ウェブページ

最近のトラックバック

本の検索・注文


  • サーチする:
    Amazon.co.jp のロゴ

« 2013年4月 | トップページ | 2013年6月 »

2013年5月

「らしく」なるタイミング

 教育実習生が,「教師らしく」なる,

 学級委員が,「学級委員らしく」なるときがある。

 ともに,「ピンチをチャンスに変える」ときである。

 学級委員レベルの中学生だけでなく,教育実習に来る大学生の中にも

 「心理的プレッシャーに弱い人」がいるから,

 いつでも効果的とは限らないが,

 人を見て,「追い込み系プレッシャー」をかける。

 これが「パワハラ」と批判されてしまうようになると,教師を続けていくのが難しい。

 プレッシャーのない環境で育った「リーダー」の弱さは,毎年のように目にしている。

 プレッシャーをはねのけるアスリートの哲学を道徳で学ぶ機会を増やしても,

 状況は変わらないおそれがあるのだ。

 プレッシャーをかける人間がいなければ,何も始まらない。

 
 教育実習生の場合は,3週間経っても何の成長も見えなければ,ぜひとも「不可」を出して,
 
 「教師への道」を閉ざしておきたい。そうすれば,今のような悲劇は避けられたかもしれないと強く思う。

 しかし,そういう決断がなかなか下せないのが現状である。


 せっかく「教師として使い物になるかならないか」が一番よく分かる現場に来てくれているのに,

 さっさと単位を与えて卒業させたい大学が邪魔になる。

 
 最近,現場の若い先生の授業を見る機会が少ない。

 「らしく見えない人」が多くなっているのではないか,と危惧を覚える。

  
 しかし,昔をふり返れば,今よりもはるかに

 「らしくない」人が多かったかもしれない。

 
 一方で,「らしさ」を絵に描いたような教師も健在のようである。


 竹刀をもって廊下を歩ける人は,さすがにもう絶滅寸前だろう。

 そういう人の近くを通り過ぎるときだけ,

 背筋を伸ばして「らしく」なっても意味はない。

 しかし,そういう場面が皆無になる,というのも,子どもにとっては不幸である。

 
 支離滅裂な話はわざと書くことができる。

 人間は,うそをつく知能をもっている動物である。

ブログランキング・にほんブログ村へにほんブログ村 教育ブログへにほんブログ村 教育ブログ 教師教育・教員養成へにほんブログ村 教育ブログ 教育論・教育問題へ

「指導したら必ず評価」では誤解を招く

 評価は指導の後に行う総括的なものだけでなく,

 指導過程で行う形成的なものがある。

 指導前に行って「現状を知る」ためのものもある。

 研究授業を見ていると,「評価」の時間を確保するために,

 「指導」を削る人にときどき出会う。

 「指導」を削った結果,力はつかず,当然,「評価」も低い,となれば

 「ためになる評価」になり得るが,

 これが「指導」が十分にできていないのに

 「力がついている」という誤解を「評価」によって得てしまう場合は,問題である。

 教育実習生にいつも言っているのは,

 「指導と評価の一体化」にも,さまざまなレベルの意味があるということである。

 指導していないことを評価している例があるが,これはまずい。

 指導したことで力がついたかどうかを判断することができない評価でもまずい。

 私が一番大切にしたいのは,

 「指導中の評価」である。

 「分かっているか,分かっていないか」

 「疑問が生まれているか,生まれていないか」

 「他のことと結びついているか,いないか」

 などを指導しながら確かめようと努力している。

 すべて「生徒の表現活動で評価」しようとしたら,日が暮れてしまう。

 多くの場合は表情,ノートなどで確かめる。

 発問で確かめる場合もあるが,時間の制約が大きい。

 生徒にとって大切なことは,

 「分かったふりをしない」「分かったつもりにならない」

 ことである。

 そういう習慣がついている生徒は,必ず学力が向上する。

 「何となく分かったつもり」が一番危ない。

 そのために,教師は,

 「分かりましたか」という質問をできるだけひかえなければならない。

 
ブログランキング・にほんブログ村へにほんブログ村 教育ブログへにほんブログ村 教育ブログ 教師教育・教員養成へにほんブログ村 教育ブログ 教育論・教育問題へ

たまには正しいことも書く!

 その通り!

 指導力不足教員の学級の子どもが,全員「たいへんなことになる」

 ということはない!

 それなりの親によって,小学校に上がるまで,それなりの教育を受けた子どもは,

 自分自身で,ある程度の判断をすることができるです。

 授業参観で,教師は誤った字を書いていたが,

 子どもはノートに正しい字を書いていた,ということがある。

 教師というのは,子どもに自信をつけさせる「工夫」をしていることがあるのだ。

 昔,ある学級では,教員がその場にいないとき,何か起こったら,

 「学級委員の指示に従え」というのが教師の「命令」だったそうです。

 紹介の事例にあったように,

 もし「学級委員が指示を出せなかったら」どうするか?

 自分自身の判断で動くしかないわけです。

 学級委員が明らかに誤った指示を出したらどうするか?

 従わなくてよいわけです。

 どんなにひどい教員がいても,間違った行動をとる生徒がいても,

 子どもたちはそれなりに成長することができる。

 逆に,そういう人間の存在が,よりよく成長できるための「資源」の一つになっている,という面がある。

 「ああはなりたくない」

 「ああなってはいけない」

 「だから,こういうふうにしよう」

 かくして,「まともな人」はまともになれる。

 だから,社会全体としてひどい教員を排除するような動きは起こらない。

 人々は賢くて,指導力不足教員を排除するような動きを起こせば,

 教育現場がもっとひどい状態になることが分かっている。

 ・・・・・・

 こういう教育現場の情けなさを,何とか変えようと思っても,

 「たいへんな人」がいる限り,学校はそこに多くのエネルギーを費やさなければならなくなる。

 そう。

 学校現場の「疲労感」を高めているのは,

 仕事量の多さとか,生活指導の大変さとか,部活動指導にかかる時間の長さとかではない。

 「たいへんな人」の扱いが「消耗戦」になるのが原因なのである。

 
 正しいことを書くことがあることは認める!

 自己犠牲の精神は大事である。


ブログランキング・にほんブログ村へにほんブログ村 教育ブログへにほんブログ村 教育ブログ 教師教育・教員養成へにほんブログ村 教育ブログ 教育論・教育問題へ

教育ブログに紛れ込む化石の処理

 20年前,30年前の「常識」からまだ抜け出ていない人が教育ブログを書いているため,

 ボランティアとして誤解を解く仕事が必要になる。

 教育界の動きにふれることがなかった年配の方なら,

 「職業高校」とは何かを理解できるだろうが,

 今は,そういう言葉を使わない。

 とりあえず,調べてみてほしい。

 「職業高校」を卒業した人間が「大学」に通うなんて,

 「昔なら考えられなかった」・・・・などという言葉が

 発せられる人間に,足りていないものは何か?

 知識か?

 教養か?

 ・・・・教育という仕事が,いかに「手間」と「労力」が
 
 かかるものか,お分かりいただけるだろうか。


ブログランキング・にほんブログ村へにほんブログ村 教育ブログへにほんブログ村 教育ブログ 教師教育・教員養成へにほんブログ村 教育ブログ 教育論・教育問題へ

壊れたものをなおすのも教師の仕事

 また何かが壊れた話が登場しましたね。

 植物は根が腐ってしまっていたら,もはや手遅れかもしれませんが,

 人間の心には「修復機能」が備わっています。

 機械のように「リセット」するのではなく,

 文字通り,「なおして回復させる」のです。

 今回の「壊れた」ものの話は「人間関係」です。

 小学校では,担任の教師への配慮から,

 子どもたちはうわべだけの良き人間関係を維持します。

 これが音を立てて崩れるのが中学校です。

 なぜ中学校か。

 遠慮する大人の「檻」がなくなり,

 自分が大人に近づいていくからです。

 
 「いじめ」にまで発展していなくても,

 「壊れた人間関係」を放っておいてはいけないのが,正しい生活指導のあり方です。

 もちろん,「いじめを防止する」というねらいもありますが,

 「子どもたちの健全な人間関係を育む」ことが学校の使命になっているからです。


 「壊れた人間関係」をなおす一番の方法は,

 「公の場」で「人間の心」を意識させることです。


 中学生は,揺れ動く「わたし」を制御できずに,

 「わたし」の願いとは正反対の言動を表に出すことがあります。

 こういう「わたし」をコントロールする力が,

 「公の場」にあるのです。


 学校は,まぎれもなく,「公の場」です。

 「公の場」は,揺れ動く「わたし」に,「人間の心」を気づかせてくれる機会を与えてくれます。

 壊れたら,なおす。

 また壊れたら,なおす。

 その繰り返しです。


 ときどき,中学生と同じレベルに堕ちる教師が出てきます。

 「公の場」に出られなくなった以上は,ただちに教師を辞めるべきです。

 「人間の心」にふれることができない以上は,教師ではないのです。

 「公の場」に出られさえすれば,チャンスはあります。

 これが「学校」というところです。 


 全く逆なのが,

 この教育ブログムラです。

 ここは,「わたし」の暴走・独走・迷走を許している,恥ずべき場です。

 汚物を処理する場所はトイレですが,ある人にとって

 このブログムラは,汚言を垂れ流す場所になっています。

 公衆トイレは「処理」の入り口ですが,

 このムラには「処理能力」はないので,水の流れない便器そのものです。

 

 学校という場を汚してきた人たち。

 教育という営みを汚している人たち。

 教師の生きざまを冒涜している人たち。

 膿を出し切ってもらった後に,

 次の一歩を探すしかありません。

  
ブログランキング・にほんブログ村へにほんブログ村 教育ブログへにほんブログ村 教育ブログ 教師教育・教員養成へにほんブログ村 教育ブログ 教育論・教育問題へ

同じ失敗を繰り返す人

 自分を客観視することができない人が,教員には多い。

「こんなことを書く人はおかしい」と書いている自分が,
 
 その「おかしい内容」を書いていることに気づけない。

 もともと,自分をきちんと客観視できない人が少なくないというのも事実だろうが,

 教員の場合は,自分を客観視できないために

 問題が発生してしまう可能性が,一般企業とは比較にならないくらい高い。

 それは,自分を十分に客観視できない子ども相手の仕事をしているからだ。

 教師と子どもとの間で起こるトラブルを見ていると,

 双方が「子どもレベル」であるように見えることが多い。

 教育という仕事に限った話ではないだろうが,

 あることを実現させるための方法が,

 AかBかしかない,ということはまずない。

 Aをするか,しないか,という単純なことではない。

 1か100か,ではなく,

 その間に,10とか20とか50とか80といった「選択肢」がある。

 問題行動を繰り返す子どもに,

 100%の行動を求め続けていくと,

 いつか子どもは「爆発」する。

 そのことが理解できない人がいる。

 そういう子育てしかできない親の子どもを学校で教えていて,

 その親と同じようなことを続けていては,

 子どもは「爆発」するか,

 学校に来なくなる。

 こういう「シナリオ」が予想できない人がいる。

 一般的には,

 「教師(の心)にゆとりがない」

 ことがもっともらしい理由として語られているが,

 断じてそういうことはない。

 人間の行動が,単に疲労や感情でコントロールできなくなる,

 と考えられているとしたら,

 子どもが毎日耐え続けていることが説明できまい。

 教師より子どもの方がはるかにつらい思いをしていることを,

 自分を客観視できない教師は理解しようとしないのだ。

 教師から「教育者としての誇り」を奪ったものは何か?

 それは,「甘え」に他ならない。

 「自覚の欠如」に他ならない。

 「誇り」や「理想」を喪失している人間に,

 人間としての「誇り」や「理想」を人に教える資格はない。

 こういうことを,現場で,同じ失敗を繰り返す人に,

 語り続けることも,教師としての責務である。


ブログランキング・にほんブログ村へにほんブログ村 教育ブログへにほんブログ村 教育ブログ 教師教育・教員養成へにほんブログ村 教育ブログ 教育論・教育問題へ

自称30代による30年前の教育情報

 なるほど。どうして簡単にばれてしまうことを書いてしまったのでしょうかね。

 それ以外の部分は内容がゼロなのでばれようがなかったのに。

 一番「そっくり」なのは,ブログのタイトルや内容説明と,記事が一致していないこと。

 自分で勝手に「妄想」と呼んでも,それが逆効果になっているということが
分からない人なのでしょう。

 本体の方でも,「ここがこうではない」と具体的に書けばよのに,

 正しく指摘されてしまっていることは,「そうではない」とは言えない。

 それが最大の「弱み」なんでしょう。

わざわざ「自分には教養がない」ことを示すような内容のことばかりを書き連ねてしまっている。

 少なくとも,教養人は人の文章を読んで「頭がおかしい人」などと批評することはないでしょう。

 品位のかけらもない。

 もう一つの「弱み」は,まともな「学級通信」を出したことがないから,
自分がしていることが,何を「冒涜」しているかが分からないことですね。 

 私が詳しく知っている職員室の様子は20年前の中学校のもの,10年前の小中学校のもの,
おぼろげに知っているのは30~40年前のものですが,中学校にしろ小学校にしろ,

 確実に言えるのは,教師はみんながみんな「忙しい」のではなくて,

 暇な人は本当に暇,仕事をさせられない人は,本当に仕事がない職業なのです。

 そして本当に「忙しい人」は「忙しい」なんてことは言わずに,

 黙々と成果を積み重ねていき,学校を動かしている。

 暇な人が書けることが,どの程度のことなのかを

 実証してくれるブログがあるので,

 暇つぶしには最適かもしれません。

 暇人同志,波長も合うでしょう。

 
ブログランキング・にほんブログ村へにほんブログ村 教育ブログへにほんブログ村 教育ブログ 教師教育・教員養成へにほんブログ村 教育ブログ 教育論・教育問題へ

なぜ下手くそな道徳指導を行う教師がバカにされるか?

