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非常勤講師の賃金引き上げを!

 カルロスさんがブログの中で,

 産休や病休の教員が多い学校で,

 非常勤講師がとてもいい働きをして子どもの教育を支えてくれている,

 という話を書かれていたが,
  
 こういう学校は実際に少なくないと思われる。

 私が2校目に勤務した学校では,

 手当も出ない部活動のめんどうまで,本当に熱心にしてくれた講師の方がいた。

 正規の教員は我先に家路につくのに,遅くまで生徒と学校に残ってくれていたのは講師の方だった。

 現在の学校でも,

 他の仕事と二足のわらじで活躍している講師の方がいる。

 講師の採用は,私の知る限りでは正規の教員のように行政が割り振るのではなく,
 
 管理職が評判や,つて・・・・分かりやすく言えば「コネ」をつかって・・・・

 探し出し,非常に安い賃金を詫びながら,お願いをするのである。

 当然,非常勤講師の中には,「指導力が低い」人もいる。

 1年契約が普通だから,非常勤講師が交代する場合は,そういう判断がなされたと考えればよい。

 管理職は,「いい非常勤講師」を「少しでも早く」確保しようと努力しているが,

 突然の「産休」や「病休」には対応しにくい。

 
 話は変わる。

 昔,

 正規の教員と非常勤講師の「違い」を

 情熱をこめて主張している人がいたが,

 こういう「態度」を,ある「角度」からながめたら,どう思うと感じるか?

 ということに「思い」がいたらない人間が,

 教育現場にはいるのである。

 いろんなことに「思い」がいたる人というのは,

 過剰に気にしすぎて,仕事ができなくなるほどに心を痛めることがあるのが,

 まったく「思い」がいたらない人というのは,

 仕事をさせられない状態になっても,

 自分は仕事ができると思い込んで決して自分の考えを譲ろうとしない。

 指導力不足教員の「研修」担当になっている人間が,

 いかにたいへんか,想像していただくことは可能だろうか。

 私はこのブログ上で,その大変さが伝わるように,努力してきたという一面がある。

 教育界で本当に手を焼いているのは,

 子どもではなく教員だという実態をご理解いただき,

 学校の「外部評価」の制度を活用して,ぜひとも

 「そういう先生」を変えるきっかけをつくってほしい,というのが

 私の願いである。

 大きな問題を発生させる前に。

 「研修扱い」になる教員は,

 多くの教員が「やっぱりね」「とうとうか」という感想をもつのである。

 「研修扱い」になる前に,職場で何とかしてほしい。

 それも,生徒や保護者,第三者をまきこんでである。

 こんな教員の「穴埋め」として,

 必死に働いてくれる非常勤講師の方々には,感謝しなければならない。

 私は,非常勤講師の方々こそ,成果主義を導入して,

 貢献度が非常に高い方は,給与面で報われるべきだと考えている。

 正規の教員は,普通の仕事を普通にするのが当たり前だから,

 無理にAをつける必要はなく,みんなBでもよいわけだ。

 教員が山分けする分を,講師の給与増額にまわせる仕組みくらいは作るべきである。

 あの「団体」の人々が,

 「自分たちの給与を削っていいから,非常勤講師の給与増額が可能になる仕組みをつくれ」

 と主張してくれるなら,自分の中では

 「大嫌い」から「少し嫌い」くらいに「格上げ」できる。

 指導力不足で学校に勤務せず,研修を受けるだけで普通の給与をもらっている教員がいることは,市民感覚では理解に苦しむ。

 
 指導力があるのに,公務員試験という筆記試験で点がとれないためにいつまでたっても正規の教員になれない人がいる。

 筆記試験でいい点がとれたので,教員に採用してみたら本当にいい加減な授業しかできない,そんな人よりは,指導力のある非常勤講師の方がよっぽどいい,という主張は,やがて実を結ぶことになると思われる。

 教員採用のあり方を柔軟にし,よりよい人材を集める・・・・そういう政策の実現を,

 5・4・3制の研究など他の教育政策とセットにして,ぜひとも推し進めてほしい。

 

