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教師を辞めた人間が書くブログ

 現役の教師から見ると,それは「哀しい」文章である。

 保護者の立場から見ると,それは「空しい」文章である。

 
 ・・・・このブログは,私が行政から現場に戻ってから,書き始めている。

 現文部科学大臣は,今も発信を続けているが,

 私の場合,さすがに行政にいるときは書けなかった。


 現場からの発信は,なかなか頻繁にはできないこと・・・・・こんなブログを書いている暇があったら,教材研究でもしろ!と怒られそうな気もするだろう・・・・が,

 私は私なりに,「教育への信頼」を取り戻す方法を模索している。


 教師を辞めると,金銭的な余裕はなくなるが,時間的な余裕ができる。

 だから,ブログで「存在証明」をしたくなる人が多いようだ。
 
 「辞めて当然」「辞めてくれて本当によかった」という気持ちにさせてくれるブログ,

 「辞めたからこそ,自分の問題を客観的に分析できて,教育の課題をより明確にできる」と期待させてくれるブログ,

 「この人は辞めない方がよかったな」と思われてくるブログ・・・・

 様々である。


 教師を辞めた方々に,ブログを書く上で

 一番避けてほしいことがある。

 それは,

 教育を「他人事」のようにとらえている,と感じられてしまうような文章を書くこと。

 
 ダメな教師たちの多くが持っている共通性は,

 「当事者意識がない」ことである。


 辞めた上でもまだ「ダメ」なことを書いていては,

 みじめなだけだ。

 
 残念ながら,教育とは別の,全く違ったところに「当事者意識」をもってがんばっている人がいる。


 人とズレた面をもって社会を生き抜くのは非常に難しいことであるが,

 こうしたネット上の世界だけでいくら頑張ってもしかたがない。

 
 どんな「影響力」がもてるようになるか。


 それを今一度,思い浮かべてほしい。


 (追伸)

 この文章を読んで,

 「何て上から目線なのだ」

 と思われる人もいるだろう。


 現役の教師は,覚悟をしてほしい。

 保護者の中には,言葉や態度には出さなくても,

 こういう「上から目線」で教師に

 「モノが言いたい」人はたくさんいるのである。


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コメント

匿名さん

 学校は,子どもの数だけのドラマが進行しています。

 昨日の晩は,
 
 子どもの心理のおもしろさをうまく描いたドラマを久しぶりに鑑賞しました。

小2の保護者様

 そうですね。教師を辞めると,子供や保護者の気持ちにより近くなることが可能です。

 学校は,「現実の社会」そのものではなく,「現実の社会」に出る前に,子どもにトレーニングを半ば強制的に課している場です。

 ですから教師にはかなり限定的な「役割」が必要になります。

 本当にやりたいことはできないし,

 やりたくないこともしなければならない。仕事ですから。

 しかし,学校でないとできないことができるというのも確かです。

 保護者の方には,子どもたちに「現実の社会」を知る機会をたくさん与えていただきたいと思います。

 ご家庭も,「現実の社会」です。

 教師を辞めた方々には,学校を知っている,そのことのメリットを最大限に生かしてほしいと思うのですが,実は普通の教師は,自分が勤めている学校のことしかわかりません。

 学校というのは,実は小さな「世界」です。

 たった1キロしか離れていない学校も,「別世界」に見えるようなところです。

 少なくとも3つくらいの学校を経験しないと,教師をやっていたことのメリットが生かせないかもしれません。

 願わくば,教師であり続けながら,視野を広めていきたいものです。

 ブログ頑張ってください。

お久しぶりです、教育の信頼、確かに信頼を裏切る事件があいつで起きています。
テレビ番組で35歳の高校生というドラマが始まりました。
わざとらしいところは多いけれど、なぜか現実的に思えてしまうのです。
いじめのことや、隠蔽体質など、いきなり学校は聖域だとか、警察への通報で退学だとか
実にいまの学校の裏側を表しているように思えるのです。
まあ、実際とは違うのは確かでしょう、それでも現実的なのはなぜでしょう。
やはり現実だと、だからこそこういうドラマができるのではないでしょうか。
客観的に当事者としてこのドラマを見てみたら、なにか見えてくるかもしれません。
ドラマなので話の展開が早すぎて、現実の混沌とした状態とはかなりちがいますけどね。