 ヒーローインタビューで感想を聞かれた選手が,

 「ファンの方の声援のおかげです」とか「まぐれです」と答えるのは,

 「そういう答え方が正しい」ことを知っているからである。

ファンが喜ぶことを知っているからである。

 みんな,そう答えるからである。

 選手は,テレビ用の,マスコミ用の「言葉」を「教育」されている。

 謙遜する選手を見て,

 「すごい」「すばらしい」「本物だ」

 と感じるのは,ごくごく自然なことである。

 そう感じてもらえるように,話すようにしているからである。

 もちろん,本心から言えるまでに「成長」している選手もいるだろう。

 選手にとっては,本心では,いろいろ言いたい「本当のこと」はあるだろうが,

 再度対戦する相手に聞かられたらまずい「企業秘密」もある。

 いたずらに相手の「闘争心」をかきたてるような「損」をしないように,という配慮もある。

 下手くそな道徳の指導というのは,

 大人だけでなく,子どもでもわかるような

 「公の言葉」がすごい,すごい,と感動してみせて,

 「こういう態度を学ぼう」などというわざとらしい教え方のことを言う。

 教師が学ばせたのは,「本心ではなく,人が喜ぶ言葉を発しよう」という態度である。

 中には,本当に感動してしまっている教師がいて,

 ある意味,純粋で憎めないのだが,子どもからは確実にバカにされる。

 子どもが理解している

 「こういう態度」とは,

 「公に向けては謙遜してみせる」という態度である。

 こういう教育は,

 「オモテの顔」と「ウラの顔」を使い分ける子どもを作り出していく。

 そういう子どもをたくさん見てきたのと,

 「反省文」などで「思考回路」が「見える化」されているから,よく分かる。

 教師には,教師が聞くと喜びそうなことを言ったり書いたりすることができるが,

 そこに書かれているような態度や行動をとることができない。

 もちろん,「公の場で言うべきこと」を知っていてくれるのは助かるが,

 それだけですまされてしまう「道徳の授業」からは何とか卒業していただきたい。


ブログランキング・にほんブログ村へにほんブログ村 教育ブログへにほんブログ村 教育ブログ 教師教育・教員養成へにほんブログ村 教育ブログ 教育論・教育問題へ

ごめんなさい,先生 ~正しい反省文の書き方~

 中学校1年生を指導していると,

 小学校で問題行動が起こったとき,「反省文」を書かせる指導を教師がしていたのだと分かることがある。

 「反省文」を「書き慣れている」生徒がいるからである。

 そして,小学校の教師が「何を反省させていたのか」も分かる。

 「ごめんなさい,先生」という「態度」が反省文からよく伝わってくる生徒がいる。

 中学校の教師から見ると,それは「謝罪文」であって,「反省文」ではない。

 小学校の教師は,「謝罪文」のことを「反省文」として指導していたのである。

 「先生を怒らせてしまったことが悪いことであった」

 というのが,「反省文」からひしひしと伝わってくる。

 「中学校の先生に怒られるから,~はしてはいけませんよ」と言われた,と

 教えてくれた生徒もいる。

 「教養のない親」と同じレベルの教師である。

 「お父さんに怒られるから,やめなさい」という母親。

 「お母さんが怒るから,やめなさい」という父親。

 「お巡りさんに怒られるから,だめだと」という親。

 「隣のおじさんが怒るから,静かに」という親。

 こういう「指導」では,

 「正しいことは何か」が伝えられていない。

 子どもも,「何が間違っていたのか」が理解できていない。

 「先生を怒らせたこと」が「悪いこと」であり,

 「先生の機嫌をもどすこと」が「なすべきこと」なのである。

 こういう「反省になっていない反省文」を読むと,

 つくづく子どもが「気の毒」になる。

 小学校の国語か道徳では,

 ぜひとも「正しい反省文の書き方」「正しい反省のしかた」を

 指導してほしい。


ブログランキング・にほんブログ村へにほんブログ村 教育ブログへにほんブログ村 教育ブログ 教師教育・教員養成へにほんブログ村 教育ブログ 教育論・教育問題へ

「人格がある」「PCは知識をもつ」という日本語はある?

 「別の人格がある」

 「初音ミクにも人格がある(?)」

 などという言い方はあるが,

 単に「人格がある」という表現を,

 「良い意味」で使うという日本語の用法は聞いたことがはない。

 「人格」は,だれもが持っているものである。

 教育はその「完成」を目指すものとされているが,

 「人格形成」の途上で人々は様々な課題に遭遇し,

 「完成」には至らずに老いていく人もいる。

 「人格」という言葉は,多様な意味で使われる。

 「人格がある」を「品格がある」「品位がある」と言えば,「良い意味」の言葉になる。

 しかし「性質」「人柄」「個性」という意味で使う場合は,必ずしもよい意味とは限らない。

 「多重人格」という使い方も同じである。

 
 次に,

>知識が豊富なだけで教養があると言うなら、コンピュータも教養があるということになってしまいます。


 と考えている人がいるが,この人は

 「知識」とただの「記憶」の違いが理解できていない。

 こういう人が,「知識を問う問題を考えてください」と頼まれると,

 「記憶だけで答えられる問題」を作ってしまうことが多い。

 コンピュータに蓄積されるデータは,人間にたとえるなら「記憶」としての情報である。

 「知識」というのは,・・・・

 なんて話は,教育への関心が高い人には無用な講釈だろう。


 結局,「人格者ではない人間を『教養人』とは呼びたくない」というだけの話なのだろう。

 
 なお,男性の側だけに都合のよい「伝統的な日本の良き女性」「奥さんにするなら日本人」の話など,「人格者」なら語るのを躊躇するだろう。

 

ブログランキング・にほんブログ村へにほんブログ村 教育ブログへにほんブログ村 教育ブログ 教師教育・教員養成へにほんブログ村 教育ブログ 教育論・教育問題へ

言語活動の指導を充実させた「成果」が見える「問題行動」

 自分の考えを堂々と言葉で説明する力。

 日本の子どもが不得意としている,と言われている力である。

 英語の方が,そういうことが言いやすい,というのは,

 ごく一部の人間だけで,

 日本語でも言えないことを,英語で言えるわけがない。

 昔から,

 「言い訳だけは超一流」という子どもがいる。

 問題行動の指導をしているときに,

 「どれだけ自分は悪くないか」

 を得々と述べる子どもがいる。

 同時に,対象の問題行動とは関係のない,

 「どれだけ他の生徒が悪いか」

 も得意気に語ってくれる子どもがいる。
 
 学習指導要領の改訂の趣旨にのっとって,

 「言語活動の充実」に力を入れている学校は多いだろう。

 小学校は,もともとそれに力を入れすぎて,

 基礎学力がかえっておそろかになっている,という問題が指摘されているが,

 「言語活動の充実」に力を入れることで,

 中学校でも「基礎学力不足」に拍車がかかる危険性もある。

 その一方で,上記に述べたような,

 「自分を正当化する演説が得意」な子どもが増えることも予想される。

 そこで,「道徳教育の充実」が求められる結果となるが,

 「道徳教育の充実」は,さらに上記と全く同じ結果に拍車をかける危険性も高い。

 教育ブログには,

 上記の子どもと同じような問題を抱えている人間がいる。

 「表現していることが正しいかどうかの判断・信頼性の高い評価」が教育でも社会でも大切であるのだが,

 それができるような時間をだれももっていない。

 ある能力を高めようとすると,

 本来は高まってほしくない能力も高まるリスクがある。

 このリスクをコントロールする機能を,少なくとも学校教育では充実すべきである。

 生活指導には,時間と根気と,

 「正しい指導」を続ける力がいる。

 本当は,学習指導にも,それが求められるのだが,

 それらをすべて放棄しているのが,手抜き用の「学び合い」である。

 これこそが学校教育から一掃しなければならない「問題行動」である。

 正しい「学び合い」は,教師の高度な指導力からしか生まれない。


ブログランキング・にほんブログ村へにほんブログ村 教育ブログへにほんブログ村 教育ブログ 教師教育・教員養成へにほんブログ村 教育ブログ 教育論・教育問題へ

指導はできるが,指導力がない教師

 教師はどうしても自分が児童生徒だったころの経験をもとに,

 現在の教師や児童生徒を見てしまう傾向がある。

 私は小中学校のころは,生活指導にとても厳しい教師たちに教わってきたので

 (父親はさらに厳しかったが),それが今の感覚的な「基準」となっている。

 初任者としてつとめていた中学校は,その経験と差がないか,どちらかといえば

 「もっと厳しい」方に入る学校だったので,「基準」は引き上げられることになった。

 しかし,次第に見えてくるようになったものがあった。

 そういう「基準」とは2つの意味でほとんど正反対ともいえる小学校や中学校が,この世に存在することがわかってきたのである。

 一つは,「厳しさのない学校」,もう一つは「厳しさの意味を取り違えている学校」である。

 一般の方に限らず,教員も「厳しい」と聞くと,昔の言葉で表現すれば「管理教育」とか,「体罰を伴う指導」とか,「威圧的な指導」とかを思い浮かべてしまう人が多いだろうが,

 「厳しい先生」というのは,「正しさを大切にする先生」というイメージでとらえてもらった方が分かりやすいだろう。

 「力で押さえつける指導」は,小学校では通用しても,

 中学校では子どもの反発を引き起こすわけである。

 「荒れ」を防ぐつもりでやっても,さらに「荒れる」結果になりかねないのが,

 「力で押さえつける指導」である。

 「落ち着いたいい雰囲気の学校」をつくる「厳しい先生」のイメージが分からないのは,

 実は現場の教師そのものだったりする。

 「正しさを大切にする先生」は,

 「正しくない言動や態度」を見逃さず,指導する。

 そのとき,当然だが自分が「正しくない言動や態度」をとってはいけない。

 何が「正しくない言動や態度」かは,

 わざわざそれをブログ上で紹介してくれる人がいるので,

 それをもとに何度も説明したことがある。

 教育の難しさは,

 「正しさを大切にする先生」でも,

 児童生徒に正しさを自覚させ,言動を改善に向かわせることができる先生であるとは限らない,ということだ。

 「正しくないことを正しいと誤解している先生」がそうなるのは当然だが,

 「正しさを理解している先生」でも,

 「指導はできる」が,「指導力があるわけではない」先生であるのが,それにあたる。

 こういう意味で「指導力がある」という言葉は使う。

 「指導力不足教員」といったときには,「指導はできる人」も含まれることがある。

 もちろん,「指導すらできない人」もいる。

 しかし,「指導すらできない人」は,問題行動を起こす生徒の側からは「無害」であるので,

 生徒との衝突が起こらず,目に見える問題は発生しないため,

 「問題がある先生」とは見えにくい。

 「問題がある先生」と見られるのは,「指導ができる」先生であることが多いのだ。

 そしてその「指導」が,「正しくない言動や態度」に基づくものである。

 日本は,技術をもった国である。

 高度な技術をもっている。

 しかし,「技術力」をもっているか,と問われると,即座にイエスとは言いにくい。

 だから,「技術力の向上」はもっと難しいことである。

 簡単に「指導力の向上」という言葉を使うのを,教育の世界でもやめるべきかもしれない。

 まずは「指導力をつける」ことを考えるのが先決である。


ブログランキング・にほんブログ村へにほんブログ村 教育ブログへにほんブログ村 教育ブログ 教師教育・教員養成へにほんブログ村 教育ブログ 教育論・教育問題へ

反省文まで親が考える時代

 小学校には,子どもの勉強を親に見させるのが好きな教師がいる。

 いい作品を,親が作ってくれる。

 いいレポートを,親が書いてくれる。

 いい作文を,親が書いて賞をとってくれる。

 ・・・・・

 これが当たり前だと思っている哀れな子どもは,

 反省文まで親に考えさせる。

 どこかのなりすまし・よいしょコメントのように,

 考えたのが誰かがバレバレの文章を,

 平気で出す子どもがいるのだ。

 小学校なら,これでOKだったのだろう。

 気の毒に,中学校では,ますます自分を窮地に立たせるだけである。

 最後に,自分が子どもの足を引っ張っていたことに気づいたとき,

 親は本当の「親」になれるのだろう。

 子どもが大きくなりすぎるまえに,ぜひとも気づいてほしい。


ブログランキング・にほんブログ村へにほんブログ村 教育ブログへにほんブログ村 教育ブログ 教師教育・教員養成へにほんブログ村 教育ブログ 教育論・教育問題へ

自分の思考回路だけが正しい

 指導力不足教員がどんなに研修を受けても,

 「自分の思考回路だけが正しい」という思考回路をもっている以上は,

 改善の効果は期待できない。

 「健康補助食品をいくら摂取したって,健康の方が大事だ」

 という言葉を聞いたとき,

 「自分の思考回路だけが正しい」という思考回路をもっている人は,

 「その言葉を発する人の思考回路がおかしい」と考えてしまう。

 しかし,そうではない人は,

 健康補助食品を摂取しながら,暴飲暴食をしているとか,

 1日3食をきちんととらないで,健康補助食品ばかりをとっているとか,

 そういう人に向けての警句としての言葉かもしれない,という

 「想像」ができる。

 「もしかしたらこうかもしれない」と理解しようとする。

 「相手の言おうとしていることを想像すること」・・・・

 これはコミュニケーション能力の基本だろう。

 以前にどなたかが話されていたが,

 コミュニケーション能力に課題がある指導力不足教員がいる。

 子どもの気持ちを理解しようとせずに,

 「感動」を「押し売り」をする授業を参観したことがある。

 こういう人は,教壇に立つべきではない。


 教育実習生の授業を見ていると,

 よくその質問から,生徒が実習生の期待する答えを出せるものだと

 感心してしまうことがある。

 これは,教生の言葉ではなく,言葉に込められた「思い」に,自らの「思い」を

 生徒が寄せているからこそ,できることなのである。

**************

 「AよりもBの方が大事だぞ」というときは,

 AはBを達成するための1つの方法であるにすぎないのに,

 AはBの一部であるにすぎないのに,

 Bをいい加減にして,Aばかりに関心がいっている人を戒める目的があるのだ。


 「思考回路がおかしい」具体例としては,

 「良い授業とは,心に残る授業だ」

 という言い方である。それはもちろん,正しい面もある。

 しかし,すごく悪い授業でも,心に残ることがある。

 忘れたいが,記憶に残ってしまうことがある。

 以前に述べたように,私は小学校の理科の生物の授業で最悪の経験をさせられた。それ以来,生物嫌いである。

 授業が心に残る理由はさまざまであるし,

 「良い授業」と呼ばれる授業もさまざまである。

 自分の思考回路に課題があることを自分の記事で実証するというのは,

 本当に心に残る記事であるが,感動はしない。

ブログランキング・にほんブログ村へにほんブログ村 教育ブログへにほんブログ村 教育ブログ 教師教育・教員養成へにほんブログ村 教育ブログ 教育論・教育問題へ

ブログのダメな読み方はどれ?

 1..好感を持って,どんなにひどい内容でも,「すばらしい」「すばらしい」と思いながら読む

 2.中立的な立場で,ひどい内容に対する指摘を素直に受け止めながら読む

 3.ひどい内容に対して,反感を持って読む


ブログランキング・にほんブログ村へにほんブログ村 教育ブログへにほんブログ村 教育ブログ 教師教育・教員養成へにほんブログ村 教育ブログ 教育論・教育問題へ

フーガは「様式」,ソナタは「形式」

 Yahoo!知恵袋は,中学生も利用することがあるようです。

 フーガ
 
 と

 ソナタ

 の違いは,次のように説明されていました。

 下線部は私が引きました。

************************

フーガは「フーガ形式」とは普通言いませんのでまずそこはご注意を

様式の名前なので「フーガ」でいいかと思います。

************************

まず、フーガは「様式」、ソナタは「形式」です。

フーガは、曲の冒頭に単旋律で示された主題を、幾つかのパートが一定の規則にしたがって順次模倣する様式です。もともと合唱曲であったため、鍵盤曲でも器楽曲でも、各パートは「声部」と呼ばれます。曲の構造は、一般的な傾向はあっても明確ではなく、したがって形式とみなすことはできないのです。

ソナタは通常、提示部、展開部、再現部の3つの部分から構成される形式です。提示部には互いに曲調の異なる第一主題と第二主題が示されます。展開部ではこれらの主題が転調、変形、模倣など様々な手法で示されたり、新たな楽想が加えられたりと、工夫が凝らされます。再現部では再び第一主題と第二主題が示されて曲を閉じます。

以上の基本事項を踏まえれば、フーガをソナタ形式で書くこともできますし、ソナタ形式の中にフーガ様式を組み入れることもできます

************************

 分かりやすいですね。

 言葉を大切に使っている人の説明は,理解しやすいです。それにひきかえ・・・・

 「様式」は「形式」に含まれる概念だ・・・なんて反論の仕方もあるのでしょうか?


