」という情熱にあふれた人

 から,知識以上のものを学ぶことができる,ということの意味が

 分からない教師はいるだろうか。

 「教えたいという情熱」は,どこから生まれるのだろうか。

 それは,「自ら学ぶ」ところからである。

 「自ら学ぶ」ところから,すべてが始まる。

 小学校の若い教師にはとても気の毒なことに,

 小手先の授業を成立させるための「ノウハウ本」が書店に

 あふれている。

 「小手先の技術」を教えたいという情熱こそが,

 教師を劣化させている最大の原因である。

 それを大学で教えるようなことになっていたとしたら,

 すでに「教職教育」は絶滅していると言ってもよいだろう。

 
 小学校6年生の教科書には,「参勤交代」の「大名行列」を示す絵が載っている。

 これで教師は何を教えているのだろうか。

 幕府はなぜ「無駄な出費をするな」と命令したのだろうか。

 大名は,平和な社会のなかで,将軍にどうやって「奉公」すればよかったのだろうか。

 どうやって「忠誠心」を示せばよかったのだろうか。

 上から目線をやめるだけで,全くちがった歴史が見えてくる。

 なぜ,「儒学」が重んじられるようになったのだろうか。

 近代の戦争を行っていくなかで,軍部は歴史教育をどのような目的で進めていたのだろうか。

 織田信長や豊臣秀吉,徳川家康を通して,軍部は,何を学ばせたかったのだろうか。

 今,小学生たちが学んでいる歴史と,当時の歴史には,どのような違いがあるのだろうか。

 ピンボケした,目的も意味も分からない,史実とも合致しない,

 そんな授業を展開していたら恥ずかしい,と心配になる教師はどのくらいいるだろうか。

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「大人の言葉」と「大人の社会の言葉」

 「大人の言葉」を,もう少し詳しく説明すればよかったと後悔している。

 私が使っている「大人の言葉」という「言葉」のなかには,

 「大人の世界の言葉」「大人の社会の言葉」という意味が多分に含まれていた。

 社会科などは特にそうだが,歴史的な分野になると,

 一般的な子ども社会のなかではまず耳にすることがない「大人の社会の言葉」が

 たくさん登場する。

 学術的な用語も,増えてくる。

 こういう「大人の社会の言葉」に適応できない子どもが,

 「社会が苦手」「社会が嫌い」になっていく。

 「研究」の面白さを語ることができない教師自身に,

 「難しい用語」への嫌悪感がにじみだしているのだろう。

 「難しい用語」は「理解させるのが難しい」というのは,

 ただの思い込みである。

 それよりも,「分かったような説明」で「分からせる」くせはやめにしてほしい。

 「参勤交代はどのような目的で始まったのか」

 という問いを中学生にぶつけると,たいてい,誤った答えが返ってくる。

 だから,「大名」の立場から答えなさい,という条件をつける。

 そうすると,答えることができなくなる。

 そこで,武家諸法度の寛永令を読ませる。

 こんな調子で,「分かったような気になっていること」がたくさんある一方で,

 小学校時代に,本当に考える価値があることには,

 ほとんどふれてこなかったのではないか,という中学生が見受けられる。

 「子どもだから,別にいいのではないか」という人がいるかもしれないが,

 それなら大人である教師は学校に必要がなくなる。

 授業で小学校の担任の教師がどの程度の「語彙」を駆使していたかによって,

 中学生の「聞く力」はもちろん,「読む力」もかなり規定されてしまう。

 「聞く力」の乏しい子どもは,「読む力」も乏しい。

 「読む力」の乏しい子は,「考える力」も乏しい。

 「考える力」とは,「思いつき」をべらべらと話す力ではない。

 根拠を挙げて,何がどうして何であるかを説明することができる力のことである。

 それを何百パーセントか,補ってくれているのが塾だとすると,

 塾をなくしてしまえとは主張しにくい。


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「思考回路」の研究は大事

 記事を書きながら,いつも同じようなところに行きつく,

 そのパターンを自分で「回路」と認識できれば立派である。

 同じことしか書けていないことに,気づけるのは大事なことである。

 なぜ,そういう記事を書きたくなるのか。

 なぜ,人の足を引っ張ることばかりに情熱を傾けるのか。

 なぜ,どうでもいいことを言っているやつはおかしい,

 という主張をしている自分が,どうでもいいことを言っているのか?

