ウェブページ

最近のトラックバック

本の検索・注文


  • サーチする:
    Amazon.co.jp のロゴ

« 2013年5月 | トップページ | 2013年7月 »

2013年6月

心底ガッカリした後,検討すべきこと ~授業における子どもの「発言」の意義~

 励ますことになるのか,けなすことになるのか分からないが,

 小中連携で研究すべきことについて,私見を述べることとする。

 授業では,子どもに「発言」を促す場面がある。

 多くの場面では,「だれでも答えられそうなこと」を「だれか」に答えさせて,子どもたち全体や教師が「安心」したり「満足」したりするという「結果」で終わる。

 もちろん,「すぐには答えられそうにないこと」を早い者勝ちで「だれか」に答えさせたり,

 「難しい問題」を「できた子ども」に答えさせたりすることもある。

 子どもたちは,長い長い小学校生活を通じて,

 その「意味のなさ」に次第に気づいていく。

 「気づき」が遅い子どもが多い小学校では,6年生になっても

 「子ども」らしく「ハイ」「ハイ」と手を挙げて,

 自分の発言の権利を教師に認めてもらおうと努力する。

 しかし,中学校になると,

 「だれでも答えられそうなこと」を「わざわざ自分が答えるまでもない」と考えるようになる。

 「自分よりも上手にまとめて発表できる生徒がいるだろう」とか,

 「自分が発表しても,もっと賢い生徒に付け足しをされたり,修正をされたりするのは恥ずかしい」

 などと思うようになる。

 授業中の「発言」が許可されるのは,同じ時間では40人中のたった1人に限られる。

 自分が考えていることと同じことを,わざわざ他の生徒の口から聞いて終わるのは,時間の無駄である。


 小学校でときどき見られるのは,挙手をして「発言」を許可された子どもが,

 自分の前に答えた子どもとほとんど同じことを繰り返すことがある。

 自己満足の人間がかたまって楽しむカラオケと同じで,他の人間が歌っているのを聴いていないからだ。

 これも時間の無駄である。


 授業を「テレビ番組」にしたい教師は,

 子どもの「発言」のやり取り全体がストーリーになるように,

 わざわざ「発言」の順番を考えてあてたり,「発言」の趣旨を捻じ曲げて,

 「行き着きたい場所」に「行き着く」ようにコントロールする。

 そういう授業が「すばらしい流れだった」などと評価される。

 しかし,それは「最後のまとめの発言をした子ども」だけが評価すべきレベルに達しているだけで,

 他の子どもは「分かったつもり」になっているかもしれないが,

 本当に「分かっているか」「分かっていないか」は分からないまま授業が終わることが多い。

 もし,「分かっていない」子どもが多ければ,時間の無駄だったわけである。

 中学校段階では,

 「発表」といえば,
 
 授業でたまたま思いついたこと,分かったことを「述べる」ことよりも,

 事前にきちんと準備をして,思いつきではなく,筋道立てられた内容を分かりやすく表現するための時間として確保し,実施することが望ましい。

 「プレゼンテーション能力」が診断できる場が,「発表」の場である。


 授業中,散発で数人に発言させるような方法よりも,発言したい内容を整理して,

 小さいカードに書かせ,書けた生徒から回収し,教師がいくつかを紹介した方が,

 よほど効率がよいし,全生徒の学習状況が把握でき,

 「発言させる方法」では表に出なかったはずの「埋もれた貴重な考え」を発見し,

 生徒たちに知らせることもできる。

 それは小学校でもとるべき方法である。

 話し合い活動をする場合には,小学校でも,書記役を決めて,発言内容は記録をとっておくべきである。

 その内容を再度,発言者が確認し,自分の意図通りに記録がとられているか,

 前後の脈絡に沿った発言をそのときにきちんとすることができていたのか,

 そういう点をふり返らせる意味でも,「記録」は重要である。

 私が授業中に最も重視している「発言」は,

 「授業のなかで感じた疑問のうち,すぐに全生徒で検討すべき内容を授業者である私に伝える」

 というものである。

 私の授業の場合には,こういう「発言」には挙手の必要はなく,

 切迫感というか緊張感というか,真面目な雰囲気で語り始めれば,

 私はもちろん,生徒たちも自然と耳を傾けることができるようにしている。

 単に「発言の機会がある,ない」などを気にするのではなくて,

 「何を発言させようとしているのか」

 という点について,小学校と中学校の質的向上を図るような工夫を検討し合うのが,

 小中連携の研究授業を行う意義である。


ブログランキング・にほんブログ村へにほんブログ村 教育ブログへにほんブログ村 教育ブログ 教師教育・教員養成へにほんブログ村 教育ブログ 教育論・教育問題へ

「体」と「頭」しかなくて,「心」のない人たち

 世界を分かったつもりになりたい人たちは,

 X と Y とか,A と B と C に分けて納得してしまう。

 世界を正しく知りたい人たちは,

 X と Y の境界線とか,A と B と C のすべての要素をもっている部分に目を向けたりする。

 世界をより深く知りたい人たちは,

 「それ以外の要素」を探そうとする。

 知徳体というが,これらは「別々のもの」ではない。

 お互いに,様々な影響を及ぼし合っている。

 知を何かの教科で,徳を道徳で,体を体育で,などという発想では,

 教育は成り立たない。

 ただ,そういう「納得しやすい世界」が,どんどん社会を浸食している。

 うちの担任は,運動が苦手だから,子どもたちが体育が苦手になる。

 分かったような感じがする「論理」(でも何でもないが)である。

 知を徳や体の見地から考える。

 徳を知や体の見地から考える。

 体を知や徳の見地から考える。

 こういう「思考」の訓練が落ち着いた環境でできるのは,学校だけである。


 
 先日,戦時中の女学生が特攻兵に綴った手紙,その返信の手紙を,

 本人が改めて「感動」しながら紹介する映像を授業で使った。

 何にどのように「感動」することが,どのような「問題」を引き起こすか,

 「考える」ことができなかったことが,「おろかなことだった」と語る人もいた。

ブログランキング・にほんブログ村へにほんブログ村 教育ブログへにほんブログ村 教育ブログ 教師教育・教員養成へにほんブログ村 教育ブログ 教育論・教育問題へ

なぜ「記憶より思考」という言い方がなされるのか?

 教育実践と無縁の人が書いている記事の内容が分かりにくいので,

 少し解説を試みたいと思います。

 本人にあてはまっていることを詳しく書いているだけだと分かっている人は,

 全く読む必要のない記事です。

 

 なぜ「記憶より思考」という言い方がなされるのか?

 「記憶より思考」とは,「記憶はするな」「思考だけしろ」という意味ではありません。

 「記憶より思考が大切」という言い方が,

 どのような場面でなされるとぴったりくるか?

 教員採用試験の面接で使ってもいいかもしれませんね。

 そこに,「記憶の再現」だけで終わっている授業はありませんか?

 「記憶の再生」だけで終わっているテストはありませんか?

 「感動的だった」程度の感想しか言えない人はいませんか?


 人間には,機械にはできないタイプの「思考」が可能であることは,だれでもよくご存じのことでしょう。

 「類推」ができない人が書く文章というのは,少し読むだけですぐ分かります。

 
 これは教員採用試験そのものの問題が明らかになるケースですが,

 「記憶力」はいいのに,「コミュニケーション能力」が非常に乏しい人間が

 採用試験に合格してしまう場合があります。

 
 「相手があのとき,何を言ったか」はとてもよく覚えているのですが,

 「相手はあのとき,なぜそれを言ったのか」を考えるというか,感じ取ることが全くできない人がいるのです。


 こういう人が教師になると,すぐに子どもと,そして保護者との間でトラブルを生じます。

 記憶力はあっても,感受性に欠ける。思考力に欠ける。

 そんな人は,教師には向いていません。


 久しぶりに登場した「教育論」らしい内容でしたが,相変わらず人権意識を欠いた,

 「現場を去ってくれて大正解」と思われてしまうようなものでした。

ブログランキング・にほんブログ村へにほんブログ村 教育ブログへにほんブログ村 教育ブログ 教師教育・教員養成へにほんブログ村 教育ブログ 教育論・教育問題へ 

「いじめ防止」が「負担」になる教師たち

 いじめの防止のための「仕事」は「負担」である・・・・。

 こういう回答が平気でできてしまうのが,

 今の教育現場というところである。

 万引き防止のための,監視カメラの設置は,店にとって経済的な負担になる・・・。

 というときの「負担」とは,意味が異なる。

 おそらく,「そんな仕事をしても,いじめはなくならない」とか,

 「逆効果になるおそれがある」という肌感覚があるのだと思われる。

 教師がどのような「教育観」「仕事観」「子ども観」をもっていようが,

 「だめなものはだめ」

 「やめさせるべきものはやめさせる」

 「苦しんでいる子どもは助ける」

 「苦しんでいる子どもは,教師の前では明るく振る舞う」

 などの「基礎・基本」の認識はみんなで持っていたい。

 自分の仕事の「負担の軽減」・・・・・これしか考えていない人たちがいる。

 子どもの「苦しみの軽減」に興味がない人を,

 現場に立たせないようにする「免許更新制度」がほしい。


ブログランキング・にほんブログ村へにほんブログ村 教育ブログへにほんブログ村 教育ブログ 教師教育・教員養成へにほんブログ村 教育ブログ 教育論・教育問題へ

民間人校長のスピード退職から「学べる」こと

 すぐ辞めるなんて,おかしい。

 民間人はこんなもんだ,なんていう発言はおかしい。

 そんな人間を採用するのはおかしい。

 「おかしい」ことはもちろんたくさんある。

 しかし,最も大切なのは,

 「学校のおかしさ」を「おかしい」と認識することである。

 英語教育の充実どころではない。

 これは,学校の教育の問題を端的に示している。

 どこがどのように問題なのかを,分析していかなければならない。

 私は,小学校における英語遊びには大反対である。

 20分休みとか,放課後に教師が子どもと遊んだり,

 地域の人が参加して楽しむのはけっこうだが,

 教育課程の中に盛り込むことは,百害あって・・・・一利くらいはあるだろうが・・・。

 この国の最大の教育問題は,

 「学校で何ができるのか」

 「学校で何ができていないのか」

 を考え続けることである。

 「自分にできる仕事はない」

 として,すぐに現場を去る態度は,

 現場の教師としてはしっかりと見習うべきものである。

ブログランキング・にほんブログ村へにほんブログ村 教育ブログへにほんブログ村 教育ブログ 教師教育・教員養成へにほんブログ村 教育ブログ 教育論・教育問題へ

教育論にも教育問題にも関係のない記事

 どうしてこのカテゴリーに,こんな記事があるのだろう,と感じる人は多いでしょう。

 また,そう感じる記事が実際に多い。

 「自己申告」の世界というのは,こういうものなのだということが,

 ブログ村に住んでいるとよく分かります。

 書く方を間違えてしまったのではないか?という記事も・・・・。

 別に,「教育論・教育問題」に関係のない記事を削除する機能をブログ村に

 要求する気はありません。

 教育の世界というのは,

 いろいろな分野からヒントをもらって,

 日々の実践に生かすことが必要な場所です。

 相手はまだ「人格の形成途上の子ども」なので,

 直接的に内容を教え込むよりも,

 間接的にでも刺激を与えた方が,より効果的なところなのです。

 ・・・・ですが,正直に申し上げて,

 私はほとんどの方の記事を読みません。

 「できのよい人」

 「自分の道を確実に歩んでいる人」

 には,何の興味も感じないのです。

 それが,中学校教師というものです。

 私は,どういう人の,どんな記事に関心があるか。

 もう申し上げるまでもないでしょう。

 中学校教師が,そういう態度でいれば,

 いじめを防ぐ確率が少しだけかもしれませんが上昇します。

 それにしても,問題が発生する場所には,

 特別な磁場が生まれているのか,

 自然とひきつけられて近くにいる,というのは,

 昔から不思議なことだと思っています。

 自分が近寄ると問題が発生するのではないか?