にほんブログ村 教育ブログ 教育論・教育問題へ
  
 ブログランキング・にほんブログ村へにほんブログ村 教育ブログへにほんブログ村 教育ブログ 教師教育・教員養成へにほんブログ村 教育ブログ 教育論・教育問題へ

形式の話ばかりで内容がない教師の話

 起承転結がない,起承転結の話。

 形式だけの話。

 そういう教師がいましたね。

 経験がないから,本の受け売りとか,

 辞書の意味の引用しか,話せない。


 先日の小中高の研究会で,小学校の先生が

 「最近の研究会は褒め合うことばかりで,ためにならない」

 というお話をされていました。

 何でも最近は,

 「自分で自分を褒める」人が増えてきているようで,

 「気持ち悪い」世界になったようです。

 こういうのを「悪臭」と感じない世界は,

 新興宗教みたいなものでしょうか。

 自分のブログの文章を

 「論理的な説得力のある話」と言える人もすごい。

 「みのるほど 頭を垂れる・・・・」 はいずこに?


 昔から,「研究会では,発表者の苦労を考えて,

 批判はほどほどに,褒めるだけにしよう」なんていうレベルの低いのが

 一般的でしたが,

 「褒めようのないところ」を褒めてしまえば

 「ウソ」になってしまい,どうしてもだまっていられなくなる人もいることでしょう。

 しかし,講師に招かれた小学校の先生が授業者の問題を指摘したら,

 すぐにブログで

 叩かれてしまったそうです。

 そういえば,私も何の面識もない大学の先生に,

 批判記事を発表されたこともありました・・・・。

 ネットの世界はこわいものです。


 小学校の教育の本をながめてみると,

 ほとんどが「形式」の話です。

 「内容」がない。

 「こんな方法でこうしたら,うまくいく」みたいなものばかりで,

 同じような情報の使い回しと言うか,

 もうだれがだれからパクッたか,分からないくらい

 真似し合っている。

 私が驚いた「学び合い」の本の指導案は以前にも書きましたが,

 重要な方法は,

 「教卓の上に,教師用指導書を置いて開いておく」!!!

 でした。

 「みんなで教え合う」・・・・それだけ。

 「単元名」なんて,記載する意味は全くない!!!

 いつも,「形式」の話ばかりで,

 「内容」の乏しい記事ばかり書いている人がいますが,

 こういう本の読み過ぎでしょうか。


ブログランキング・にほんブログ村へにほんブログ村 教育ブログへにほんブログ村 教育ブログ 教師教育・教員養成へにほんブログ村 教育ブログ 教育論・教育問題へ

繰り返される問題の根は教師の「人間観」にあり

 このブログも,ときどき休止期間があったが,

 これで通算2600個目の記事になった。

 ココログの管理ページで私がよく利用するのは,

 「アクセス解析」で,

 「どんな記事が今日,読まれたか」に関心を持っている。

 読んでいただいた記事を自分も読み返してみて,

 「ああ,こんなこともあったな」と懐かしくなることもあった。

 先日は,調布市の「暴言教師」のことを話題にしたが,

 とんでもない「暴言教師」を批判した記事をまた読み返してみた。

 調布市の「暴言教師」と同じ「仲間」がそこにいた。

 しかも,その「暴言教師」は,

 「指導に悩んでいる教師に,具体的な指導法を教える」

 目的でブログを書いている元教師なのである。

 去年の6月の記事である。

 ここに引用しておく。

******************

 新作!dXXXXさんの「私語撃退法」と「事実誤認」

 またまた,大事な指導事例をご披露していただきました。

 子どもの「心」との乖離が分かっていない,dXXXXさんの指導法。

 dXXXXさんは,人間を「ロボット扱い」するのが好きな方のようです。

>ロボットは知能を授けられ、どんどん進化して人間に近づくのに、
 人間の方は逆にただの機械のようになっていないか

 という問いかけの後に,紹介されている「指導言」がすごい。

>中学校で授業をしていた時、私語の多い生徒がいたので注意しました。
>すると、その生徒は、小さな声で「喋って悪いのか」とボソッと言いました。

>彼は聞こえないように言ったつもりかも知れませんが、私には聞こえました。
>それで、私は

>「君、そりゃあ、喋るなという命令はできないよ。しかしね、人間は知能という
 ものを持っているから、この場では喋っていいのか悪いのか判断できるんだよ。
 それが人間なんだ」

>と言いました。

>その生徒は、不機嫌な顔をしながらも静かになりました。
>他の生徒たちも納得したような様子でした。


 生徒たちが「納得」したのは,dXXXXさんが「ひどいことを言う人」だからでは
ないのですか???

 何しろ,

 授業中の「私語」が「知能の欠陥」によるものであると指摘されてしまったわけ
ですからね。

 もしこの後,再び私語をしたら,

 「知能を持っていない,つまり,この場で喋っていいのか悪いのか判断
できない」生き物だと呼ばれ,

 下手をしたら「人間ではない」などと呼ばれかねないことを子どもたちは
知ってしまったのですね。

 子どもは,「頭のおかしい人が通う病院」という言葉を平気で使えるような
人間かどうか,簡単に察知できてしまうのですよ。

 私語が多くなるような授業をしている教師に,「おまえは知能に問題が
ある」なんていう注意をされたくないから,「私語を我慢した」だけで,何の
問題の解決にもなっていないことに,気づけない教師はいるでしょうか?

 そうそう,そういう教師がいるから,このブログを書いて注意を喚起して
いるのでした。

 dXXXXさんには残念ながら,指導に必要な感性が欠けているのですね。

 私から見れば,自分のまずい授業を棚上げして,「こういう注意の仕方は
ないだろう」と受け止める生徒を想像することができないのは,重要なもの
が「足りない」からとしか考えられません。

 「うそ」はいけないのですが,「これが正しい注意だ」と誤解して,

 私語をする生徒に対して「知能に課題がある」と指摘したように聞こえる
指導ができてしまうような教師は,いさめなければなりません。

 音楽の教師のやり方がこうだというなら,音楽の教師を相手に話をしな
ければなりません。

 実は今まで,dXXXXさんによる中学校での授業実践の話は読んだこと
がありませんでした。

 最初の話が,「私語が多い生徒への指導法」だったのですね。

 そして,「やっぱりね」というのが第一印象でした。


ブログランキング・にほんブログ村へにほんブログ村 教育ブログへにほんブログ村 教育ブログ 教師教育・教員養成へにほんブログ村 教育ブログ 教育論・教育問題へ

ブログ・ムラ

 ブログ「ムラ」というのは,実態をごまかす上でもいいネーミングである。

 ここは,「理想郷」ではない。

 私のように「過密都市」に住んでいる人間が,

 「ムラ」と聞くと,どこかほっとする響きがある。

 しかし,「過疎の村」に住んでいる人にとっては,

 「プライバシーがない」

 「若い人がいなくなって,

 戻ってこなくて,明るい未来を感じにくい」

 というイメージの方が大きいかもしれないが・・・。


 実際のブログ「ムラ」は,

 何でも言いたい放題,どんな言葉でも使い放題の,

 お互いに干渉し合うことを嫌う,

 「都市」「町」のような「ムラ」である。

 
 予想通り,

 「出るべくして出た」言葉がある。

 「分裂症」「統合失調症」という言葉を相手に投げつけなければ気が済まない人間が

 この「ムラ」にはいるのである。


 実際の「村」で,もし本当にそういう病で苦しんでいる本人や家族がいたら,

 どのように周囲の人たちは接してくれるだろうか。

 
 「こいつは,こんなことを今日も言っている」

 などと言いふらす「村人」が,そこに住んでいるだろうか。


 「あんなやつと話すのは,故障している車に乗るのと同じだ」

 なんて声をかける「ムラビト」が,実在するのである。

 
 もちろん,今の「町」にも,

 「そんなことを言うもんじゃない」と叱ってくれる人がいるだろうが,

 「ムラ」にはそういう住民はいない方が

 「適切」なのだろうか。


ブログランキング・にほんブログ村へにほんブログ村 教育ブログへにほんブログ村 教育ブログ 教師教育・教員養成へにほんブログ村 教育ブログ 教育論・教育問題へ

言葉を大切にして人間を大切にしない大人たち

 教育実習生の多くは,生徒のころはそれなりに真面目だったのだと思う。

 道徳の授業に「正解」はないが,「分かってほしい価値観」というのはある。

 それを知識として身に付け,

 「正しい価値観をもっている」ことがわかる内容の話ができる。

 ただ,「正しい価値観をもっている」ことと,

 「その価値観に基づいて行動できる」こととは別の問題である。


 「時間に遅れないように」と生徒に指導している教師が,

 授業に遅れてきたり,提出書類や原稿の締め切りを守らなかったりする

 のがその具体例である。


 教師の世界には,

 言葉を大切にしているんだろうなというのが分かる人がいる一方で,

 「それよりもっと人間を大切にすべきだろう」

 「自分の幸福追求の権利や利益より,生徒の学ぶ権利を優先すべきだろう」

 と突っ込みたくなる人がいる。


 文字の意味をただ理解しただけでは,

 社会で生きていくための人間にはなれない。

 相手の言いたいことを理解することが大事である。

 自分の言いたいことが正しく伝わっていないと考えられた

 場合には,

 ここは「~」という意味ではなく,「~」という意味だ

 と具体的に説明する力が大事である。

  
 ということを,教えるのが学校の教師だが,

 そうやって教師に教わっても,自分が教師になって実践することができない人間がいることは確かである。


ブログランキング・にほんブログ村へにほんブログ村 教育ブログへにほんブログ村 教育ブログ 教師教育・教員養成へにほんブログ村 教育ブログ 教育論・教育問題へ

国語と道徳によって「教師が気に入る言葉を発する」能力を伸ばす子どもたち

 「反省文」を書くのがとても上手な子どもがいる。

 内容がすばらしい。

 これも「言語活動の充実」に力を入れた成果であろう。

 しかし,「反省文」を提出した日に,また同じ問題を繰り返してくれるから,

 「反省文」で書かれたような「反省」はしていないことがバレることがある。


 小学校の子どもたちは,

 「担任教師の機嫌がよくなる答え方」を

 毎日の生活の中から学び取っていく。

 問題を起こした時,

 どういう答え方をすれば,

 教師の怒りがおさまるか,

 「お説教」が終わるか,

 納得してくれるか,

 を学んでいく。

 こういう子どもが中学校に上がってきて,

 問題を起こすと,

 小学校で学んだ対処法を実践に移す。

 そして,教師の怒りの炎に油を注ぐことになるのである。

 教育や人間のことが分かっていない人間が

 教育工学を語るときの限界というか,

 所詮は「工学」にすぎないことが露呈するのは,

 「人間は『本心』とは異なる『外部活動』をとることができる」

 ことが分かっていないし,

 分かろうとしないし,

 分かることができないからである。

 そういう人間の言動は,

 子どもにとっては好都合になったり,

 本当の意味で不幸になったりしているのが

 学校現場というところである。

 国語や道徳が,

 教師が気に入るだけの言語活動を子どもに習得させているうちは,

 本当の学力が向上することはないだろう。

 人間関係が希薄な学級王国では,

 子どもたちは,本当に活発に言語活動を行っている。

 決して,本音と本音がぶつかり合うことはない。

 言葉だけが,ただ飛び交うだけである。

 人間関係が濃厚な社会では,

 言葉は減っていくこともある,
 
 ということを少なくとも教育にかかわる人間はしるべきである。

 わざわざ「どうしたの?」

 と聞くこともなく,寄り添ってくれるような親もいる。

 子どもにとって,単身赴任などで離れて暮らしている親だったり,

 遠距離恋愛のお互い同士が,

 愛情で深く結びついていることもある。

 ただ一緒にいないから,

 人間関係が希薄になる,という単純な話ではない。
 


ブログランキング・にほんブログ村へにほんブログ村 教育ブログへにほんブログ村 教育ブログ 教師教育・教員養成へにほんブログ村 教育ブログ 教育論・教育問題へ

人の心を分かろうとしない人間の独善的「公理」

 カルロスさんはふれたくないということだが,

 ふれないわけにはいかない。

 勘違い人間を教育現場から一掃するためにも。


 「他人の心の中は決してわからないので,見える姿から想像するしかない」

 などと書いている人間がいる。

 この人間は,小説を読むことができるのだろうか?

 小説の世界を理解することができるのだろうか?

 こういうブログの世界で言葉を発信して,心を痛める人間がいることに,

 相手の姿は見えないから,自分は絶対に気づけない,

 という「大原則」「公理」に従って生きているのか?

 人の心というのは,だれかによって投げかけられた言葉によって,影響を受けるのである。

 それを,「見える姿から想像するしかない」

 「人の内面は分からない」と言っていては,

 ネット上の言葉のやりとりは当然のこと,

 日常的な社会生活は円滑にしようがない。

 本当に例に出して申し訳ないが,

 ほとんど視力を失ってしまっている方に対して,その「大原則」とやらを適用するつもりなのか?

 とんでもない話である。
 

 ******************

 小学生たちの,つぶらな瞳が目に浮かぶ。

 教師から,どんなにひどい言葉を浴びせかけられようが,

 決して教師の反感を買わないように,

 教師を怒らせないように,

 誤解される(=正しく理解されてしまう)態度を顔や態度に出さないように,

 じっと耐えている子どもがいることが分からないのか!!!

 「見える活動から想像するしかない」

 なんていう人間が教師をやっていたとは!

 ******************


 傷ついているように見えなくても,

 人が傷つくような言葉を投げかければ,

 相手は傷ついているかもしれないと考えることができるのが人間なのだ。

 
 人の心を軽々しく語る資格はない。

 「本当に死にたいと決心している人間」

 の心が分かるのか?

 分からないだろう?

 だって,「本当に死にたいと決心している人間は,死にたいというそぶりを見せない」

 なんてことを信じているのなら。

 第一,「本当に死にたいと決心している人間」は,

 「死ぬことを止められたら困る」のか???

 「困る」という心の状態を,「本当に死にたいと決心している」状態と言えるのか???

 自死については確かに多くを語ることは不適切だろうが,

 自死を選ぶ人間も,「本当は死にたくない」と考えている自分と闘っている,と私は解釈したい。

 亡くなる直前には,「死ぬんじゃなかった」と後悔してしまうものだ,と私は解釈したい。

 しかし,

 自死を選ぶ人には,その兆候は見られない,

 と語っている人間がいる。

 「死の兆候はなかったか」という問いに疑問を投げかけている。

 私は,そうは思わない。

 したがって,「死を選ぶに至る過程で,その兆候はなかったか」

 という問いは,発せられて当然のものだと考える。


ブログランキング・にほんブログ村へにほんブログ村 教育ブログへにほんブログ村 教育ブログ 教師教育・教員養成へにほんブログ村 教育ブログ 教育論・教育問題へ

非常勤講師の賃金引き上げを!

 カルロスさんがブログの中で,

 産休や病休の教員が多い学校で,

 非常勤講師がとてもいい働きをして子どもの教育を支えてくれている,

 という話を書かれていたが,
  
 こういう学校は実際に少なくないと思われる。

 私が2校目に勤務した学校では,

 手当も出ない部活動のめんどうまで,本当に熱心にしてくれた講師の方がいた。

 正規の教員は我先に家路につくのに,遅くまで生徒と学校に残ってくれていたのは講師の方だった。

 現在の学校でも,

 他の仕事と二足のわらじで活躍している講師の方がいる。

 講師の採用は,私の知る限りでは正規の教員のように行政が割り振るのではなく,
 
 管理職が評判や,つて・・・・分かりやすく言えば「コネ」をつかって・・・・

 探し出し,非常に安い賃金を詫びながら,お願いをするのである。

 当然,非常勤講師の中には,「指導力が低い」人もいる。

 1年契約が普通だから,非常勤講師が交代する場合は,そういう判断がなされたと考えればよい。

 管理職は,「いい非常勤講師」を「少しでも早く」確保しようと努力しているが,

 突然の「産休」や「病休」には対応しにくい。

 
 話は変わる。

 昔,

 正規の教員と非常勤講師の「違い」を

 情熱をこめて主張している人がいたが,

 こういう「態度」を,ある「角度」からながめたら,どう思うと感じるか?