 欲求の源泉が明らかになれば,もっと「思考回路」の研究は

 しやすくなるだろう。

 得意の「図解」で,ワンパターンの「思考回路」を示してくれると

 より分かりやすくなるはずである。

 ぜひ,応援したい。

 続きを期待している。

 「自らの手を汚し」ながら,頑張ってほしい。

  
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「感動させる」ことを目的にしたとき,「音楽」の「魂」は消える

 太平洋戦争時,戦局が悪化すると,

 最後の頼みの綱は,「魂」のみとなった。

 人間も,物資も,すべてが欠乏していた。

 技術も,すでに追い抜かれていた。

 「玉砕戦」で亡くなった方々の魂を

 慰めるために,私たちがしなければならない

 ことは何か。

 野球でも,「魂を込めて投げろ」なんていう

 「精神論」は,過去のものとなった。

 音楽の世界では,最悪の時代の

 「亡霊」が,まださまよい歩いているようである。

 「音楽家」は,人を「感動させる」のが仕事だろうか。

 そんな「必死さ」が伝わってきたら,それこそ「興ざめ」である。

 「音楽家」が「音楽」に酔っている場面を見て,

 「興ざめ」になる人はどのくらいいるだろうか。

 私はそれで「興ざめ」はしない。

 いい演奏をして,自分で満足をしている姿を見て,

 「すばらしいです」と讃えたい気持ちになる。

 私には,人を感動させようと必死になっている中学生の姿は,

 想像しにくい。

 自分なりに満足がいくことをやる,それだけで精一杯でも,

 よいのではないか。

 「聴衆を感動させる演奏を心がけなさい」という指導は,

 音楽の人間なら一般的なのだろうか。

 私はここに,小学校の教師の醜い典型を見る。

 「参観者を子どもの発言で感動させることが,よい教師と子どもの姿である」・・・

 こういう盲信を抱いている大会参加者が多い場に出ると,

 本当に辟易とさせられる。

 名人とやらの「道具」にさせられている子どもたちが気の毒でならない。

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「全員に発言させたい」という教師の罪

 「学び合い」推進者も,「全員主義」が大好きそうである。

 「一人も置いてきぼりにしない」というのは,教師の姿勢として,

 「正しいもの」という「香り」がする。

 しかし,山登りを考えてみてほしい。

 本当に体力が不足していて,「これ以上は無理」という子どもが必ず出てくる。

 こういう子どもを,無理をさせてでも

 (この「無理」をさせるという言葉には,本人の場合と,
 
 本人以外の子どもという二つの意味がある)

 山頂に連れて行こうとする教師が,

 「全員に発言させたい」という「発言」と重なって見える。

 「発言をしないと授業に参加しているように見えない」

 というのは,学習の「主体性」を本当の意味で重んじている教師の言葉とは

 考えにくい。

 「全員に発言させたい」という教師の「気持ち」は分からないでもないが,

 実際に「全員に発言させる」こととは別の話である。

 実は,

 「中1プロブレム」というのは,

 すでに小学校時代に始まっている,というのが私の見解である。

 これは,小中の交流をしている学校の教師なら分かりやすいだろう。

 小学校の教師も,中学校を卒業しているわけである。

 だから,自分自身の体験から,分からないわけはない。

 すでに小学校6年生の段階で,

 学力の差が激しくついていることを。

 「全員主義」は,せいぜい3年生くらいまでにしてほしい。

 「一人一人を大切にする」ということは,

 「全員に同じように何かをさせる」こととはイコールではないはずである。

 私は,

 小学校の「全員主義」は,「全体主義」と同じような香りがして,

 本当になじめない。


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小学校で「大人の言葉」を「聞く力」がついていない子どもが中学校では伸びにくい

