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心底ガッカリした後,検討すべきこと ~授業における子どもの「発言」の意義~

 励ますことになるのか,けなすことになるのか分からないが,

 小中連携で研究すべきことについて,私見を述べることとする。

 授業では,子どもに「発言」を促す場面がある。

 多くの場面では,「だれでも答えられそうなこと」を「だれか」に答えさせて,子どもたち全体や教師が「安心」したり「満足」したりするという「結果」で終わる。

 もちろん,「すぐには答えられそうにないこと」を早い者勝ちで「だれか」に答えさせたり,

 「難しい問題」を「できた子ども」に答えさせたりすることもある。

 子どもたちは,長い長い小学校生活を通じて,

 その「意味のなさ」に次第に気づいていく。

 「気づき」が遅い子どもが多い小学校では,6年生になっても

 「子ども」らしく「ハイ」「ハイ」と手を挙げて,

 自分の発言の権利を教師に認めてもらおうと努力する。

 しかし,中学校になると,

 「だれでも答えられそうなこと」を「わざわざ自分が答えるまでもない」と考えるようになる。

 「自分よりも上手にまとめて発表できる生徒がいるだろう」とか,

 「自分が発表しても,もっと賢い生徒に付け足しをされたり,修正をされたりするのは恥ずかしい」

 などと思うようになる。

 授業中の「発言」が許可されるのは,同じ時間では40人中のたった1人に限られる。

 自分が考えていることと同じことを,わざわざ他の生徒の口から聞いて終わるのは,時間の無駄である。


 小学校でときどき見られるのは,挙手をして「発言」を許可された子どもが,

 自分の前に答えた子どもとほとんど同じことを繰り返すことがある。

 自己満足の人間がかたまって楽しむカラオケと同じで,他の人間が歌っているのを聴いていないからだ。

 これも時間の無駄である。


 授業を「テレビ番組」にしたい教師は,

 子どもの「発言」のやり取り全体がストーリーになるように,

 わざわざ「発言」の順番を考えてあてたり,「発言」の趣旨を捻じ曲げて,

 「行き着きたい場所」に「行き着く」ようにコントロールする。

 そういう授業が「すばらしい流れだった」などと評価される。

 しかし,それは「最後のまとめの発言をした子ども」だけが評価すべきレベルに達しているだけで,

 他の子どもは「分かったつもり」になっているかもしれないが,

 本当に「分かっているか」「分かっていないか」は分からないまま授業が終わることが多い。

 もし,「分かっていない」子どもが多ければ,時間の無駄だったわけである。

 中学校段階では,

 「発表」といえば,
 
 授業でたまたま思いついたこと,分かったことを「述べる」ことよりも,

 事前にきちんと準備をして,思いつきではなく,筋道立てられた内容を分かりやすく表現するための時間として確保し,実施することが望ましい。

 「プレゼンテーション能力」が診断できる場が,「発表」の場である。


 授業中,散発で数人に発言させるような方法よりも,発言したい内容を整理して,

 小さいカードに書かせ,書けた生徒から回収し,教師がいくつかを紹介した方が,

 よほど効率がよいし,全生徒の学習状況が把握でき,

 「発言させる方法」では表に出なかったはずの「埋もれた貴重な考え」を発見し,

 生徒たちに知らせることもできる。

 それは小学校でもとるべき方法である。

 話し合い活動をする場合には,小学校でも,書記役を決めて,発言内容は記録をとっておくべきである。

 その内容を再度,発言者が確認し,自分の意図通りに記録がとられているか,

 前後の脈絡に沿った発言をそのときにきちんとすることができていたのか,

 そういう点をふり返らせる意味でも,「記録」は重要である。

 私が授業中に最も重視している「発言」は,

 「授業のなかで感じた疑問のうち,すぐに全生徒で検討すべき内容を授業者である私に伝える」

 というものである。

 私の授業の場合には,こういう「発言」には挙手の必要はなく,

 切迫感というか緊張感というか,真面目な雰囲気で語り始めれば,

 私はもちろん,生徒たちも自然と耳を傾けることができるようにしている。

 単に「発言の機会がある,ない」などを気にするのではなくて,

 「何を発言させようとしているのか」

 という点について,小学校と中学校の質的向上を図るような工夫を検討し合うのが,

 小中連携の研究授業を行う意義である。


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  • 雲のうえに頂をもつ高山を登ろうとするのに、その山相のすさまじさに圧倒され、おじけづいていては何もはじまらない。最初の一歩を踏み出さねば、山頂は近づいてこない。
    「楽毅」第四巻より
  • みごとなものだ。斂(おさ)めるところは斂め、棄てるところは棄てている。楽氏が棄てたところに、われわれの生きる道がある。
    「楽毅」第四巻より
  • 去ってゆく千里の馬を追っても、とても追いつかぬぞ。千里の馬の尾をつかむには、その脚が停まったときしかない
    「楽毅」第四巻より
  • ・・・つくづく人のふしぎさを感じた。道を歩く者は、足もとの石をたしかめようとしないということである。千里のかなたを照らす宝石がころがっていても、気がつかない。それほどの名宝は深山幽谷に踏みこまなければ得られないとおもいこんでいる。
    「楽毅」第三巻より
  • この城をもっとたやすく落とすべきであった。たやすく得たものは、たやすく手放せる。
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  • なにかを信じつづけることはむずかしい。それより、信じつづけたことをやめるほうが、さらにむずかしい。
    「楽毅」第二巻より
  • からだで、皮膚で、感じるところに自身をおくことをせず、頭で判断したことに自身を縛りつけておくのは、賢明ではなく、むしろ怠慢なのではないか
    「楽毅」第二巻より
  • こうする、ああする、といちいち目的と行動とを配下におしえつづけてゆけば、配下はただ命令を待つだけで、思考をしなくなる。この四人はいつなんどき多数の兵を指揮することになるかもしれず、そのときにそなえて自立した思考力をもつ必要がある。
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  • 人は自分の存在を最小にすることによって最大を得ることができる
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