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勘違いのプロ意識が高い教師たち

 職員旅行でお互いを「先生」などと呼び合わないように,団体の名称を一般企業のように変えることがあるのは,多くの教師が知っている。

 徹底しているのは,旅行会社が宿泊施設に連絡する団体名もそうする,という学校である。

 なぜ,そうするのか。ごく一部に,その理由がわからない人がいるらしい。

 校長は社長とか,所長と呼ぶ。

 副校長,教頭は副所長など。

 教務主任が部長など。

 半分お遊びであるが,これは自分たちが教師であることがばれないようにしたい,

 というのではなく,一般社会に出て(旅行にまで出かけて),「何とか先生」などと呼び合うのはお互いに遠慮すべきだろうという思いからである。

 そもそも,教師が校内でお互いを「先生」と呼び合うことへの抵抗感をもっている人も多い。

 だから,開かれた心をもっている人が多い学校では,そういう人にも配慮して,職務ではない「親睦旅行」の場面では,「先生」という言葉を使わないことを暗黙の了解としているところもあるだろう。

 もちろん,日頃のストレスを解消するための旅行という面もあるから,宿泊施設で大騒ぎし,問題を起こす学校もある。だから,旅行会社側,宿泊施設側のブラックリストに入っている学校もあるだろう。だからといって,学校名を企業名に詐称しても,簡単にばれてしまう。

 さて,本題はここからである。

 指導力不足教師の中に,

 自分の専門性だけを鼻にかける人間がいる。

 たとえば,音楽の教師で

 「自分はこんなに楽器の演奏がうまいんだぞ」

 「演奏会でこんなに客を呼んでいるんだぞ」

 「社会に出ても,通用するんだぞ」

 という人がいる。

 簡単にアドバイスさせてもらえれば,

 「早く教師を辞めて,演奏家として暮らせ」

 ということだ。

 「演奏家では食べていけないから,教師をしている」

 のであれば,教育の仕事をがんばってほしい。

 
 「専門」ばかりに目がいって,「教育」に心が開かれていない教師は,

 学校現場には必要ない。

 成績処理のソフトの開発にかけた時間を給料に換算してみたらどうか。

 買った方が安いのではないか。

 今ならフリーソフトがいくらでもあるから,それをカスタマイズしてつくることもできる。

 それだけ余計なことに時間がかけられる小学校はうらやましい限りである。

 私はケチな性分で,

 自分でできる作業をわざわざ外注して何万円も払うのは嫌いである。

 別に1日の労働時間が20時間近くになろうと,

 早く分析したい情報は,自分で処理したい。

 しかし,これをアルバイトの院生にやらせることは,

 現場の教師以外の人間が教育の世界を垣間見ながら,わずかだが収入にもなる,という点で,

 Win-Winの関係ができるとも言える。


 指導力不足教員が

 「つぶしがきく」ことは,教師や子どもにとってこの上もない吉事である。


 指導力不足教員の問題になっていることは,学校での音楽の授業の指導力である。

 生徒とのコミュニケーション能力である。

 「頭がおかしい」などと口にしてしまう,人権感覚である。

 「話のずれ」を自分ではなく人のせいにして,「相手にしない」という傲慢な態度をとることである。

 子どもは,それなりに社会の「不平等さ」を受け入れている。

 あることが得意な人は,別の面では不得意さも持っていることを知っている。

 不得意な部分で委縮しているような人に,やさしい言葉をかけることができる。


 だれにも相手にされていない人に,声をかけるのは,学校文化で強化された「やさしさ」「思いやり」である。

 大学で「よい先生」は育てられるか,

 という質問の答えの一つは,

 「教科の内容に関する専門的知識は,育てることができる」というもの。

 しかし,

 「教科指導に関する専門的技能」は,対象の子どもがいない場では育てにくい。

 医者なら患者で「実習」できるかもしれないが,

 教師の卵が「実習」できるのはたったの3週間しかない。

 だから,「上手に教えられない教師」がときどき誕生する。

 教える技能というのは,

 教える技能が高い教師に習ってきた生徒なら,大学に入る前に自然に身についてしまっている面があるが,そうでなければ,そもそも「教える技能が高い」ことの意味が分からない学生も多いだろう。


 早い話が,

 プロ野球選手が

 だれでもプロ野球選手の優れたコーチになれるわけではない,ということである。

 プロ選手として大成できなかった人の中にも,優れたコーチがいる。

 どうしてこういう人は,優れたコーチになれたのだろう。

 これが,「教師を育てる」意識をもった人間が関心をもつべきことであろう。


 勘違いのプロ意識の高さをもっている元教師は,

 教育には関係のない知識をひけらかして,暇つぶしにしている。

 「教える」ことにも「育てる」ことにも関係のないことを

 「教育ブログ」の村で公開しているあたりが,

 現役の教師として読むとさびしいばかりである。

 
 どんな授業をしていたのか?