 ということに「思い」がいたらない人間が,

 教育現場にはいるのである。

 いろんなことに「思い」がいたる人というのは,

 過剰に気にしすぎて,仕事ができなくなるほどに心を痛めることがあるのが,

 まったく「思い」がいたらない人というのは,

 仕事をさせられない状態になっても,

 自分は仕事ができると思い込んで決して自分の考えを譲ろうとしない。

 指導力不足教員の「研修」担当になっている人間が,

 いかにたいへんか,想像していただくことは可能だろうか。

 私はこのブログ上で,その大変さが伝わるように,努力してきたという一面がある。

 教育界で本当に手を焼いているのは,

 子どもではなく教員だという実態をご理解いただき,

 学校の「外部評価」の制度を活用して,ぜひとも

 「そういう先生」を変えるきっかけをつくってほしい,というのが

 私の願いである。

 大きな問題を発生させる前に。

 「研修扱い」になる教員は,

 多くの教員が「やっぱりね」「とうとうか」という感想をもつのである。

 「研修扱い」になる前に,職場で何とかしてほしい。

 それも,生徒や保護者,第三者をまきこんでである。

 こんな教員の「穴埋め」として,

 必死に働いてくれる非常勤講師の方々には,感謝しなければならない。

 私は,非常勤講師の方々こそ,成果主義を導入して,

 貢献度が非常に高い方は,給与面で報われるべきだと考えている。

 正規の教員は,普通の仕事を普通にするのが当たり前だから,

 無理にAをつける必要はなく,みんなBでもよいわけだ。

 教員が山分けする分を,講師の給与増額にまわせる仕組みくらいは作るべきである。

 あの「団体」の人々が,

 「自分たちの給与を削っていいから,非常勤講師の給与増額が可能になる仕組みをつくれ」

 と主張してくれるなら,自分の中では

 「大嫌い」から「少し嫌い」くらいに「格上げ」できる。

 指導力不足で学校に勤務せず,研修を受けるだけで普通の給与をもらっている教員がいることは,市民感覚では理解に苦しむ。

 
 指導力があるのに,公務員試験という筆記試験で点がとれないためにいつまでたっても正規の教員になれない人がいる。

 筆記試験でいい点がとれたので,教員に採用してみたら本当にいい加減な授業しかできない,そんな人よりは,指導力のある非常勤講師の方がよっぽどいい,という主張は,やがて実を結ぶことになると思われる。

 教員採用のあり方を柔軟にし,よりよい人材を集める・・・・そういう政策の実現を,

 5・4・3制の研究など他の教育政策とセットにして,ぜひとも推し進めてほしい。

 

ブログランキング・にほんブログ村へにほんブログ村 教育ブログへにほんブログ村 教育ブログ 教師教育・教員養成へにほんブログ村 教育ブログ 教育論・教育問題へ

小中一貫と小中連携を勘違いしている人たち

 「小中一貫」というタイトルをつけていながら,

 そして,「小中一貫教育」を実践している学校の話だと書き始めておきながら,

 中学校のダメ授業とあいかわらずの「見た目」重視の授業観に関することだけをだらだらと書き連ねている教育ブログがある。

 教育関係の話で,

 「子どもの目が輝いていた」

 「いきいきしていた」

 「子どもが主体の」

 「子どもが活躍する」

 などという言葉が出てきたら,まずは役に立たない内容であろうと想像がつく。

 日本独特の「感覚的」「情緒的」教育観である。

 「ムード」「空気」で評価が決まってしまう。

 こういう「教育観」を広める「古典」があるのが原因なのだが。

 これを言葉で直接耳に入れることを想像すれば,その「意味のなさ」に気づくはずである。

 さて,紹介されていた事例は,「小中連携事業」をしているところの話と何の違いもない。

 中身のない「小中一貫」はすぐにバレる。

 そもそも,進学する中学校の選択肢がないような小学校では,

 これまでも形式的には小中一貫校であった。

 今,求められているのは実質的な「小中一貫」だが,

 現行の学習指導要領では,小学校は小学校,中学校は中学校である。

 文言は似ていても,別々のカリキュラムである。

 「小中一貫教育」のメリットは,

 1年でも早く子どもに「充実した学校生活を送らせる」ことにある。

 たとえば,6年生でも中学校の学習ができるようにすることができる。

 5年生になっても,2年生と同じような「ぐだぐだ」の「学び合い」をやっているから,

 高学年の子どもが教師に背を向けるようになるのである。

 教師が話している言葉が聞き取れない中学生は,本当に気の毒だが,

 それは子どもとばかりおしゃべりをさせて,まともな大人の話を「しっかり聞く力」を育てることを怠った教師のせいである。

 大人の話を聞く力のない小学校7年生は,入学直後からすぐに目立つので隠しようがない。

 このような,学習指導上の課題を最小化することが大切なのは言うまでもないが,小学校と中学校の決定的な違いがどこにあるかが分かっていない人が多い。

 日本は,あいまいなことをあいまいなままで実施することが許される国であることがよく分かる。

 書いている本人が「小中一貫教育」とは何かを理解していないのだから仕方がないことだが,

 誤解というか無理解のまま,ああだこうだと言ってみたところで,日本の教育は

 変わっていくはずがない。
 
 学力調査の結果を見てほしい。

 子どもや保護者から選ばれる「小中一貫教育」を目指す人の中には,

 「7・5・3」からの脱却を進めたいと考えている人が多い。

 小学校では7割程度,中学校では5割程度・・・なんて学力では,

 先が思いやられる。

 せめて小学校では9割程度,中学校では7割程度くらいには底上げを図っていきたい。

 その願いはどうしたら実現するか・・・・という関心の持ち方である。

 小中一貫教育の目的,効果,現状等については,平成24年7月13日付で出された

 『小中連携、一貫教育に関する主な意見等の整理』

 (中央教育審議会初等中等教育分科会
 
  学校段階間の連携・接続等に関する作業部会)

 に詳しい。

 これすら読んでおらず,基本的な知識のない人間が

 小中一貫にたずさわれば,ただそれだけで「一貫校」は崩壊する。


ブログランキング・にほんブログ村へにほんブログ村 教育ブログへにほんブログ村 教育ブログ 教師教育・教員養成へにほんブログ村 教育ブログ 教育論・教育問題へ

小中一貫に反対する理由

 小学校と中学校で,教育内容などに関してお互いに理解し合うことは,大切なことである。

 情報の共有化を進めるためにも,小学校と中学校の教師が,協力し合うことも,大切なことである。

 クラス編成に関して,小学校からの情報は生命線である。

 残念ながら,情報が隠されているのではなく,大事な情報を持っていないことが

 ばれてしまうのもこの小中の関係なのだが。

 
 さて,子どものためを思って強気に申し上げれば,

 小学校の人間関係がそのまま中学校に持ち込まれることになる

 小中一貫に,私は大反対である。

 私立ならまだしも,公立でこれを広めることは,子どもにとっても

 教師にとっても保護者にとってもたいへん気の毒なことになると考えられる。

 小中一貫というのは,

 たとえば中高一貫校などへの受験を考えている家庭にとっては,

 何の意味もない。

 では中学受験に何の興味もない人に,

 この小中一貫のメリットがあるかと言えば,なかなか思いつきにくいだろう。

 本当に部活から何からが充実して,だれもが行きたい中学校に行ける,

 そんな小学校(一貫校)が生まれるのなら話は別だが,

 「高校受験に相当有利」程度の情報だけでは,

 特に何の魅力も見出せないという結果になるだろう。

 校長などに思い切った権限を認め,

 おもしろい教育を好きなように実施させられる

 「覚悟」と「財源」がある自治体なら,まだ希望もあるが,

 そうでなければ,

 小中一貫というのは,

 子どもにとっても

 教師にとっても,

 行政にとっても,

 ただの「足枷」にすぎないものになるだろう。

 そう,小中一貫というのは,文字通りの「足枷」である。


ブログランキング・にほんブログ村へにほんブログ村 教育ブログへにほんブログ村 教育ブログ 教師教育・教員養成へにほんブログ村 教育ブログ 教育論・教育問題へ

【要望】 「ブログ村」運営者の方へ/読者の皆様へ

 こちらのブログで,たいへん心苦しいことがおこっています。

 私の「ブログ村」という削除記事が,「記事反映」を行っていないのに,新着記事に掲載され,現在では「教育ブログ」及び「教育論・教育問題」の注目記事になっています。

 読むことができない記事が「注目記事」とはおかしなことで,ブロガーとしても読者の方にたいへん申し訳なく思っております。

 「注目記事」からはずしていただくことは可能でしょうか。

 よろしくお願いいたします。

 ご覧いただいた皆様には,ご迷惑をおかけしてすみませんでした。

********************

 教育論・教育問題カテゴリーには,教育ブログの「中核」たるブログの数々が登録されています。

 私は,現場の教師として,二人の子どもを小学校と中学校に通わせている保護者として,教育委員会の指導主事として勤務した人間として,そして地域の学校を見守る人間として,どこかの立場に偏ることなく,主に現場の教師の問題を取り上げてきました。

 中には,一部の方々から見れば「偏っている」「極端な」と思われる記事もあるかとは思いますが,一番大事な視点は,子どもの目から見て,その事例はどうなのか,というものだという信念のもと,記事は書かれているものだということをご理解の上,お読みいただければと思います。

 「教育の素人」などと揶揄される官僚や事務系の方々や,「指導力不足」を自覚され,苦しんでいる方々には申し訳ございませんが,少しでも教育の本質に迫れるよう,私自身も努力しているところですので,何かプラスになることを探していただくという趣旨でご覧いただければと思います。


ブログランキング・にほんブログ村へにほんブログ村 教育ブログへにほんブログ村 教育ブログ 教師教育・教員養成へにほんブログ村 教育ブログ 教育論・教育問題へ

4・4・4の前に,教師及び中高一貫校の実態を見よ

 現状の問題が改善できないのを放置して,

 全く新しいシステムに子どもを放り込もうと考える教育現場の人間が生まれたら,

 それこそ墓穴を掘るだけのことであろう。

 だからだれも手を出さないはずが,

 それでは「引っ込みがつかない」ので,行政のいいなりになる・・・・金を握られ,「存在価値はどこに」などと脅されるのだから,気が小さい国立大学法人のサラリーマンがいれば,すぐにそうなるだろう・・・・学校が生まれてくるかもしれない。一つだけ,その様子が手に取るようにわかるところがある。附属学校を多数抱えている大学である。
 
 そんなところでは,教育の素人が,経営にかかわることになるだろう。

 結局どうなるか,なれの果ては,現在の中高一貫校の実態を見ていただきたい。

 大学受験のための予備校のような授業が常態化しているところがある。

 昔から多くの教育関係者が口を酸っぱくしていっているのは,

 日本の教育が歪む最大の原因は大学入試にある,ということである。

 子どもや親が大学への進学実績が,中高一貫校を選ぶ目安になっている。

 だから,中高一貫校の教師たちは,大学進学実績のための仕事をさせられるわけである。

 優秀な子どもが集まっている学校では,塾がその仕事を肩代わりしてくれているわけだが。

 中高一貫校をつくる上での理念は何だったのか。

 当時の担当者は,もうどこかで裕福な暮らしをしているかもしれないが,
 
 もう一度,説明しに世の中に出てきてほしい。

 「約束と違う」という権利くらいはあるだろう。

 
ブログランキング・にほんブログ村へにほんブログ村 教育ブログへにほんブログ村 教育ブログ 教師教育・教員養成へにほんブログ村 教育ブログ 教育論・教育問題へ

ネコでも校長になれる

 人の不幸を喜ぶというより,人の気に障ることを平気で書いたり話したりすることができるのはなかなかの能力である。
 
 非正規雇用の割合が高くなり,就職難で苦しんでいる人たちが多いのに,

 「そういうこと」が書けるのはなかなかなものである。

 調布の例の小学校教師のように,

 「そういうこと」が言えるようになる「仕組み」をだれか解明してほしい。

 実は,自分では解明できているのに,

 それがなぜか自分にだけは適用できないという不思議な問題も,解明してほしい。

 

 たとえば,

 「ネコでも校長になれる」

 と聞いて,

 「ああ,いい学校だなあ」

 と余裕で構えていられる人もすばらしいとは思うが,

 実際の校長にとって,また,校長試験を受けてもなかなか通らない人にとっては

 「馬鹿にするな」

 という気になる言葉だろう。

 ネコの名誉も重んじるとすれば,

 利用されるネコに対しても失礼な話である。

 世の中には,PRのための仕事はたしかにある。

 「1日署長」などはその例である。

 しかし,この「1日署長」が,管内で発生した重大事件の対策に追われる,ということはない。

 教育ブログにこういう話が登場してしまうことが,

 なぜか申し訳なくて仕方がない。

 そんなことが言える立場ではないことは承知しているが,

 本当に申し訳ない気持ちでいっぱいである。

 中学生は,

 橋下代表の「あの言葉」を,

 「自民党の支持率を下げるためのパフォーマンス」と分析していた。

 「国益に反する行為だが,それ以上の目的があるかもしれない」のだそうだ。

 実際はどうだろうか。

 政治の世界では,敵の足を引っ張る,というのが横行する。

 そういう姿が,政治そのものへの不信にもつながっていることを,

 政治家は理解すべきだが,「選挙に勝つ」ことが最大の目的になってしまうと,

 そんなことは言っていられない。
 
 しかし,投票率30%という選挙がそもそも「有効」なのか?