 と不安になったりもします。

 「におい」に敏感な教師になるためには,どうしたらいいか,

 と質問されたこともありますが,

 「目を見て話そう」としか言えません。

 そういうことができない教師,

 目を見ても何も悟れない教師が増えていることが

 「教育現場の危機」であるというのが,

 私にとって最大の「教育問題」です。


 ネット上では,「目は見えない」と思われるかもしれませんが,

 ブログ村には,「目が怪しい人」がいます。

 「それでなぜ恥ずかしくないのか」が不思議でなりません。


ブログランキング・にほんブログ村へにほんブログ村 教育ブログへにほんブログ村 教育ブログ 教師教育・教員養成へにほんブログ村 教育ブログ 教育論・教育問題へ

「教育虐待」→「指導虐待」と呼ばれて教師が叩かれる時代は来るか?

 日経の「暮らしの知恵」に,教育ジャーナリストの記事が掲載されている。

 「教育虐待」とは,

 教育熱心な親が子どもに学習を強いることなどを指しているようだが,

 果たしてこれは「虐待」なのか?

 検索をかけてみると,昨年の8月に毎日新聞が取り上げている問題があった。

 鬼気迫る「母親像」が紹介されている。

 家にいられなくなってしまう子ども。

 その子どもたちを「かくまう」シェルター。

 家庭における教育の問題は,根が深い。

 学校の教師は,家庭からのクレームに散々悩まされているとは言っても,

 大人になるまで責任を持たされることはない。


 「大変」だなと思う子どもの親と話をすると,親の方がはるかに「大変」なことも多い。

 
 子どもはひどいプレッシャーを家庭でかけられても,学校では明るく普通にふるまったりもする。

 もちろん,全く違う方向で「発散」してしまう子どももいる。

 「虐待」されている子どもの多くは,学校ではとても楽しそうに,明るく生活していることが多い。

 教師の立場からは,なかなか見抜きにくい。

 保護者を呼んで話をしても,「証拠」をつかむことや,「認めさせることができる」のはまれである。


 私にもかつて,「救済」することができなかった中学生がいた。

 「いじめ」もそうだが,「虐待」も,

 被害を受けている子どもが「そう感じる」「受けていることを認める」ことができないという課題がある。

 実際に,「そうは感じていない」という場合もある。

 
 「元は自分が悪いのだ」というように自分を責める傾向が強い子どもの場合は,

 特に注意を要する。

 
 私は,独自の心理テストを気になるクラスでは実施しているが,

 その目的は,「注意すべき子ども」を発見し,その子どもへの「口撃」に対するアンテナの感度を高めておくためである。

 
 学習の成績を背景とした「教育虐待」の場合には,成績が向上すれば,それまでの状況とは一転し,

 「地獄」から「天国」への大変化を感じ取ることもできる。

 
 「若いときの苦労は買ってでもしろ」なんていう「格言」?もある。

 
 書いていることの収拾がつかなくなってしまった。

 
 そのうち,「厳しい先生」の「厳しい指導」(体罰を用いるわけではない)が,

 「虐待指導」と呼ばれる時代が来るのだろうか。


 造語をするのも,ほどほどにしておいた方がよさそうである。


ブログランキング・にほんブログ村へにほんブログ村 教育ブログへにほんブログ村 教育ブログ 教師教育・教員養成へにほんブログ村 教育ブログ 教育論・教育問題へ

「悪役」として利用される「自分」と利用する「自分」

 いくつもの「自分」をネット上で展開させている人が,

 「自分」を「悪人」として利用し始めるケースがある。

 ある有名な「コメンテーター」は,とうとう「本物」と「同化」し始めている。

 これは,いくつもの「自分」のうち,中学校では

 「悪役」を「通常モード」に設定する生徒と同じである。

 中学校教師としては,なかなか「応用モード」に接する機会がないので,

 とりあえず「通常モード」が「本物」かどうかを見極めなければならない。

 「本物」なら話は簡単なのだが,難しくなってくるのは

 それが「本物」ではないことが分かったときである。

 中学校の場合,子どもに「モード変更」を強いるのは逆効果になることが多い。

 「本物」ではなかったはずの「悪役」としての「自分」が,

 「本物」になってしまうケースもあるのだ。

 では,「本物」ではないことが分かったとき,どうするか。

 いろいろな「自分」を演じさせる機会を増やすことである。

 中学校には,これしか解決方法はない,と言ってもいい。

 言葉かけ,教師の働きかけだけで,中学生が変わることはまずない。

 何となく生活指導が「うまくいった」などと思った時が,
 
 最も危険な時である。

 「うまくいかない」ことを自覚しながら,

 子どもの変化を見逃さない。

 そして,たった一瞬でも,「自分」を「悪役」として利用しようとした

 「自分」への嫌悪感をその生徒が表したら,利用されようとした

 「自分」の側に教師もついて,闘うのである・・・・というか,

 闘わせるよう,仕向けるのである。

 そうして中学生は,一歩,一歩,成長していく。

 進化の過程を振り返るように,長い目で「心」の「形状」の変化を

 見極めることが,中学校教師に求められている。


ブログランキング・にほんブログ村へにほんブログ村 教育ブログへにほんブログ村 教育ブログ 教師教育・教員養成へにほんブログ村 教育ブログ 教育論・教育問題へ

オタク文化と「僕すごいでしょう」が共存できる特殊事情

 「江戸人」も予言していた現在の日本の「オタク文化」。

 「オタク文化」は,「奥ゆかしさ」という日本の文化の伝統を受け継ぐものである。

 「そこまでやるか」

 という「こだわりの強さ」こそが,日本の「しぶとさ」の原動力である,

 と考えている人も多い。


 ただ,勘違いしている人もなかにはいる。

 本人は「勘違いしている」自覚はないからこそ,

 「本物のオタク」に見えるところがすばらしい。

 
 これは,教育の成果,というか害悪の一端であろう。

 両極端な環境で育った子どもが,

 全く同じような「状態」を見せることがある。

 親が,ただひたすら,褒めて,伸ばす,これだけに専念することで,

 こんなふうに育ってしまったんだな,という子どもがいる。

 「僕すごいでしょう」という言葉を顔に書いて歩いている子どもである。

 たいていは中学校で挫折し,親が柔軟でないと屈折していくか,

 「ポキリ」と折れてしまう子どもたちである。


 一方,全く逆の境遇なのに,同じような姿を見せる子ども・・・・そしてそれが

 そのまま大人になってしまった子どもがいるのは不思議なことである。

 
 人に認められたい,すごい,と思われたい,その一心で,

 デビューしていく。

 
 ネット上の場合は,また,「折れる」につながることもある。

 
 「恥」の文化に縁のない環境で育った子どもは,本当に気の毒である。

 ただ,徹底的に「恥」の感覚がない人というのは,ある意味,無敵である。

 
 大人であれば「変人扱い」されるだけで,「いじめ」を受けることは減るだろうから,

 「気づける」チャンスが少ない。

 
 「気づく」チャンスはいくらでもあったのに,その一切をスルーできてしまう人は,

 本当に無敵である。


 こういう人でないとやっていけない学校や,

 その人自身の境遇もあるんだなと思うこともあるので,

 一概に「否定」はできない。

 
ブログランキング・にほんブログ村へにほんブログ村 教育ブログへにほんブログ村 教育ブログ 教師教育・教員養成へにほんブログ村 教育ブログ 教育論・教育問題へ

発信オンリーか受信オンリーの子どもを育てる恐れのある発信オンリーの教師

 「言語活動の充実」という観点から実際の教育実践のあり方をイメージするとき,

 どうしても「発表する」「表現する」という「見える活動」に重点を置きやすくなります。

 その前の,「考える」とか,さらにその前の「よく読む」「よく聞く」「よく見る」といった「学習活動」が

 あって,初めて成立するのが「発表する」活動や「表現する」活動です。

 多くの学校の実践や,

 今日も研究会で発表していた人の態度を見るにつけ,

 最も欠けているのは

 「人の話を聞くこと」だろうと実感しています。

 そのタイミングが一切ない「発信者」がいます。

 「受信する側」も大切なのは,

 「ただ耳に入れる」のではなく,「聞くこと」です。

 喧嘩している親子の会話の,「聞いているの?」「聞いてるよ」

 の「聞いてるよ」の意味ではありません。

 国語という教科の学習では,特に留意されていることと思いますが,

 社会科にしろ,数学にしろ,「聞くこと」なしに「答えること」「考えること」は生まれません。

 ただ教科書や問題集の問題を解いていればいいというのなら話は別ですが。

 ここが,「塾」と「学校」でつけさせることができる「力」の違いです。

 一般的に言って,テキストがあれば,何をしたらいいかが分かっているのが塾。

 だから,「宿題」も出しやすいのは,塾。

 一方,「何をどう考えるか」を「考える」のが学校。

 「考える」ために,「聞く」ところが学校。

 それなのに,「聞くこと」がおろそかになってしまっている学校が多い。

 その最大の原因は,教師自身が「聞くこと」をおろそかにしているからです。

 人の反応に全くの無関心のまま,ただ自分の話したいこと,

 言いたいことを垂れ流しているだけの教師が近くにいませんか。

 「人の話を聞かない」と批判されている教師はいませんか。

 本当に「人の話を聞かない人」は,各学校にいますよね。

 教科の「専門性」の意味を取り違えている人たちが。

 教師たちは,生徒の何をどう「受信」しているのでしょう。

 「発信」を第一に考えるより,「受信」をまず優先させる。
 
 「受信」あってこその「発信」という姿勢は,

 教師がまず授業でこそ見せるべきものです。

 今日の2時間の研究会は本当に残念な時間になりました。


ブログランキング・にほんブログ村へにほんブログ村 教育ブログへにほんブログ村 教育ブログ 教師教育・教員養成へにほんブログ村 教育ブログ 教育論・教育問題へ

もし人から学ぶ姿勢が身についていたなら

 もう少し「まし」な題材の「教育論・教育問題」を語ることができただろうに。

 子どもに「おれの技を盗んでみろ」という教師はいない。

 ごくまれに,「その下手くそな説明では,話にならない」と感じている子どもが,

 やがて大学を出て,いい教師になったりする。そういう意味では「役に立つ教師」もいる。

 人は,「何を学ぼうとするか」でその価値が決まる,なんて書いたら大げさだろうが,

 機械いじりよりも大切なことがあるだろう,というのが

 たとえば今の「技術科」の学習である。

 ましてや・・・・こんな話はやめておこう。

 私は,400人から1000人を同時に動かす訓練を教師を始めてからの6年間で受けてきたから,

 「必要最小限の指示」を同じようなことをやろうとする人に教えることができる。

 私と同じように指示してくれれば,他の人も同じように数百人を動かすことができるか,

 というと,そう簡単にはいかない。

 それがなぜか,ということに気づける人と,気づけない人がいる。

 気づけない人には,何を「教えて」も「動かせるように」はならない。

 気づける人は,もう何も「教えること」はない。
 
 あとは自分で力をつけるしかない。

 簡単に手に入れられるものは,簡単に失うことができる。

 苦労の末に手に入れたものは,なかなか失いにくいものである。

 「盗めるもんなら,盗んで見ろ」なんて,いじわるな態度でいるわけでもない。

