ウェブページ

最近のトラックバック

本の検索・注文


  • サーチする:
    Amazon.co.jp のロゴ

« さすがに「手を汚している」人の書くことは違う | トップページ | 塾講師をしていたころの思い出 »

「自分にもどる」方法

 「迷惑な養護教諭」という表現は一般の方には分かりにくいものかもしれないが,

 現場の教師である程度の経験をもつ人ならピンとくる,中学校独特の生徒指導上の課題である。

 男性の養護教諭に出会ったことがあれば,「偏見」ももたずにいられるはずだが,

 どうも「なぜ養護教諭になりたいと思うのか」が理解できないため,

 見方が一方的で厳しいものになる。

 宿泊行事に,若くてやさしそうな看護婦さんが帯同すると,

 「保健室」が「大繁盛」となる。

 これが,厳しい指導で知られる養護教諭だと,だれも

 「保健室」に寄りつかない。

 どちらが行事主任としてうれしいか,お分かりになるだろうか。

 本当に具合が悪い子どもというのは,

 さすがにどんなに鈍い教員でも,見れば分かるものである。

 
 ・・・・話がそれたが,「迷惑な養護教諭」というのは,

 たとえば,生徒に同調するあまり,

 生徒にとっての「想像上の自分」を「本当の自分」に変身させてしまうような教師のことである。

 生徒は,「本来の自分」と「本当の自分」を同居せざるを得なくなり,

 日々,神経をすり減らして消耗していく。

 こういう生徒を「本来の自分」に戻す方法はさまざまであるが,

 一番いい,というか,良心を傷つけないですむ方法は「真実を知らせる」ことである。

 「迷惑な養護教諭」は,本当に生徒の身になってくれたわけではない,

 「生徒の身になること」が目的であり,実際,そうしたに過ぎないことを知らせるのが一番である。

 「生徒の身になって考えること」は,生徒を支えていくための「方法」の一つに過ぎない。

 だから,「生徒と反対の立場で考えること」も教師には必要なのである。

 こういう生徒の多くは,「傷つきたくない」という気持ちが強すぎて,

 いつも「真実」から目をそらそうとしている。

 そういう姿勢にのっかってしまっては,

 生徒は暗闇のなかに落ちていくだけである。

 生徒ごと,暗闇に沈んだ「迷惑な養護教諭」はいないか。

 「養護教諭」の専門性とは何か。

 私たち「教諭」の専門性とは何か。

 臨床心理士の専門性とは何か。

 そういう問いも大事かもしれないが,

 教育にかかわる仕事なら,

 子どもに何を教え,どう育てようとしているか,

 それを語れない人間は教育現場にいるべきではない。

 今まで,「自分にもどる」苦しみを味わった子どもを何人か見てきたが,

 「見ること」「知ること」をおそれない子どもにしない限り,晴れやかな明日はやってこない。

 
 本当に「自分にもどる」べきなのは,「迷惑な養護教諭」である。

 生徒に遊ばれる存在になってからでは遅い。


ブログランキング・にほんブログ村へにほんブログ村 教育ブログへにほんブログ村 教育ブログ 教師教育・教員養成へにほんブログ村 教育ブログ 教育論・教育問題へ

« さすがに「手を汚している」人の書くことは違う | トップページ | 塾講師をしていたころの思い出 »

教育」カテゴリの記事

教育改革」カテゴリの記事

リーダーシップ」カテゴリの記事

いじめ問題」カテゴリの記事

教職教育」カテゴリの記事

仕事術」カテゴリの記事

教師の逆コンピテンシー」カテゴリの記事

教育実習」カテゴリの記事

コメント

この記事へのコメントは終了しました。

トラックバック


この記事へのトラックバック一覧です: 「自分にもどる」方法:

« さすがに「手を汚している」人の書くことは違う | トップページ | 塾講師をしていたころの思い出 »

2021年11月
  1 2 3 4 5 6
7 8 9 10 11 12 13
14 15 16 17 18 19 20
21 22 23 24 25 26 27
28 29 30        
無料ブログはココログ

宮城谷昌光の言葉

  • 雲のうえに頂をもつ高山を登ろうとするのに、その山相のすさまじさに圧倒され、おじけづいていては何もはじまらない。最初の一歩を踏み出さねば、山頂は近づいてこない。
    「楽毅」第四巻より
  • みごとなものだ。斂(おさ)めるところは斂め、棄てるところは棄てている。楽氏が棄てたところに、われわれの生きる道がある。
    「楽毅」第四巻より
  • 去ってゆく千里の馬を追っても、とても追いつかぬぞ。千里の馬の尾をつかむには、その脚が停まったときしかない
    「楽毅」第四巻より
  • ・・・つくづく人のふしぎさを感じた。道を歩く者は、足もとの石をたしかめようとしないということである。千里のかなたを照らす宝石がころがっていても、気がつかない。それほどの名宝は深山幽谷に踏みこまなければ得られないとおもいこんでいる。
    「楽毅」第三巻より
  • この城をもっとたやすく落とすべきであった。たやすく得たものは、たやすく手放せる。
    「楽毅」第二巻より
  • なにかを信じつづけることはむずかしい。それより、信じつづけたことをやめるほうが、さらにむずかしい。
    「楽毅」第二巻より
  • からだで、皮膚で、感じるところに自身をおくことをせず、頭で判断したことに自身を縛りつけておくのは、賢明ではなく、むしろ怠慢なのではないか
    「楽毅」第二巻より
  • こうする、ああする、といちいち目的と行動とを配下におしえつづけてゆけば、配下はただ命令を待つだけで、思考をしなくなる。この四人はいつなんどき多数の兵を指揮することになるかもしれず、そのときにそなえて自立した思考力をもつ必要がある。
    「楽毅」第二巻より
  • 人は自分の存在を最小にすることによって最大を得ることができる
    「楽毅」第三巻より
  • 勇と智とをあわせもっている者は、攻めるときよりも退くときに、なにかをなすときより、なにもなさないときに、その良質をあらわす
    「楽毅」第二巻より