 話が横道にそれた。

 わざと人を怒らせるようなことを言う。

 これは教員採用試験や管理職試験の面接で,ときどき繰り出される「技」である。

 そういう「隠れた場所」だけで,できればしていてほしい。


ブログランキング・にほんブログ村へにほんブログ村 教育ブログへにほんブログ村 教育ブログ 教師教育・教員養成へにほんブログ村 教育ブログ 教育論・教育問題へ

教師が変われば子どもも変わる

 これに類するタイプの本が何冊かあるだろう。

 よくある話である。

 しかし,このことを

 「教師が入れ替われば」という意味と混同している人がいる。

 小学校のように,学級担任が変わっただけで見違えるような集団が生まれることがある。

 それはそれで正しいのかもしれないが,

 「教師が変われば・・・」という

 教師の意識改革の大切さを自覚できない教師には,どんな本を読ませても無駄である。

 お願いだから,小さい子どもに「ときめき」を覚えるような人間だけは教師にならないでほしい。


ブログランキング・にほんブログ村へにほんブログ村 教育ブログへにほんブログ村 教育ブログ 教師教育・教員養成へにほんブログ村 教育ブログ 教育論・教育問題へ

リーダーに求められる「習慣」

 スティーブン・R・コヴィー著『子どもたちに「7つの習慣」を』を参考に,

 中学生に対して示した資料が,以下のものです。

*******************

  リーダーに求められる7つの習慣

1 常に先頭に立って行動し,過ちを人のせいにせず,
 組織の失敗は自分のこととして受け止める。
             ・・・・・( 主体 )性を発揮する。

2 前もって計画を立てて,目標を設定し,目的意識を
 もって,効果的で意味のある行動をとる。

3 最も重要なことに時間を使い,やらなくてもよいこと
 をしないように,優先順位を決め,スケジュールを組
 み,計画を実行する。

4 自分が達成したいことを達成して満足するだけでな
 く,他人の願望を果たし,他人からの「信頼」の「残高」
 が増えるように行動し,意見が対立したときには第三
 の案を模索する。
          ・・・・・( Win )-( Win )を考える

5 他人の考えや気持ちに耳を傾け,相手の立場に立
 って物事を考え,自信をもって自分の意見を述べる。
        ・・・・・( 理解 )してから( 理解 )される

6 常に謙虚さを忘れず,他人の長所を認め,それを
 自分も身に付ける努力を怠らない。
            ・・・・・( 相乗 )効果を発揮する

7 適切な食事,運動,睡眠によって健康に気を配り,
 余暇の時間も充実させ,他人を助 ける効果的な
 方法を学校以外のさまざまな場所で学ぶ。


7つの習慣によって期待できる効果

① 見守ってくれる人がそばにいなくても,自分から
 進んで正しい行動ができる。

② 無駄,無理,ムラをなくすことができる。

③ 自制心が発揮でき,みんなと歩調を合わせて行動
 できる。

④ 柔軟な態度,臨機応変な態度が身に付く。

⑤ 人と正しく向き合う態度が身に付く。

⑥ 他人と協力,連携して,より効率的で効果的な行動
 ができる。

⑦ より視野の広い人間になる。


ブログランキング・にほんブログ村へにほんブログ村 教育ブログへにほんブログ村 教育ブログ 教師教育・教員養成へにほんブログ村 教育ブログ 教育論・教育問題へ

リーダーシップの誕生を阻むもの

 都市部だけの問題ではないと思われるが,

 中学校で生徒が学級委員を務めたい,というとき,保護者が反対する場合がある。

 私が勤務していた学校でも,中学校3年生である生徒が学級委員に立候補し,任命された後に,

 保護者が担任に激しく抗議したことがあった。

 「なぜ家で子どもと話さないのか?」

 と普通の人は思うだろうが,ここでは深入りしない。

 保護者としては,

 「進学のための勉強の支障になる」

 ことを第一の理由として,放課後の仕事が多い学級委員をやめさせてほしい,

 と訴えたのだ。

 結局,学級委員は務めることになったが,

 生徒会役員も,何か「犠牲者」的な香りがする学校というのがあるのだろう。

 保護者としては,PTA役員になるのと同じような感覚があるのかもしれない。

 これが,

 生徒による自治が中途半端な学校なら,

 保護者の言うとおり,という場合がある。

 しかし,私が勤務した学校では,生徒にすべて「それなり」の経験をさせることができた。

 リーダーシップの誕生を阻んでいるのは,実は保護者ではなく,

 学校の教師である,という面があることを忘れてはならない。

 中学校というところは,

 分掌の結束よりも,学年の結束の方が強い。

 だから,「主幹」が担う生活指導主任や教務主任,進路指導主任は,

 実は「だれでも」勤まる。

 教務主任ですら。

 しかし,いい仕事ができる「学年主任」は,だれにでもつとまる,というものではない。

 学校によっては,単純に「年齢」によって決まるが,

 中学校の「学年経営」は,「学校経営」に匹敵するほど,実は重要なのである。

 小学校の「学級カラー」と同様に,

 中学校には「学年カラー」というのが存在する。

 それは,学年主任をリーダーとした学年の教師集団によって「染められる」ものである。

 この教師集団が,学年主任の「個性」によって,

 リーダーを育てるのが好きな学年や,

 教師がリーダーのままで終わる学年を

 つくり出す。

 中学生は,教師に対する反発心も大きいが,

 実は案外,教師の指導に従順なところもみせる。

 これは小学校のように教師が評価の担い手である,というのが理由ではなく,

 小学校とは違って複数の教師に接することができるために,

 「人によって異なる接し方をする」傾向があるための現象である。

 「こわい先生」には従い,「やさしい先生」には反発する,という単純なものではない。

 教師集団としては,リーダーを育てるのは,非常に面倒くさいことである。

 教師がやればすむことを,生徒にやらせて失敗させることを繰り返し,

 ときに励まし,ときに怒り,一歩一歩,真のリーダーに近づける指導というのは,

 とても根気と労力がいるものである。

 大事な行事が,大失敗に終わってしまう後味の悪さを教師と生徒が共有することがある。

 
 だから,「全部教師がやってしまおう」というのが一番簡単な仕事術である。

 こういう選択肢をとる学校では,生徒のリーダーが育たない。

 同じ学校の中で,リーダーが育つ年と育たない年があるのは,

 中学校の教師の責任である。

 「小学校が・・・」というのは,リーダーを育てる仕事,という観点から見ると,単なる「言い訳」に過ぎない。

 「組織」にとって,「価値観が共有できない」という問題が,どんな結果を生むか,

 今の政治の世界を見れば,分かりやすいだろう。


ブログランキング・にほんブログ村へにほんブログ村 教育ブログへにほんブログ村 教育ブログ 教師教育・教員養成へにほんブログ村 教育ブログ 教育論・教育問題へ

リーダーシップの誕生まで

 リーダーを育てるノウハウ本はさまざまあるが,

 学校教育に関するもので,そのことを中心テーマに据えたものは少ない。

 横並び大好きの日本の教師には,ウケないテーマであることは間違いないだろう。

 また,そもそもリーダーシップをとっていない日本の学校の教師たちが,

 リーダーシップとは何か,

 子どものリーダーシップをどう育てるか,などを語る習慣がないのも当然のことである。

 リーダーは,自然発生的に生まれるものでもある。

 学級委員的リーダーもいれば,

 いじめのボス的なリーダーもいる。

 子どもたちにとって非常にやっかいな存在が後者のリーダーである。

 ここでは,中学校における「学級委員」と「生徒会役員」の中間・・・・つまり「学年」集団のリーダーシップの誕生に関することを書きとめておこうと思う。

 小学校7年生が中学校1年生らしくなるとき・・・・それは,

 教師への依存心が弱まるときである。

 「自分たちで自分たちをコントロールしている」という実感は,

 学年の集会を生徒たちに企画させると,それなりに得られることになる。

 リーダーになるには,

 リーダーっぽい仕事をこなし,「自立」している感覚を持たせて,

 それなりの達成感を味わわせるだけでなく,

 様々な「失敗」を経験させなければならない。

 ここが大事なところである。

 教師としては,本当のリーダーになれるかどうかを見定めるときがここである。

 当たり前のことが当たり前にできるだけで満足するのではなく,

 小さな問題に目が留まる余裕を持たせることが重要である。

 学年の小さな問題が,「個人の問題」のままで終わってしまっては,

 真のリーダーシップは生まれない。
 
 「個人としての成功感,満足感」でストップさせる指導がなされがちだが,

 教師としてはもう少しの辛抱である。

 「私的な満足感」から「公的な満足感」へと「満足度」のシフトチェンジが

 できる人間が,真のリーダーとなり得る。

 生徒たちが相互依存の関係を築けたと実感したときが,

 本当のリーダーシップが誕生するタイミングである。

 教師にとって重要なのは,

 このタイミングまで,いかに我慢できるか,である。

 当然のことだが,だれでもリーダーになれるわけではない。

 失敗もあり得る。

 それでも,真のリーダーを育てるプロセスを大事にできる,

 そういう指導方針を共有できる教師集団でありたい。


ブログランキング・にほんブログ村へにほんブログ村 教育ブログへにほんブログ村 教育ブログ 教師教育・教員養成へにほんブログ村 教育ブログ 教育論・教育問題へ

教育の世界の常識は,「学年」から「個」へ

 道徳教育を考えてみれば一番分かりやすいかもしれない。

 小学校1年生がきちんとできる挨拶が,

 中学校1年生にはできなかったりする。

 小学校1年生のときにできていた挨拶が,

 中学校1年生になると,できなくなっていたりする。

 これを,学年としての特徴と捉えてきたのが,今までの教育観である。

 これからの教育は,

 そうやって「学年」とか「学級」というフィルターで子どもを見るのではなく,

 「だれだれさん」がどうである,という「個」を重視したものに変わっていくとよい。

 「個」は「個性」と書いてもよいのだが,

 「個性」から想像されるイメージが人によって大きく異なるため,ここでは「個人」という意味に近い「個」としておく。

 今までの教育観では,

 「小学校何年生」という「イメージ」が先にあって,

 その「イメージ」からはずれる子どもに対して,

 「小学校何年生なのに」という見方をすることが多かった。

 教師は,「小学校何年生」というのはこういう学年だから,

 こういう指導をしよう,

 という話になっていた。
 
 しかし,これでは教育が成り立たなくなった。

 
 これからの教育観は,

 発想が逆になる。

 「だれだれさん」は,こういう「小学校何年生」である。

 こうなると,

 「小学校何年生」という言葉では,「小学校何年生」が説明できなくなる。

 本来,それが当然のことである。

 当たり前と言えば,当たり前すぎる話だ。


 学習指導要領では,たいてい

 小学校は低学年・中学年・高学年ごとに

 目標や内容が決まっている。

 これは,小学校3年生でも小学校4年生の学習ができる,

 ということを示している。

 極少人数の学校では,実際にそういう教育が行われている。


 「だれだれさん」という「個」の能力を中心にすえて教育をしよう,という発想になれば,

 「飛び級をさせても当然」という理解が得られやすくなる。

 ただし,それは「能力」が見えやすい教科だけに限った話であるが。

 
 ここで,30人もいる学級では無理だ,という話を耳にする。

 では,教師の数を3倍にして,生徒10人ならできるのか?と聞けば,

 「できます」なんて言葉は帰ってこないはずだ。

 指導力が高い教師のクラスだけなら可能かもしれないが。

 今までの日本の教育は,

 「小学校1年生」とか「小学校4年生」という枠に子どもを縛り付け,

 その枠の中で子どもの能力をとらえていたから,

 「できない子」「できる子」が同じ学年の集団の中ではっきり分けられていく。

 本当は,小学校4年生のときに「できない」ことを,小学校6年生になったら,

 2年遅れになってしまったが「できる」子どもに育てなければならないはずである。

 それが,ベルトコンベアーに乗った製品のうち,不良品がはじかれて

 捨てられてしまうか放置されてしまう教育だった。

 ベルトコンベアーのように等速で決められた方向に向かって子どもは成長するわけではないが,

 同じ目標を掲げて教育しているわけであるから,途中でベルトから外された子どもを

 放置しておいてはならないはずである。


 全員が,別々のベルトコンベアーに乗っているイメージを想像してほしい。

 それぞれの速度が異なる。

 1本のベルトコンベアーの速度も,時間で異なる。

 それが「本来の子ども」であろう。


 私たち中学校の教師は,たった3年間しか子どもを預からず,

 しかも中1と中3では全く成長の度合いが異なる集団を教えている。

 そういう中学校で,「同学年同内容」の教科指導を行っていく根拠は,

 小学校で基礎基本が定着していることにある。

 ところが実態は,小学生の学力調査の結果を見れば,明らかであろう。

 中学校教師が何を言いたいかは,書くまでもないだろう。

 同じことを6回繰り返してでも,

 習得させておかなければならないことがある,という強い自覚がほしい。

 小3でやったから,小4ではやらない,なんていう「メンツ」を捨てることが,

 小学校改革では絶対に必要である。

 「習得」「活用」「探究」のサイクルがなぜ注目されているかを考えてほしい。

 「習得」されているものがなければ「活用」はできないのである。

 

