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教員養成の根本的な失敗

 学習指導の本質的な失敗の原因は,一つではなく,いくつかの「余計なお世話」が複合的に働いてくることにある。

 多くの教師は,子どもに「失敗させない」ように

 「成功体験をもたせる」ように

 「喜ばせる」ように

 「楽しませる」ように

 指導しようとする。

 これが,「子どもが育たない」原因の一つになっていることは,

 多くの人が気づいている。

 しかし,「失敗」を恐れる意識(それは子どもにとっても教師にとっても)

 が,「失敗しない」「失敗させない」授業実践を志向してしまう。

 子ども本来の成長の芽を摘んでしまうというのに。

 失敗の本質は,
 
 「これで失敗の可能性はゼロだ」なんていう教育をしていることにある。


 教師は,年をとるごとに,

 子どもの喜ぶ姿をみることに満足感を強く覚えるようになる。

 だから,「失敗させることができる」教師からはどんどんかけ離れていく。

 こういう教師が,若い教師や,これから教師になろうとする人を教育していく。

 そうやって育った教師が,いま,どんな学習指導にとびつきたくなるか,わからないでもない。

 学校現場には,隠居寸前のじいさんばあさんばかりが増えだした。

 せっかく,若い世代が入ってこようとしているのに,

 若返った感じがしない。

 学校現場における「老害」・・・・

 子どもの日に,「老人」の自己満足の記事を読んでしまって,後悔している。

 が,それを読んだから,この記事が生まれた。

 子どもたちは「置いてきぼり」なのに,

 「すべてを救った」などと自己満足に浸っている。 


 子どもにとって,やさしいおじいさん,おばあさんは,心を安定させるかけがえのない存在であるかもしれない。

 しかし,子どもを成長させるのに,必要なのは,「鍛えてくれる人」である。

 木の上に立って見ている人は,自分の仕事で精一杯である。

 だれが子どもを育ててくれるのか。

 学校は家のかわりではない。

 
 今,学習指導は「評価」とセットになっている。

 学習指導に限らないが,「評価」という魔物の前で,教育や人間が「小さく」なっていく。

 忘れられているのは「目標」なのだが,ここでは置いておく。

 「評価」と完全セットになっている学習指導は,

 「評価」を意識して行われるようになっている。

 授業が終わった後,

 「こういうふうになってほしい」

 という願いが満たされることは,すべての人に共通のように思われるが,

 本当にそうだろうか? 特に,子どもにとって。

 子どもから「引き出される」ものが,そう簡単に予想できるものなのだろうか。

 予想できるタイプの授業も,もちろんある。

 教師のかかわりが浅いか皆無の授業では,それは予想できる。

 ・・・・・・

 教育実習の場で,「若さ」の大切さを伝えてあげたい。

 大学4年間の「学び」の薄っぺらさが実感できるのが,中学校だというところが

 教育の世界のおもしろいところである。


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宮城谷昌光の言葉

  • 雲のうえに頂をもつ高山を登ろうとするのに、その山相のすさまじさに圧倒され、おじけづいていては何もはじまらない。最初の一歩を踏み出さねば、山頂は近づいてこない。
    「楽毅」第四巻より
  • みごとなものだ。斂(おさ)めるところは斂め、棄てるところは棄てている。楽氏が棄てたところに、われわれの生きる道がある。
    「楽毅」第四巻より
  • 去ってゆく千里の馬を追っても、とても追いつかぬぞ。千里の馬の尾をつかむには、その脚が停まったときしかない
    「楽毅」第四巻より
  • ・・・つくづく人のふしぎさを感じた。道を歩く者は、足もとの石をたしかめようとしないということである。千里のかなたを照らす宝石がころがっていても、気がつかない。それほどの名宝は深山幽谷に踏みこまなければ得られないとおもいこんでいる。
    「楽毅」第三巻より
  • この城をもっとたやすく落とすべきであった。たやすく得たものは、たやすく手放せる。
    「楽毅」第二巻より
  • なにかを信じつづけることはむずかしい。それより、信じつづけたことをやめるほうが、さらにむずかしい。
    「楽毅」第二巻より
  • からだで、皮膚で、感じるところに自身をおくことをせず、頭で判断したことに自身を縛りつけておくのは、賢明ではなく、むしろ怠慢なのではないか
    「楽毅」第二巻より
  • こうする、ああする、といちいち目的と行動とを配下におしえつづけてゆけば、配下はただ命令を待つだけで、思考をしなくなる。この四人はいつなんどき多数の兵を指揮することになるかもしれず、そのときにそなえて自立した思考力をもつ必要がある。
    「楽毅」第二巻より
  • 人は自分の存在を最小にすることによって最大を得ることができる
    「楽毅」第三巻より
  • 勇と智とをあわせもっている者は、攻めるときよりも退くときに、なにかをなすときより、なにもなさないときに、その良質をあらわす
    「楽毅」第二巻より