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始める前から失敗することが分かっている「教職実践演習」

 文部科学省のHPに,今年から始まる,大学4年次後期の2単位の教職必修科目「教職実践演習」ができた「ねらい」が書かれている。 

******************

 教職課程の他の授業科目の履修や教職課程外での様々な活動を通じて、学生が身に付けた資質能力が、教員として最小限必要な資質能力として有機的に統合され、形成されたかについて、課程認定大学が自らの養成する教員像や到達目標等に照らして最終的に確認するものであり、いわば全学年を通じた「学びの軌跡の集大成」として位置付けられるものである。学生はこの科目の履修を通じて、将来、教員になる上で、自己にとって何が課題であるのかを自覚し、必要に応じて不足している知識や技能等を補い、その定着を図ることにより、教職生活をより円滑にスタートできるようになることが期待される。

******************

 ① 使命感や責任感、教育的愛情等に関する事項

 ② 社会性や対人関係能力に関する事項

 ③ 幼児児童生徒理解や学級経営等に関する事項

 ④ 教科・保育内容等の指導力に関する事項

 という4つの事項に関する「到達目標」=具体的にどの程度のレベルまで修得している(身に付いている)ことが必要であるかを示した基本的・共通的な指標も,示されている。

 この「到達目標」が達成されている学生のみが単位をとれる(卒業できる)ことによって,文部科学省は教員の質を確保しようとした,ということである。

 平成25年度の大学の卒業生から,

 「教員の資質・能力が到達目標に達していない人は,教員免許が取得できない」ことを宣言したわけである。

 しかし,大学の関係者でなくても,

 そう簡単に「卒業させない」「単位を出さない」決断を大学が下せるわけがないと,思うことだろう。

 「卒業できない」「単位がとれない」学生が増えれば,大学への志願者が減ることは目に見えている。

 「卒業できない」「単位がとれない」学生が増えれば,大学教員の質が問われることは,目に見えている。

 簡単すぎるほど簡単な話がある。

 そもそも大学教員の質は,どうやって担保するのか?

 大学が下した評価の妥当性は,だれがどうやって証明できるのか?

 現場に出てきて「資質・能力の不足」が確認できても,卒業してしまった大学に「送り返す」ことはできない。

 そもそも,この単位をとって実際に教育現場で働き始めるのは,

 単位を取得する大学生の何%くらいなのだろう。

 就職が決まっている大学生が,この単位を高いモチベーションをもって取得できるのならば,

 本当にいい将来の「保護者」になってくれるだろうことは期待できる。

 以下に,「到達目標」を示す。斜体の文字は,私の疑問である。

 ① 使命感や責任感、教育的愛情等に関する事項

  ○ 教育に対する使命感や情熱を持ち、常に子どもから学び、
    共に成長しようとする姿勢が身に付いている。

    *子どもがいない大学で,この資質をどう判断できるのか?

  ○ 高い倫理観と規範意識、困難に立ち向かう強い意志を持ち、
   自己の職責を果たすことができる。

    *普通の倫理観や規範意識と,「高い」倫理観や規範意識の
     差はどうやって判断するのか?
   

  ○ 子どもの成長や安全、健康を第一に考え、適切に行動すること
    ができる。

    *子どもがいない大学で,この資質をどう判断できるのか?

  ② 社会性や対人関係能力に関する事項

  ○ 教員としての職責や義務の自覚に基づき、目的や状況に応じた
   適切な言動をとることができる。

    *どこでの言動で,それが到達できたと判断できるのか?

  ○ 組織の一員としての自覚を持ち、他の教職員と協力して職務を
   遂行することができる。

    *どこでの言動で,これが到達できたと判断できるのか?

  ○ 保護者や地域の関係者と良好な人間関係を築くことができる。

    *どこでの言動で,それが到達できたと判断できるのか?

 ③ 幼児児童生徒理解や学級経営等に関する事項

  ○ 子どもに対して公平かつ受容的な態度で接し、豊かな人間的
    交流を行うことができる。

   *子どもがいない大学で,この資質をどう判断できるのか?