 小中連携事業で大切なことは,小学校が上に掲げた教育観を強く自覚してくれることである。

 それを自覚してくれれば,放課後にできることがいくらでもあるだろう。

 
 堂々と,勤務時間中に児童と向き合うことが可能である。

 
ブログランキング・にほんブログ村へにほんブログ村 教育ブログへにほんブログ村 教育ブログ 教師教育・教員養成へにほんブログ村 教育ブログ 教育論・教育問題へ

自分の机を生徒に掃除させて感動する教師

 中学校の中には,生徒に教科の準備室まで掃除させるところがあるようだ。

 それも,生徒が教師の机の上まで掃除してしまうというから,これには恐れ入った。

 私が勤務していた中学校や行政の世界には,朝一番に来た人(たいていは一番若い人,年次が浅い人,なのだが)が机の上を拭く,という習慣があった。

 机の上を拭くのは,出勤してきた教師や役人である。

 生徒でも,清掃業者でもない。

 当然のことだが,机の上にはものが乗っていない状態である。

 だから他人が管理しているものに手を触れることは一切ない。

 それが,紹介されている中学校では,

 生徒が教師の机の上を片付けてしまうということだから,

 これは私にとっては全く新しい「情報」だった。

 中学校全体のことで誤解をされないようにコメントすると,

 基本的に生徒は,

 教科の準備室内を掃除させることは年2~3回ならありうるが,

 当番をつけて掃除させることはまずあり得ない。

 掃除の時間というのは,教師は担任をもっていると教室で掃除の監督をすることになるので,

 教科の準備室は空になる場合がある。

 そこに生徒だけがいる,ということはあり得ないわけだ。

 ただ,美術室とか,技術室とか,音楽室など,

 生徒が毎日使用して,ゴミが出る教室は,毎日当番が掃除する。

 そこの場所の掃除監督は,担任も含めてきちんと割り当てられているのがふつうである。

 次に,生徒が教師の机のものに

 手をふれるということは,基本的には禁止事項である。

 紹介の記事の趣旨は,

 「ときめかないものは捨てる」という内容だから,

 一瞬どっきりしたが,

 ただ「生徒が上手に片付けてくれるので感動」というだけだったのですこしほっとした。

 ほっとした後,

 こういう生徒を「教師のお世話係」的に使う発想が,

 「子どもを教師の道具に使う」という

 教育の世界に広く見られる悪癖の典型例であると気づいた。

 学校には,世間の常識とはかけ離れていることが多い。

 上の「悪癖」のような世間の常識では考えられないことが,

 「学校の常識」になってしまっていることに,

 少しでも多くの教師に気づいていただきたい。

 「恥を知れ」という言葉をプレゼントしておきたい。

 この記事が,
 
 「教師の机の上に置かれている書類はすべて捨ててよい」

 という提案なら大賛成である。

 学校から,「汚い教師の机」は一掃されるだろう。

 「ときめかない」ものは,学校からなくなっていくというのは,生徒にとっても好都合であろう。

 感動を求めて仕事をしているような自己満足型教師は,

 学校現場には必ずいると断言しておこう。

 しかし,それは多数派では決してない。

 感動は,後から勝手についてくるものである。

 学校の教師は,子どもの成長のために仕事をしている。


ブログランキング・にほんブログ村へにほんブログ村 教育ブログへにほんブログ村 教育ブログ 教師教育・教員養成へにほんブログ村 教育ブログ 教育論・教育問題へ

感動の押し売りが好きな教師に道徳教育をさせてはならない

 道徳の時間は,子どもが最も「好きではない時間」の一つである。

 それは,

 「価値観の押し付け」
 
 「感動の押し売り」

 が常態化していることを如実に物語っている。

 水は低い方へ流れる。

 教育の世界も,

 簡単にできる指導法に,教師は飛びつく。

 簡単にできる指導法で,

 本当に導きたい方へ子どもを連れて行くようなことはできない。

 できると誤解している教師は,

 すでに「導く方向」を誤っているのである。


 専門教科の指導とは異なる

 道徳の時間の指導に,

 真面目な教師は四苦八苦している。

 その「四苦八苦」している姿を見せることこそが教育の価値に結びつくのに,

 「これでどうだ」

 とばかりの指導案を見ることがある。

 教育の仕事は,本当に長時間労働だし,内容は緊張をしいられるし,専門的な知識も必要だし,じっくりと時間をかけた子どもとのコミュニケーションも必要で,

 それだけ充実感が得られやすいとともに,

 教師の方が勝手に「感動」して喜べる仕事でもある。

 「心」の問題というのは,そうやって「勝手に感動している」ことが大切なのであって,

 「ここで相手を感動させよう」なんて思って指導するものではない。

 しかし,教師の中には,

 根っこから広告業や娯楽業の人間に変わってしまった人が出てくる。
 
 「上手くいったことに味をしめる」

 教師がすることは,

 外部から見れば,

 「感動の押し売り」である。

 そして,「感動しない方が悪い」「感動できる心が育っていない」などとくる。

 広告業や娯楽業のように,

 感情のコントロールの方法が

 洗練されていないために,

 「くささ」が際立つ。

 目標は,「感動させること」ではない。

 「感動」は,その先にある目標を見えなくする

 教育の世界の「悪魔」であることの自覚が教師にはほしい。


ブログランキング・にほんブログ村へにほんブログ村 教育ブログへにほんブログ村 教育ブログ 教師教育・教員養成へにほんブログ村 教育ブログ 教育論・教育問題へ

感動することはすぐに忘れた方がいい

 亡くなった父は,感動のドラマを見ながらよく涙を流していた。

 再放送されたものでも。見るのが2回目のドラマでも。

 前回の感動はあまりよく覚えていないし,ドラマの筋も忘れていたりする。

 そういう方が,感動も大きいだろう。

 記憶させるために感動させる,という教師がいたとしたら,

 本当に気色悪い。

 吐き気がする。

 感動できることは,何度でもその体験ができるように,

 すぐに忘れてしまう習慣がついている人は幸せである。

 たいして出来がよいわけでも,役者の演技が上手いわけでもなく,

 感動してしまう映画がある。

 なぜか。

 音楽がいいからである。

 音楽は,人の理性を失わせ,豊かな感性にひたらせてくれる道具なのか。

 話を戻すと,

 「記憶」などをゴールにするような教育は,学校には全く必要がない。

 「生きる力」の「い」の字も理解していない人間がまた意味のないことを書いている。

 教える人間が悪かったか,教わる人間が勝手な解釈をしてしまってか,その両方が原因か,判断はできないが,せっかくの「学問」も台無しである。

 「記憶」だけではいかに「だめか」,教科書的なお手本にも使える事例である。


ブログランキング・にほんブログ村へにほんブログ村 教育ブログへにほんブログ村 教育ブログ 教師教育・教員養成へにほんブログ村 教育ブログ 教育論・教育問題へ

子どもが見えない教師が成功する

 子どものことを理解しすぎていると,

 それが子どもに伝わってしまい,指導で失敗してしまうことがある。

 いじめの被害を訴えてきた子どもが,

 実はいじめる側の中核だったりするケースがある。

 子どもがしっかり見えている教師は,

 こういう子どもの「フェイク」を見破ってしまう。

 見破ってしまっていることが子どもに伝わると,指導は失敗する。

 見破られた子どもがさらに不安定になるからである。

 子どもが見えない教師は,

 子どものねらい通りに「だまされる」。

 これは,結果論で言えば,成功に終わることがある。

 「指導」に成功した,とは言えないが,結果として,いじめっ子の精神状態が安定し,

 新たないじめを生み出さなければ,成功と言える。

  ・・・・・・
 
 こういう類のアドバイスを,たとえば書物で伝えようとする。

 しかし,いくら言葉を重ねても,なかなか「役に立つ情報」にはなりにくい。

 子どもを見る・見ない,見える・見えないにかかわらず,

 そもそも子どもの話を聞こうとしない教師にこんなことを言っても意味はない。

 子どもが話しかけてくるような教師でないと,意味はない。

 子どもが見えていないのに,見えていると誤解している教師が

 こういう話を読んだら,余計に話をこじらせる結果になるおそれがある。

 実際の指導場面では,

 必ず複数の教員の意見を求めることが大切である。

 いい学年集団,教師集団というのは,必ず「意見の対立」が生まれる。

 ある教師はAだと言い,別の教師は正反対のBだと主張する。

 教育の難しさは,「正解」がそもそもないか,

 状況によって簡単に「正解」が変化するからである。

 指導力不足の教師は,ただ「慎重に」と言っているだけで,

 自分の意見は言わない。こういうのを相手にするのは時間の無駄である。

 慎重に考えたいから,他の教師の意見を聞いているのである。


 意見の相違は,そもそも教育という仕事の前提だと言っていい。

 指導力をつけるために必要なことは,協力を得ることである。

 昔もこのブログで意見交換をしたことがあるが,

 指導力の高い教師は,人を動かすのが上手な教師だという面がある。

 つまり,実際の行動は別の教師がとっていて,ことがうまく運んでいる。

 もしものときに,出られるような準備だけしておく。

 こういう教師は,実績がない,と見られることもあるが,教員の評価の観点は,

 個人だけをとりあげて評価することができないものがあり,そういう部分こそが今の教師に求められている,ということである。

 チームで問題を解決する,という観点である。

 指導力不足教員でも,現場で役立てる部分があることがご理解いただけただろうか。


ブログランキング・にほんブログ村へにほんブログ村 教育ブログへにほんブログ村 教育ブログ 教師教育・教員養成へにほんブログ村 教育ブログ 教育論・教育問題へ

暴言教師の小中連携

 小学生でも6年生にもなると,中学生と一緒にいても区別がつかない男子や女子がたくさんいる。

 中学校2年生でも,小学校6年生といても区別がつかない男子がいる。

 「発達の時期」がずれているための現象だが,

 中学校の教師としては,

 「せめて内面だけは」などと思ってしまう。

 そういうところがあるから,

 あの小学校の暴言教師の気持ちは分からないでもない。

 しかし,実際にあのような暴言を小学校2年生に浴びせられる「能力」には恐れ入る。

 こういう教師が「研修」を受けた後に現場に復帰することについて,

 「危惧をおぼえる」という保護者の感覚は,とてもまともなものだと考えられる。

 私たち中学校の教師は,

 小学校に訪問して小学生に会うと,

 おそらく多くの人は

 癒される

 思いがする。

 中学年あたりになると,

 「この子は先生に憎まれていそうだな」なんて小学生も見えるようになるが,

 低学年の子どもの場合は,

 「手を焼きそうな子どもだな」

 とは思っても,

 「教師はこの子を憎んでいるな」

 とは感じない。

 しかし,暴言の中身からすると,

 小学校の教師には,

 中学校の教師がもっていない感性が宿っていると思ってしまう。

 高学年の児童に対して,

 本当に優しく,そして易しく,低学年の子どもに話すように語りかける教師がいたり,

 その話し方では中学生でもなかなか伝わらないぞ,という教師がいたり,

 中学校と同様,小学校の教師もさまざまである。

 さまざまであることは分かるのだが,

 なかなか理解できないのは,

 あのような暴言を浴びせることができる「能力」である。

 実は,私の妹の担任も,当時でも有名な暴言教師だった。

 私の担任も,見方を変えれば,立派過ぎるほどの暴言教師だった。

 小学生の学級崩壊は,

 こういう学級では起こりにくい。

 完全に「制圧」できているからである。

 小学生の教師から見ると,

 中学校こそ「暴言教師」の宝庫だろう。

 ただ,その中学校教師から見て,理解できないことが,

 小学校にはある。

 小中連携は,こういう「不可解現象」の解明から始めてみるのはどうだろう。

 自分を客観視できるチャンスになるかもしれない。


ブログランキング・にほんブログ村へにほんブログ村 教育ブログへにほんブログ村 教育ブログ 教師教育・教員養成へにほんブログ村 教育ブログ 教育論・教育問題へ

自衛のためのICレコーダー

 例の調布市の小学校での話である。

 小学校というところが,いかに恐ろしい場所かが実感できたニュースであった。

 親としては,子どもに少しでも気がかりな点があれば,

 子どもを守るためにICレコーダーですべてを録音しておくことが欠かせない学校が存在したのだ。

 子どもを守るための手段は,

 もはや

 担任ではもちろんなく,

 学校の管理職でもなく,

 教育委員会でもなく,

 録音の機械と

 マスコミだけになってしまったのか。

 マスコミは,喜んで飛びつくネタだろう。

 学校や教育委員会ほど

 叩きやすい対象はない。

 もし,教師の教室での言動を校長が録音していたら?

 教育委員会が録音していたら?

 ・・・・当たり前だが,組合が黙っていないだろう。

 しかし,出てきたものが,あのような暴言ばかりだったら?

 かばいようがない。

 私は,PTA会長をつとめていた父親が昔,廊下で聞いていてあきれていた,

 職員会議での組合員による管理職への恫喝こそ,録音しておいてほしかったと思った。

 校長の自殺との因果関係を考える材料になったはずである。

 自分が経験した,職員会議での組合員の言葉を録音しておけばよいと思った。

 こうして

 学校が「開かれていく」と,どうなるか?

 大部分の「ふつうの教師たち」のイメージが,

 ごく一部の「とんでもない教師たち」によって,

 歪められ,けがれていく。

 それでも,学校における「真実」は,隠すべきではない。

 クリーン化に最も大切なものは何か?

 それは,

 「常に学校を開く」ことしかない。

 オープンスペースの学校を増やし,隣のスペースではよく知っている地域の人がお茶しているような,そういう学校にしないと,安心して子どもを通わせることができない。


ブログランキング・にほんブログ村へにほんブログ村 教育ブログへにほんブログ村 教育ブログ 教師教育・教員養成へにほんブログ村 教育ブログ 教育論・教育問題へ

初任者がいきなり担任をもって,失敗しにくい学年は?

 小学校の教職経験をお持ちの方への質問です。

 小学校で,初任者がいきなり担任をもつのは当たり前ですよね。

 そういうとき,どの学年を受け持つのが,一番「無難」なんでしょうか。

 初任者がいきなり担任を持って,最も「失敗」しやすい学年は,どこなのでしょうか?

 おそらく,経験から導き出されている「法則」のようなものがあると思われるのですが・・・。

 もちろん,どの学年をもってもダメな人はダメだし,

 できる人はできる,と言ってしまえばそれまでなのですが・・・・。


 なお,中学校では,1年か2年は副担任として学級経営のイロハを学び,

 3年目から,中1,中2,中3と持ち上がるのが一般的かと思われます。

 
 なにしろ小学校は,学級経営と教科指導がセットになっていますからね。

 「失敗」で終わった学級の子どもは,それはそれはかわいそうなものです。

 よく話題にのぼる「算数崩壊」は,本当に「取り返しがつきにくい」ものですから・・・・。


ブログランキング・にほんブログ村へにほんブログ村 教育ブログへにほんブログ村 教育ブログ 教師教育・教員養成へにほんブログ村 教育ブログ 教育論・教育問題へ

「だれでもできる」という実感が,おそらく「だれにもできていない」ことの証明になっている

 小学校の先生にお聞きしたいのですが,

 小学生の6学年のうち,一番小学校で

 「能力の打ち止め」現象が大きな学年はどこでしょうか?

 もちろん,感覚的なとらえ方なのですが,

 教えてみての実感は,どこにあるのでしょう?

 もっと伸びるはずの学年なのに,

 ここで思いっきりストップをきかせている,と実感できる学年は?

 以前も書いたことですが,

 6年生を対象にした授業で,

 「この教え方で6年生は満足するのだろうか?」

 という,いかにも「小学生向け」の授業を目にすることが多かったのです。

 奈良の大仏の手の大きさと同じ敷物を模造紙で作って,みんなで乗ってみる・・・・・

 これ,6年生が無邪気に取り組む課題でしょうか?

 などといったこと。

 小学校4年生以降は,特にだれが教えても支障がないという経験者の声もあるようですが,

 これ,本当なのでしょうか?

 本当に,中学校の教師でも,小学校4年生の授業ができるのでしょうか?

 小学校の教員免許が取得できる大学は,かなり限られています。

 この限られた特殊な大学での教員養成カリキュラムは詳しくはないのですが,

 大学生はどのように「小学校の先生」になるための資質能力を磨いているのか,

 今まで本当に興味も関心もなかったのが,

 6・3・3制を見直すとなると,真面目な検討課題になってきます。

 現場感覚を生かすとしたら,

 「ここで本当はもっと子どもは伸びるはず」と小学校の先生が感じている学年が,

 重要なポイントになりそうな気がしています。

 これが小学校2年生などと言われると,

 幼小連携の話から始めなければならなくなるのですが。

 そろそろ本格的な実験校ができてもおかしくないと思われます。


ブログランキング・にほんブログ村へにほんブログ村 教育ブログへにほんブログ村 教育ブログ 教師教育・教員養成へにほんブログ村 教育ブログ 教育論・教育問題へ

汗をかくことを忘れた教師と子どもたち

 教育現場において,効率だの,合理化だのは,

 それなりの経験を経た人間が考えることである。

 今は,若い人に限らず,「余計な労力は一切使わない真理教」の信者になっており,

 だれもが飛びつくような話だ。

 仕事ができる先生をよく観察してみたらいい。

 若い人も,ベテランも,本当によく「動く」「働く」はずである。

 仕事ができない人をよく観察してみたらいい。

 若い人だけでなく,ベテランも,仕事がないはずである。忙しくなりようがない。

 効率よく働くには,効率よく働かなければならないほどの仕事をつくらなければならない。

 それだけの仕事が任されるよう,実績を残さなければならない。

 教師が教師を信頼するのは,「仕事らしい仕事をしてくれる」からである。

 「効率よくこなしてくれるから」ではない。

 「効率重視」は,そもそも仕事への「真剣さ」を失わせる。

 表計算ソフトによる成績処理の誤りが多いのは,そのためである。

 まだ誤りに気づくほどの大きな誤りだから,

 誤りは「表」に出ているが,そうなっていない誤りは山のようにあるだろう。

 笑い話にもならないが,

 自分が開発した仕組みを使っているのは自分だけだった,

 なんてことも学校では起こりかねない。

 学校には,教師と子どもとで「ともに汗をかく」という文化があった。

 その背景には,教師と教師とで「ともに汗をかく」という文化があったのだ。

 それが,いつからか,「教師は忙しい」から,

 いい仕事ができない,という話が「信じられる」ようになってしまった。

 「教師多忙真理教」である。

 しかし,職員室を1日観察しているだけで,そんなことは幻想であることがよく分かる。

 
 困ったことは,教師が「汗をかきたくない」ことを子どもに堂々と表明するようになったことである。

 「汗をかかない」教師を,子どもたちはあてにしなくなる。

 子どもを文字通り,自立させる,そこが本来のねらいであったとしたら,それはそれでよい「指導法」になるかもしれない。

 しかし,子どもも「汗をかかない」習慣がついたときは,それこそ「亡国」への近道になりかねない。

 少なくとも教科の授業では,教師は教師の仕事をしなければならない。

 子どもたちの「学び合い」の場は,教科以外でいくらでもある。

 「この程度まででよかろう。みんなできれば」というのが今の「評価」の考え方だから,

 授業のレベルはどんどん下がっているが,

 そういう授業をするために教師を志望する人はごくわずかだろう。

 効率よく仕事をこなす,というのは,

 子ども「切り捨て」と全く同じ意味になっていないか,まずは自問自答してみるべきである。

 
ブログランキング・にほんブログ村へにほんブログ村 教育ブログへにほんブログ村 教育ブログ 教師教育・教員養成へにほんブログ村 教育ブログ 教育論・教育問題へ

長嶋さん・松井さん・阿部さんの緊張

 三番目の阿部さんは,安倍総理のことではなく,

 巨人の4番の阿部選手のことである。

 今日,一番「緊張」している選手は,この巨人の4番だろうと,

 勝手に想像している。

 チャンスでの凡打は,その「緊張」のためだと思っている。


 私は,安倍総理の姿やスピーチが浮いてしまわないか,

 心配していたのだが,どうにかドームのファンを敵にまわさないですんだようだ。

 「アンチ巨人」とまでスピーチで明かした時は冷や冷やしたが,
 
 あくまでも今日の主役は長嶋・松井であった。


 ついでに緊張していたのは,
 
 左手一本で始球式の球を打ちに行った長嶋さんの後ろで,

 半分以上予想し,警戒していた原監督だろう。

 あれでは安倍総理のSPも間に合わない。

 
 今日は,亡き父に2人の国民栄誉賞受賞の報告を行いたい。

 熱烈な巨人ファンであった。

 原世代の私,

 松井世代の息子と,

 別に野球が好きではない家族を苦しませる季節になってしまった。


 みんな,本当の「孤独」を味わってきた人,味わっている人たちばかりだと感じている。

 今,教師たちは,かつての長嶋監督と松井選手のように,

 一人一人の子どもと真剣に向き合うのをやめてしまってはいないか。

 それも授業というかけがえのない時間の中で。

 
 教師は,放課後に子どもとそういう時間をもつことはできない。

 授業が勝負である,というのは,そういう意味である。

 
 最後に,松井さんには,

 将来,巨人の監督という「約束された場所」があるかもしれない。

 ただ,野球ファンには失礼かもしれないが,

 松井さんにはもっと「大きな仕事」があるような気がしてならない。


ブログランキング・にほんブログ村へにほんブログ村 教育ブログへにほんブログ村 教育ブログ 教師教育・教員養成へにほんブログ村 教育ブログ 教育論・教育問題へ

教員養成の根本的な失敗

 学習指導の本質的な失敗の原因は,一つではなく,いくつかの「余計なお世話」が複合的に働いてくることにある。

 多くの教師は,子どもに「失敗させない」ように

 「成功体験をもたせる」ように

 「喜ばせる」ように

 「楽しませる」ように

 指導しようとする。

 これが,「子どもが育たない」原因の一つになっていることは,

 多くの人が気づいている。

 しかし,「失敗」を恐れる意識(それは子どもにとっても教師にとっても)

