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「教育虐待」→「指導虐待」と呼ばれて教師が叩かれる時代は来るか?

 日経の「暮らしの知恵」に,教育ジャーナリストの記事が掲載されている。

 「教育虐待」とは,

 教育熱心な親が子どもに学習を強いることなどを指しているようだが,

 果たしてこれは「虐待」なのか?

 検索をかけてみると,昨年の8月に毎日新聞が取り上げている問題があった。

 鬼気迫る「母親像」が紹介されている。

 家にいられなくなってしまう子ども。

 その子どもたちを「かくまう」シェルター。

 家庭における教育の問題は,根が深い。

 学校の教師は,家庭からのクレームに散々悩まされているとは言っても,

 大人になるまで責任を持たされることはない。


 「大変」だなと思う子どもの親と話をすると,親の方がはるかに「大変」なことも多い。

 
 子どもはひどいプレッシャーを家庭でかけられても,学校では明るく普通にふるまったりもする。

 もちろん,全く違う方向で「発散」してしまう子どももいる。

 「虐待」されている子どもの多くは,学校ではとても楽しそうに,明るく生活していることが多い。

 教師の立場からは,なかなか見抜きにくい。

 保護者を呼んで話をしても,「証拠」をつかむことや,「認めさせることができる」のはまれである。


 私にもかつて,「救済」することができなかった中学生がいた。

 「いじめ」もそうだが,「虐待」も,

 被害を受けている子どもが「そう感じる」「受けていることを認める」ことができないという課題がある。

 実際に,「そうは感じていない」という場合もある。

 
 「元は自分が悪いのだ」というように自分を責める傾向が強い子どもの場合は,

 特に注意を要する。

 
 私は,独自の心理テストを気になるクラスでは実施しているが,

 その目的は,「注意すべき子ども」を発見し,その子どもへの「口撃」に対するアンテナの感度を高めておくためである。

 
 学習の成績を背景とした「教育虐待」の場合には,成績が向上すれば,それまでの状況とは一転し,

 「地獄」から「天国」への大変化を感じ取ることもできる。

 
 「若いときの苦労は買ってでもしろ」なんていう「格言」?もある。

 
 書いていることの収拾がつかなくなってしまった。

 
 そのうち,「厳しい先生」の「厳しい指導」(体罰を用いるわけではない)が,

 「虐待指導」と呼ばれる時代が来るのだろうか。


 造語をするのも,ほどほどにしておいた方がよさそうである。


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  • 雲のうえに頂をもつ高山を登ろうとするのに、その山相のすさまじさに圧倒され、おじけづいていては何もはじまらない。最初の一歩を踏み出さねば、山頂は近づいてこない。
    「楽毅」第四巻より
  • みごとなものだ。斂(おさ)めるところは斂め、棄てるところは棄てている。楽氏が棄てたところに、われわれの生きる道がある。
    「楽毅」第四巻より
  • 去ってゆく千里の馬を追っても、とても追いつかぬぞ。千里の馬の尾をつかむには、その脚が停まったときしかない
    「楽毅」第四巻より
  • ・・・つくづく人のふしぎさを感じた。道を歩く者は、足もとの石をたしかめようとしないということである。千里のかなたを照らす宝石がころがっていても、気がつかない。それほどの名宝は深山幽谷に踏みこまなければ得られないとおもいこんでいる。
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  • この城をもっとたやすく落とすべきであった。たやすく得たものは、たやすく手放せる。
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  • なにかを信じつづけることはむずかしい。それより、信じつづけたことをやめるほうが、さらにむずかしい。
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    「楽毅」第二巻より
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    「歴史の活力」より
