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自分の机を生徒に掃除させて感動する教師

 中学校の中には,生徒に教科の準備室まで掃除させるところがあるようだ。

 それも,生徒が教師の机の上まで掃除してしまうというから,これには恐れ入った。

 私が勤務していた中学校や行政の世界には,朝一番に来た人(たいていは一番若い人,年次が浅い人,なのだが)が机の上を拭く,という習慣があった。

 机の上を拭くのは,出勤してきた教師や役人である。

 生徒でも,清掃業者でもない。

 当然のことだが,机の上にはものが乗っていない状態である。

 だから他人が管理しているものに手を触れることは一切ない。

 それが,紹介されている中学校では,

 生徒が教師の机の上を片付けてしまうということだから,

 これは私にとっては全く新しい「情報」だった。

 中学校全体のことで誤解をされないようにコメントすると,

 基本的に生徒は,

 教科の準備室内を掃除させることは年2~3回ならありうるが,

 当番をつけて掃除させることはまずあり得ない。

 掃除の時間というのは,教師は担任をもっていると教室で掃除の監督をすることになるので,

 教科の準備室は空になる場合がある。

 そこに生徒だけがいる,ということはあり得ないわけだ。

 ただ,美術室とか,技術室とか,音楽室など,

 生徒が毎日使用して,ゴミが出る教室は,毎日当番が掃除する。

 そこの場所の掃除監督は,担任も含めてきちんと割り当てられているのがふつうである。

 次に,生徒が教師の机のものに

 手をふれるということは,基本的には禁止事項である。

 紹介の記事の趣旨は,

 「ときめかないものは捨てる」という内容だから,

 一瞬どっきりしたが,

 ただ「生徒が上手に片付けてくれるので感動」というだけだったのですこしほっとした。

 ほっとした後,

 こういう生徒を「教師のお世話係」的に使う発想が,

 「子どもを教師の道具に使う」という

 教育の世界に広く見られる悪癖の典型例であると気づいた。

 学校には,世間の常識とはかけ離れていることが多い。

 上の「悪癖」のような世間の常識では考えられないことが,

 「学校の常識」になってしまっていることに,

 少しでも多くの教師に気づいていただきたい。

 「恥を知れ」という言葉をプレゼントしておきたい。

 この記事が,
 
 「教師の机の上に置かれている書類はすべて捨ててよい」

 という提案なら大賛成である。

 学校から,「汚い教師の机」は一掃されるだろう。

 「ときめかない」ものは,学校からなくなっていくというのは,生徒にとっても好都合であろう。

 感動を求めて仕事をしているような自己満足型教師は,

 学校現場には必ずいると断言しておこう。

 しかし,それは多数派では決してない。

 感動は,後から勝手についてくるものである。

 学校の教師は,子どもの成長のために仕事をしている。


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    「楽毅」第四巻より
  • みごとなものだ。斂(おさ)めるところは斂め、棄てるところは棄てている。楽氏が棄てたところに、われわれの生きる道がある。
    「楽毅」第四巻より
  • 去ってゆく千里の馬を追っても、とても追いつかぬぞ。千里の馬の尾をつかむには、その脚が停まったときしかない
    「楽毅」第四巻より
  • ・・・つくづく人のふしぎさを感じた。道を歩く者は、足もとの石をたしかめようとしないということである。千里のかなたを照らす宝石がころがっていても、気がつかない。それほどの名宝は深山幽谷に踏みこまなければ得られないとおもいこんでいる。
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  • この城をもっとたやすく落とすべきであった。たやすく得たものは、たやすく手放せる。
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  • なにかを信じつづけることはむずかしい。それより、信じつづけたことをやめるほうが、さらにむずかしい。
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  • 知るということは、活かすということをして、はじめて知るといえる。
    「青雲はるかに(上)」より
  • 師はつねに偉く、弟子はつねに劣っているものでもない。弟子の美点に敬意をいだける師こそ、真に師とよんでさしつかえない人なのではないか。
    「孟嘗君 2」より
  • 人を家にたとえると、目は窓にあたる。窓は外光や外気を室内にとりいれるが、室内の明暗をもうつす。そのように目は心の清濁や明暗をうつす。
    「孟嘗君 2」より
  • 人にものごとを問うということは、質問そのものに、問うた者の叡知があらわれるものである。
    「孟嘗君 3」より
  • 人から嫌われることを、避けようとする者は、心の修養ができていないことである。
    「中国古典の言行録」より
  • 人を利用すれば、かならず人に利用される。・・・企てというのは、人に頼ろうとする気が生じたとき、すでに失敗しているといってよい。
    「太公望 中」より
  • 与えられてばかりで、与えることをしないことを、むさぼると申します。むさぼった者は、なべて終わりがよくない
    「孟夏の太陽」より
  • ・・・料理をつくりながら、人と組織とをみきわめたのか。素材が人であれば、素材を合わせてつくった料理が組織である。それ自体はにがく、からいものでも、他の素材と合わされば、うまさを引きだすことができる。煮るとか蒸すとかいうことが、政治なのかもしれない。
    「太公望 中」より
  • 他人を変革するためには、まず自己を改革しなければならね。
    「太公望 中」より
  • 人が何かを得るには、二通りあります。与えられるか、自分で取るかです。(中略)与えられることになれた者は、その物の価値がわからず、真の保有を知りませんから、けっきょく豊さに達しないのです。
    「奇貨居くべし 春風篇」より
  • みじかいなわしかついていないつるべでは、深い井戸の水を汲むことはできない。
    「奇貨居くべし 黄河編」より
  • 人は目にみえるものを信じるが、そのことにはかぎりがあり、けっきょく、人が本当に信じるものは、目にみえぬものだ
    「晏子」第二巻より
  • 人にはそれぞれこだわりがあり、そのこだわりを捨てて、変化してゆく現実や環境に順応してゆくことの、何とむずかしいことか。
    「奇貨居くべし 飛翔篇」より
  • 失敗を心中でひきずりつづけると、起死回生の機をとらえそこなう。それは戦場における教訓にすぎないともいえるが、大きな勝利とは、相手の失敗につけこむのではなく、自分の失敗を活かすところにある。楽毅の信念はそうである。
    「楽毅」第四巻より
  • 人の頭脳のなかの眼力は、木の幹にあたるであろうが、幹をささえるものは知識という葉ではない。根である。根は地上の者ではどうすることもできない伸びかたをする。その根は天から落ちてくる水を吸い、人からあたえられる水も吸って太ってゆく。
    「奇貨居くべし 春風篇」より
  • 大木にするためには、幹の生長に目をうばわれがちであるが、地中の根を大きく張らせることを忘れてはならない。花を咲かせることをいそぐと、花のあとの結実をおろそかにしてしまう。要するに、大木でなければ豊かな実をつけないということである。
    「奇貨居くべし 春風篇」より
  • あらゆる事態を想定して準備を怠らず、変化に対応できるようなトップでいなければならない。
    「中国古典の言行録」より