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例外中の例外を例に出して問題視する人の考え方

 小学生だけでなく,中学生でも,人をたたくとき,

 力の加減を知らない子がいますよね。

 それと同じような「思考」の人がいます。

 1万分の1のために,全部変えるのと,

 2分の1のために,一部を変えるのとでは,

 どちらの方が「変える意味」がありそうでしょう?

 そういう発想が存在しない人がいるんですね。

 実は,そういう発想の人は,大学や行政にもたくさんいるのです。

 だから,「こういうこと」になってしまっている。

 足踏みをさせてはならない,ですか。

 小学校の場合,日本では幸いなことに,学校よりも充実した学習ができる場があるので,

 小学校での「遅れ」を取り戻すことはできます。

 ・・・・・しかし・・・・・天才以外にも「足踏み」させられている子どもはとにかくたくさんいるのだから,

 「それこそ」が問題なのであれば,何か提言してもらえないでしょうか・・・・?

 おいしい思いができるのは,「天才」だけなのですか???


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宮城谷昌光の言葉

  • 雲のうえに頂をもつ高山を登ろうとするのに、その山相のすさまじさに圧倒され、おじけづいていては何もはじまらない。最初の一歩を踏み出さねば、山頂は近づいてこない。
    「楽毅」第四巻より
  • みごとなものだ。斂(おさ)めるところは斂め、棄てるところは棄てている。楽氏が棄てたところに、われわれの生きる道がある。
    「楽毅」第四巻より
  • 去ってゆく千里の馬を追っても、とても追いつかぬぞ。千里の馬の尾をつかむには、その脚が停まったときしかない
    「楽毅」第四巻より
  • ・・・つくづく人のふしぎさを感じた。道を歩く者は、足もとの石をたしかめようとしないということである。千里のかなたを照らす宝石がころがっていても、気がつかない。それほどの名宝は深山幽谷に踏みこまなければ得られないとおもいこんでいる。
    「楽毅」第三巻より
  • この城をもっとたやすく落とすべきであった。たやすく得たものは、たやすく手放せる。
    「楽毅」第二巻より
  • なにかを信じつづけることはむずかしい。それより、信じつづけたことをやめるほうが、さらにむずかしい。
    「楽毅」第二巻より
  • からだで、皮膚で、感じるところに自身をおくことをせず、頭で判断したことに自身を縛りつけておくのは、賢明ではなく、むしろ怠慢なのではないか
    「楽毅」第二巻より
  • こうする、ああする、といちいち目的と行動とを配下におしえつづけてゆけば、配下はただ命令を待つだけで、思考をしなくなる。この四人はいつなんどき多数の兵を指揮することになるかもしれず、そのときにそなえて自立した思考力をもつ必要がある。
    「楽毅」第二巻より
  • 人は自分の存在を最小にすることによって最大を得ることができる
    「楽毅」第三巻より
  • 勇と智とをあわせもっている者は、攻めるときよりも退くときに、なにかをなすときより、なにもなさないときに、その良質をあらわす
    「楽毅」第二巻より