 教育実習生の授業を聞いていると,

 「こんな質問の仕方で,『答えてほしい』と思っていることを,
 
 生徒はよく答えられるな」と驚く場面がある。

 文字にしてみれば,本当に不思議なやり取りに見えるだろう。

 生徒たちは,こういう場面ではこういうことが聞かれるはずだ,

 と予想できると,質問を聞いていなくてもだいたいのことは話せてしまう。

 課題の多い教育実習生の話し言葉は,まだ

 「大人の言葉」になっていない。

 会話が「何となく通じる」世界で生きていると,

 中学生相手でも「通じているはずだ」と誤解してしまうことが多いようだ。

 話していることが「子どもレベル」だと,中学生にもよく理解できる。

 問題は,中学校レベルの学習内容を,

 どのように「話すことができるか」である。

 それができるようになると,次のハードルが見えてくる。

 「大人の言葉」を話すと,「聞いて理解できない」中学生が多いことに気づかされる。

 「音として入ってきた,ある程度のレベルの内容が,頭のなかで整理できない」

 中学生がいる。

 単純に集中力がなくて,聞いていなかった,聞き漏らしてしまった,

 という話ではない。

 聞いてはいるが,内容を理解できないので,次第に集中力がなくなり,

 聞こうともしない,という状態に陥る中学生がいる。

 小学校で

 「学び合い」漬けにされてしまうと,こういう現象が起こりやすくなる。

 「大人の言葉」をほとんど耳にしないで

 中学校に上がることになってしまった子どもたちは不幸である。

 もちろん,小学校の教師の中にも,「大人の言葉」が話せない人がいるだろう。

 「それは12歳の子どもに話す言葉か?」

 と疑問を抱く場面に公開授業で出会うことがある。


 それでも,「大人の話」をしっかり聞く習慣がついている子どもは,

 努力次第で何とかついてこれる。

 最悪なのは,そもそも「大人の話」を聞こうとしない子どもたちである。

 多くの場合は,「理解できない」から聞こうとしないのである。

 どうしたら「理解できる」ようになるか。

 それは,日々の練習,訓練しかない。

 それができる場所として最適なのは,大人の教師がいて,

 同じようなレベルの子どもがいる,学校の教室が一番である。

 こういう大事な場所で,「話し合い」ばかりをやらされていると,

 「理解していない状態での発言」で満足するようになってしまい,

 先に進めなくなる。

 前の記事で書いたことが,今回の記事と関連が深い。

 学習が苦手な中学生というのは,「聞く力」が弱いのだ。

 それを,中学校1年生のうちにしっかり鍛えてあげて,「聞く力」の

 補強,補習ができると,中2になって全然違ってくる。

 研究授業では,教師がどのように「大人の言葉」を駆使しているかに

 興味がある。

 しかし,中学校でも,小学生どうしの「話し合い活動」で出てくるような言葉しか発せない教師がまれに見受けられる。

 特に,研究発表会のときの公開授業でそれが見られる。

 「やさしく教えよう」「みんなに分かったと言わせたい」

 という思いが,逆効果になっている例の典型である。

 今までの話を,

 短くまとめると,

 小学校のときに,「知的な負荷」をかけられず,

 「大人の話を聞く力」が身についていない子どもは,

 中学校で本当に苦労する,ということである。

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中2になって急に伸び始めた子どもたち

 恥ずかしながら,これは学校現場での話ではない。

 私は大学時代に塾のアルバイトを3年近くやっていたので,

 やや「長い付き合い」になった子どもたちがいる。

 ある教室では,中1から高1までの英語を教えていた。

 中1から持ち上がりのような形で教えていた子どもたちの学力が,

 中2になって,急に伸び始めた。

 困ってしまったのは,塾の方である。

 私が担当していたそのクラスは,そもそも「勉強が苦手」な子どもたちのためのものであった。

 「自信」だけでなく,「実力」が身についていた。

 塾に「気まずい雰囲気」が生まれる理由はお分かりになるだろうか。

 その話はここでのテーマではない。

 なぜ中2で伸びたか?

 これは私自身と「同じ」方法で学ばせた結果,「同じ」ように伸びたのだ,

 と私は考えている。

 中1のときは,「聞く力」を中心に鍛えた。

 「聞く力」が育っていないと,「次が続かない」のが英語の学習である。

 ・・・・なんてことは,大学生のアルバイトにはだれも教えてくれる人はいない。

 自分が受けた教育の成果を信じてそのまま教えただけである。

 塾では,テキストの決められたページを,決められたペースでこなしていく

 必要があるが,「聞く力」をつけるには,そのページにある単語だけを

 聞かせてもだめである。

 他の講師との違いは,その程度のことだったのかもしれない。

 私は今,社会科の教師である。

 なぜこんな話をしたのか?