 世の中に,そんなに簡単にできる「仕事」などない。

 見た通りに,聞いた通りにやればできる,

 なんていう世界のものに,何のやりがいがあろうか。

 だれでもできる,なんて本が流通しているが,

 そんな本が役に立つようなら,教員養成系大学の教師など必要ない。


ブログランキング・にほんブログ村へにほんブログ村 教育ブログへにほんブログ村 教育ブログ 教師教育・教員養成へにほんブログ村 教育ブログ 教育論・教育問題へ

自分を自分で滅ぼすことに気づいたとき

 小林秀雄と岡潔の対談を『人間の建設』(新潮文庫)で読んでいると,

 自分たちの「小ささ」,

 人間の「愚かさ」を痛感させられます。

 今からおよそ100年前,人類はそれまでとは比較にならない

 「大量殺戮の戦争」を始めるようになりました。

 さらにしばらくたって「原子爆弾」が投下されます。

 「地球の終わり」を予感させるのには十分すぎるほど大きな「力」を

 人類は手にすることになりました。

 もちろん,自然災害の「力」もあなどることはできませんが,

 人類史上でかつてなかった「破壊力」を手にしている現代の私たちに,

 本当に必要な「力」とは何でしょうか。

 私は音楽にあまり興味を持ちませんが,

 ある地に赴任していたとき,

 鳥のさえずりで目が覚める毎日は,
 
 本当に「音」を「楽しんで」いました。

 風が木々を揺さぶる音も,

 波が岩をぶったたく音も,

 決して「耳障り」なものではありませんでした。

 「それは,そういうものだから」。


  
 どう考えても「不自然さ」に「不自然さ」を重ねるような

 「音」の「楽しみ方」というのは,

 教育には無縁な話に過ぎないと思われます。


 人間にとって最も難しい問いは,

 「自分とは何か」というものです。

 もしわかっていたら,

 「そんなことはしないはず」と傍目からもわかるようなことが

 たくさんあります。


 そこで,本当に持つべきものは,「友」であることがわかります。

 間違ったことを,「間違っている」と言ってくれるのが,本当の「友」です。

 
 弱い人間は,自分がつくり出した「バカども」とともに,自滅していく(自滅してきた)さまが目に見えるようです。


ブログランキング・にほんブログ村へにほんブログ村 教育ブログへにほんブログ村 教育ブログ 教師教育・教員養成へにほんブログ村 教育ブログ 教育論・教育問題へ

見え透いた嘘を重ねていく中学生・・・でなく,中年

 ネット上の世界というのは,多重人格者の「独り言」が最もさかんな場ですね。

 どんどん「殻に閉じこもっていく」姿が痛々しいのは,

 生活指導困難校でよく見た

 「ウソで自分を追い込んでいく中学生」と同じです。

 中学生時代には,ウソはすぐにばれてしまうので,

 「自分の思い通りにはいかない」リアルの世界なのですが,

 ネット上だと,何でもアリ。

 でも,たった一つの言葉の誤用を,わざわざつくった「別の自分」にフォローさせる

 ことで,簡単にばれてしまうのは情けない。

 文体も書かれている内容も,そのレベルも,そっくりそのまま。

 中学生に「ネットの問題」を語るときに,とてもわかりやすい「事例」が

 転がっているのが,この教育ブログです。

 とても貴重な「資料」です。

 「教育ブログの正しい読み方」という記事を書いておいた方がいいかもしれませんね。


ブログランキング・にほんブログ村へにほんブログ村 教育ブログへにほんブログ村 教育ブログ 教師教育・教員養成へにほんブログ村 教育ブログ 教育論・教育問題へ

「教員養成系大学」ならだれでも入れる時代へ?

にほんブログ村 教師教育・教員養成

 教員を志望する人が減ってきている?

 その理由は,子どもだけでなく,保護者対応が大変だから?

 退職金がいつカットされるか分からない公務員に魅力はない?

 ・・・・・・・

 私にはよく分かりません。

 教育界にとってあまりうれしくないのは,

 「教員養成系大学って,だれでも入れる大学のことでしょ」

 なんて言われる時代が到来することです。


 私は同僚の出身大学をほとんど知らないからかもしれないのですが,

 「教員養成系大学」を出て教師になっている人を,ほとんど知りません。

 自分も「教員養成系大学」の出身ではないので,

 どういう人がそういう大学に入っているかもよくわからないのです。

 しかし,そういう大学の志願者が減っているということは,

 おそらく,「教員志望の人が減っている」ということなのかもしれません。

 よほど「教員養成系大学」の教育に問題があるのでなければ。


 今しばらく,「ゆとり世代」の大学受験が続きます。

 教師になって,「ゆとり世代なので学力が低い」とか,「教養が足りない」

 とか,「知識がまるでない」などと批判されたくないから,教師にはなりたくないのか,

 どうかは分かりません。

 新聞記事で紹介されていた,「保護者対応が大変になっている」のも,

 確かなことだと思います。

 今は,

 「うちの不出来な子がご面倒をおかけしまして」

 なんて態度で学校に頭を下げてくれる親は減って,

 「うちの出来のよい子ができるようにならないのは,先生の教え方が悪いからだ」

 なんてくってかかる親が,核分裂のように増えているのが現状でしょう。

 「教え方が悪い」のは当たっているかもしれませんが,

 「うちの子だけができない」のは,別の原因があるのではないかと,

 少し想像力を働かせてもらいたいものですが,
 
 先生が40人を相手にしている(中学校なら200人とか400人を相手にしている)ことがどういうことか,想像してもらえないのがつらいところですね。

 私は毎日学級だよりを書いて自分たちを励ましてくれた先生とか,

 本気で自分たちを叱ってくれた先生とか,

 そういう先生に出会えて,いつの間にか,そういう先生になっていました。

 今は,そういう先生がもうほとんどいなくなっているのかもしれません。

 教員養成系大学の先生って,何をしていた人がつとめているのでしょう?

 それすら知らないのは,幸か,不幸か,それすら分かりません。


ブログランキング・にほんブログ村へにほんブログ村 教育ブログへにほんブログ村 教育ブログ 教師教育・教員養成へにほんブログ村 教育ブログ 教育論・教育問題へ

テストの解答用紙をスキャンしてPDFにしておく理由

 昔,私のブログでも,「解答の改ざん対策」としてふれたことがあったかもしれないが,

 今,私がこれを行う最大の理由は,

 「生徒が書いた答え」をもとに教材をつくるためである。

 私の実践(というより生徒の学習実践なのだが)はリンクを貼っていない別のブログで紹介しているが,ここで紹介しているのが,こういう「作品」である。

 評価の観点が,「思考・判断・表現」に変わったから,ではない。

 そもそも,以前の観点でも,「思考・判断」の力は

 「表現したもの」を見なければ評価ができなかったはずである。

 だから,今さら「記述式の問題を増やす」のもおかしな話だが,
 
 私の問題の場合は7割方が「記述式」なので,

 とにかく中学生らしい「自分なりの言葉」「自分なりの表現」が

 そこにあふれている。

 それをテストの返却によって,「読めないもの」にしてしまうのは惜しい。

 それに,「点数」としては「評価しきれないこと」もある。

 こういう理由から,

 「テストの解答用紙をスキャンしてPDFにしておく」ことは,

 すべての学校で取り組んでもよい「雑務」である。

 この「雑務」が,「本当の仕事」の成果を生むための資源になるのである。


ブログランキング・にほんブログ村へにほんブログ村 教育ブログへにほんブログ村 教育ブログ 教師教育・教員養成へにほんブログ村 教育ブログ 教育論・教育問題へ

ピンとこない世界文化遺産としての「富士山」 ~求めたい学習指導要領の「小改訂」~

 おめでたいニュースで,喜んでいる方々には失礼にあたるかもしれないが,

 世界文化遺産としての「富士山」に,今一つ「しっくりくる」ものがない。

 富嶽三十六景など,大好きな浮世絵の作品もたくさんあるが,

 まだまだ知識不足であるのも一因だろう。

 また,富士山が主役であるはずなのだが,文化遺産ということは

 「客体」としての存在価値が高いように感じるからかもしれない。

 それは,本当の意味で富士山を讃える意味になるのかどうか。

 日本人は,自然を畏れる民族であろうと思う。

 どこかに違和感がある。

 ここが,「学習」の出発点となる。

 私たち教師には,「富士山」の「文化」を語るという新しい使命ができた。

 観光立国を目指すという意味でも,

 「富士山」を通して「日本の何が語れるか」を追究していかなければならない。

 学習指導要領を,今すぐにでも,「小改訂」したいくらいである。

 
ブログランキング・にほんブログ村へにほんブログ村 教育ブログへにほんブログ村 教育ブログ 教師教育・教員養成へにほんブログ村 教育ブログ 教育論・教育問題へ

塾講師をしていたころの思い出

 教え子からメールが来て,大学に入ったばかりなのに,塾の講師としてアルバイトしていると聞いてびっくりした。

 そのメールには,「講師の仕事の手際の良さ」が,

 中学校のときの行事や生徒会活動の運営で身につけた力によるものだと気づいた,

 というコメントが入っていた。

 私が塾の講師としてアルバイトを始めたのは,大学3年生からだった。

 担当する授業は多くても1日3時間だが,その準備に3時間くらいかかることもあった。

 夏期講習は最大で6時間という日もあった。

 偉そうに,2つの塾をかけもちしていたこともあった。

 さらに家庭教師もやっていたことがあった。

 アルバイトをする最大の理由は,本を買うお金を稼ぐためであった。

 大学の勉強も決しておろそかにしていたわけではないが,

 4年生では卒業できず,結果,アルバイトは3年間続けることになった。

 5年目の学費は自分で負担することができた。

 塾の講師は,塾長だけでなく,生徒に

 「頼りにされる」と,辞めにくくなる。

 この時期の私の最大の喜びは,

 子どもが「分かる喜び,できる喜びを全身で表現してくれること」だった。

 子どもたちは,「分かる」という実感,

 「できる」という自信に本当に飢えているのだと思った。

 そういう「喜び」を味わわせてあげて,自分もうれしくなる,

 そんな職業に就くのは最高だと思って,教員採用試験を受けたら

 合格してしまった。

 一番苦労したのは,大学の単位である。

 野球部時代の「ツケ」はあまりにも大きかった。

 「教職に必要な単位」といっても,何の役にも立たないことが分かっている

 授業を聴いて,試験を受けなければ,免許がもらえず,

 採用試験に受かった意味がなくなる。

 ・・・・これが,「大学生のころの思い出」
 
 というより,「塾講師をしていたことの思い出」であった。

 実際に教員になってみると,

 「授業」だけではない,日常の生活から,行事から,部活動から,何から何までが

 「やりがい」の連続だった。

 だから私が思えるのは,

 学校の教師をやめて塾の講師をやっている人は,

 塾にいる子どもたちの本当の心の声を知っているはずである,ということである。

 「ここにいるのが本当の自分ではない」

 それが本当の声だ,ということを信じたいのは,

 私が学校現場の教師だからかもしれないが。


ブログランキング・にほんブログ村へにほんブログ村 教育ブログへにほんブログ村 教育ブログ 教師教育・教員養成へにほんブログ村 教育ブログ 教育論・教育問題へ

 