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  • 人というものは、恩は忘れるが、怨みは忘れぬ。
    「孟嘗君 5」より
  • 人はたれにもあやまちがあります。あやまちを犯しても改めれば、これほど善いことはありません。『詩』に、初めはたれでも善いが、終わりを善くする者は鮮(すくな)い、とあるように、あやまちをおぎなう者はすくないのです。
    「沙中の回廊(下)」より
  • 「わたしは侈っている者を烈しく憎まない。なぜなら侈っている者はおのずと滅ぶ。が、なまけている者はどうか。わたしはなまけている者をもっとも憎む」
    「沙中の回廊(下)」より
  • 人を得ようとしたければ、まずその人のために勤めねばならぬ。すなわち、晋が諸侯を従えたいのであれば、諸侯のために骨折りをしなければならない。
    「子産(上)」より
  • 知るということは、活かすということをして、はじめて知るといえる。
    「青雲はるかに(上)」より
  • 師はつねに偉く、弟子はつねに劣っているものでもない。弟子の美点に敬意をいだける師こそ、真に師とよんでさしつかえない人なのではないか。
    「孟嘗君 2」より
  • 人を家にたとえると、目は窓にあたる。窓は外光や外気を室内にとりいれるが、室内の明暗をもうつす。そのように目は心の清濁や明暗をうつす。
    「孟嘗君 2」より
  • 人にものごとを問うということは、質問そのものに、問うた者の叡知があらわれるものである。
    「孟嘗君 3」より
  • 人から嫌われることを、避けようとする者は、心の修養ができていないことである。
    「中国古典の言行録」より
  • 人を利用すれば、かならず人に利用される。・・・企てというのは、人に頼ろうとする気が生じたとき、すでに失敗しているといってよい。
    「太公望 中」より
  • 与えられてばかりで、与えることをしないことを、むさぼると申します。むさぼった者は、なべて終わりがよくない
    「孟夏の太陽」より
  • ・・・料理をつくりながら、人と組織とをみきわめたのか。素材が人であれば、素材を合わせてつくった料理が組織である。それ自体はにがく、からいものでも、他の素材と合わされば、うまさを引きだすことができる。煮るとか蒸すとかいうことが、政治なのかもしれない。
    「太公望 中」より
  • 他人を変革するためには、まず自己を改革しなければならね。
    「太公望 中」より
  • 人が何かを得るには、二通りあります。与えられるか、自分で取るかです。(中略)与えられることになれた者は、その物の価値がわからず、真の保有を知りませんから、けっきょく豊さに達しないのです。
    「奇貨居くべし 春風篇」より
  • みじかいなわしかついていないつるべでは、深い井戸の水を汲むことはできない。
    「奇貨居くべし 黄河編」より
  • 人は目にみえるものを信じるが、そのことにはかぎりがあり、けっきょく、人が本当に信じるものは、目にみえぬものだ
    「晏子」第二巻より
  • 人にはそれぞれこだわりがあり、そのこだわりを捨てて、変化してゆく現実や環境に順応してゆくことの、何とむずかしいことか。
    「奇貨居くべし 飛翔篇」より
  • 失敗を心中でひきずりつづけると、起死回生の機をとらえそこなう。それは戦場における教訓にすぎないともいえるが、大きな勝利とは、相手の失敗につけこむのではなく、自分の失敗を活かすところにある。楽毅の信念はそうである。
    「楽毅」第四巻より
  • 人の頭脳のなかの眼力は、木の幹にあたるであろうが、幹をささえるものは知識という葉ではない。根である。根は地上の者ではどうすることもできない伸びかたをする。その根は天から落ちてくる水を吸い、人からあたえられる水も吸って太ってゆく。
    「奇貨居くべし 春風篇」より
  • 大木にするためには、幹の生長に目をうばわれがちであるが、地中の根を大きく張らせることを忘れてはならない。花を咲かせることをいそぐと、花のあとの結実をおろそかにしてしまう。要するに、大木でなければ豊かな実をつけないということである。
    「奇貨居くべし 春風篇」より
  • あらゆる事態を想定して準備を怠らず、変化に対応できるようなトップでいなければならない。
    「中国古典の言行録」より