 学校時代に自分が受けた教育の成果が,

 人に教える上で役に立つ,という実感がもてるのは,

 小学校なのか,中学校なのか。

 そもそもそういう実感がもてている人が,

 教師になっているのか,どうか。

 それを知るすべはない。


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教育らしい記事が注目されるうれしさ

 教育論・教育問題なんて,最も「つまらなさそう」なカテゴリーにもかかわらず,

 登録ブログ数は最も多い。

 閲覧数も多い。
 
 どうでもいい記事まで「注目」されることに辟易としていたが,

 昨日,今日と,まともな内容が「注目」されていることには喜びを感じる。

 授業における「発言」の意義などについて,真面目な話ができるような場はなかなかない。

 「子どもの発言を増やしたいのだが,どうしたらいいか?」

 という質問を受けることがあるが,

 「そういう質問をしているから,発言が少ないのではないか」・・・・

 なんていじわるなことは言わない。

 増やしたいのは,「どのような発言」なのか。

 それを知ることが第一である。

 それは本当に意味のある「発言」なのか。

 「発言させること」が目的になっているような教師ではいけない。

 「発言」は手段である。

 「何を考えさせるか」が第一である。


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私が一番大切にしている「壊れた時計」

 このブログ村では,「大切な心を失った人」の典型に出会うことができる。

 その人は,「自分は大切な心を失っていない」という自信をもっていて,

 ときどきどうでもいい道徳教材のような話が登場する。

 「大切な心を失った人」とはどういう人かは,該当のブログを訪問すれば,

 山のような「納得のいく記事」から理解してもらえるだろう。

 
 私は父の肩身の時計を持っているが,時を刻むことはない。

 これを「動かす」ときがいつかは,私が決めている。

 
 「心が壊れた人」は,「この時計,壊れていて,使いみちがないね」

 と私に告げるだろう。

 
 哀れむべき人である。

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「発言」と「応答」の区別ができているか?

 授業中の子どもの「発言」の意義に関する記事の内容について,

 「異論」を出されたが,「反論」しなければならないほどの「論」は書いていない。

 ただの思いつきと印象である。

 うまくいっている授業はいくらでもある。

 下手くそな授業も,いくらでもある。

 いい「発言」は,たくさんある。

 それ以上に,まずい「発言」もある。

 一つ,確認しておきたいのは,

 教師は「発言が大事」「発言を増やそう」などと言っているが,

 多くの場合,教師の質問(発問)の「応答」に過ぎないことを

 「発言」と呼んでいる。

 それは,本当に「発言」なのか?

 単なる「応答」ではないのか?

 少なくとも,職員会議における「発言」とは異なる趣旨のものを

 「授業における子どもの発言」と呼んでいないか?

 ある子どもの「応答」に対して,

 「自分の考えはそうじゃない,これが自分の考えだ」というのを「発言」

 と考えたい人もいるだろうが,

 それも実は「応答」に過ぎない。

 教師が「問い」を発しないと,出てこないのが「応答」である。

 

 小学校の教師ほど,

 「主体的な学び」「能動的な学習」などを大事にしようとしている。

 しかし,私のような人間が見ると,

 どう考えても子どもは「教師に動かされている」ようにしか見えない。

 「そこまでお膳立てしないと,だめなのか」というくらい,

 教師が板書を緻密に構成していく。

 そんなものは,子どもに書かせればよいのに。

 でも,それでは「都合が悪い」のだろう。

 授業が「うまくいった」ことにしなければならないからである。

 研究会の板書を見ると,「うまくいったでしょう」という字が書かれているように見える。

 実際,何%の子どもが,それを理解したか分からないまま。

 「分からない」ことが「分かったつもり」「分かっているはず」で終わらせてしまうのが,

 まずい授業の典型である。

 
 主体的な学習というのは,子どもの「問い」から始まるものを指すはずである。

 「問い」こそが「発言」の中核であるべきで,

 「問える」力こそが「学力」である,

 なんていうと,「発言」を促すことになろうか。


 対話とはこのように行うものであり,

 授業も同じである。


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何をどう「たとえるか」で問題解決力や実践レベルが分かってしまう