「自分にもどる」方法

 「迷惑な養護教諭」という表現は一般の方には分かりにくいものかもしれないが,

 現場の教師である程度の経験をもつ人ならピンとくる,中学校独特の生徒指導上の課題である。

 男性の養護教諭に出会ったことがあれば,「偏見」ももたずにいられるはずだが,

 どうも「なぜ養護教諭になりたいと思うのか」が理解できないため,

 見方が一方的で厳しいものになる。

 宿泊行事に,若くてやさしそうな看護婦さんが帯同すると,

 「保健室」が「大繁盛」となる。

 これが,厳しい指導で知られる養護教諭だと,だれも

 「保健室」に寄りつかない。

 どちらが行事主任としてうれしいか,お分かりになるだろうか。

 本当に具合が悪い子どもというのは,

 さすがにどんなに鈍い教員でも,見れば分かるものである。

 
 ・・・・話がそれたが,「迷惑な養護教諭」というのは,

 たとえば,生徒に同調するあまり,

 生徒にとっての「想像上の自分」を「本当の自分」に変身させてしまうような教師のことである。

 生徒は,「本来の自分」と「本当の自分」を同居せざるを得なくなり,

 日々,神経をすり減らして消耗していく。

 こういう生徒を「本来の自分」に戻す方法はさまざまであるが,

 一番いい,というか,良心を傷つけないですむ方法は「真実を知らせる」ことである。

 「迷惑な養護教諭」は,本当に生徒の身になってくれたわけではない,

 「生徒の身になること」が目的であり,実際,そうしたに過ぎないことを知らせるのが一番である。

 「生徒の身になって考えること」は,生徒を支えていくための「方法」の一つに過ぎない。

 だから,「生徒と反対の立場で考えること」も教師には必要なのである。

 こういう生徒の多くは,「傷つきたくない」という気持ちが強すぎて,

 いつも「真実」から目をそらそうとしている。

 そういう姿勢にのっかってしまっては,

 生徒は暗闇のなかに落ちていくだけである。

 生徒ごと,暗闇に沈んだ「迷惑な養護教諭」はいないか。

 「養護教諭」の専門性とは何か。

 私たち「教諭」の専門性とは何か。

 臨床心理士の専門性とは何か。

 そういう問いも大事かもしれないが,

 教育にかかわる仕事なら,

 子どもに何を教え,どう育てようとしているか,

 それを語れない人間は教育現場にいるべきではない。

 今まで,「自分にもどる」苦しみを味わった子どもを何人か見てきたが,

 「見ること」「知ること」をおそれない子どもにしない限り,晴れやかな明日はやってこない。

 
 本当に「自分にもどる」べきなのは,「迷惑な養護教諭」である。

 生徒に遊ばれる存在になってからでは遅い。


ブログランキング・にほんブログ村へにほんブログ村 教育ブログへにほんブログ村 教育ブログ 教師教育・教員養成へにほんブログ村 教育ブログ 教育論・教育問題へ

さすがに「手を汚している」人の書くことは違う

 ゆとり教育世代は,

 「上」だの「下」だのといった「しがらみ」に縛られずに,

 自由な発想で行動できる人たちである。

 伸び伸びやれるからこその成果がある。

 「言葉を知らない」などという批判も,相対的なものである。

 「手を汚す」という言葉の意味を知らない人が,

 何だか大げさなことを書いている。

 解釈としては,意味をよく知っていて,

 自分がやっていることをよく自覚して,

 正直なことを書いているとも言えるのだが。

 ネット上でどれだけ「手を汚せ」ば気が済むのだろう。

 ある意味,よほどこっちの方が「ゆとり世代」である。

 「それでも生きていける」のだから。

********************

昔は辞書の意味をコピペする努力は惜しまなかったが,

 今は他人の文章をコピペして,開き直るようになってしまった。

 これが「なれの果て」である。


ブログランキング・にほんブログ村へにほんブログ村 教育ブログへにほんブログ村 教育ブログ 教師教育・教員養成へにほんブログ村 教育ブログ 教育論・教育問題へ

高校入試とマークシート

 高校の教師にとって最も面倒くさい仕事が,入試の採点業務だろう。

 間違ってはならないというプレッシャーがかかる。

 しかし,定期テストの返却場面を思い出せる人なら,だれでもわかる。

 教師は,「採点間違い」を犯すものなのだ。

 だから,入試ではダブルチェック,トリプルチェックをかけないといけないので手間も時間もかかる。

 記号の問題などは,そもそも受験生の「個性」が見えないから,

 採点のやりがいもない。

 そこで,「マークシート導入」という案が浮上するのだが,

 これは「不祥事で謝るのが嫌い」な「事務の人」の発想である。

 教育公務員ではなく,ただ「間違いを犯すことをひたすら怖がる」公務員の発想である。

 
 高校入試なら,

 中学校の学習指導要領に合わせて問題をつくる。

 学習指導要領が改訂された趣旨を読むだけで,

 「マークシート導入」があり得ないことがわかるはずである。

 そもそも,高校の教師の採点間違いよりも,

 中学生のマークシートの塗り間違いの方が頻繁に起こるだろう。

 「マークシートで測れる学力」がいかに偏っているかは,

 センター試験の問題を見れば一目瞭然である。

 学力向上が果たせない「都道府県」の問題は,

 そもそも「そういう発想をしてしまう」行政の人間に象徴されている。

 困るのは,そういう自治体に引きずられて

 「右へならえ」をする

 同じように「学力向上が果たせない県」が増加することである。

 水は低い方に流れる。

 「効率化」を最優先することによって,

 この国からやがて「使命感」「責任感」という言葉は死語になっていくのだろう。


ブログランキング・にほんブログ村へにほんブログ村 教育ブログへにほんブログ村 教育ブログ 教師教育・教員養成へにほんブログ村 教育ブログ 教育論・教育問題へ

「格上」とか「格下」にこだわる人へ

 上だとか下だとか,

 偉くなるほどへりくだるべきだとか,

 そういうことにやたらと執着する人がいる。

 こういう人は,人からの評価が気になってしかたがない。

 だれも褒めてくれないときは,自分で自分を褒めてしまう。

 「自己肯定感」というのは,大人にとっても不必要なものではないので,

 勝手にやってもらう分には,かまわない。

 しかし,他人になりすまして自分で自分を褒めるのは,哀しすぎるのでやめるべきである。

 どうしてばれてしまうかは,インターネットの仕組みをある程度知っていたら

 わかるはずなのだが。

 さて,教育に関する議論をする上で,邪魔になるのが

 相手が「格上」だとか「格下」だとかいう「序列意識」である。

 私は幸いにも,そういう意識をもたずに議論できる職場で仕事をしている。

 しかしそんな職場はごくまれであろう。

 多くの人は,そんな職場でのストレスを,こういうブログの場で発信して,

 気持ちを紛らわせている面があるのだろう。

 そんな内容を「ゴミを拾う人以下」などと呼ばれる筋合いはない。

 「ゴミ以下」のものを散らかし放題の人からなら,なおさらである。

 気に入らない相手を常に「格下」へと落とし込んで満足するような態度は,

 指導力不足教員によく見られた。

 「おれより下のやつがいる」というのが,

 「おれには指導力がある」ことの根拠になるのだ。

 問題行動の指導をするとき,

 「あいつはおれよりひどいことをしている」

 などとわめき始める子どもと同じレベルである。

 指導力不足教員でもどうしても使わなければならない学校なら,

 そういうことを言わせて安定させるのも一つの手段だが,

 そうでなければ,どれだけ問題があるかを本人につきつけるしかない。

 問題行動を繰り返す生徒への対応と全く同じである。

 根気よく続けなければならない。


ブログランキング・にほんブログ村へにほんブログ村 教育ブログへにほんブログ村 教育ブログ 教師教育・教員養成へにほんブログ村 教育ブログ 教育論・教育問題へ

失言・暴言がなくならない理由-2 見過ごしてはならない生徒の暴言

 法律で定められた学力像だと,学校教育において,言語活動の充実は欠かせない。

 ペーパーテスト,発表,レポートなどで生徒に表現させたものによって,学力がどのような状況にあるか把握できたのは,今までも同様だったのだが,これまで以上に力を入れる必要がある。

