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汗をかくことを忘れた教師と子どもたち

 教育現場において,効率だの,合理化だのは,

 それなりの経験を経た人間が考えることである。

 今は,若い人に限らず,「余計な労力は一切使わない真理教」の信者になっており,

 だれもが飛びつくような話だ。

 仕事ができる先生をよく観察してみたらいい。

 若い人も,ベテランも,本当によく「動く」「働く」はずである。

 仕事ができない人をよく観察してみたらいい。

 若い人だけでなく,ベテランも,仕事がないはずである。忙しくなりようがない。

 効率よく働くには,効率よく働かなければならないほどの仕事をつくらなければならない。

 それだけの仕事が任されるよう,実績を残さなければならない。

 教師が教師を信頼するのは,「仕事らしい仕事をしてくれる」からである。

 「効率よくこなしてくれるから」ではない。

 「効率重視」は,そもそも仕事への「真剣さ」を失わせる。

 表計算ソフトによる成績処理の誤りが多いのは,そのためである。

 まだ誤りに気づくほどの大きな誤りだから,

 誤りは「表」に出ているが,そうなっていない誤りは山のようにあるだろう。

 笑い話にもならないが,

 自分が開発した仕組みを使っているのは自分だけだった,

 なんてことも学校では起こりかねない。

 学校には,教師と子どもとで「ともに汗をかく」という文化があった。

 その背景には,教師と教師とで「ともに汗をかく」という文化があったのだ。

 それが,いつからか,「教師は忙しい」から,

 いい仕事ができない,という話が「信じられる」ようになってしまった。

 「教師多忙真理教」である。

 しかし,職員室を1日観察しているだけで,そんなことは幻想であることがよく分かる。

 
 困ったことは,教師が「汗をかきたくない」ことを子どもに堂々と表明するようになったことである。

 「汗をかかない」教師を,子どもたちはあてにしなくなる。

 子どもを文字通り,自立させる,そこが本来のねらいであったとしたら,それはそれでよい「指導法」になるかもしれない。

 しかし,子どもも「汗をかかない」習慣がついたときは,それこそ「亡国」への近道になりかねない。

 少なくとも教科の授業では,教師は教師の仕事をしなければならない。

 子どもたちの「学び合い」の場は,教科以外でいくらでもある。

 「この程度まででよかろう。みんなできれば」というのが今の「評価」の考え方だから,

 授業のレベルはどんどん下がっているが,

 そういう授業をするために教師を志望する人はごくわずかだろう。

 効率よく仕事をこなす,というのは,

 子ども「切り捨て」と全く同じ意味になっていないか,まずは自問自答してみるべきである。

 
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宮城谷昌光の言葉

  • 雲のうえに頂をもつ高山を登ろうとするのに、その山相のすさまじさに圧倒され、おじけづいていては何もはじまらない。最初の一歩を踏み出さねば、山頂は近づいてこない。
    「楽毅」第四巻より
  • みごとなものだ。斂(おさ)めるところは斂め、棄てるところは棄てている。楽氏が棄てたところに、われわれの生きる道がある。
    「楽毅」第四巻より
  • 去ってゆく千里の馬を追っても、とても追いつかぬぞ。千里の馬の尾をつかむには、その脚が停まったときしかない
    「楽毅」第四巻より
  • ・・・つくづく人のふしぎさを感じた。道を歩く者は、足もとの石をたしかめようとしないということである。千里のかなたを照らす宝石がころがっていても、気がつかない。それほどの名宝は深山幽谷に踏みこまなければ得られないとおもいこんでいる。
    「楽毅」第三巻より
  • この城をもっとたやすく落とすべきであった。たやすく得たものは、たやすく手放せる。
    「楽毅」第二巻より
  • なにかを信じつづけることはむずかしい。それより、信じつづけたことをやめるほうが、さらにむずかしい。
    「楽毅」第二巻より
  • からだで、皮膚で、感じるところに自身をおくことをせず、頭で判断したことに自身を縛りつけておくのは、賢明ではなく、むしろ怠慢なのではないか
    「楽毅」第二巻より
  • こうする、ああする、といちいち目的と行動とを配下におしえつづけてゆけば、配下はただ命令を待つだけで、思考をしなくなる。この四人はいつなんどき多数の兵を指揮することになるかもしれず、そのときにそなえて自立した思考力をもつ必要がある。
    「楽毅」第二巻より
  • 人は自分の存在を最小にすることによって最大を得ることができる
    「楽毅」第三巻より
  • 勇と智とをあわせもっている者は、攻めるときよりも退くときに、なにかをなすときより、なにもなさないときに、その良質をあらわす
    「楽毅」第二巻より