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どんなに古い体質の学校でも,変わることができる

 もちろん,その学校にいる教師たちの力で。

今日は,その瞬間に立ち会うことができました。

 何度目の体験だったか,過去を思い出そうとすると,

 自分が勤務していた中学校もそうですが,指導主事時代の,

 ある小学校のことが浮かんできました。

 教育ブログの中にもあるように,中身がゼロだけど,

 教育をしている雰囲気だけはだせる「自慢系」「自己満足系」の

 話に飽きた小学校の先生方が,

 私の話に耳を傾けてくれた時期がありました。

 これも「自慢系」か・・・。

 小学校の先生も,「こういう話」に興味を持ってくれるんだ,

 という発見ができた瞬間でもありました。

 中学校にも,小学校にも,独自の「古い体質」があります。

 それは,「中学校の教師に,小学校の研究の何が分かるんだ」という自負と,

 「小学校の教師に,中学校に上がってくる子どものダメさ加減がどうして分からないのか」

 という不満が代表的なものです。

 小学校と中学校が本当に「一体」のものになるのであれば,

 そういう「小中一貫」であれば,

 そんなことは言ってられないことがわかるでしょうが,なかなか難しい。

 具体的なことが書けないから,あまり意味のない記事になってしまいました。

 言いたいことは,タイトルの一言に尽きるのです。


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宮城谷昌光の言葉

  • 雲のうえに頂をもつ高山を登ろうとするのに、その山相のすさまじさに圧倒され、おじけづいていては何もはじまらない。最初の一歩を踏み出さねば、山頂は近づいてこない。
    「楽毅」第四巻より
  • みごとなものだ。斂(おさ)めるところは斂め、棄てるところは棄てている。楽氏が棄てたところに、われわれの生きる道がある。
    「楽毅」第四巻より
  • 去ってゆく千里の馬を追っても、とても追いつかぬぞ。千里の馬の尾をつかむには、その脚が停まったときしかない
    「楽毅」第四巻より
  • ・・・つくづく人のふしぎさを感じた。道を歩く者は、足もとの石をたしかめようとしないということである。千里のかなたを照らす宝石がころがっていても、気がつかない。それほどの名宝は深山幽谷に踏みこまなければ得られないとおもいこんでいる。
    「楽毅」第三巻より
  • この城をもっとたやすく落とすべきであった。たやすく得たものは、たやすく手放せる。
    「楽毅」第二巻より
  • なにかを信じつづけることはむずかしい。それより、信じつづけたことをやめるほうが、さらにむずかしい。
    「楽毅」第二巻より
  • からだで、皮膚で、感じるところに自身をおくことをせず、頭で判断したことに自身を縛りつけておくのは、賢明ではなく、むしろ怠慢なのではないか
    「楽毅」第二巻より
  • こうする、ああする、といちいち目的と行動とを配下におしえつづけてゆけば、配下はただ命令を待つだけで、思考をしなくなる。この四人はいつなんどき多数の兵を指揮することになるかもしれず、そのときにそなえて自立した思考力をもつ必要がある。
    「楽毅」第二巻より
  • 人は自分の存在を最小にすることによって最大を得ることができる
    「楽毅」第三巻より
  • 勇と智とをあわせもっている者は、攻めるときよりも退くときに、なにかをなすときより、なにもなさないときに、その良質をあらわす
    「楽毅」第二巻より