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教育の世界の常識は,「学年」から「個」へ

 道徳教育を考えてみれば一番分かりやすいかもしれない。

 小学校1年生がきちんとできる挨拶が,

 中学校1年生にはできなかったりする。

 小学校1年生のときにできていた挨拶が,

 中学校1年生になると,できなくなっていたりする。

 これを,学年としての特徴と捉えてきたのが,今までの教育観である。

 これからの教育は,

 そうやって「学年」とか「学級」というフィルターで子どもを見るのではなく,

 「だれだれさん」がどうである,という「個」を重視したものに変わっていくとよい。

 「個」は「個性」と書いてもよいのだが,

 「個性」から想像されるイメージが人によって大きく異なるため,ここでは「個人」という意味に近い「個」としておく。

 今までの教育観では,

 「小学校何年生」という「イメージ」が先にあって,

 その「イメージ」からはずれる子どもに対して,

 「小学校何年生なのに」という見方をすることが多かった。

 教師は,「小学校何年生」というのはこういう学年だから,

 こういう指導をしよう,

 という話になっていた。
 
 しかし,これでは教育が成り立たなくなった。

 
 これからの教育観は,

 発想が逆になる。

 「だれだれさん」は,こういう「小学校何年生」である。

 こうなると,

 「小学校何年生」という言葉では,「小学校何年生」が説明できなくなる。

 本来,それが当然のことである。

 当たり前と言えば,当たり前すぎる話だ。


 学習指導要領では,たいてい

 小学校は低学年・中学年・高学年ごとに

 目標や内容が決まっている。

 これは,小学校3年生でも小学校4年生の学習ができる,

 ということを示している。

 極少人数の学校では,実際にそういう教育が行われている。


 「だれだれさん」という「個」の能力を中心にすえて教育をしよう,という発想になれば,

 「飛び級をさせても当然」という理解が得られやすくなる。

 ただし,それは「能力」が見えやすい教科だけに限った話であるが。

 
 ここで,30人もいる学級では無理だ,という話を耳にする。

 では,教師の数を3倍にして,生徒10人ならできるのか?と聞けば,

 「できます」なんて言葉は帰ってこないはずだ。

 指導力が高い教師のクラスだけなら可能かもしれないが。

 今までの日本の教育は,

 「小学校1年生」とか「小学校4年生」という枠に子どもを縛り付け,

 その枠の中で子どもの能力をとらえていたから,

 「できない子」「できる子」が同じ学年の集団の中ではっきり分けられていく。

 本当は,小学校4年生のときに「できない」ことを,小学校6年生になったら,

 2年遅れになってしまったが「できる」子どもに育てなければならないはずである。

 それが,ベルトコンベアーに乗った製品のうち,不良品がはじかれて

 捨てられてしまうか放置されてしまう教育だった。

 ベルトコンベアーのように等速で決められた方向に向かって子どもは成長するわけではないが,

 同じ目標を掲げて教育しているわけであるから,途中でベルトから外された子どもを

 放置しておいてはならないはずである。


 全員が,別々のベルトコンベアーに乗っているイメージを想像してほしい。

 それぞれの速度が異なる。

 1本のベルトコンベアーの速度も,時間で異なる。

 それが「本来の子ども」であろう。


 私たち中学校の教師は,たった3年間しか子どもを預からず,

 しかも中1と中3では全く成長の度合いが異なる集団を教えている。

 そういう中学校で,「同学年同内容」の教科指導を行っていく根拠は,

 小学校で基礎基本が定着していることにある。

 ところが実態は,小学生の学力調査の結果を見れば,明らかであろう。

 中学校教師が何を言いたいかは,書くまでもないだろう。

 同じことを6回繰り返してでも,

 習得させておかなければならないことがある,という強い自覚がほしい。

 小3でやったから,小4ではやらない,なんていう「メンツ」を捨てることが,

 小学校改革では絶対に必要である。

 「習得」「活用」「探究」のサイクルがなぜ注目されているかを考えてほしい。

 「習得」されているものがなければ「活用」はできないのである。

 

