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子どもが見えない教師が成功する

 子どものことを理解しすぎていると,

 それが子どもに伝わってしまい,指導で失敗してしまうことがある。

 いじめの被害を訴えてきた子どもが,

 実はいじめる側の中核だったりするケースがある。

 子どもがしっかり見えている教師は,

 こういう子どもの「フェイク」を見破ってしまう。

 見破ってしまっていることが子どもに伝わると,指導は失敗する。

 見破られた子どもがさらに不安定になるからである。

 子どもが見えない教師は,

 子どものねらい通りに「だまされる」。

 これは,結果論で言えば,成功に終わることがある。

 「指導」に成功した,とは言えないが,結果として,いじめっ子の精神状態が安定し,

 新たないじめを生み出さなければ,成功と言える。

  ・・・・・・
 
 こういう類のアドバイスを,たとえば書物で伝えようとする。

 しかし,いくら言葉を重ねても,なかなか「役に立つ情報」にはなりにくい。

 子どもを見る・見ない,見える・見えないにかかわらず,

 そもそも子どもの話を聞こうとしない教師にこんなことを言っても意味はない。

 子どもが話しかけてくるような教師でないと,意味はない。

 子どもが見えていないのに,見えていると誤解している教師が

 こういう話を読んだら,余計に話をこじらせる結果になるおそれがある。

 実際の指導場面では,

 必ず複数の教員の意見を求めることが大切である。

 いい学年集団,教師集団というのは,必ず「意見の対立」が生まれる。

 ある教師はAだと言い,別の教師は正反対のBだと主張する。

 教育の難しさは,「正解」がそもそもないか,

 状況によって簡単に「正解」が変化するからである。

 指導力不足の教師は,ただ「慎重に」と言っているだけで,

 自分の意見は言わない。こういうのを相手にするのは時間の無駄である。

 慎重に考えたいから,他の教師の意見を聞いているのである。


 意見の相違は,そもそも教育という仕事の前提だと言っていい。

 指導力をつけるために必要なことは,協力を得ることである。

 昔もこのブログで意見交換をしたことがあるが,

 指導力の高い教師は,人を動かすのが上手な教師だという面がある。

 つまり,実際の行動は別の教師がとっていて,ことがうまく運んでいる。

 もしものときに,出られるような準備だけしておく。

 こういう教師は,実績がない,と見られることもあるが,教員の評価の観点は,

 個人だけをとりあげて評価することができないものがあり,そういう部分こそが今の教師に求められている,ということである。

 チームで問題を解決する,という観点である。

 指導力不足教員でも,現場で役立てる部分があることがご理解いただけただろうか。


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  • 雲のうえに頂をもつ高山を登ろうとするのに、その山相のすさまじさに圧倒され、おじけづいていては何もはじまらない。最初の一歩を踏み出さねば、山頂は近づいてこない。
    「楽毅」第四巻より
  • みごとなものだ。斂(おさ)めるところは斂め、棄てるところは棄てている。楽氏が棄てたところに、われわれの生きる道がある。
    「楽毅」第四巻より
  • 去ってゆく千里の馬を追っても、とても追いつかぬぞ。千里の馬の尾をつかむには、その脚が停まったときしかない
    「楽毅」第四巻より
  • ・・・つくづく人のふしぎさを感じた。道を歩く者は、足もとの石をたしかめようとしないということである。千里のかなたを照らす宝石がころがっていても、気がつかない。それほどの名宝は深山幽谷に踏みこまなければ得られないとおもいこんでいる。
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  • この城をもっとたやすく落とすべきであった。たやすく得たものは、たやすく手放せる。
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    「楽毅」第二巻より
  • からだで、皮膚で、感じるところに自身をおくことをせず、頭で判断したことに自身を縛りつけておくのは、賢明ではなく、むしろ怠慢なのではないか
    「楽毅」第二巻より
  • こうする、ああする、といちいち目的と行動とを配下におしえつづけてゆけば、配下はただ命令を待つだけで、思考をしなくなる。この四人はいつなんどき多数の兵を指揮することになるかもしれず、そのときにそなえて自立した思考力をもつ必要がある。
    「楽毅」第二巻より
  • 人は自分の存在を最小にすることによって最大を得ることができる
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  • 勇と智とをあわせもっている者は、攻めるときよりも退くときに、なにかをなすときより、なにもなさないときに、その良質をあらわす
    「楽毅」第二巻より