 ピントがずれた部活動の指導の話は呼んだことがあるが,

 ためになりそうな授業の実践の記事を一度も読んだことがない。


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コメント

医者が患者で実習というのが、研修医制度のように思われるますが、実際は研修医は患者を診察しないですよ、大きな病院に入院したことのある人なら経験有ると思いますが研修医が直接診察することはなく、必ずそばにベテラン医師がついています。そしてたまにベテラン医師が「はったり」でめちゃくちゃな診断をしていることもあります。
 教員のインターン制度がどうなるのかよくわかりません、今までの感覚からすれば教員のインターンといっても、採用後身分の低い先生であってただの下積みではないでしょうか。指導する側はベテラン教師のはずが、じつは学生時代よく勉強していない、そして自分以外の人にすぐ「頭がおかしい」などと平気で言う人が指導したら、どうなるのでしょうか。学校が、パワーハラスメントを実践する場になってしまうのではないでしょうか。
 実際、メンタルな問題を抱えたまま採用試験に合格できるのですから、その先輩教員たちがまともな指導ができるとは思えないです。
 現場に人材養成を押しつける前に大学で相当な実習と、メンタルな問題を取り払えらえた者に教員免許を与えればいいのです、そして医学部と同じぐらい勉強させることが必要です。採用試験にも問題有りますが、養成課程にはもっと多くの問題があると思います。
 私の知人のことですが学生の時は誰でも遊ぶと信じて疑わないで、実際遊びほうけ、少しばかり頭がいいからその人は試験には簡単に合格できました。養成課程のカリキュラムがあまりにも少なすぎる、そういう制度の下で、教員になった先輩教師が新任を指導してどうなるのかもう明らかです。要するに医師免許を持たない偽医者が研修医を指導してまともな医者が育つとは思え無いのと同様です。
 教員免許習得のハードルが非常に低く、人間性や問題への取り組みなどは評価されずに採用が決まるのですから、何処から変えるべきかは、自ずと明らかです。