 日常的な授業の場での「発表」や「グループ活動」をもし重視するのであれば,

 生徒の人間関係を「望ましい環境」のなかで育む必要がある。

 このとき,

 「こう言えば,だれかが茶化してくる」

 「こう発表すれば,だれかに馬鹿にされる」

 などという「不安」「不信感」があれば,

 生徒は表現をしてくれないから,教師は生徒が

 分かっているか分からないかが分からない。

 失言・暴言は,学校の場合,教師だけでなく,生徒にも多く見られる。

 教師の役割は,それを聞き逃さないこと,見過ごさないことである。

 非常にたいへんな手間と時間と労力を要するが,

 人を傷つける言葉,

 生徒のやる気をくじく言葉,

 わがままな言葉を

 発した生徒をそのままにしておくことは,

 言われた生徒の側にとってもよくないだけでなく,

 言った本人にとってもよろしくない。

 ここで私が言いたいのは,

 世の中に出て失言・暴言のたぐいを繰り返してしまう人がいるのは,

 ふだんからそれに近い言動をとっているのに,

 注意してくれる人がいないこと,

 それは「失言・暴言」だと気づかせてくれる人がいないことが,

 原因の一つだということである。

 「言わせておけばいい」というスタンスを,

 少なくとも教師はとるべきではない。

 敵対する勢力なら,

 「いずれ自滅するのを待とう」

 という「作戦」が「あえて何もしない」ことである。


ブログランキング・にほんブログ村へにほんブログ村 教育ブログへにほんブログ村 教育ブログ 教師教育・教員養成へにほんブログ村 教育ブログ 教育論・教育問題へ

失言・暴言がなくならない理由

 失言・暴言といったら,一昔前は

 「政治家」の「十八番」?だったはずだが,

 今では教師から芸能人まで,

 その裾野は広がりを見せている。

 言うまでもなく,情報があっという間に広がる条件が整った時代であるし,

 そういう失言・暴言を取り上げることで

 「収益が上がる」人たちが増えているからでもある。

 「次は何かな」「次はだれかな」などと

 「待ち構えている人」がいる構図は,あまり気分のいいものではない。

 そういう人たちは,

 失言・暴言を発した主を糾弾するのが仕事であり,

 それらの失言・暴言によって傷つけられた人を救済することは眼中にない。

 「言われた人に変わって,言った人間を痛めつけてやる」

 という発想は,「正義」の考え方とは異なる。


 「年収が低い人間はぜいたくなものを食べに来るな」

 などと聞こえてしまうような言葉は,せっかくの食欲を消し去るものである。

 だれにとってもプラスにはならない。

 
 社会にとって,何かプラスになることを発信したい。

 自分や社会にとって,何かプラスになる情報を得たい。

 そういう人が増える社会にならないと,

 何だか低い方へ,低い方へとレベルが下がっていく気持ちになっていく。

 
 人は,自分より低いレベルの人間がいると,安心してしまう傾向がある。

 自分より高いレベルの人間がいると,不安になる傾向がある。

 上の「安心」は,「危険」のしるしであり,

 下の「不安」は,「安全」のしるしである。
 
 「安心」の結果,生まれるのが「失言・暴言」である。

 「不安」の結果,生まれるのが「正しい危機感」である。

 
 「安全」な道を,人も社会も目指すべきである。


ブログランキング・にほんブログ村へにほんブログ村 教育ブログへにほんブログ村 教育ブログ 教師教育・教員養成へにほんブログ村 教育ブログ 教育論・教育問題へ 

メッセージ,しかと受け取りました

 ある意味,今の教育の世界の縮図になっているこの教育ブログ村。

 教育産業系が花盛りで,なかなか「すべての子どもたち」が対象となる

 「学校教育の課題」に集中できる場がないのも,実態をうつした課題になっています。

 またいずれ,ご意見をうかがえる機会もあると思います。

 急がず,あせらず,

 子どもたちは,どんなにひどい環境のもとでも,

 案外たくましく育ってくれるものです。


ブログランキング・にほんブログ村へにほんブログ村 教育ブログへにほんブログ村 教育ブログ 教師教育・教員養成へにほんブログ村 教育ブログ 教育論・教育問題へ

「思う」ことの「正しさ」と「公開する」ことの「正しさ」

 「言語活動の充実」が求められる趣旨を理解しないまま,

 ただ「語らせる」ことばかりに注力する,

 あるいは,「語ること」が「よいこと」という「誤解」を子どもに

 植え付ける結果,

 あの「復興庁の参事官のつぶやき」のようなことが起こる。

 「思ったことは,何でもいいから,とにかく発表しましょう」なんていう

 指示を教師が子どもに出すとして,

 「もうこんな授業は退屈だから,先生出て行って」

 などという「本当のこと」を子どもが発表することはない。

 しかし,それでも「発表すること」を強制されるとしたら,

 子どもは「口から出まかせを言う」ことが習慣化されてしまう。

 「ウソをつく」「つくりばなしをする」ことすら,授業のなかで正当化されてしまうのだ。

 「発表しない」という選択肢がいかにすばらしい面をもっているか,

 本当は教師も知っているはずである。

 偉そうなことを先生方に講演している人をだまらせることができる

 質問を私はいくつも持っている。

 そこで「とにかく何か言わなければならない」ことになったら,

 その人の立場がどんどん悪くなるだけである。

 だから,黙る,のが正しい選択肢である。

 あの「復興庁参事官」がつぶやいた内容には,本人にとって「正しい」ことが

 たくさん含まれている。

 中には,多くの官僚が「思っていること」も,「正しく」書かれている。

 もちろん,中には公務員の態度として,「正しくない」こともある。

 「おれは好きでこんな仕事をしているわけじゃない」

 という誤解(正解?)を招きかねない内容もある。

 これら多くのことが,「公開されること」は「正しくない」というのが,

 一般の人たちの多くがもつ感想である。

 本当は,「思っている」ことも許されない。

 「正々堂々と公開したのだから,許してやろう」というのは,

 学校の教師が問題行動を起こした子どもにもつ「感情」だが,

 それが社会一般に共有化され,しかもそれが実際に「許す」という

 結果になったら,おそろしいことである。

 政府は,復興庁の職員として被災者を臨時で採用する,なんていう政策を

 打ち出さない限り,「政府不信」が収まらなくなるような事態になりかねない,

 ・・・・・それくらいひどい内容だった。

 一方で,マスコミやバラエティー番組にとっては,とても「おいしい」内容だった。

 結果として,「復興庁元参事官」になった人は,テレビのコメンテーターになって,

 官僚批判をするのが夢だったのではないか,などと想像してしまう。

 なっていうと,番組中にキレた「博士」に失礼かもしれない。

 しかし,人に愚弄されて,「去る」という選択肢がとれる人は幸せである。


ブログランキング・にほんブログ村へにほんブログ村 教育ブログへにほんブログ村 教育ブログ 教師教育・教員養成へにほんブログ村 教育ブログ 教育論・教育問題へ

「聞く力」よりも大切なこと

 授業で話すとき,教師は生徒が「聞く」姿を見ているわけである。

 「聞く」ことで「考える」ことにつながる。

 「考える」と疑問が生まれたり,思いついたことを「発表する」動機が生まれる。

 そういう「変化」というか「反応」の多くは,見ていれば伝わってくるし,

 声に出せば,聞こえてくる。

 先日,先生方を相手に「話す」機会があったが,

 どうにも「聞き方」が気になる先生がいて,対応に困ってしまった。

 授業であれば,そこは「集中砲火」の対象になるところである。

 「どこがひっかかる?」

 「何か疑問点がある?」

 「この点についてはどう?」

 「他に意見はありそう?」

 などなど。

 もし教師が「一人も落ちこぼしを出さない」と意気込んでいるのなら,

 それを生徒たちに丸投げなどせずに,自分で対応すべきなのが教師だ。

  しかし,相手が教師の場合は,どうしたらいいのか?

 日本は,基本は「黙っている方がよい」ということを社会に出ると教えられる国である。

 ペラペラ話すのが好きな人より,寡黙な人の方が信頼されるなんていう話もある。

 みんなが信頼していて「いい先生」かなと思いきや,

 いざというとき,本当に「何も話せない」のでびっくりされる,なんて人もいる。

 「人は見た目が9割」で,

 「話す内容は二の次」ということか。

 大人と言うのは,話をしている相手に,自分が

 「理解できているか」

 「理解できていないか」

 を見抜かれる,

 ということを知っている。

 そのせいかどうか,分からないが,

 「分かっているか」「分かっていないか」が相手に

 伝わらないように努力しているのではないか?

 と思われる教師が,ときどきいるのだ。

 今回の先生は,「本当に分からない」ことを告白してくれたので,

 ようやく問題の所在に気づけたのだが,

 これは普通の研修会などでは,直接耳にする機会はまずないだろう。

 教師の中にも,あるいは教育実習生の中にも,

 子どもと同じように,すぐ相槌を打ってくれたり,すぐに「分かりました」と答える人がいる。

 「分かったかどうかが分かる」質問をすると,答えられないので,

 「分かっていなかった」ことがすぐに分かる。

 こういう人も困る。

 「聞く力」も大切だが,

 「理解度を相手に理解させる力」も案外,大切なのではないか。

 教師は,40人の,いや,たとえ20人でも,全員の子どもの

 「理解度」を常に把握しながら「話す」のは難しい。
 
 子ども側の,「聞く力」とともに,「理解度を理解させる力」の開発ができないものだろうか。

 これは,「分からない」「理解できない」ことを

 「それが当たり前だ」

 とみんなで言える「環境」が必要である。

 いい加減に,

 「分かったつもり」

 「分かったふり」

 「理解度を見抜かれないようにオーラを消す」

 ことは,やめにしましょう。


ブログランキング・にほんブログ村へにほんブログ村 教育ブログへにほんブログ村 教育ブログ 教師教育・教員養成へにほんブログ村 教育ブログ 教育論・教育問題へ

教師が教えるべきは「学ぶ意味」?

 大学の先生っぽくなく,わかりやすい言葉で情報発信してくれている人がいますが,

 内容はハテナが浮かぶものが目立ちます。

 クビになる心配がない,そこそこの指導ができる教師なら,のっかっていても実害は少ないと思いますが,

 私が心配するのは,本当に力がない人が引き起こす「大崩壊」です。

 ・・・・・先生が教えられるのは「学ぶ意味」だけ?

 「学ぶ意味を教える」というのは,

 「学ぶ意味とはこういうことだよ」と「語り続ける」こと?

 それでは,教師の役割は「教室の張り紙」と同じになってしまう。

 「学ぶ意味を分からせてくれる教師」に,だれでもなれる?

 ・・・・・それはないでしょう。

 そもそも「学ぶ意味」は多様だし,

 人間というのは「成果」を実感したとき,それまでやってきたことの「本当の意味」に気づく存在ですから。

 「頭では分かっている」という言葉の使い方がありますよね。

 これは,「分かっているつもりになっているだけで,本当のところは分かっていない」ことを意味しています。

 
 結論が分かっていることに,ただ子どもを向かわせているだけ・・・・・

 本当に質の低い道徳の授業のような・・・・。


ブログランキング・にほんブログ村へにほんブログ村 教育ブログへにほんブログ村 教育ブログ 教師教育・教員養成へにほんブログ村 教育ブログ 教育論・教育問題へ


 

教師になって初めて気づく教師になった理由

 教員採用試験の面接では,必ず

 「なぜ教師になろうと思ったのか」と質問されますね。

 必ずされることがわかっているから,

 みなさん,当たり前のように「答え」を用意しておきます。

 もし私が受験者のコミュニケーション能力を見極めることを

 最優先課題にしていたら,

 教育に関する話題の受け答えをいくつかしてもらった後で,

 「今までの話をふまえて,あなたが教師を志した理由を述べてください」

 という問いを発します。

 「今までの話」のどこにどのようなかたちで「志望動機」が

 結びついているか,・・・を話せるかどうかが,評価のポイントになります。

 面接官にとっては,「志望動機」など,聞き飽きるほど聞き続けている話です。

 ほとんど立派なことを言っておきながら,現場では次々に問題を起こしてくれる,

 そんな「採用者」が複数,頭に浮かぶことでしょう。

 ・・・・・今までの話は,すべて雑談でした。


 私の場合,

 中学校の担任になって,ほとんど毎日のように「学級通信」を出していたのですが,

 これは,小学校低学年の先生の影響だと,後でわかったような気がします。

 生徒の似顔絵を毎号のように載せていた年がありましたが,これは

 小学校高学年のときの図工の先生の影響だと思われます。

 子どもを叱っているとき,これは小学校中学年の先生の影響だと気づきます。

 こんな調子で,「先生の影響」は多かれ少なかれ,どの教師にもあると思います。

 全体像として,「あんな教師になりたい」という人はいませんでしたが,

 教科の先生として,担任教師として,部活動の顧問として,という話だと,

 さまざまな先生が思い浮かべられます。

 「いい先生と出会ったことがない人は,いい先生にはなれない」

 なんてことは言いませんが,

 私の場合は,自分が教師を志すきっかけになった人は,たくさんいたのだと思われます。

 ただ,「こうだから」と言葉で説明できるようなことではありません。

 これからも,ふと,「ああ,だから自分が教師を目指したのかな」と気づく場面が

 あるかもしれません。

 あと10年と少したって,「ああ,退職間際にこんな教師のようになれたらいいな,と思っていたのだな」

 と気づくかもしれない。

 でも,それを採用試験のときに話しても仕方がないですからね。

 何もできていないのに,何もしていないのに,
 
 「使命感に満ち溢れている人」って,何となくアブナイ気がします。


ブログランキング・にほんブログ村へにほんブログ村 教育ブログへにほんブログ村 教育ブログ 教師教育・教員養成へにほんブログ村 教育ブログ 教育論・教育問題へ

教師であることを恥ずかしくて明かせない時代に?

 自分に自信が持てない若い教師が増えているそうだ。

 若い退職者が多いことからも,想像できることではあった。

 「私は小学校の先生をしています」ということが,

 「恥ずかしくて言えない」という人もいるらしい。

 「あなたみたいな人が?」という反応を受けるのがこわいからだそうだ。

 少し前に,夜のアルバイトをしていた教師が報道された。
 
 こういう人はもちろん身分を明かせないが,

 公的な場で,職業を公開したとき,それに恥じないような人間であると

 思われたい,そういう欲求は,とてもまともなものだと思われる。

 ただでさえ,教師や公務員に対して向けられる視線は冷たいものだ。

 自分に自信がない人は,そういう気持ちを態度に出してもいい。

 ただし,それは子どものいない場で,お願いしたい。

 子どもの前では,堂々とした教師でいてほしい。

 謙虚な姿と,それなりの自信に満ちた姿を使い分けることができる必要が

 教師にはある。

 自信のなさそうな大人の近くで育った子どもというのは,

 大人に対する信頼感を持ちにくくなるのはもちろん,

 自分という存在のとらえ方についても,その大人の出す雰囲気が「うつる」。

ブログランキング・にほんブログ村へにほんブログ村 教育ブログへにほんブログ村 教育ブログ 教師教育・教員養成へにほんブログ村 教育ブログ 教育論・教育問題へ

自分に正しく向き合えない教師たち

 東京都を退職して10年近くが経とうとしているが,

 退職後,初めて恩返しに近いことを「公的」にすることができた。

 謝礼などをもらわない「講師」の仕事は,とても気持ちがよいものである。

 いろいろと質問しに来てくれる先生がいたのもうれしかった。

 教師の中には,自分の課題に正しく向き合えない人がいる。

 子どもへの生活指導で言うことと同じだが,

 まずは自分と向き合うことが最優先事項である。

 だが,それがなかなかできないのが現状の大きな課題である。

 次に,目標の定め方が大事である。

 その目標は,他の何かを実現するための手段になり得る。

 その何かとは何か。それが次の目標になる。

 「その先の目標」「さらにその先」を見定めていこう,という気持ちを教師が持つことが大切である。

 そうでないと,子どもにそれが要求できない。

 いつまでも「自立」させることができない。

 今日,私が耳にすることができたのは,「自立」のための質問である。

 伸びる教師と伸びる子どもの条件の一つは,全く同じものである。


ブログランキング・にほんブログ村へにほんブログ村 教育ブログへにほんブログ村 教育ブログ 教師教育・教員養成へにほんブログ村 教育ブログ 教育論・教育問題へ

林修さんVS元ヤンキーの若者たち

 TVを観ていた中学生も多かったようである。

 図を教室で引用したら,すぐに反応があったので分かった。

 久しぶりに,真剣勝負「風」の番組を見た気分である。

 なぜ「対決」になってしまうのか,「勝ち」「負け」なのか,教育の立場からはコメントしにくいが,

 あれが立派なエンターテイメントになっていたことは確かである。

 予備校の魅力的な先生たちは,露出が多い分,苦労も多いと思われる。
 
 年間200泊もホテルで寝泊まりしなければならないのは,本当にお気の毒だが,

 移動時間はさぞ本がたくさん読めるのだろうとも想像してしまう。
 
 私もさすがに200泊はないが,数十泊という出張や十数回のタクシー帰りを経験したことがある。

 このころは,人生で一番たくさん本が読めたときであった。

 テレビカメラがまわっている前で話すのはやりにくいのではないかと思われるが,

 相手との「距離」がきちんととれる(自分が固定カメラの前から移動することがしにくい)ので,

 ある意味,「安心」して見ていられる。

 林修さんは,私と同世代で,プロフィールを見させてもらうと,いろんなことが共通している。

 4年間,どこかですれ違っていたかもしれない人物である。

 私が番組を見て一番ほっとできたのは,汚い字の板書である。

 予備校の宣伝番組でも同じような字だったから,いつもああなのだろう。

 ヤンキーは,テレビに映ることを知っての出演だから,どう考えても

 本当の「勝負」などではない。

 しかし,私がうなったのは,絶対に反応するであろう「つかみ」を最初に使わなかったことである。

 そこに,「存在の重み」を感じ取った。

 いきなり「ウケねらい」で入ったら,そこでTVの電源を落としていたかもしれない。

 そうでなかったから,思わず観つづけてしまった。

 いつ出すのか?と思わせ続けるのは,視聴率を稼ぐ意味でもいい「戦略」である。

 しかも,授業では欠かせない,「生徒にツッコミを入れさせる」場面もしっかりつくっていた。

 出演されていた「元ヤンキー」さんたちは,たいへん礼儀正しく,気立てのよい人たちばかりだった。

 ・・・・林さんは,「本物」に出会ったことがあるだろうか。

 私の場合は,「野球部の指導者」という武器があった。

 今,公立学校で,このタイプの武器は通用しにくくなっているが,

 本当に授業だけで勝負しなければならない人は,

 厳しい現実を思い知らされる場が公立中学校というところである。

 「勉強嫌い」をセメントで固めるような授業を公立中学校から一掃するために,

 できることは何だろうか。

 林さんには,学校の教師への「ご意見番」のような役割を期待したい面もある。

 いつやってほしいか?