 が,「失敗しない」「失敗させない」授業実践を志向してしまう。

 子ども本来の成長の芽を摘んでしまうというのに。

 失敗の本質は,
 
 「これで失敗の可能性はゼロだ」なんていう教育をしていることにある。


 教師は,年をとるごとに,

 子どもの喜ぶ姿をみることに満足感を強く覚えるようになる。

 だから,「失敗させることができる」教師からはどんどんかけ離れていく。

 こういう教師が,若い教師や,これから教師になろうとする人を教育していく。

 そうやって育った教師が,いま,どんな学習指導にとびつきたくなるか,わからないでもない。

 学校現場には,隠居寸前のじいさんばあさんばかりが増えだした。

 せっかく,若い世代が入ってこようとしているのに,

 若返った感じがしない。

 学校現場における「老害」・・・・

 子どもの日に,「老人」の自己満足の記事を読んでしまって,後悔している。

 が,それを読んだから,この記事が生まれた。

 子どもたちは「置いてきぼり」なのに,

 「すべてを救った」などと自己満足に浸っている。 


 子どもにとって,やさしいおじいさん,おばあさんは,心を安定させるかけがえのない存在であるかもしれない。

 しかし,子どもを成長させるのに,必要なのは,「鍛えてくれる人」である。

 木の上に立って見ている人は,自分の仕事で精一杯である。

 だれが子どもを育ててくれるのか。

 学校は家のかわりではない。

 
 今,学習指導は「評価」とセットになっている。

 学習指導に限らないが,「評価」という魔物の前で,教育や人間が「小さく」なっていく。

 忘れられているのは「目標」なのだが,ここでは置いておく。

 「評価」と完全セットになっている学習指導は,

 「評価」を意識して行われるようになっている。

 授業が終わった後,

 「こういうふうになってほしい」

 という願いが満たされることは,すべての人に共通のように思われるが,

 本当にそうだろうか? 特に,子どもにとって。

 子どもから「引き出される」ものが,そう簡単に予想できるものなのだろうか。

 予想できるタイプの授業も,もちろんある。

 教師のかかわりが浅いか皆無の授業では,それは予想できる。

 ・・・・・・

 教育実習の場で,「若さ」の大切さを伝えてあげたい。

 大学4年間の「学び」の薄っぺらさが実感できるのが,中学校だというところが

 教育の世界のおもしろいところである。


ブログランキング・にほんブログ村へにほんブログ村 教育ブログへにほんブログ村 教育ブログ 教師教育・教員養成へにほんブログ村 教育ブログ 教育論・教育問題へ

「否定する相手は心が病んでいるから無視しよう」では,学校の教師はつとまらない

 学校の教師をしていると,主には「思い込み」や「無知」,「そのときの機嫌の悪さ」が原因となって,

 教師の言動を強く否定してくる保護者に出会う。地域の方の場合もある。

 教師集団の中でも,確固たる信念をもって,相手を否定する場合もある。

 たとえば,式典での自分勝手な振る舞いである。

 教師と教師の関係の話は,ここでは置いておく。

 保護者対応というのは,とても大事なことであり,「教職実践演習」でも

○ 保護者や地域の関係者の意見・要望に耳を傾けるとともに、連携・協力しながら、課題に対処することができるか

 という具体的な「確認指標」にも入っている。

 保護者から否定的な言葉を投げかけられたとき,どうするか。しかも,匿名で。

 (匿名でも,多くの場合はだれの保護者かは分かることが多い)

 子どもが子どもに教える授業?なんてやめて,「まもとな先生の授業」をしてください!などの。

 そういうとき,教師は「保護者の心が病んでいる」と心の中で思ったとしても,

 それを表に出すことはない。

 中には,そもそも「心が病んでいる」なんて考えもしない人もいるだろう。

 私はこういうブログを書いているから,「保護者が正しい面もある」

 ことを想定して,対応にあたるようにしている。

 たとえが悪いかもしれないが,

 野球の試合が始まる前に,いきなり10点差がつけられている戦いに臨まなくてはならないような,

 そんな気持ちにさせられるときがある。

 しかも,相手のチームにはみんなホームランが打てそうな選手ばかりがそろっており,

 こちらのチームにはバットすらろくに振れない選手ばかりがいる。

 しかし,決して「望み」は捨てない,というのが,

 スポーツの世界の鉄則である。

 「敵前逃亡」の正しさを,ヨーロッパの軍隊は共通の認識でもっており,

 旧日本軍は「玉砕」を原則とした。お前は旧日本軍タイプか,なんて言われたら,

 「別に命を落とすわけではないから,それでもいいです」

 と返したい。

 できることを,一つ一つやるのみである。

 それも,子どもと一緒に。

 「子どもと一緒に」ができないところが,「大学」というところである。

 私は行政にいたから,

 そのころの多くの人間の印象を述べさせていただくと,

 教員養成にかかわることで,

 「大学には期待していない」ということである。

 最近,教員養成系大学に,元校長や教諭が再就職することが多いから,

 これはこれでいい傾向だとは思うが。

 しかし,「大学では」「大学だけでは」足りないのである。

 だから,行政の方で「養成」にまで手を出したわけである。

 教職基礎実践は,

 4年次後期に実施される。

 おそらく,10月から12月にかけてのことだろう。

 この時期に,「現場と連携する」ことの難しさを,立案者は想定に入れていたのであろうか。

 学生たちは,1日だけ,

 学校を見学に来る?

 調査に来る?

 それで,何がわかる?

 そのレポートを大学の教員が読んで,何がわかる? 

 また話が脱線してしまった。

 大学の教員は,うらやましい。

 「否定してくる人の話に,付き合っている暇はない」と言い切れるのだから。

 もちろん,それは正しい判断だと思う。

 しかし,現場の教員は,そういう話にきちんとした対応を見せることも,仕事のうちである。

 ある大学では,「保護者会」が開かれる,という話を耳にしたことがある。

 そのうち,大学の授業も,「保護者?向けの授業参観」が実施されるのだろうか。

 「外部評価」を受け入れて,経営の改善につとめてくれたりもするのだろうか?


ブログランキング・にほんブログ村へにほんブログ村 教育ブログへにほんブログ村 教育ブログ 教師教育・教員養成へにほんブログ村 教育ブログ 教育論・教育問題へ

誤解ではなかった ~指導力不足を他の教師のせいにする人間~

 また面倒くさいことに,誤解ではなかったことが分かった。
 
 飛び級制度の話だから,学校教育の話であることが分かった。

 しかも,小学校3年生と小学校6年生の能力を比べる,という具体的な話であった。

 そして,3年生の方が能力が高かったという。

 6年生の能力が低いのは,自分が受け持つ前の教師のせいだという。

 評価基準が書かれていないことが音楽らしいところであるが,

 こういう話は,音楽のような専科の教師に限らず,

 通常の学級担任をつとめる教師の口からも飛び出すことがある。

 「勉強を嫌いにしたのは,前の担任のせいである」

 「勉強ができないのは,前の担任のせいである」

 ・・・・・

 それは,確かなことかもしれない。

 そして,もう一つ確かなことは,

 「自分にも勉強を好きにさせたり,勉強ができるようにさせる能力がない」

 ということである。

 自分が1年間,指導した後の実技テストの結果は,小6の負け。
 
 これで,6年生の授業が成立しなかったことが分かった。

 4,5年生については書かれていないが,同じような話なのだろう。

 この教師の話が正しければ,

 まともな教師がいなければ,

 そもそも小学校に「音楽の授業は必要ない」

 とも言えるということである。

 「必要ない」というより,「害の方が大きい」と言った方がよいかもしれない。

 「害のあることをやっている」ために,やるべきことができないことの「害」は非常に大きい。

 この元教師は,音楽にはペーパーテストはないと言い切っている。

 音楽には表現だけで鑑賞の能力は必要ない,と言いたいのであろうか。

 学習指導要領が示す基本的な事項を無視した実践であると言える。

○ 音色,リズム,速度,旋律,強弱,音の重なりや和声の響き,音階や調,拍の流れやフレーズなどの音楽を特徴付けている要素

○ 反復,問いと答え,変化,音楽の縦と横の関係などの音楽の仕組み

 これを聴き取る能力がついたかどうかは,ペーパーテストではかることができる。

 また,

○ 音符,休符,記号や音楽にかかわる用語

 を理解しているかどうかも,同様である。

 集合の概念はあっても,自分から要素を排除しては意味がない。


 そして大事な話は,

 たとえ音楽の能力だけが高くても,

 その子どもを「飛び級」させることはない,ということである。

 「個性」だけが着目されるようなことについては,

 学校で習う必要は,全くない。


ブログランキング・にほんブログ村へにほんブログ村 教育ブログへにほんブログ村 教育ブログ 教師教育・教員養成へにほんブログ村 教育ブログ 教育論・教育問題へ

始める前から失敗することが分かっている「教職実践演習」

 文部科学省のHPに,今年から始まる,大学4年次後期の2単位の教職必修科目「教職実践演習」ができた「ねらい」が書かれている。 

******************

 教職課程の他の授業科目の履修や教職課程外での様々な活動を通じて、学生が身に付けた資質能力が、教員として最小限必要な資質能力として有機的に統合され、形成されたかについて、課程認定大学が自らの養成する教員像や到達目標等に照らして最終的に確認するものであり、いわば全学年を通じた「学びの軌跡の集大成」として位置付けられるものである。学生はこの科目の履修を通じて、将来、教員になる上で、自己にとって何が課題であるのかを自覚し、必要に応じて不足している知識や技能等を補い、その定着を図ることにより、教職生活をより円滑にスタートできるようになることが期待される。

******************

 ① 使命感や責任感、教育的愛情等に関する事項

 ② 社会性や対人関係能力に関する事項

 ③ 幼児児童生徒理解や学級経営等に関する事項

 ④ 教科・保育内容等の指導力に関する事項

 という4つの事項に関する「到達目標」=具体的にどの程度のレベルまで修得している(身に付いている)ことが必要であるかを示した基本的・共通的な指標も,示されている。

 この「到達目標」が達成されている学生のみが単位をとれる(卒業できる)ことによって,文部科学省は教員の質を確保しようとした,ということである。

 平成25年度の大学の卒業生から,

 「教員の資質・能力が到達目標に達していない人は,教員免許が取得できない」ことを宣言したわけである。

 しかし,大学の関係者でなくても,

 そう簡単に「卒業させない」「単位を出さない」決断を大学が下せるわけがないと,思うことだろう。

 「卒業できない」「単位がとれない」学生が増えれば,大学への志願者が減ることは目に見えている。

 「卒業できない」「単位がとれない」学生が増えれば,大学教員の質が問われることは,目に見えている。

 簡単すぎるほど簡単な話がある。

 そもそも大学教員の質は,どうやって担保するのか?

 大学が下した評価の妥当性は,だれがどうやって証明できるのか?

 現場に出てきて「資質・能力の不足」が確認できても,卒業してしまった大学に「送り返す」ことはできない。

 そもそも,この単位をとって実際に教育現場で働き始めるのは,

 単位を取得する大学生の何%くらいなのだろう。

 就職が決まっている大学生が,この単位を高いモチベーションをもって取得できるのならば,

 本当にいい将来の「保護者」になってくれるだろうことは期待できる。

 以下に,「到達目標」を示す。斜体の文字は,私の疑問である。

 ① 使命感や責任感、教育的愛情等に関する事項

  ○ 教育に対する使命感や情熱を持ち、常に子どもから学び、
    共に成長しようとする姿勢が身に付いている。

    *子どもがいない大学で,この資質をどう判断できるのか?

  ○ 高い倫理観と規範意識、困難に立ち向かう強い意志を持ち、
   自己の職責を果たすことができる。

    *普通の倫理観や規範意識と,「高い」倫理観や規範意識の
     差はどうやって判断するのか?
   

  ○ 子どもの成長や安全、健康を第一に考え、適切に行動すること
    ができる。

    *子どもがいない大学で,この資質をどう判断できるのか?

  ② 社会性や対人関係能力に関する事項

  ○ 教員としての職責や義務の自覚に基づき、目的や状況に応じた
   適切な言動をとることができる。

    *どこでの言動で,それが到達できたと判断できるのか?

  ○ 組織の一員としての自覚を持ち、他の教職員と協力して職務を
   遂行することができる。

    *どこでの言動で,これが到達できたと判断できるのか?

  ○ 保護者や地域の関係者と良好な人間関係を築くことができる。

    *どこでの言動で,それが到達できたと判断できるのか?

 ③ 幼児児童生徒理解や学級経営等に関する事項

  ○ 子どもに対して公平かつ受容的な態度で接し、豊かな人間的
    交流を行うことができる。

   *子どもがいない大学で,この資質をどう判断できるのか?

  ○ 子どもの発達や心身の状況に応じて、抱える課題を理解し、
   適切な指導を行うことができる。

   *子どもがいない大学で,この資質をどう判断できるのか?

  ○ 子どもとの間に信頼関係を築き、き、(ママ)学級集団を把握して、
   規律ある学級経営を行うことができる。

   *子どもがいない大学で,この資質をどう判断できるのか?

 ④ 教科・保育内容等の指導力に関する事項

  ○ 教科書の内容を理解しているなど、学習指導の基本的事項
   (教科等の知識や技能など)を身に付けている。

  ○ 板書、話し方、表情など授業を行う上での基本的な表現力を身に
   付けている。

  ○ 子どもの反応や学習の定着状況に応じて、授業計画や学習形態
   等を工夫することができる。

   *子どもがいない大学で,この資質をどう判断できるのか?