 小中連携事業で大切なことは,小学校が上に掲げた教育観を強く自覚してくれることである。

 それを自覚してくれれば,放課後にできることがいくらでもあるだろう。

 
 堂々と,勤務時間中に児童と向き合うことが可能である。

 
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コメント

小学校の教師は,基本的に

商店街の中の店の経営者みたいなもので,

自分の店だけで特売セールを始めてもかまわないのに,

商店会長からクレーム・・・ということは,どこかの店のクレームで,

おじゃんになったりする。

自分のクラスで「補習」を始めれば,

他のクラスの担任が文句を言う。

自分の学年で「補習」を始めれば,

他の学年の担任が文句を言う。

中世の荘園の農民のつらさがここにあるのですね。

強力な戦国武将の登場を待ちたいところです。

もちろん,校長のことですが。

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宮城谷昌光の言葉

  • 雲のうえに頂をもつ高山を登ろうとするのに、その山相のすさまじさに圧倒され、おじけづいていては何もはじまらない。最初の一歩を踏み出さねば、山頂は近づいてこない。
    「楽毅」第四巻より
  • みごとなものだ。斂(おさ)めるところは斂め、棄てるところは棄てている。楽氏が棄てたところに、われわれの生きる道がある。
    「楽毅」第四巻より
  • 去ってゆく千里の馬を追っても、とても追いつかぬぞ。千里の馬の尾をつかむには、その脚が停まったときしかない
    「楽毅」第四巻より
  • ・・・つくづく人のふしぎさを感じた。道を歩く者は、足もとの石をたしかめようとしないということである。千里のかなたを照らす宝石がころがっていても、気がつかない。それほどの名宝は深山幽谷に踏みこまなければ得られないとおもいこんでいる。
    「楽毅」第三巻より
  • この城をもっとたやすく落とすべきであった。たやすく得たものは、たやすく手放せる。
    「楽毅」第二巻より
  • なにかを信じつづけることはむずかしい。それより、信じつづけたことをやめるほうが、さらにむずかしい。
    「楽毅」第二巻より
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    「楽毅」第二巻より
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    「楽毅」第二巻より
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    「春秋の名君」より
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    「歴史の活力」より
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    「奇貨居くべし 春風篇」より
  • 外をもって仕えている者は信用するに足りぬ。つまり男でも女でも内なる容姿というものがあり、その容姿のすぐれている者こそ、依恃(いじ)にあたいする。
    「奇貨居くべし 春風篇」より
  • 橘という木があります。この木が淮水の南に生ずれば、すなわち橘となります。ところが淮水の北に生ずれば、すなわち枳となります。葉は似ておりますが、実のあじわいはことなります。なにゆえにそうなるかと申しますと、水と土がちがうからです。そのように、その者は斉で生まれ育ったときは盗みをしなかったのに、楚にはいって盗みをしたのです。楚の水と土は、民に盗みをうまくさせようとするところがありませんか
    「晏子」(第四巻)より
  • 倹より奢に入るは易く、奢より倹に入るは難し
    「中国古典の言行録」より
  • 礼儀という熟語がある。礼とは万物を成り立たせている根元に人がどうかかわるかという哲理のことで、儀とは礼をどう表現するかというレトリックをいう。その二つが組み合わさって礼儀ということばが生まれた。
    「春秋の色」より
  • 都邑が矩形であるのは、この大地が巨大な矩形であると想像するところからきている。したがってかぎりない天地と形容するのは正確さに欠ける。大地にはかぎりがある。ただし大地は四方を高い壁でかこまれているわけではない。とにかく独創とか創見というものは、思考が狭い矩形をもたぬということではないか。人はいつのまにか思考を防衛的にしてきた。他者を拒絶しがちである。思考の四方に感情という壁を立てて、他者と共有してきた天を極端にせばめてしまった。
