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教師であることを恥ずかしくて明かせない時代に?

 自分に自信が持てない若い教師が増えているそうだ。

 若い退職者が多いことからも,想像できることではあった。

 「私は小学校の先生をしています」ということが,

 「恥ずかしくて言えない」という人もいるらしい。

 「あなたみたいな人が?」という反応を受けるのがこわいからだそうだ。

 少し前に,夜のアルバイトをしていた教師が報道された。
 
 こういう人はもちろん身分を明かせないが,

 公的な場で,職業を公開したとき,それに恥じないような人間であると

 思われたい,そういう欲求は,とてもまともなものだと思われる。

 ただでさえ,教師や公務員に対して向けられる視線は冷たいものだ。

 自分に自信がない人は,そういう気持ちを態度に出してもいい。

 ただし,それは子どものいない場で,お願いしたい。

 子どもの前では,堂々とした教師でいてほしい。

 謙虚な姿と,それなりの自信に満ちた姿を使い分けることができる必要が

 教師にはある。

 自信のなさそうな大人の近くで育った子どもというのは,

 大人に対する信頼感を持ちにくくなるのはもちろん,

 自分という存在のとらえ方についても,その大人の出す雰囲気が「うつる」。

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宮城谷昌光の言葉

  • 雲のうえに頂をもつ高山を登ろうとするのに、その山相のすさまじさに圧倒され、おじけづいていては何もはじまらない。最初の一歩を踏み出さねば、山頂は近づいてこない。
    「楽毅」第四巻より
  • みごとなものだ。斂(おさ)めるところは斂め、棄てるところは棄てている。楽氏が棄てたところに、われわれの生きる道がある。
    「楽毅」第四巻より
  • 去ってゆく千里の馬を追っても、とても追いつかぬぞ。千里の馬の尾をつかむには、その脚が停まったときしかない
    「楽毅」第四巻より
  • ・・・つくづく人のふしぎさを感じた。道を歩く者は、足もとの石をたしかめようとしないということである。千里のかなたを照らす宝石がころがっていても、気がつかない。それほどの名宝は深山幽谷に踏みこまなければ得られないとおもいこんでいる。
    「楽毅」第三巻より
  • この城をもっとたやすく落とすべきであった。たやすく得たものは、たやすく手放せる。
    「楽毅」第二巻より
  • なにかを信じつづけることはむずかしい。それより、信じつづけたことをやめるほうが、さらにむずかしい。
    「楽毅」第二巻より
  • からだで、皮膚で、感じるところに自身をおくことをせず、頭で判断したことに自身を縛りつけておくのは、賢明ではなく、むしろ怠慢なのではないか
    「楽毅」第二巻より
  • こうする、ああする、といちいち目的と行動とを配下におしえつづけてゆけば、配下はただ命令を待つだけで、思考をしなくなる。この四人はいつなんどき多数の兵を指揮することになるかもしれず、そのときにそなえて自立した思考力をもつ必要がある。
    「楽毅」第二巻より
  • 人は自分の存在を最小にすることによって最大を得ることができる
    「楽毅」第三巻より
  • 勇と智とをあわせもっている者は、攻めるときよりも退くときに、なにかをなすときより、なにもなさないときに、その良質をあらわす
    「楽毅」第二巻より