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宮城谷昌光の言葉

  • 雲のうえに頂をもつ高山を登ろうとするのに、その山相のすさまじさに圧倒され、おじけづいていては何もはじまらない。最初の一歩を踏み出さねば、山頂は近づいてこない。
    「楽毅」第四巻より
  • みごとなものだ。斂(おさ)めるところは斂め、棄てるところは棄てている。楽氏が棄てたところに、われわれの生きる道がある。
    「楽毅」第四巻より
  • 去ってゆく千里の馬を追っても、とても追いつかぬぞ。千里の馬の尾をつかむには、その脚が停まったときしかない
    「楽毅」第四巻より
  • ・・・つくづく人のふしぎさを感じた。道を歩く者は、足もとの石をたしかめようとしないということである。千里のかなたを照らす宝石がころがっていても、気がつかない。それほどの名宝は深山幽谷に踏みこまなければ得られないとおもいこんでいる。
    「楽毅」第三巻より
  • この城をもっとたやすく落とすべきであった。たやすく得たものは、たやすく手放せる。
    「楽毅」第二巻より
  • なにかを信じつづけることはむずかしい。それより、信じつづけたことをやめるほうが、さらにむずかしい。
    「楽毅」第二巻より
  • からだで、皮膚で、感じるところに自身をおくことをせず、頭で判断したことに自身を縛りつけておくのは、賢明ではなく、むしろ怠慢なのではないか
    「楽毅」第二巻より
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    「楽毅」第二巻より
  • 人は自分の存在を最小にすることによって最大を得ることができる
    「楽毅」第三巻より
  • 勇と智とをあわせもっている者は、攻めるときよりも退くときに、なにかをなすときより、なにもなさないときに、その良質をあらわす
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    「歴史の活力」より
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    「奇貨居くべし 春風篇」より
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    「奇貨居くべし 春風篇」より
  • 橘という木があります。この木が淮水の南に生ずれば、すなわち橘となります。ところが淮水の北に生ずれば、すなわち枳となります。葉は似ておりますが、実のあじわいはことなります。なにゆえにそうなるかと申しますと、水と土がちがうからです。そのように、その者は斉で生まれ育ったときは盗みをしなかったのに、楚にはいって盗みをしたのです。楚の水と土は、民に盗みをうまくさせようとするところがありませんか
    「晏子」(第四巻)より
  • 倹より奢に入るは易く、奢より倹に入るは難し
    「中国古典の言行録」より
  • 礼儀という熟語がある。礼とは万物を成り立たせている根元に人がどうかかわるかという哲理のことで、儀とは礼をどう表現するかというレトリックをいう。その二つが組み合わさって礼儀ということばが生まれた。
    「春秋の色」より
  • 都邑が矩形であるのは、この大地が巨大な矩形であると想像するところからきている。したがってかぎりない天地と形容するのは正確さに欠ける。大地にはかぎりがある。ただし大地は四方を高い壁でかこまれているわけではない。とにかく独創とか創見というものは、思考が狭い矩形をもたぬということではないか。人はいつのまにか思考を防衛的にしてきた。他者を拒絶しがちである。思考の四方に感情という壁を立てて、他者と共有してきた天を極端にせばめてしまった。
    「子産(下)」より
  • 人というものは、恩は忘れるが、怨みは忘れぬ。
    「孟嘗君 5」より
  • 人はたれにもあやまちがあります。あやまちを犯しても改めれば、これほど善いことはありません。『詩』に、初めはたれでも善いが、終わりを善くする者は鮮(すくな)い、とあるように、あやまちをおぎなう者はすくないのです。
    「沙中の回廊(下)」より
  • 「わたしは侈っている者を烈しく憎まない。なぜなら侈っている者はおのずと滅ぶ。が、なまけている者はどうか。わたしはなまけている者をもっとも憎む」
    「沙中の回廊(下)」より
  • 人を得ようとしたければ、まずその人のために勤めねばならぬ。すなわち、晋が諸侯を従えたいのであれば、諸侯のために骨折りをしなければならない。
    「子産(上)」より
  • 知るということは、活かすということをして、はじめて知るといえる。
    「青雲はるかに(上)」より
  • 師はつねに偉く、弟子はつねに劣っているものでもない。弟子の美点に敬意をいだける師こそ、真に師とよんでさしつかえない人なのではないか。
    「孟嘗君 2」より
  • 人を家にたとえると、目は窓にあたる。窓は外光や外気を室内にとりいれるが、室内の明暗をもうつす。そのように目は心の清濁や明暗をうつす。
    「孟嘗君 2」より
  • 人にものごとを問うということは、質問そのものに、問うた者の叡知があらわれるものである。
    「孟嘗君 3」より
  • 人から嫌われることを、避けようとする者は、心の修養ができていないことである。
    「中国古典の言行録」より
  • 人を利用すれば、かならず人に利用される。・・・企てというのは、人に頼ろうとする気が生じたとき、すでに失敗しているといってよい。
    「太公望 中」より
  • 与えられてばかりで、与えることをしないことを、むさぼると申します。むさぼった者は、なべて終わりがよくない
    「孟夏の太陽」より
  • ・・・料理をつくりながら、人と組織とをみきわめたのか。素材が人であれば、素材を合わせてつくった料理が組織である。それ自体はにがく、からいものでも、他の素材と合わされば、うまさを引きだすことができる。煮るとか蒸すとかいうことが、政治なのかもしれない。
    「太公望 中」より
  • 他人を変革するためには、まず自己を改革しなければならね。
    「太公望 中」より
  • 人が何かを得るには、二通りあります。与えられるか、自分で取るかです。(中略)与えられることになれた者は、その物の価値がわからず、真の保有を知りませんから、けっきょく豊さに達しないのです。
    「奇貨居くべし 春風篇」より
  • みじかいなわしかついていないつるべでは、深い井戸の水を汲むことはできない。
    「奇貨居くべし 黄河編」より
  • 人は目にみえるものを信じるが、そのことにはかぎりがあり、けっきょく、人が本当に信じるものは、目にみえぬものだ
    「晏子」第二巻より
  • 人にはそれぞれこだわりがあり、そのこだわりを捨てて、変化してゆく現実や環境に順応してゆくことの、何とむずかしいことか。
    「奇貨居くべし 飛翔篇」より
  • 失敗を心中でひきずりつづけると、起死回生の機をとらえそこなう。それは戦場における教訓にすぎないともいえるが、大きな勝利とは、相手の失敗につけこむのではなく、自分の失敗を活かすところにある。楽毅の信念はそうである。
    「楽毅」第四巻より
  • 人の頭脳のなかの眼力は、木の幹にあたるであろうが、幹をささえるものは知識という葉ではない。根である。根は地上の者ではどうすることもできない伸びかたをする。その根は天から落ちてくる水を吸い、人からあたえられる水も吸って太ってゆく。
    「奇貨居くべし 春風篇」より
  • 大木にするためには、幹の生長に目をうばわれがちであるが、地中の根を大きく張らせることを忘れてはならない。花を咲かせることをいそぐと、花のあとの結実をおろそかにしてしまう。要するに、大木でなければ豊かな実をつけないということである。
    「奇貨居くべし 春風篇」より
  • あらゆる事態を想定して準備を怠らず、変化に対応できるようなトップでいなければならない。
    「中国古典の言行録」より