    「子産(下)」より
  • 人というものは、恩は忘れるが、怨みは忘れぬ。
    「孟嘗君 5」より
  • 人はたれにもあやまちがあります。あやまちを犯しても改めれば、これほど善いことはありません。『詩』に、初めはたれでも善いが、終わりを善くする者は鮮(すくな)い、とあるように、あやまちをおぎなう者はすくないのです。
    「沙中の回廊(下)」より
  • 「わたしは侈っている者を烈しく憎まない。なぜなら侈っている者はおのずと滅ぶ。が、なまけている者はどうか。わたしはなまけている者をもっとも憎む」
    「沙中の回廊(下)」より
  • 人を得ようとしたければ、まずその人のために勤めねばならぬ。すなわち、晋が諸侯を従えたいのであれば、諸侯のために骨折りをしなければならない。
    「子産(上)」より
  • 知るということは、活かすということをして、はじめて知るといえる。
    「青雲はるかに(上)」より
  • 師はつねに偉く、弟子はつねに劣っているものでもない。弟子の美点に敬意をいだける師こそ、真に師とよんでさしつかえない人なのではないか。
    「孟嘗君 2」より
  • 人を家にたとえると、目は窓にあたる。窓は外光や外気を室内にとりいれるが、室内の明暗をもうつす。そのように目は心の清濁や明暗をうつす。
    「孟嘗君 2」より
  • 人にものごとを問うということは、質問そのものに、問うた者の叡知があらわれるものである。
    「孟嘗君 3」より
  • 人から嫌われることを、避けようとする者は、心の修養ができていないことである。
    「中国古典の言行録」より
  • 人を利用すれば、かならず人に利用される。・・・企てというのは、人に頼ろうとする気が生じたとき、すでに失敗しているといってよい。
    「太公望 中」より
  • 与えられてばかりで、与えることをしないことを、むさぼると申します。むさぼった者は、なべて終わりがよくない
    「孟夏の太陽」より
  • ・・・料理をつくりながら、人と組織とをみきわめたのか。素材が人であれば、素材を合わせてつくった料理が組織である。それ自体はにがく、からいものでも、他の素材と合わされば、うまさを引きだすことができる。煮るとか蒸すとかいうことが、政治なのかもしれない。
    「太公望 中」より
  • 他人を変革するためには、まず自己を改革しなければならね。
    「太公望 中」より
  • 人が何かを得るには、二通りあります。与えられるか、自分で取るかです。(中略)与えられることになれた者は、その物の価値がわからず、真の保有を知りませんから、けっきょく豊さに達しないのです。
    「奇貨居くべし 春風篇」より
  • みじかいなわしかついていないつるべでは、深い井戸の水を汲むことはできない。
    「奇貨居くべし 黄河編」より
  • 人は目にみえるものを信じるが、そのことにはかぎりがあり、けっきょく、人が本当に信じるものは、目にみえぬものだ
    「晏子」第二巻より
  • 人にはそれぞれこだわりがあり、そのこだわりを捨てて、変化してゆく現実や環境に順応してゆくことの、何とむずかしいことか。
    「奇貨居くべし 飛翔篇」より
  • 失敗を心中でひきずりつづけると、起死回生の機をとらえそこなう。それは戦場における教訓にすぎないともいえるが、大きな勝利とは、相手の失敗につけこむのではなく、自分の失敗を活かすところにある。楽毅の信念はそうである。
    「楽毅」第四巻より
  • 人の頭脳のなかの眼力は、木の幹にあたるであろうが、幹をささえるものは知識という葉ではない。根である。根は地上の者ではどうすることもできない伸びかたをする。その根は天から落ちてくる水を吸い、人からあたえられる水も吸って太ってゆく。
    「奇貨居くべし 春風篇」より
  • 大木にするためには、幹の生長に目をうばわれがちであるが、地中の根を大きく張らせることを忘れてはならない。花を咲かせることをいそぐと、花のあとの結実をおろそかにしてしまう。要するに、大木でなければ豊かな実をつけないということである。
    「奇貨居くべし 春風篇」より
  • あらゆる事態を想定して準備を怠らず、変化に対応できるようなトップでいなければならない。
    「中国古典の言行録」より