  ○ 子どもの発達や心身の状況に応じて、抱える課題を理解し、
   適切な指導を行うことができる。

   *子どもがいない大学で,この資質をどう判断できるのか?

  ○ 子どもとの間に信頼関係を築き、き、(ママ)学級集団を把握して、
   規律ある学級経営を行うことができる。

   *子どもがいない大学で,この資質をどう判断できるのか?

 ④ 教科・保育内容等の指導力に関する事項

  ○ 教科書の内容を理解しているなど、学習指導の基本的事項
   (教科等の知識や技能など)を身に付けている。

  ○ 板書、話し方、表情など授業を行う上での基本的な表現力を身に
   付けている。

  ○ 子どもの反応や学習の定着状況に応じて、授業計画や学習形態
   等を工夫することができる。

   *子どもがいない大学で,この資質をどう判断できるのか?


 いずれも,大学にいても判断しようがない目標ばかりである。

 現場の要望としては,教育実習期間中に知り得たことを,この実践演習の中で事例として出すことだけはやめてほしい。守秘義務違反となる。

 文科省のHPの文字の誤りは,やはり恥である。

 文科省内でもまともなチェック機能が働いていないことが分かる。


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宮城谷昌光の言葉

  • 雲のうえに頂をもつ高山を登ろうとするのに、その山相のすさまじさに圧倒され、おじけづいていては何もはじまらない。最初の一歩を踏み出さねば、山頂は近づいてこない。
    「楽毅」第四巻より
  • みごとなものだ。斂(おさ)めるところは斂め、棄てるところは棄てている。楽氏が棄てたところに、われわれの生きる道がある。
    「楽毅」第四巻より
  • 去ってゆく千里の馬を追っても、とても追いつかぬぞ。千里の馬の尾をつかむには、その脚が停まったときしかない
    「楽毅」第四巻より
  • ・・・つくづく人のふしぎさを感じた。道を歩く者は、足もとの石をたしかめようとしないということである。千里のかなたを照らす宝石がころがっていても、気がつかない。それほどの名宝は深山幽谷に踏みこまなければ得られないとおもいこんでいる。
    「楽毅」第三巻より
  • この城をもっとたやすく落とすべきであった。たやすく得たものは、たやすく手放せる。
    「楽毅」第二巻より
  • なにかを信じつづけることはむずかしい。それより、信じつづけたことをやめるほうが、さらにむずかしい。
    「楽毅」第二巻より
  • からだで、皮膚で、感じるところに自身をおくことをせず、頭で判断したことに自身を縛りつけておくのは、賢明ではなく、むしろ怠慢なのではないか
    「楽毅」第二巻より
  • こうする、ああする、といちいち目的と行動とを配下におしえつづけてゆけば、配下はただ命令を待つだけで、思考をしなくなる。この四人はいつなんどき多数の兵を指揮することになるかもしれず、そのときにそなえて自立した思考力をもつ必要がある。
    「楽毅」第二巻より
  • 人は自分の存在を最小にすることによって最大を得ることができる
    「楽毅」第三巻より
  • 勇と智とをあわせもっている者は、攻めるときよりも退くときに、なにかをなすときより、なにもなさないときに、その良質をあらわす
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    「歴史の活力」より
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  • 都邑が矩形であるのは、この大地が巨大な矩形であると想像するところからきている。したがってかぎりない天地と形容するのは正確さに欠ける。大地にはかぎりがある。ただし大地は四方を高い壁でかこまれているわけではない。とにかく独創とか創見というものは、思考が狭い矩形をもたぬということではないか。人はいつのまにか思考を防衛的にしてきた。他者を拒絶しがちである。思考の四方に感情という壁を立てて、他者と共有してきた天を極端にせばめてしまった。
    「子産(下)」より
  • 人というものは、恩は忘れるが、怨みは忘れぬ。