 「たとえ」の解説を始めた人がいる。

 それでは,「たとえ」にはならない。

 「関係性」を考えることができない人は,本当に社会で苦労していると思う。

 一番迷惑をしているのは,周囲の人間だろう。

 本人は迷惑をかけていないつもりでいるから,本当にやっかいである。

**********************

 音楽への好き嫌いが激しい私にとって,

 下手くそな演奏や興味を感じない演奏は,「騒音」でしかない。

 また,自己満足に浸っているような人間の演奏も同様である。

 「幸福追求の権利」が侵害されていることを強く訴えたい気持ちになる。

 「道路工事の音」の方が,まだましである・・・・・・

 なんて書けば,

 「この人は本当に音楽への理解ができていない人だ」

 とか,

 「変わった人だ」

 のような印象を与えることとなる。

 「たとえ」は,何がどうなっているかを把握しようとするとき,

 適切にいくかどうかは分からないが,こうなんだな,という理解を促す効果がある。

 「たとえ」が思いつきやすい人というのは,アイデアを他の世界から借りてくることが

 得意なので,何かで煮詰まったとき,行き詰まった時に

 突破口を見つけてくれる可能性がある。

 残念ながら,アナロジー思考ができない人の場合には,混乱してしまうだけの結果になることもある。

 教育現場では様々な「想定外のこと」が発生しているが,

 これをいったん何かに「たとえ」て処理していくと,

 「重み」を軽減することができる。

 
 気をつけなければならないのは,場の雰囲気を和らげようとしているのに,

 「そんなたとえは不謹慎だ」などと真面目に?怒り出す人がいるかいないか,
 
 事前にチェックしておくことである。

 
 こういう人がいる学年や学校は,「重み」を倍増させる人を抱えている,

 という意味で,本当につらい。

 
 「たとえ」が駆使できる教師集団には,「根っこがつながっていて強い」という印象がある。


 「どの人の実践レベルが分かってしまったのか?」

 また,「なぜたとえの事例を出さないのか?」などという「疑問」を浴びるかもしれないが,

 
 私が言いたいことは,タイトルの一文と,

 「あの人には,逆立ちしても問題は解決できないだろう」ということだけである。


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宮城谷昌光の言葉

  • 雲のうえに頂をもつ高山を登ろうとするのに、その山相のすさまじさに圧倒され、おじけづいていては何もはじまらない。最初の一歩を踏み出さねば、山頂は近づいてこない。
    「楽毅」第四巻より
  • みごとなものだ。斂(おさ)めるところは斂め、棄てるところは棄てている。楽氏が棄てたところに、われわれの生きる道がある。
    「楽毅」第四巻より
  • 去ってゆく千里の馬を追っても、とても追いつかぬぞ。千里の馬の尾をつかむには、その脚が停まったときしかない
    「楽毅」第四巻より
  • ・・・つくづく人のふしぎさを感じた。道を歩く者は、足もとの石をたしかめようとしないということである。千里のかなたを照らす宝石がころがっていても、気がつかない。それほどの名宝は深山幽谷に踏みこまなければ得られないとおもいこんでいる。
    「楽毅」第三巻より
  • この城をもっとたやすく落とすべきであった。たやすく得たものは、たやすく手放せる。
    「楽毅」第二巻より
  • なにかを信じつづけることはむずかしい。それより、信じつづけたことをやめるほうが、さらにむずかしい。
    「楽毅」第二巻より
  • からだで、皮膚で、感じるところに自身をおくことをせず、頭で判断したことに自身を縛りつけておくのは、賢明ではなく、むしろ怠慢なのではないか
    「楽毅」第二巻より
  • こうする、ああする、といちいち目的と行動とを配下におしえつづけてゆけば、配下はただ命令を待つだけで、思考をしなくなる。この四人はいつなんどき多数の兵を指揮することになるかもしれず、そのときにそなえて自立した思考力をもつ必要がある。
    「楽毅」第二巻より
  • 人は自分の存在を最小にすることによって最大を得ることができる
    「楽毅」第三巻より
  • 勇と智とをあわせもっている者は、攻めるときよりも退くときに、なにかをなすときより、なにもなさないときに、その良質をあらわす
    「楽毅」第二巻より