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場を仕切れる人,仕切れない人

 小学校の教師とは一緒に仕事をしたことがないのでよく分からないが,

 中学校や高校の教師の中には,数人から数十人のグループなり団体を仕切ることが

 得意な人と,苦手な人がいることは確かである。

 仕事上,仕切らなければならないときに,仕切れない人がいるから,

 苦手な人がいるということが分かる。

 仕切るのが好きそうだが,実際には上手く仕切れていない人もいる。

 そもそも,こういう「仕切る」能力というのは,どのように育てることができるのか。

 私自身のことを思い返してみれば,自分は明らかに「仕切り屋」だった。

 いつからかというと,幼稚園生のときからである。

 友達と遊ぶとき,

 遊びの種類,ルール,それぞれの役割を瞬時に決めて,

 「相談時間」はゼロで,すぐに遊びを始めていた。

 「指示」を相手に「命令」とは感じさせずに,「当たり前のこと」として

 受け止めてもらうのが,「仕切る技」である。

 小学校のときも同じようだったと記憶しているが,

 なぜか記憶が鮮明なのは,幼稚園生時代の「仕切り」である。

 その「仕切り」の能力を自覚できたのは,中学生時代だった。

 ボランティアで集められた同級生に,段取りを説明し,仕事の分担と量を割り振って,

 先生の予想を超えるスピードで任務が完了したときに,先生からかけられた言葉が

 「人を使うのが上手だね」というものだった。

 相手の先生がよく知らない人だったら,「嫌味」にもとれる言葉であるが,

 お互いのことを分かっている関係だったから,素直に受け止められた言葉だった。

 たとえば私のような経験がなく,

 「人に指示を出すなんて,でしゃばりなんて思われるから嫌だ」

 という感覚で育ってきた人が,

 教師になっていたら・・・・・・などと心配に思う必要はないかもしれないが,

 もし「子どもを思うように動かすことができない」ことで悩んでいたとして,

 その人が「人を動かす経験」をもっていなかったとしたら,

 「そう簡単に願いはかなえられないかもしれません」としか答えようがない。

 自分の話が続いて恐縮だが,幼稚園生のころの記憶のうち,最も鮮明なのは,

 「怪獣ごっこ」での「役割分担」を伝えた時に,あまり自己主張をしないある友達が

 いつになく「強い怪獣」を望んだ時の自分の対応と,友達の表情である。

 人にやさしく接していれば,人はついてくる,なんて甘いものではない。

 こちら側の自己主張が強すぎたりしても,人はついてこなくなる。

 この微妙なバランスを,人は社会に出てから,学ぶことができるのだろうか。

 会社に出ると,しばらくは「新人」として,「先輩」や「上司」のふるまい方から,

 リーダーシップのあり方を学ぶことができるかもしれないが,

 教師の場合は,仕事についたそのときから,生徒に対峙しなければならない。

 やりにくいのは,たとえば中学校の場合,

 新任や異動先で中2や中3の担任になるケースである。

 文章などでは読むことができない生徒や教師の力関係,人間関係の中で,

 子どもを「仕切る」ことはなかなか難しいことであろう。

 でも,「仕切らなければならない」ときがくる。

 それをどう乗り切るのか。

 周囲から見て,代わりに仕切ってあげたいと思っても,

 立場上,それができない,ということがある。

 アドバイスできることがあるとしたら,

 多少の反発を恐れずに,自分が言いたいことは言うこと。

 それくらいだろうか。

 何も主張しなければ,相手からは「仕切れない人」

 「仕切るつもりがない人」と思われる。

 そういうのよりは,「仕切ろうとはしているけど,うまくできない人」の方が,

 状況としては「失敗」なのだが,あとはそこから何かを学んでもらうしかない,

 というのが私の思いである。


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宮城谷昌光の言葉

  • 雲のうえに頂をもつ高山を登ろうとするのに、その山相のすさまじさに圧倒され、おじけづいていては何もはじまらない。最初の一歩を踏み出さねば、山頂は近づいてこない。
    「楽毅」第四巻より
  • みごとなものだ。斂(おさ)めるところは斂め、棄てるところは棄てている。楽氏が棄てたところに、われわれの生きる道がある。
    「楽毅」第四巻より
  • 去ってゆく千里の馬を追っても、とても追いつかぬぞ。千里の馬の尾をつかむには、その脚が停まったときしかない
    「楽毅」第四巻より
  • ・・・つくづく人のふしぎさを感じた。道を歩く者は、足もとの石をたしかめようとしないということである。千里のかなたを照らす宝石がころがっていても、気がつかない。それほどの名宝は深山幽谷に踏みこまなければ得られないとおもいこんでいる。
    「楽毅」第三巻より
  • この城をもっとたやすく落とすべきであった。たやすく得たものは、たやすく手放せる。
    「楽毅」第二巻より
  • なにかを信じつづけることはむずかしい。それより、信じつづけたことをやめるほうが、さらにむずかしい。
    「楽毅」第二巻より
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    「歴史の活力」より