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宮城谷昌光の言葉

  • 雲のうえに頂をもつ高山を登ろうとするのに、その山相のすさまじさに圧倒され、おじけづいていては何もはじまらない。最初の一歩を踏み出さねば、山頂は近づいてこない。
    「楽毅」第四巻より
  • みごとなものだ。斂(おさ)めるところは斂め、棄てるところは棄てている。楽氏が棄てたところに、われわれの生きる道がある。
    「楽毅」第四巻より
  • 去ってゆく千里の馬を追っても、とても追いつかぬぞ。千里の馬の尾をつかむには、その脚が停まったときしかない
    「楽毅」第四巻より
  • ・・・つくづく人のふしぎさを感じた。道を歩く者は、足もとの石をたしかめようとしないということである。千里のかなたを照らす宝石がころがっていても、気がつかない。それほどの名宝は深山幽谷に踏みこまなければ得られないとおもいこんでいる。
    「楽毅」第三巻より
  • この城をもっとたやすく落とすべきであった。たやすく得たものは、たやすく手放せる。
    「楽毅」第二巻より
  • なにかを信じつづけることはむずかしい。それより、信じつづけたことをやめるほうが、さらにむずかしい。
    「楽毅」第二巻より
  • からだで、皮膚で、感じるところに自身をおくことをせず、頭で判断したことに自身を縛りつけておくのは、賢明ではなく、むしろ怠慢なのではないか
    「楽毅」第二巻より
  • こうする、ああする、といちいち目的と行動とを配下におしえつづけてゆけば、配下はただ命令を待つだけで、思考をしなくなる。この四人はいつなんどき多数の兵を指揮することになるかもしれず、そのときにそなえて自立した思考力をもつ必要がある。
    「楽毅」第二巻より
  • 人は自分の存在を最小にすることによって最大を得ることができる
    「楽毅」第三巻より
  • 勇と智とをあわせもっている者は、攻めるときよりも退くときに、なにかをなすときより、なにもなさないときに、その良質をあらわす
    「楽毅」第二巻より
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    「歴史の活力」より
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    「晏子」(第四巻)より
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  • 礼儀という熟語がある。礼とは万物を成り立たせている根元に人がどうかかわるかという哲理のことで、儀とは礼をどう表現するかというレトリックをいう。その二つが組み合わさって礼儀ということばが生まれた。
    「春秋の色」より
  • 都邑が矩形であるのは、この大地が巨大な矩形であると想像するところからきている。したがってかぎりない天地と形容するのは正確さに欠ける。大地にはかぎりがある。ただし大地は四方を高い壁でかこまれているわけではない。とにかく独創とか創見というものは、思考が狭い矩形をもたぬということではないか。人はいつのまにか思考を防衛的にしてきた。他者を拒絶しがちである。思考の四方に感情という壁を立てて、他者と共有してきた天を極端にせばめてしまった。
    「子産(下)」より
  • 人というものは、恩は忘れるが、怨みは忘れぬ。
    「孟嘗君 5」より
  • 人はたれにもあやまちがあります。あやまちを犯しても改めれば、これほど善いことはありません。『詩』に、初めはたれでも善いが、終わりを善くする者は鮮(すくな)い、とあるように、あやまちをおぎなう者はすくないのです。
    「沙中の回廊(下)」より
  • 「わたしは侈っている者を烈しく憎まない。なぜなら侈っている者はおのずと滅ぶ。が、なまけている者はどうか。わたしはなまけている者をもっとも憎む」
    「沙中の回廊(下)」より
  • 人を得ようとしたければ、まずその人のために勤めねばならぬ。すなわち、晋が諸侯を従えたいのであれば、諸侯のために骨折りをしなければならない。
    「子産(上)」より
  • 知るということは、活かすということをして、はじめて知るといえる。
    「青雲はるかに(上)」より
  • 師はつねに偉く、弟子はつねに劣っているものでもない。弟子の美点に敬意をいだける師こそ、真に師とよんでさしつかえない人なのではないか。
    「孟嘗君 2」より
  • 人を家にたとえると、目は窓にあたる。窓は外光や外気を室内にとりいれるが、室内の明暗をもうつす。そのように目は心の清濁や明暗をうつす。
    「孟嘗君 2」より
  • 人にものごとを問うということは、質問そのものに、問うた者の叡知があらわれるものである。
    「孟嘗君 3」より
  • 人から嫌われることを、避けようとする者は、心の修養ができていないことである。
    「中国古典の言行録」より
  • 人を利用すれば、かならず人に利用される。・・・企てというのは、人に頼ろうとする気が生じたとき、すでに失敗しているといってよい。
    「太公望 中」より
  • 与えられてばかりで、与えることをしないことを、むさぼると申します。むさぼった者は、なべて終わりがよくない
    「孟夏の太陽」より
  • ・・・料理をつくりながら、人と組織とをみきわめたのか。素材が人であれば、素材を合わせてつくった料理が組織である。それ自体はにがく、からいものでも、他の素材と合わされば、うまさを引きだすことができる。煮るとか蒸すとかいうことが、政治なのかもしれない。
    「太公望 中」より
  • 他人を変革するためには、まず自己を改革しなければならね。
    「太公望 中」より
  • 人が何かを得るには、二通りあります。与えられるか、自分で取るかです。(中略)与えられることになれた者は、その物の価値がわからず、真の保有を知りませんから、けっきょく豊さに達しないのです。
    「奇貨居くべし 春風篇」より
  • みじかいなわしかついていないつるべでは、深い井戸の水を汲むことはできない。
    「奇貨居くべし 黄河編」より
  • 人は目にみえるものを信じるが、そのことにはかぎりがあり、けっきょく、人が本当に信じるものは、目にみえぬものだ
    「晏子」第二巻より
  • 人にはそれぞれこだわりがあり、そのこだわりを捨てて、変化してゆく現実や環境に順応してゆくことの、何とむずかしいことか。
    「奇貨居くべし 飛翔篇」より
  • 失敗を心中でひきずりつづけると、起死回生の機をとらえそこなう。それは戦場における教訓にすぎないともいえるが、大きな勝利とは、相手の失敗につけこむのではなく、自分の失敗を活かすところにある。楽毅の信念はそうである。
    「楽毅」第四巻より
  • 人の頭脳のなかの眼力は、木の幹にあたるであろうが、幹をささえるものは知識という葉ではない。根である。根は地上の者ではどうすることもできない伸びかたをする。その根は天から落ちてくる水を吸い、人からあたえられる水も吸って太ってゆく。
    「奇貨居くべし 春風篇」より
  • 大木にするためには、幹の生長に目をうばわれがちであるが、地中の根を大きく張らせることを忘れてはならない。花を咲かせることをいそぐと、花のあとの結実をおろそかにしてしまう。要するに、大木でなければ豊かな実をつけないということである。
    「奇貨居くべし 春風篇」より
  • あらゆる事態を想定して準備を怠らず、変化に対応できるようなトップでいなければならない。
    「中国古典の言行録」より