 もちろん,・・・。


ブログランキング・にほんブログ村へにほんブログ村 教育ブログへにほんブログ村 教育ブログ 教師教育・教員養成へにほんブログ村 教育ブログ 教育論・教育問題へ

学校には「失墜」するような「信用」がなくなった

 戦時中のように情報統制を行えば,教師たちの犯罪行為を隠し,

 学校の体面を維持することはできる。

 しかし,今はそんなことができる時代ではない。

 それにしても,毎日毎日,そういう情報が山のように積み重なっていくのは

 教師としてはしんどいものである。

 「足を引っ張られている」という感覚も,ゼロとは言えない。

 しかし,一番許せないのは,「子どもを裏切っている」ことである。

 教師は子どもから無条件で「信用」される存在ではない。

 だから,「信頼回復」「信用の創造」のために,なすべきことを考えなければならない。

 どこかのブラック企業のように,24時間働きます!なんて言ってみても,始まらない。

 何をやるか?

 「もう悪いことはいたしません」では,小学生の反省文になってしまう。

 どうしたら学校の信頼は回復できるのか?

 教師を入れ替えれば,すむことなのか?

 答えは,子どもレベルのようだが,

 「自立」しかない。

 ルールにのっとって,「自立」できる人間になる。

 本当の意味で「自立」できるようになれば,自然と,教師の足を引っ張るような仕組みは廃止される。

 今は,「自立」できないことを前提に,いろんな器具が体にとりつけられ,身動きできない状況にもある。

 器具を壊している教師を,黙ってみていてくれるような校長がどのくらいいるだろうか。

ブログランキング・にほんブログ村へにほんブログ村 教育ブログへにほんブログ村 教育ブログ 教師教育・教員養成へにほんブログ村 教育ブログ 教育論・教育問題へ 

学校の先生方が一致団結できない理由

 各教育委員会が教員の配置を行う場合,

 どこかの学校だけに「力のある先生」を集中させることはまずあり得ない。

 特定の議員や,教育長の地元の議員の影響などがある場合も考えられるが,

 一般的には,各学校に「力のある先生」は同じような割合で配置されている。

 と同時に,「課題のある先生」も同じように配置する。

 「力のある校長」とみなされると,「育ててほしい」なんてことを理由に,

 「課題のある先生」が複数送り込まれることもある。

 「課題のある先生」は,わずかな年数で学校を変わっていくので,

 「しばらくの我慢」という空気が学校には流れるものである。

 あるいは,「機嫌を損ねなければ,生徒への問題も防げる」と考えて,

 周囲が気をつかって「課題のある先生」の「課題」を表面化させないように

 努力している場合もある。

 いずれにせよ,こういう教師の存在は,学校にとって大きな負担となる。

 実は,こういう教師の存在が,行政にとっては大きな「武器」になっている。

 あの団体の活動とは別に,教育的ないい意味で,学校が「一致団結」されると,

 行政としては困ることになる。

 市民の要求と全く合致してしまうような学校側からの要求は,はねつけにくい。

 適度に内輪もめしてくれている方が,行政の側はラクなのである。

 なんて「妄想」を,抱いている人はだれ?


ブログランキング・にほんブログ村へにほんブログ村 教育ブログへにほんブログ村 教育ブログ 教師教育・教員養成へにほんブログ村 教育ブログ 教育論・教育問題へ 

教育と教師 ~「教える人」と「育てる人」の両立~

 ある教育実習生のふり返りの文章に,

 「教育実習を始める前に出した教員採用試験の願書を書き直したい」

 という言葉がありました。

 採用試験の願書って,そんなに早く出しておくものだったのでしょうか。

 せめて教育実習の後になっていれば,全く違った「志望動機」が書けたのかもしれませんね。

 教師は,「教える人」なのか,「育てる人」なのか。

 もちろん両方の機能をもっているのですが,重点はどちらにあるのか?

 これは,地域の学校文化にもよりますし,校種によってもイメージが大きく変わるでしょう。

 「学び合い」大好きの人たちは,迷わず「育てる人」を選ぶでしょうし,

 高校の先生の場合は「教える人」でなかったら,「人ではない」なんて言い出すかもしれませんし。

 いい発見は,教師になって,生かしてほしいと思います。

 

ブログランキング・にほんブログ村へにほんブログ村 教育ブログへにほんブログ村 教育ブログ 教師教育・教員養成へにほんブログ村 教育ブログ 教育論・教育問題へ

場を仕切れる人,仕切れない人

 小学校の教師とは一緒に仕事をしたことがないのでよく分からないが,

 中学校や高校の教師の中には,数人から数十人のグループなり団体を仕切ることが

 得意な人と,苦手な人がいることは確かである。

 仕事上,仕切らなければならないときに,仕切れない人がいるから,

 苦手な人がいるということが分かる。

 仕切るのが好きそうだが,実際には上手く仕切れていない人もいる。

 そもそも,こういう「仕切る」能力というのは,どのように育てることができるのか。

 私自身のことを思い返してみれば,自分は明らかに「仕切り屋」だった。

 いつからかというと,幼稚園生のときからである。

 友達と遊ぶとき,

 遊びの種類,ルール,それぞれの役割を瞬時に決めて,

 「相談時間」はゼロで,すぐに遊びを始めていた。

 「指示」を相手に「命令」とは感じさせずに,「当たり前のこと」として

 受け止めてもらうのが,「仕切る技」である。

 小学校のときも同じようだったと記憶しているが,

 なぜか記憶が鮮明なのは,幼稚園生時代の「仕切り」である。

 その「仕切り」の能力を自覚できたのは,中学生時代だった。

 ボランティアで集められた同級生に,段取りを説明し,仕事の分担と量を割り振って,

 先生の予想を超えるスピードで任務が完了したときに,先生からかけられた言葉が

 「人を使うのが上手だね」というものだった。

 相手の先生がよく知らない人だったら,「嫌味」にもとれる言葉であるが,

 お互いのことを分かっている関係だったから,素直に受け止められた言葉だった。

 たとえば私のような経験がなく,

 「人に指示を出すなんて,でしゃばりなんて思われるから嫌だ」

 という感覚で育ってきた人が,

 教師になっていたら・・・・・・などと心配に思う必要はないかもしれないが,

 もし「子どもを思うように動かすことができない」ことで悩んでいたとして,

 その人が「人を動かす経験」をもっていなかったとしたら,

 「そう簡単に願いはかなえられないかもしれません」としか答えようがない。

 自分の話が続いて恐縮だが,幼稚園生のころの記憶のうち,最も鮮明なのは,

 「怪獣ごっこ」での「役割分担」を伝えた時に,あまり自己主張をしないある友達が

 いつになく「強い怪獣」を望んだ時の自分の対応と,友達の表情である。

 人にやさしく接していれば,人はついてくる,なんて甘いものではない。

 こちら側の自己主張が強すぎたりしても,人はついてこなくなる。

 この微妙なバランスを,人は社会に出てから,学ぶことができるのだろうか。

 会社に出ると,しばらくは「新人」として,「先輩」や「上司」のふるまい方から,

 リーダーシップのあり方を学ぶことができるかもしれないが,

 教師の場合は,仕事についたそのときから,生徒に対峙しなければならない。

 やりにくいのは,たとえば中学校の場合,

 新任や異動先で中2や中3の担任になるケースである。

 文章などでは読むことができない生徒や教師の力関係,人間関係の中で,

 子どもを「仕切る」ことはなかなか難しいことであろう。

 でも,「仕切らなければならない」ときがくる。

 それをどう乗り切るのか。

 周囲から見て,代わりに仕切ってあげたいと思っても,

 立場上,それができない,ということがある。

 アドバイスできることがあるとしたら,

 多少の反発を恐れずに,自分が言いたいことは言うこと。

 それくらいだろうか。

 何も主張しなければ,相手からは「仕切れない人」

 「仕切るつもりがない人」と思われる。

 そういうのよりは,「仕切ろうとはしているけど,うまくできない人」の方が,

 状況としては「失敗」なのだが,あとはそこから何かを学んでもらうしかない,

 というのが私の思いである。


ブログランキング・にほんブログ村へにほんブログ村 教育ブログへにほんブログ村 教育ブログ 教師教育・教員養成へにほんブログ村 教育ブログ 教育論・教育問題へ

指示されたことしかできない人たち

 教師は,子どもに「こうしなさい」と教えていることのうち,

 自分自身ができていないことをどのくらい自覚できているだろうか。

 私の教科の教育実習では,生徒のフィールドワークの引率をさせて,

 お世話になった方々へお礼状を書く指導をさせている。

 そういう指導をしている教育実習生が,

 実習を終えての「礼状」をよこさない。

 おそらく,大学の担当者が「指示」を忘れてしまっているのだと思われる。

 大学では,教育実習の担当者はころころ変わり,

 その都度,実習生に伝わっていることが変わったり,

 伝えられるべきことが伝えられていなかったりする。

 今年は,「礼状を送る」指導がなかった模様である。

 その「礼状」の中身の指導も,なされていない模様である。

 実習中に学んだこと,エピソードなどが全くなく,

 実習前に書いておいたものをそのまま提出しても何の問題もない,
 
 という「礼状」をときどき手にする。

 私は人からもらったものを捨てられない性格で,

 今までのものをすべて持っているが,

 そのため,「礼状の書き方」で優秀な教師になれるかどうかも

 わかってしまうかもしれない。

 今までは,内容がすばらしい礼状を書いた人は,たいてい教師にはなっていなかった。

 指示したことしかできない人には,

 自分が人に指示をする,という経験をもってもらいたい。

 でも,その経験があっても自分ですべきことをできない人は,本当に哀しいものである。


ブログランキング・にほんブログ村へにほんブログ村 教育ブログへにほんブログ村 教育ブログ 教師教育・教員養成へにほんブログ村 教育ブログ 教育論・教育問題へ

心の中は分からないが,頭の中は分かってしまう人

 おかしな話ですよね。

 心と頭って,別物なんですかね?