    「孟嘗君 5」より
  • 人はたれにもあやまちがあります。あやまちを犯しても改めれば、これほど善いことはありません。『詩』に、初めはたれでも善いが、終わりを善くする者は鮮(すくな)い、とあるように、あやまちをおぎなう者はすくないのです。
    「沙中の回廊(下)」より
  • 「わたしは侈っている者を烈しく憎まない。なぜなら侈っている者はおのずと滅ぶ。が、なまけている者はどうか。わたしはなまけている者をもっとも憎む」
    「沙中の回廊(下)」より
  • 人を得ようとしたければ、まずその人のために勤めねばならぬ。すなわち、晋が諸侯を従えたいのであれば、諸侯のために骨折りをしなければならない。
    「子産(上)」より
  • 知るということは、活かすということをして、はじめて知るといえる。
    「青雲はるかに(上)」より
  • 師はつねに偉く、弟子はつねに劣っているものでもない。弟子の美点に敬意をいだける師こそ、真に師とよんでさしつかえない人なのではないか。
    「孟嘗君 2」より
  • 人を家にたとえると、目は窓にあたる。窓は外光や外気を室内にとりいれるが、室内の明暗をもうつす。そのように目は心の清濁や明暗をうつす。
    「孟嘗君 2」より
  • 人にものごとを問うということは、質問そのものに、問うた者の叡知があらわれるものである。
    「孟嘗君 3」より
  • 人から嫌われることを、避けようとする者は、心の修養ができていないことである。
    「中国古典の言行録」より
  • 人を利用すれば、かならず人に利用される。・・・企てというのは、人に頼ろうとする気が生じたとき、すでに失敗しているといってよい。
    「太公望 中」より
  • 与えられてばかりで、与えることをしないことを、むさぼると申します。むさぼった者は、なべて終わりがよくない
    「孟夏の太陽」より
  • ・・・料理をつくりながら、人と組織とをみきわめたのか。素材が人であれば、素材を合わせてつくった料理が組織である。それ自体はにがく、からいものでも、他の素材と合わされば、うまさを引きだすことができる。煮るとか蒸すとかいうことが、政治なのかもしれない。
    「太公望 中」より
  • 他人を変革するためには、まず自己を改革しなければならね。
    「太公望 中」より
  • 人が何かを得るには、二通りあります。与えられるか、自分で取るかです。(中略)与えられることになれた者は、その物の価値がわからず、真の保有を知りませんから、けっきょく豊さに達しないのです。
    「奇貨居くべし 春風篇」より
  • みじかいなわしかついていないつるべでは、深い井戸の水を汲むことはできない。
    「奇貨居くべし 黄河編」より
  • 人は目にみえるものを信じるが、そのことにはかぎりがあり、けっきょく、人が本当に信じるものは、目にみえぬものだ
    「晏子」第二巻より
  • 人にはそれぞれこだわりがあり、そのこだわりを捨てて、変化してゆく現実や環境に順応してゆくことの、何とむずかしいことか。
    「奇貨居くべし 飛翔篇」より
  • 失敗を心中でひきずりつづけると、起死回生の機をとらえそこなう。それは戦場における教訓にすぎないともいえるが、大きな勝利とは、相手の失敗につけこむのではなく、自分の失敗を活かすところにある。楽毅の信念はそうである。
    「楽毅」第四巻より
  • 人の頭脳のなかの眼力は、木の幹にあたるであろうが、幹をささえるものは知識という葉ではない。根である。根は地上の者ではどうすることもできない伸びかたをする。その根は天から落ちてくる水を吸い、人からあたえられる水も吸って太ってゆく。
    「奇貨居くべし 春風篇」より
  • 大木にするためには、幹の生長に目をうばわれがちであるが、地中の根を大きく張らせることを忘れてはならない。花を咲かせることをいそぐと、花のあとの結実をおろそかにしてしまう。要するに、大木でなければ豊かな実をつけないということである。
    「奇貨居くべし 春風篇」より
  • あらゆる事態を想定して準備を怠らず、変化に対応できるようなトップでいなければならない。
    「中国古典の言行録」より