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さすがに「手を汚している」人の書くことは違う

 ゆとり教育世代は,

 「上」だの「下」だのといった「しがらみ」に縛られずに,

 自由な発想で行動できる人たちである。

 伸び伸びやれるからこその成果がある。

 「言葉を知らない」などという批判も,相対的なものである。

 「手を汚す」という言葉の意味を知らない人が,

 何だか大げさなことを書いている。

 解釈としては,意味をよく知っていて,

 自分がやっていることをよく自覚して,

 正直なことを書いているとも言えるのだが。

 ネット上でどれだけ「手を汚せ」ば気が済むのだろう。

 ある意味,よほどこっちの方が「ゆとり世代」である。

 「それでも生きていける」のだから。

********************

昔は辞書の意味をコピペする努力は惜しまなかったが,

 今は他人の文章をコピペして,開き直るようになってしまった。

 これが「なれの果て」である。


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宮城谷昌光の言葉

  • 雲のうえに頂をもつ高山を登ろうとするのに、その山相のすさまじさに圧倒され、おじけづいていては何もはじまらない。最初の一歩を踏み出さねば、山頂は近づいてこない。
    「楽毅」第四巻より
  • みごとなものだ。斂(おさ)めるところは斂め、棄てるところは棄てている。楽氏が棄てたところに、われわれの生きる道がある。
    「楽毅」第四巻より
  • 去ってゆく千里の馬を追っても、とても追いつかぬぞ。千里の馬の尾をつかむには、その脚が停まったときしかない
    「楽毅」第四巻より
  • ・・・つくづく人のふしぎさを感じた。道を歩く者は、足もとの石をたしかめようとしないということである。千里のかなたを照らす宝石がころがっていても、気がつかない。それほどの名宝は深山幽谷に踏みこまなければ得られないとおもいこんでいる。
    「楽毅」第三巻より
  • この城をもっとたやすく落とすべきであった。たやすく得たものは、たやすく手放せる。
    「楽毅」第二巻より
  • なにかを信じつづけることはむずかしい。それより、信じつづけたことをやめるほうが、さらにむずかしい。
    「楽毅」第二巻より
  • からだで、皮膚で、感じるところに自身をおくことをせず、頭で判断したことに自身を縛りつけておくのは、賢明ではなく、むしろ怠慢なのではないか
    「楽毅」第二巻より
  • こうする、ああする、といちいち目的と行動とを配下におしえつづけてゆけば、配下はただ命令を待つだけで、思考をしなくなる。この四人はいつなんどき多数の兵を指揮することになるかもしれず、そのときにそなえて自立した思考力をもつ必要がある。
    「楽毅」第二巻より
  • 人は自分の存在を最小にすることによって最大を得ることができる
    「楽毅」第三巻より
  • 勇と智とをあわせもっている者は、攻めるときよりも退くときに、なにかをなすときより、なにもなさないときに、その良質をあらわす
    「楽毅」第二巻より