 いずれも,大学にいても判断しようがない目標ばかりである。

 現場の要望としては,教育実習期間中に知り得たことを,この実践演習の中で事例として出すことだけはやめてほしい。守秘義務違反となる。

 文科省のHPの文字の誤りは,やはり恥である。

 文科省内でもまともなチェック機能が働いていないことが分かる。


ブログランキング・にほんブログ村へにほんブログ村 教育ブログへにほんブログ村 教育ブログ 教師教育・教員養成へにほんブログ村 教育ブログ 教育論・教育問題へ

やっと解けた誤解 ~学校の先生は相手ではなかった~

 新しい記事での本文中の「註」で,

 「教師」と呼んでいる人間の立場が,「学校の教師」ではないことが正式に(?)確認された。

 それで,学校の教師には何の役にも立たない記事ばかりであったことに納得がいった。

 今までの誤解に基づくこちらからの批判は,本当にお詫び申し上げたい。

 「学校音楽」の実践が全く示されていないことにも,ようやく納得がいった。

 私たち普通の学校の教師には,想像も及ばない,専門的な世界の話だったから,

 「そっちの頭がおかしい」という非難を浴びたのだと分かった。

 何度,「頭がおかしい」「国語力がない」などと言われたことか。

 別のブロガーは,「心が病んでいる」など言って非難している。

 教育ブログの村には,心の専門家がたくさんいるらしい。

 それにしても,

 学校の教師へのアドバイスなど,はじめから想定外だったことに気づけなかった。

 学校における「学力観」について全くの無知だったり,

 ごくわずかに見られた生活指導の事例が的外れの内容だった理由が分かった。

 「学校ごっこ」とか言って

 学校教育をバカにしていた理由もよく分かった。

 自分を弁護させてもらうと,中学校教育の村に在籍しているのが本当に紛らわしかった。

 
 一言,書かせていただくと,

 音楽の才能をもし見抜いてほしいという保護者がいたら,

 音楽の本場に行った方がよいと思う。

 
 ヨーロッパの音楽は,8畳程度の日本の狭い部屋で聴くものではないことくらい,

 素人でも分かる。


ブログランキング・にほんブログ村へにほんブログ村 教育ブログへにほんブログ村 教育ブログ 教師教育・教員養成へにほんブログ村 教育ブログ 教育論・教育問題へ

例外中の例外を例に出して問題視する人の考え方

 小学生だけでなく,中学生でも,人をたたくとき,

 力の加減を知らない子がいますよね。

 それと同じような「思考」の人がいます。

 1万分の1のために,全部変えるのと,

 2分の1のために,一部を変えるのとでは,

 どちらの方が「変える意味」がありそうでしょう?

 そういう発想が存在しない人がいるんですね。

 実は,そういう発想の人は,大学や行政にもたくさんいるのです。

 だから,「こういうこと」になってしまっている。

 足踏みをさせてはならない,ですか。

 小学校の場合,日本では幸いなことに,学校よりも充実した学習ができる場があるので,

 小学校での「遅れ」を取り戻すことはできます。

 ・・・・・しかし・・・・・天才以外にも「足踏み」させられている子どもはとにかくたくさんいるのだから,

 「それこそ」が問題なのであれば,何か提言してもらえないでしょうか・・・・?

 おいしい思いができるのは,「天才」だけなのですか???


ブログランキング・にほんブログ村へにほんブログ村 教育ブログへにほんブログ村 教育ブログ 教師教育・教員養成へにほんブログ村 教育ブログ 教育論・教育問題へ

「理想の何々」に「正解」を求める人たち

 「理想のまち」づくり,

 「理想の学校」づくり,

 「理想の国」づくり・・・・・

 答えを出すのは,だれでしょう?

 正解はあるのでしょうか?

 あれ?

 だれかが言っていたことと同じになる?

 「子どもによって『理想の先生』は変わる」???

 それはそうなんですが,そういうことではないんですね。

 もちろん,「私は理想の先生です」なんて言う教師がいたら,

 裸の王様です。

 「理想の教師の十分条件」なんて,自分が説明もできないことを言いだして,

 書くことがなくなって知らんぷりをするような「大王」もいましたね。

 でも,「私には,具体的な理想の先生像がある」と言う教師がいたら,

 「どんな先生像ですか?」と聞いてみたくなりますね。

 3個がすぐに6個になる先生です。

 4個なら15個になります。


 「これこれこういう条件下に置かれている人たちのことも考えて」

 「こういう思いを抱いている人のことも考えて」

 自分の考えを見つめ直し,練り直す・・・・

 これが「国際的視野から・・・」の実践のねらいでした。

 当然,「国際的視野をもつってどういうこと?」という疑問から学習はスタートするわけです。

 実践事例の何時間か前の教師と生徒が置かれた状態です。

 そこに,さまざまな生徒が,さまざまな考えを持ってくる。

 地域から,学校に,さまざまな「考え」を「持ち帰ってくる」。

 地雷が埋まっている遠い国の話ではなく,

 自分たちが住んでいる地域にも,考えなければならない問題があることに気づく。

 あるいは,異なる文化で育った人たちのことを考えなければ,自分の提案はうまくいかないことに気づく。

 必ず,教師は,根拠を問う。ゲストにも,「なぜそう考えるのか」「そういうことが言える理由は何か」という決まり文句を「質問例」として紹介していました。

 「視野が広まる」という言葉に,いろいろな意味があることに気づける活動になります。
 
 「自分勝手なものの解釈は,人を傷つけることになる」ことにも,中学生は気づくことができました。

 全員に確認させるために,ポスターセッションだけでなく,パネルディスカッションの時間も用意しました。

 だれかさんにも参加していてほしかった場面がありました。

 私にとっては,ゲストのパフォーマンスは,期待を上回る結果となりました。

 生徒のパフォーマンスが,さらにそれを上回っていた事実は,私を叩きのめしました。

 特に,授業を担当していなかった当時の3年生の,本当の3年生らしさに初めて触れられた瞬間でした。

 学習指導は,常に,教師が生徒のことを何も分かっていなかったことが分かる場なのです。

 だから,日頃から,本質的な部分で教師は失敗を犯していると言えるのです。

 
ブログランキング・にほんブログ村へにほんブログ村 教育ブログへにほんブログ村 教育ブログ 教師教育・教員養成へにほんブログ村 教育ブログ 教育論・教育問題へ

【これが正解】 学習指導の失敗の本質とは?

 いろいろな考えをご自分のブログに掲載してくださった方,どうもお疲れ様でした。

 正解はどこにあるかというと,

 いただいたコメントの中にあります。

 コメントの中に正解が書かれているということではなくて,

 コメント自体に正解が隠されているのです。

 「学び合い」も,「それ」を意識しておこっている「ムーブメント」です。

 あの実践は,「それ」が意識されていることが,

 ゲストの「評価」から十分に読み取れるものです。

 実際に,意識して指導していましたから,確かです。

 しかし,「それ」は,特に総合的な学習の時間の指導としては,

 むしろ子どもを「失敗」に導く危険性をはらむものでした。

 そもそも,そういうことを想定して学習を進めること自体に,

 学習指導というか,教育の失敗の本質が隠されている,というのが私の考えです。

 「学び合い」自体がどうこうというわけではありません。

 ある「学び合い」関係の本には,課題を与えて,それが解けるようになる,というのが目標だ,と書いてあり,指導上の工夫は,教卓に教師用の指導書のコピーを置いておく,というものでした。

 こんなことが書いてある本を出版できる会社があるというのが奇跡です。

 日本は何でもありの国です。

 それが逆に,いい国の証明かもしれません。

 正解が分からない?ですか?

 もうすでに正解されているではないですか。

 
ブログランキング・にほんブログ村へにほんブログ村 教育ブログへにほんブログ村 教育ブログ 教師教育・教員養成へにほんブログ村 教育ブログ 教育論・教育問題へ

傍観者はお立ち寄り無用です

 またまた偉そうなことを書いていますが,

 ご紹介した実践事例で,ゲストの方にお願いしたのは,

 表現をかえれば,

 「決して傍観者にはならないでください」

 ということです。

 ゲストの方も生徒が提示した問題の解決を一緒に考えていただいて,

 生徒の主張がおかしいところがあれば指摘し,議論し,

 よりよい方向を探ってほしい,

 という願いです。

 ただ,そうは言ってもかわいらしい中学生が一生懸命に自分の意見を述べていたら,思わず褒めてしまいたくなりますね。そこで「否定」してはかわいそうだと・・・。

 以前にも書きましたが,日本には努力している人に面と向かって反対の意見を堂々と述べるような文化は社会に定着していません。

 「公共広告機構」という立場でしか,言えないことがあるように。

 でも,多くのゲストは「ただの聴衆」にはならないで,

 積極的に参加していただきました。

 

 これは一種の学習指導論ですから,

 実名で教育ブログを書かれている大学の先生は絡みづらいことと思いますが,

 もし「傍観者」でいられるのでしたら,

 今後,お立ち寄りはご遠慮ください。


 という態度を生徒にも参観者にも日頃から見せておくことで,日常が活性化するんです。

 
 なお,この1つ前の記事で,第3の大ヒントを書いてしまいました。

 
 堂々と傍観者でいることを楽しんでしまうような人間を,せめて社会科教育では,作らないようにしたいと考えています。


******************

 あるブログで,以下のようなご指摘がありましたが,

 これは小学校の低レベルの社会科研究の話でしょう。

 中等教育では,全くお話にならないことです。

>社会科を研究する教師の多くは、考えを「引き出す」ことが目的であって、「どのような考え」であるかは、方向性はどうでもよいのですね。


ブログランキング・にほんブログ村へにほんブログ村 教育ブログへにほんブログ村 教育ブログ 教師教育・教員養成へにほんブログ村 教育ブログ 教育論・教育問題へ

「考え続ける」ことを辞めた教師たち

 ブログでの情報のやりとりというのは,とてももどかしいことですよね。

 どこかのブログのように,どのような時間帯でも,常に記事の更新をチェックしているのか,すぐによいしょコメントを返してくれるファンがいる人は別として。

 ところで,「考える」活動って,教師は子どもにどのくらいさせているでしょうか?

 授業のやりとりでは,1つのことについて「考える」時間はせいぜい十数秒くらいでしょう。

 これが,たとえば10分考え続ける,20分考え続ける,50分考え続ける,そういう課題を授業で扱っている教師はどのくらいいるでしょう。

 さらに,1週間,1か月,半年間,1年間,3年間というスパンで「考える」活動をさせている学校はどのくらいあるでしょうか。

 そしてここが一番大事なところかもしれませんが,

 その「考えた過程」と「教師とのやりとりの過程」がすべて文字による記録として残されている学校はどのくらいあるでしょうか。

 ただ「考える」のではなく,

 20分考え続けることのために,1分間,考えることがある。5分間考えていることが「重なっている」。

 そういう「考え」の「積み重ね」「クロス」「連携」を意識させる授業,単元構成ができているでしょうか。

 人の頭は,いくつかのことを同時進行で「思考」に乗せて,互いに「関連付け」るという芸当ができます。

 この「関連付け」によって,

 たとえば教師なら,よい授業展開のアイデアが浮かんだり,

 最初にさかのぼって,導入のためのベストの教材がしぼれたりするのです。

 「考え続ける」ことは大事です。

 子どもにさせるよりも,まずは自分がそういう習慣をつけていくことです。

 ですから,今回の「問題」の「答え」を出さないなんて選択肢もできるわけですね・・・・。

 しかし,せっかく読んでいただいた方の「楽しみ」を奪うことはできませんよね。


ブログランキング・にほんブログ村へにほんブログ村 教育ブログへにほんブログ村 教育ブログ 教師教育・教員養成へにほんブログ村 教育ブログ 教育論・教育問題へ

お待たせいたしました・・・第2ヒントです ~学習指導の失敗の本質~

 ご紹介した実践事例から,どんな「失敗の本質」が探れるか?

 お待たせいたしました。

 答えを・・・・ではなく,次なるヒントをお示しします。

 簡単に答えを示してしまっては,「思考」や「探究」の機会を奪ってしまうことになりますので。

 それこそ「失敗」です。


 なお,「実践内容が小学校でもできることだった」というのも正しい指摘かもしれませんが,

 小学校で学んだことを発展させることができた・・・今風に表現すると,「活用」することができた・・・生徒もいましたから,同じようなことをやったとしても,それがすぐに「失敗」と呼べるかどうかは分かりません。

 また,小学校で十分に「学び方を学ぶ」学習ができていなかったから,

 中学校でやらざるを得なかった,という面を,「小学校教育の失敗」と呼ぶこともできるかもしれませんが,

 終わったものを「失敗」と言っても始まらないので,ここでは実践自体の課題を考えなければなりません。


 さて,次のヒントというのは,

 教師の手抜き用の「学び合い」の「理念」です。

 教師の手抜き用の「学び合い」の「理念」の何がどう問題なのか?

 「学習のねらい」がはっきりしていないわけではありません。

 「学習成果」も出るには出てきます。

 すべての教員が,指導にあたっています。

 それなのに,問題があるのです。

 それが,ご紹介した「評価」にとてもよく表されているのです。

 ・・・・・

 ここで分かっていただけたら,

 自分自身の学習指導を見つめる目が少し変わるかもしれません。

 なお,この問題は,小学校教師の方が,気づきにくい面をお持ちであるかもしれません。

 中学校での実践だから,というわけではなく。


 ブログランキング・にほんブログ村へにほんブログ村 教育ブログへにほんブログ村 教育ブログ 教師教育・教員養成へにほんブログ村 教育ブログ 教育論・教育問題へ

« 2013年4月 | トップページ | 2013年6月 »

2021年11月
  1 2 3 4 5 6
7 8 9 10 11 12 13
14 15 16 17 18 19 20
21 22 23 24 25 26 27
28 29 30        
無料ブログはココログ

宮城谷昌光の言葉

  • 雲のうえに頂をもつ高山を登ろうとするのに、その山相のすさまじさに圧倒され、おじけづいていては何もはじまらない。最初の一歩を踏み出さねば、山頂は近づいてこない。
    「楽毅」第四巻より
  • みごとなものだ。斂(おさ)めるところは斂め、棄てるところは棄てている。楽氏が棄てたところに、われわれの生きる道がある。
    「楽毅」第四巻より
  • 去ってゆく千里の馬を追っても、とても追いつかぬぞ。千里の馬の尾をつかむには、その脚が停まったときしかない
    「楽毅」第四巻より
  • ・・・つくづく人のふしぎさを感じた。道を歩く者は、足もとの石をたしかめようとしないということである。千里のかなたを照らす宝石がころがっていても、気がつかない。それほどの名宝は深山幽谷に踏みこまなければ得られないとおもいこんでいる。
    「楽毅」第三巻より
  • この城をもっとたやすく落とすべきであった。たやすく得たものは、たやすく手放せる。
    「楽毅」第二巻より
  • なにかを信じつづけることはむずかしい。それより、信じつづけたことをやめるほうが、さらにむずかしい。
    「楽毅」第二巻より
  • からだで、皮膚で、感じるところに自身をおくことをせず、頭で判断したことに自身を縛りつけておくのは、賢明ではなく、むしろ怠慢なのではないか
    「楽毅」第二巻より
  • こうする、ああする、といちいち目的と行動とを配下におしえつづけてゆけば、配下はただ命令を待つだけで、思考をしなくなる。この四人はいつなんどき多数の兵を指揮することになるかもしれず、そのときにそなえて自立した思考力をもつ必要がある。
    「楽毅」第二巻より
  • 人は自分の存在を最小にすることによって最大を得ることができる
    「楽毅」第三巻より
  • 勇と智とをあわせもっている者は、攻めるときよりも退くときに、なにかをなすときより、なにもなさないときに、その良質をあらわす
    「楽毅」第二巻より