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    「晏子」(第四巻)より
  • 倹より奢に入るは易く、奢より倹に入るは難し
    「中国古典の言行録」より
  • 礼儀という熟語がある。礼とは万物を成り立たせている根元に人がどうかかわるかという哲理のことで、儀とは礼をどう表現するかというレトリックをいう。その二つが組み合わさって礼儀ということばが生まれた。
    「春秋の色」より
  • 都邑が矩形であるのは、この大地が巨大な矩形であると想像するところからきている。したがってかぎりない天地と形容するのは正確さに欠ける。大地にはかぎりがある。ただし大地は四方を高い壁でかこまれているわけではない。とにかく独創とか創見というものは、思考が狭い矩形をもたぬということではないか。人はいつのまにか思考を防衛的にしてきた。他者を拒絶しがちである。思考の四方に感情という壁を立てて、他者と共有してきた天を極端にせばめてしまった。
    「子産(下)」より
  • 人というものは、恩は忘れるが、怨みは忘れぬ。
    「孟嘗君 5」より
  • 人はたれにもあやまちがあります。あやまちを犯しても改めれば、これほど善いことはありません。『詩』に、初めはたれでも善いが、終わりを善くする者は鮮(すくな)い、とあるように、あやまちをおぎなう者はすくないのです。
    「沙中の回廊(下)」より
  • 「わたしは侈っている者を烈しく憎まない。なぜなら侈っている者はおのずと滅ぶ。が、なまけている者はどうか。わたしはなまけている者をもっとも憎む」
    「沙中の回廊(下)」より
  • 人を得ようとしたければ、まずその人のために勤めねばならぬ。すなわち、晋が諸侯を従えたいのであれば、諸侯のために骨折りをしなければならない。
    「子産(上)」より
  • 知るということは、活かすということをして、はじめて知るといえる。
    「青雲はるかに(上)」より
  • 師はつねに偉く、弟子はつねに劣っているものでもない。弟子の美点に敬意をいだける師こそ、真に師とよんでさしつかえない人なのではないか。
    「孟嘗君 2」より
  • 人を家にたとえると、目は窓にあたる。窓は外光や外気を室内にとりいれるが、室内の明暗をもうつす。そのように目は心の清濁や明暗をうつす。
    「孟嘗君 2」より
  • 人にものごとを問うということは、質問そのものに、問うた者の叡知があらわれるものである。
    「孟嘗君 3」より
  • 人から嫌われることを、避けようとする者は、心の修養ができていないことである。
    「中国古典の言行録」より
  • 人を利用すれば、かならず人に利用される。・・・企てというのは、人に頼ろうとする気が生じたとき、すでに失敗しているといってよい。
    「太公望 中」より
  • 与えられてばかりで、与えることをしないことを、むさぼると申します。むさぼった者は、なべて終わりがよくない
    「孟夏の太陽」より
  • ・・・料理をつくりながら、人と組織とをみきわめたのか。素材が人であれば、素材を合わせてつくった料理が組織である。それ自体はにがく、からいものでも、他の素材と合わされば、うまさを引きだすことができる。煮るとか蒸すとかいうことが、政治なのかもしれない。
    「太公望 中」より
  • 他人を変革するためには、まず自己を改革しなければならね。
    「太公望 中」より
  • 人が何かを得るには、二通りあります。与えられるか、自分で取るかです。(中略)与えられることになれた者は、その物の価値がわからず、真の保有を知りませんから、けっきょく豊さに達しないのです。
    「奇貨居くべし 春風篇」より
  • みじかいなわしかついていないつるべでは、深い井戸の水を汲むことはできない。
    「奇貨居くべし 黄河編」より
  • 人は目にみえるものを信じるが、そのことにはかぎりがあり、けっきょく、人が本当に信じるものは、目にみえぬものだ
    「晏子」第二巻より
  • 人にはそれぞれこだわりがあり、そのこだわりを捨てて、変化してゆく現実や環境に順応してゆくことの、何とむずかしいことか。
    「奇貨居くべし 飛翔篇」より
  • 失敗を心中でひきずりつづけると、起死回生の機をとらえそこなう。それは戦場における教訓にすぎないともいえるが、大きな勝利とは、相手の失敗につけこむのではなく、自分の失敗を活かすところにある。楽毅の信念はそうである。
    「楽毅」第四巻より
  • 人の頭脳のなかの眼力は、木の幹にあたるであろうが、幹をささえるものは知識という葉ではない。根である。根は地上の者ではどうすることもできない伸びかたをする。その根は天から落ちてくる水を吸い、人からあたえられる水も吸って太ってゆく。
    「奇貨居くべし 春風篇」より
  • 大木にするためには、幹の生長に目をうばわれがちであるが、地中の根を大きく張らせることを忘れてはならない。花を咲かせることをいそぐと、花のあとの結実をおろそかにしてしまう。要するに、大木でなければ豊かな実をつけないということである。
    「奇貨居くべし 春風篇」より
  • あらゆる事態を想定して準備を怠らず、変化に対応できるようなトップでいなければならない。
    「中国古典の言行録」より