 他人の「頭」にケチをつけるのが大好きな人がいますね。

 そのことで相手の「心」がどうなるのか,想像ができない人。

 子どもにもそういうのが増えています。

 親に会うと,親も似たり寄ったりです。

 相手の「心」は分からないのだから,

 その「心」が自分の書いた文章によってどうなろうと,

 知ったこっちゃない。

 こういうタイプの教師が,現場には多いんですよ。

 ブログ村には「代表格」がいますね。

 どういう人間に対してブログを発信しているのかが不明な人が。

 私は教育のどこが問題であるか,

 教師のどこに問題があるのかを知ってほしいために,

 不特定多数の方々に向けて情報を発信しています。

 勝手に記事を送りつけるわけではないので,

 教育に関心のある方しかご覧にならないわけですが。


ブログランキング・にほんブログ村へにほんブログ村 教育ブログへにほんブログ村 教育ブログ 教師教育・教員養成へにほんブログ村 教育ブログ 教育論・教育問題へ 

 

壊れる前に,すべきことは?

 何とかのメモを読むと,そこには「虚無感」が漂っている。

 学生がいるから何とかもっているようだが,

 勘違いの現場教師だけがお話し相手になってしまうと,

 もう壊れるしかないのではないかと心配になる。

 「失敗」を拡大している原因であることが突き止められてしまうと,

 もう後には引けなくなってしまうだろう。

 研究者にとって,「教育の失敗を招いた」と評価されることは

 つらいに違いない。

 それでも,

 大学という「政治」の場は,さぞ「暮らしやすい」ところなのだろう。

 「奥義」とやらで何とかごまかすことができる場だそうだ。


 教え子が社会や教育現場に出てつまずく理由が分かるだろうか。

 そろそろ「教え子」の教師に舞台を譲り,自分が現場に戻ってみては
  
 どうだろう。


 実践してみないと理解できないことがあるはずである。

 気色の悪い文字が垂れ流しになっている現状を見ると,

 現場の立場からはそれもあまりすすめる気にもなれないが。


ブログランキング・にほんブログ村へにほんブログ村 教育ブログへにほんブログ村 教育ブログ 教師教育・教員養成へにほんブログ村 教育ブログ 教育論・教育問題へ 

マネのできない先輩教師にいつでも会える幸せ

 小学生は,中学校に入学して,

 小学校には存在しないタイプの教師たちが多いのに戸惑う。

 たとえば,その教師のところに用事で会いに行っても,

 なかなかつかまらない。

 教室だったり,準備室だったり,グラウンドだったりする。

 職員室にじっとしていない。

 教室か職員室を探せばたいてい先生が見つかる小学校とは,

 異次元の世界であることに気づく。

 教員になって中学校現場に入ってみると,これがまた

 想定を超える人に出会うことがある。

 小学校の教師はいくつかの「タイプ」に分類したとき,

 たいていはそのどれかに属する人が多いのだが,

 中学校の教師の場合には,そういう「類型」から外れたところに

 存在している人たちがいる。

 見る人から見れば,その魅力ははかりしれない。

 その魅力を最も強く感じているのが,生徒だったりする。

 私は大規模校に赴任したおかげで,

 多くの魅力ある教師に出会ってきた。

 とてもマネをすることができる先輩ではない。

 マネをする意味もないこともある。

 こういう個性にふれられた私も生徒たちも,幸せであった。

 今の学校では,退職した先生方との交流が何パターンもある。

 一度,職場ではお別れしても,いつでも会って相談することができる。

 こういう学校はめったにない,というか,他にはないだろうと,思われる。

 教師の人脈とは,こういうものでありたいものである。

ブログランキング・にほんブログ村へにほんブログ村 教育ブログへにほんブログ村 教育ブログ 教師教育・教員養成へにほんブログ村 教育ブログ 教育論・教育問題へ 

小学校の先生に知っておいてほしい「号令」のかけ方

 今週,娘の小学校で学校公開が行われていたので,授業を参観してきました。

 職業柄,というか,経験が邪魔をして,

 娘の様子よりも,

 「先生の様子」の方が気にかかって困りました。

 20分休みは「子どもらしさ」が一番発揮できる時間帯なので,

 校庭に出て観察していると,体の大きな小学校6年生の女子がいるなと

 思ったら,あとで先生だったことがわかり,びっくりしました。

 子どもと一緒に元気に遊んでいました。

 授業では,静かでした。

 娘の授業は図工と体育だったのですが,

 図工の「まとめ」の段階で先生が話していた言葉は,

 少なくとも中学年向きで,

 1年生には何もわかっていないだろうと感じました。

 班の形になっていて,ほとんど子どもが先生の方を見ていなかったし,

 その反応のなさから,話の内容を理解しているようには見えませんでした。
 
 先生は淡々と話を進めていました。

 体育の授業では,まず「整列」から始めるのですが,

 「号令」のかけ方が気になりました。

 「気をつけ, 前へ, ならえ」は多くの学校でかけられている号令だと

 思いますが,

 「気をつけ」の段階で,「気をつけ」をしていなければ,

 次に進んではいけないはずです。

 そして,「前へ, ならえ」は

 「前へ, ならえ」であって,

 「前へならえ」ではないのです。

 中学生に号令をかけさせると,

 初めのうち,多くの子どもが「前へならえ」と続けて声を発してしまいます。

 これは間違いで,

 「前へ」で集中力が最大限に高まった段階で「ならえ」がくるのです。

 「気をつけ前へならえ」と

 とぎれなく声を出してしまっていたために,いつまでもだらだらと

 整列できない状態が続きました。

 残念だったのは,先頭の子どもの位置が決まっていない段階で

 号令がかかったので,

 結局また,整列をやり直すことになったのです。

 その後は,もう「号令」はありませんでした。

 「号令」のかけ方次第で,いくらでも子どもの行動は機敏になり,

 時間をかけないで集中させることもできます。

 こういう「知識」は,だれがどのように伝えればよいのでしょうか。

 結局,こういう「知識」がないために,

 あの「恥ずかしい本」の山が小学校教師向けにあるのでしょうか。

 どうしても,授業を参観しても

 「素人っぽい」感じで,不安が残る1日でした。

 社会の授業では,先生がある地名の漢字を思い出せなくて困っていました。

 地理にかかわる授業のときは,子どもに必ず地図帳を広げさせておきましょう。

 これは社会科の指導においては基本中の基本です。


ブログランキング・にほんブログ村へにほんブログ村 教育ブログへにほんブログ村 教育ブログ 教師教育・教員養成へにほんブログ村 教育ブログ 教育論・教育問題へ

絶対に批判をされない立場で書きたい放題の人

 教育界の未来のために,絶対にやってはいけないことがあると私は考えている。

 この記事ではストレートな批判はやめておくが,

 どんなに人材が払底していようが,絶対に使ってはいけない人が,

 どのような職種でもいるはずである。

 日本は,いい国である。

 これは,「能力」ではなく,「立場」「経験」を重んじてくれるという「空気」があり,

 それが都合のよい人にとって,という意味である。

 日本の教育界には,

 「示範授業」という,昔の「師範学校」の教師が聞いたら怒り出すような,

 管理職などに媚びを売るための悪習がある。

 ダメな「示範授業」を見て,「ここがダメです」と批評した人を私は見たことがない。

 打ち上げの飲み会の席ですら,である。


 
 「やってはいけないこと」をやってしまった,その職場の様子が目に浮かぶ。


 職場の人や,子どもたちや,保護者達の

 「本当の想い」が,当人に伝わることがない,伝えるべきとは考えられていない,

 それがこの国の特徴である。

 当人に確実に伝えられる情報を,この国では「お世辞」と呼ぶ。

 そして,そういうことに気づいていない人間がいる。

 「やってはいけないことがやられたこと」を自分で記事にしてしまう人間である。

 しかも,人から褒められたことを書く。

 
 日本にかつてあったといわれる「美徳」とはほど遠いものがそこにはある。

 「こんなふうに私は褒められました」という作文は,小学生くらいまでで終わりにできないものか。


 「私はこんなにも謙虚な人間ですよ」と宣伝することの矛盾をどう説明したらよいのか?


 褒めてくれる人がいないから,自分を自分で褒めてしまう,そんなコメントが混じっている

 教育ブログは今,少しお休み中である。
 


ブログランキング・にほんブログ村へにほんブログ村 教育ブログへにほんブログ村 教育ブログ 教師教育・教員養成へにほんブログ村 教育ブログ 教育論・教育問題へ 

本を読んでも何も学べない人

 教育界で最も情けないと感じるものの一つが,

 小学校の教師向けの本の内容です。

 ここまで「手取り足取り」でないと,教壇に立てないのか?

 こんなに「当たり前」のことまで,本で読まなければならないのか?

 ただの「方法」「手段」に過ぎない内容だから,現実の実践にうつすときに,
 
 余計に力不足を痛感する結果にならないのか?

 いろんな疑問が浮かぶのですが,

 一番大きいのは,そもそも

 「本から学ぶ」という習慣がついていないのではないか?

 という教育者としての資質にかかわる不安です。

 「教養」とは縁のないところにその「世界」があるというのが私の印象です。

 「恥をさらしている」という意識がないのは,本当に狭い世界でしか

 生きていない人たちが,狭い世界の住人に向かって語りかけている

 だけだからなのでしょう。

 本を「一般書」「専門書」と区別する方法がありますが,そういう本は

 「児童書」のイメージに近いものです。

 さすがに実例を挙げて批判するのは控えますが,

 例の「学び合い」の本で,子どもに「教え合い」をさせて,

 「指導上の工夫」が教師用の指導書を教卓の上においておく,

 なんていうのが,「売り物」として世の中に出ていることは驚愕の事実です。

 教育にかかわる環境の劣化,教育にかかわる人間の劣化を示す

 典型的な実例です。

 ある人が,「法律力」という「力」について記事にしていますが,

 少なくともこの人には,本から何かを学んだ,という形跡がありません。

 小学生に対して,「本を読むことの意義」をどのように伝えているのか,

 自分が読んでいる本・・・・「小学生を動かす魔法のワザ」なんていうのを

 小学生に紹介することができないのは当然ですよね。

 小学生向けの本として,

 「先生を動かす魔法のワザ」・・・・・内容を逆手にとれば,こういうのもつくれそうです。

 子どもを「操作」する方法を学び,実践している人を「操作」するのは

 それほど難しいことではありません。


ブログランキング・にほんブログ村へにほんブログ村 教育ブログへにほんブログ村 教育ブログ 教師教育・教員養成へにほんブログ村 教育ブログ 教育論・教育問題へ

どんなに古い体質の学校でも,変わることができる

 もちろん,その学校にいる教師たちの力で。

今日は,その瞬間に立ち会うことができました。

 何度目の体験だったか,過去を思い出そうとすると,

 自分が勤務していた中学校もそうですが,指導主事時代の,

 ある小学校のことが浮かんできました。

 教育ブログの中にもあるように,中身がゼロだけど,

 教育をしている雰囲気だけはだせる「自慢系」「自己満足系」の

 話に飽きた小学校の先生方が,

 私の話に耳を傾けてくれた時期がありました。

 これも「自慢系」か・・・。

 小学校の先生も,「こういう話」に興味を持ってくれるんだ,

 という発見ができた瞬間でもありました。

 中学校にも,小学校にも,独自の「古い体質」があります。

 それは,「中学校の教師に,小学校の研究の何が分かるんだ」という自負と,

 「小学校の教師に,中学校に上がってくる子どものダメさ加減がどうして分からないのか」

 という不満が代表的なものです。

 小学校と中学校が本当に「一体」のものになるのであれば,

 そういう「小中一貫」であれば,

 そんなことは言ってられないことがわかるでしょうが,なかなか難しい。

 具体的なことが書けないから,あまり意味のない記事になってしまいました。

 言いたいことは,タイトルの一言に尽きるのです。


ブログランキング・にほんブログ村へにほんブログ村 教育ブログへにほんブログ村 教育ブログ 教師教育・教員養成へにほんブログ村 教育ブログ 教育論・教育問題へ
 

指導力不足教員が語る「無駄な研修」

 「こんな研修は無駄だ!」

 なんていう態度の指導力不足教員はどうしたらいいか?

