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「聞く力」よりも大切なこと

 授業で話すとき,教師は生徒が「聞く」姿を見ているわけである。

 「聞く」ことで「考える」ことにつながる。

 「考える」と疑問が生まれたり,思いついたことを「発表する」動機が生まれる。

 そういう「変化」というか「反応」の多くは,見ていれば伝わってくるし,

 声に出せば,聞こえてくる。

 先日,先生方を相手に「話す」機会があったが,

 どうにも「聞き方」が気になる先生がいて,対応に困ってしまった。

 授業であれば,そこは「集中砲火」の対象になるところである。

 「どこがひっかかる?」

 「何か疑問点がある?」

 「この点についてはどう?」

 「他に意見はありそう?」

 などなど。

 もし教師が「一人も落ちこぼしを出さない」と意気込んでいるのなら,

 それを生徒たちに丸投げなどせずに,自分で対応すべきなのが教師だ。

  しかし,相手が教師の場合は,どうしたらいいのか?

 日本は,基本は「黙っている方がよい」ということを社会に出ると教えられる国である。

 ペラペラ話すのが好きな人より,寡黙な人の方が信頼されるなんていう話もある。

 みんなが信頼していて「いい先生」かなと思いきや,

 いざというとき,本当に「何も話せない」のでびっくりされる,なんて人もいる。

 「人は見た目が9割」で,

 「話す内容は二の次」ということか。

 大人と言うのは,話をしている相手に,自分が

 「理解できているか」

 「理解できていないか」

 を見抜かれる,

 ということを知っている。

 そのせいかどうか,分からないが,

 「分かっているか」「分かっていないか」が相手に

 伝わらないように努力しているのではないか?

 と思われる教師が,ときどきいるのだ。

 今回の先生は,「本当に分からない」ことを告白してくれたので,

 ようやく問題の所在に気づけたのだが,

 これは普通の研修会などでは,直接耳にする機会はまずないだろう。

 教師の中にも,あるいは教育実習生の中にも,

 子どもと同じように,すぐ相槌を打ってくれたり,すぐに「分かりました」と答える人がいる。

 「分かったかどうかが分かる」質問をすると,答えられないので,

 「分かっていなかった」ことがすぐに分かる。

 こういう人も困る。

 「聞く力」も大切だが,

 「理解度を相手に理解させる力」も案外,大切なのではないか。

 教師は,40人の,いや,たとえ20人でも,全員の子どもの

 「理解度」を常に把握しながら「話す」のは難しい。
 
 子ども側の,「聞く力」とともに,「理解度を理解させる力」の開発ができないものだろうか。

 これは,「分からない」「理解できない」ことを

 「それが当たり前だ」

 とみんなで言える「環境」が必要である。

 いい加減に,

 「分かったつもり」

 「分かったふり」

 「理解度を見抜かれないようにオーラを消す」

 ことは,やめにしましょう。


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宮城谷昌光の言葉

  • 雲のうえに頂をもつ高山を登ろうとするのに、その山相のすさまじさに圧倒され、おじけづいていては何もはじまらない。最初の一歩を踏み出さねば、山頂は近づいてこない。
    「楽毅」第四巻より
  • みごとなものだ。斂(おさ)めるところは斂め、棄てるところは棄てている。楽氏が棄てたところに、われわれの生きる道がある。
    「楽毅」第四巻より
  • 去ってゆく千里の馬を追っても、とても追いつかぬぞ。千里の馬の尾をつかむには、その脚が停まったときしかない
    「楽毅」第四巻より
  • ・・・つくづく人のふしぎさを感じた。道を歩く者は、足もとの石をたしかめようとしないということである。千里のかなたを照らす宝石がころがっていても、気がつかない。それほどの名宝は深山幽谷に踏みこまなければ得られないとおもいこんでいる。
    「楽毅」第三巻より
  • この城をもっとたやすく落とすべきであった。たやすく得たものは、たやすく手放せる。
    「楽毅」第二巻より
  • なにかを信じつづけることはむずかしい。それより、信じつづけたことをやめるほうが、さらにむずかしい。
    「楽毅」第二巻より
  • からだで、皮膚で、感じるところに自身をおくことをせず、頭で判断したことに自身を縛りつけておくのは、賢明ではなく、むしろ怠慢なのではないか
    「楽毅」第二巻より
  • こうする、ああする、といちいち目的と行動とを配下におしえつづけてゆけば、配下はただ命令を待つだけで、思考をしなくなる。この四人はいつなんどき多数の兵を指揮することになるかもしれず、そのときにそなえて自立した思考力をもつ必要がある。
    「楽毅」第二巻より
  • 人は自分の存在を最小にすることによって最大を得ることができる
    「楽毅」第三巻より
  • 勇と智とをあわせもっている者は、攻めるときよりも退くときに、なにかをなすときより、なにもなさないときに、その良質をあらわす
    「楽毅」第二巻より