 「こんな研修」でしか,本人が救えないのに。

 「こんな研修」を受けているだけで,給料が支払われているのに。

 世の中には,このように,これ以上ない,と思えるほどの無駄がある。

ブログランキング・にほんブログ村へにほんブログ村 教育ブログへにほんブログ村 教育ブログ 教師教育・教員養成へにほんブログ村 教育ブログ 教育論・教育問題へ

教員採用面接の大改革

 企業の1次面接で落とされる人の共通点は,その企業のことを深く知っていないことにあるという。

 表面的な知識ではなく,その企業で働いている人たちの「考え方」の癖を知ることが,採用されるための有効的な戦略なのだそうだ。

 一番重要な情報は,

 「面接で何を見て,どういう人がダメだと判断され,どういう人が会社にほしい人材だと判断されるのか」

 ということに他ならないが,

 教員採用面接に関していうと,

 それをバラせる立場の人間が,教員採用試験の予備校のような大学で教師をしていることに問題がある。

 教員採用面接で,そういうトレーニングを積むことができる人間が有利になるのは仕方がないことだが,

 教育という仕事の場合,子どもがいない場では何とでも言えてしまうことが,どうにもやるせない。

 現場のまともな教師から見て,ほとんど信じられないことをしでかす人間が面接を通過してしまう現実は,

 どこかで変えていかなければならない。

 私の改革案は,面接に小中学生を参加させる,というものである。

 小中学生が,評価をするわけではない。

 小中学生とのやりとりを,行政や教育現場の目で見て,教師にふさわしいかどうかを判断するのである。

 これによって,ある程度の「不適格者」は排除できると考えられる。

 「本当は子どもは嫌い」なんて人間が,見つかるはずである。

 
 教員採用の担当者の責任は重い。ニセモノを見破れる目を磨いていってほしい。


 ブログランキング・にほんブログ村へにほんブログ村 教育ブログへにほんブログ村 教育ブログ 教師教育・教員養成へにほんブログ村 教育ブログ 教育論・教育問題へ

内田樹とDさんのダメな共通点

 二人がそっくりなところがある。

 たとえば,他の人間がどう考えているかが見えていないところ。

 見えていない,というより,見る気がないという方がしっくりくる。

 内田樹はそういう点で開き直っていることを自分で認めているが,

 もう一人は自分がどうなっているか,自分で理解できない。そこは相違点である。

 共通点の2つ目は,自分がその立場にはない人間のことを批判していることである。

 内田樹は「制度の問題」だとしているが,自分にそれを変える力がないのはわかっている。

 もう一人は,もとはその立場にいたことを語っているが,その語っている内容から,

 「制度の問題」以前のところに問題があることをばらしている。そこは相違点である。

 共通点の3つ目は,自分がどうにかしようと考えていないことである。

 一人は,どうにかしようとしたつもりなのはわかっているが,それが逆効果にすぎなかった。

 それなのに,自分がダメなことがわかっていないから,無力感を覚えていることはない。

 両者ともに,私たち現場の教師から見れば,ただの無責任人間にしか見えない。

 共通点の4つ目は,「金」の話(と結びつけること)が好きなことである。

 一人は,書くことで「金」になることはないが,

 内田樹は,自分が批判している教育の成果が自分そのものであることを「金」の話を通して語ってくれている。

 5つ目は,これが最大にして最悪の共通点なのだが,

 「ダメな学校」「ダメな教師」は少しだけ知っているようだが,

 現実の「まもとな学校」「まともな教師」の姿が思い浮かべられないことである。

 内田樹が「今の教育でこんな人間は生まれようがない」なんて言っている人間が,たくさん生まれている。

 内田樹の場合は,自分自身もそうだったのに,

 教師を「まともな職業」とそもそもみなしていないので,

 「学校教育の終わり」のような記事が書ける。

 教育に関する内田樹の文章は,観念先行型でリアリティに欠ける。

 それは自分自身がよくわかっているが,

 もう一人の場合は,それがわかっていない。

 両者ともに,とても気の毒に思う。

 ブログランキング・にほんブログ村へにほんブログ村 教育ブログへにほんブログ村 教育ブログ 教師教育・教員養成へにほんブログ村 教育ブログ 教育論・教育問題へ

少人数学級よりも,複数担任制を

 賛否はあるだろうが,

 教師の人数を増やすのであれば,

 生徒数は変えず,複数担任制にする,という方法もある。

 中学校では,1日おきで学級指導をするとか,

 学期ごとに主・副を交代するとか,

 学習担当と生活指導担当で分けるとか,

 様々な方法が考えられる。

 小学校では,TTにするとか,得意教科を分担して指導するなどの工夫ができる。

 複数担任制の肝は,

 二人のチームワークである。

 小学校にしろ,中学校にしろ,ペアになった2人が,

 仲良くチームとして動いていけるだろうか。

 無理か・・・。

 ベテランと若い人を組み合わせて,「見て学ばせる」のを狙いとすることも考えられるが,

 二人の連携が上手にいくかどうかが重要である。

 問題はたくさん起こり得る。

 二人の間で評価の基準が異なっていると,なぜYさんは5で,Zさんは4なのか?

 などと,もめごとが起こりかねない。

 これを子どもから見ると,どういう意味があるのか?

 複数の評価を得られることで,より精度の高いものを期待することもできるかもしれない。

 Aという担任は苦手だが,Bという担任なら,悩み事も相談できそう,という生徒がでてくるかもしれない。

 子どもにとって,わずかだが「選択の機会」が生まれることは,「自分」を意識できる絶好の機会になるかもしれない。


ブログランキング・にほんブログ村へにほんブログ村 教育ブログへにほんブログ村 教育ブログ 教師教育・教員養成へにほんブログ村 教育ブログ 教育論・教育問題へ

35人学級ならではの悲劇

 少人数にすれば,教育効果が上がる,というのは,

 教師の質が同じであることが前提である。

 1学年が36人だと,2学級になる。

 ある県では,大きな予算を確保して,30人学級を進めているそうだ。

 しかし,私の理解では,その予算は「臨時的な教員の確保」に使われている。

 1学年が31人だと,16人・15人の2学級になる。

 1学年が61人だと,21人・20人・20人の3学級になる。

 小学校の場合,1人の担任はベテランで,あとのクラスは初任者とか,常勤講師になったりする。

 もちろん,初任者や常勤講師の中にも,手抜きだけを覚えたベテランや暴言教師よりも「いい先生」はたくさんいるが,

 保護者だったら自分の子どもの担任はどっちであってほしいと願うか。

 言うまでもない。

 1学年31人で,1人の教師が受け持ってくれた方が,すべて丸く収まったのに・・・・

 なんていう嘆きの声が聞こえてくる。

 小学校は,おおげさな話ではなく,「人生の運命の分かれ道」になるかもしれないところである。

 たった一人の大人と,大部分の時間を学校で過ごすことになるのだから。

 私自身,小学校3,4年の担任が,隣の組の教師だったら,今の私はないと確信している。

 力がある教師にとっては,16人も31人も同じである。

 31人の方が効果が上がる,なんてことも不可能ではない。

 教育は,数ではなくて,質である。

 
ブログランキング・にほんブログ村へにほんブログ村 教育ブログへにほんブログ村 教育ブログ 教師教育・教員養成へにほんブログ村 教育ブログ 教育論・教育問題へ

やらせコメント ~教育の基本姿勢~

 こんなコメントをいただきました。

**************
 
 先生という仕事は大変ですよね。

 問題行動を繰り返し,事情を聴くと嘘ばかりつく,

 そういう子どもの面倒を見続けている。

 「面倒を見る」・・・・文字通りの仕事です。

 先生は,その子どもがやっていることの背景が見えているのですね。

 どうして,この子は,こんな行動をとったり,嘘をついたりしているのか。

 親も含めて,「だれも味方がいない」人間の心を知っているのですね。

 子どもから見ると,

 いつも注意をしてくる,叱ってくる,こういう人間は「敵」のように

 思えるかもしれませんが,いつか気づくでしょうね。

 そういう人こそ,「味方」だってことに。


 自分で自分を守るためのやらせコメントを書きこんでも,

 「それは悪魔のささやき」にしか見えないことを分かってもらうことで,

 自己崩壊が救えるのですけどね。

 
 問題行動を繰り返す子どもと,全く同じ大人が多いこと多いこと・・・・。
 

**************

 「法律なんて,くそくらえだ!」

 などと叫んでいる生徒には,どのような言葉をかけるか,わかりますか。

>争いの解決としての最後の手段は法律である。

 なんて主張する人には,どのような声をかけるか,わかりますか。

**************

 君の主張は,正しいかもしれない。

 法律,法律と,「定めてあるからダメ」なんて言っている人間は,私も好きではない。

 この国の最高法規は何だ?

 そこで国民自らが主張しているものは何だ?

 法律違反というより先に,そこに書かれている大原則を,

 お前は破っていないか?

 そういう行動は,自分にかえってくるということがわからないか?

 人権って何だ?

 自分の主張が通らないからって,それを相手の

 「頭がおかしいからだ」

 なんて反論していても,

 それは自分で自分を辱めていることに他ならないのだぞ!

 お前の最大の敵は,お前自身だ!

 お前の心は,自己崩壊命令をお前に発している。

 法律より前に,憲法を学べ!

 最高法規で私たちが主張している大原則を知れ!

*****************

 どんなに教養のない人間でも,

 日本国憲法の精神は中学校で学んだはずである。

 人間は,価値あるものを生かせる者と,生かせない者に分かれる。

 生かせない者の中には,生かそうとしても生かせない人間と,

 生かそうとしない人間がいる。

 最低限の教育の責務は,生かそうとしなければならないことを教えることである。

ブログランキング・にほんブログ村へにほんブログ村 教育ブログへにほんブログ村 教育ブログ 教師教育・教員養成へにほんブログ村 教育ブログ 教育論・教育問題へ

« 2013年5月 | トップページ | 2013年7月 »

2021年11月
  1 2 3 4 5 6
7 8 9 10 11 12 13
14 15 16 17 18 19 20
21 22 23 24 25 26 27
28 29 30        
無料ブログはココログ

宮城谷昌光の言葉

  • 雲のうえに頂をもつ高山を登ろうとするのに、その山相のすさまじさに圧倒され、おじけづいていては何もはじまらない。最初の一歩を踏み出さねば、山頂は近づいてこない。
    「楽毅」第四巻より
  • みごとなものだ。斂(おさ)めるところは斂め、棄てるところは棄てている。楽氏が棄てたところに、われわれの生きる道がある。
    「楽毅」第四巻より
  • 去ってゆく千里の馬を追っても、とても追いつかぬぞ。千里の馬の尾をつかむには、その脚が停まったときしかない
    「楽毅」第四巻より
  • ・・・つくづく人のふしぎさを感じた。道を歩く者は、足もとの石をたしかめようとしないということである。千里のかなたを照らす宝石がころがっていても、気がつかない。それほどの名宝は深山幽谷に踏みこまなければ得られないとおもいこんでいる。
    「楽毅」第三巻より
  • この城をもっとたやすく落とすべきであった。たやすく得たものは、たやすく手放せる。
    「楽毅」第二巻より
  • なにかを信じつづけることはむずかしい。それより、信じつづけたことをやめるほうが、さらにむずかしい。
    「楽毅」第二巻より
  • からだで、皮膚で、感じるところに自身をおくことをせず、頭で判断したことに自身を縛りつけておくのは、賢明ではなく、むしろ怠慢なのではないか
    「楽毅」第二巻より
  • こうする、ああする、といちいち目的と行動とを配下におしえつづけてゆけば、配下はただ命令を待つだけで、思考をしなくなる。この四人はいつなんどき多数の兵を指揮することになるかもしれず、そのときにそなえて自立した思考力をもつ必要がある。
    「楽毅」第二巻より
  • 人は自分の存在を最小にすることによって最大を得ることができる
    「楽毅」第三巻より
  • 勇と智とをあわせもっている者は、攻めるときよりも退くときに、なにかをなすときより、なにもなさないときに、その良質をあらわす
    「楽毅」第二巻より