辞めた方のほうが、視野が広くて、子供や保護者の気持ちにより近いと思いますよ。少なくとも私には。教育活動頑張って下さい。

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宮城谷昌光の言葉

  • 雲のうえに頂をもつ高山を登ろうとするのに、その山相のすさまじさに圧倒され、おじけづいていては何もはじまらない。最初の一歩を踏み出さねば、山頂は近づいてこない。
    「楽毅」第四巻より
  • みごとなものだ。斂(おさ)めるところは斂め、棄てるところは棄てている。楽氏が棄てたところに、われわれの生きる道がある。
    「楽毅」第四巻より
  • 去ってゆく千里の馬を追っても、とても追いつかぬぞ。千里の馬の尾をつかむには、その脚が停まったときしかない
    「楽毅」第四巻より
  • ・・・つくづく人のふしぎさを感じた。道を歩く者は、足もとの石をたしかめようとしないということである。千里のかなたを照らす宝石がころがっていても、気がつかない。それほどの名宝は深山幽谷に踏みこまなければ得られないとおもいこんでいる。
    「楽毅」第三巻より
  • この城をもっとたやすく落とすべきであった。たやすく得たものは、たやすく手放せる。
    「楽毅」第二巻より
  • なにかを信じつづけることはむずかしい。それより、信じつづけたことをやめるほうが、さらにむずかしい。
    「楽毅」第二巻より
  • からだで、皮膚で、感じるところに自身をおくことをせず、頭で判断したことに自身を縛りつけておくのは、賢明ではなく、むしろ怠慢なのではないか
    「楽毅」第二巻より
  • こうする、ああする、といちいち目的と行動とを配下におしえつづけてゆけば、配下はただ命令を待つだけで、思考をしなくなる。この四人はいつなんどき多数の兵を指揮することになるかもしれず、そのときにそなえて自立した思考力をもつ必要がある。
    「楽毅」第二巻より
  • 人は自分の存在を最小にすることによって最大を得ることができる
    「楽毅」第三巻より
  • 勇と智とをあわせもっている者は、攻めるときよりも退くときに、なにかをなすときより、なにもなさないときに、その良質をあらわす
    「楽毅」第二巻より
  • 目くばりをするということは、実際にそこに目を遏(とど)めなければならぬ。目には呪力がある。防禦の念力をこめてみた壁は破られにくく、武器もまた損壊しにくい。人にはふしぎな力がある。古代の人はそれをよく知っていた。が、現代人はそれを忘れている。
    「楽毅」第1巻より
  • 知恵というものは、おのれの意のままにならぬ現状をはげしく認識して生ずるものなのである。
    「楽毅」第1巻より
  • 会う人がちがえば、ちがう自己があらわれるということであろうか。
    「奇貨居くべし 黄河編」より
  • 静寂に染まりきれば、ふたたび起つことはない。生きるということは、起つ、ということだ。自然の静謐に異をとなえることだ。さわがしさを放つことだ。自分のさわがしさを嫌悪するようになれば、人は死ぬ。
    「楽毅」第四巻より
  • 人というものは、自分のやっていることをたれもみていないと思い込んでいるが、じつはたれかがみており、やがて賛同してくれる人があらわれる。
    「春秋の名君」より
  • 寵を受けても驕らず、驕っても高い位を望まず、低い地位にいながら怨まず、怨んでもおのれを抑えることのできる人は少ない
    「沈黙の王」より
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  • 奥の深いことと、表現がむずかしいこととは、むしろ逆の関係にある。むずかしい表現のほうが、ぞんがい簡単なことをいっている場合が多く、やさしい表現のほうが、奥の深いことをいえる。
    「歴史の活力」より
  • 黄河の流れは悠久とやむことはない。河床もあがりつづけるのである。いくら堤防の高さをましてもらちのないことであった。
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  • 人はおのれのままで在りたい。それは願望とはいえぬほどそこはかとないものでありながら、じつは最大の欲望である。人の世は、自分が自分であることをゆるさない。
    「奇貨居くべし 春風篇」より
  • 外をもって仕えている者は信用するに足りぬ。つまり男でも女でも内なる容姿というものがあり、その容姿のすぐれている者こそ、依恃(いじ)にあたいする。
    「奇貨居くべし 春風篇」より
  • 橘という木があります。この木が淮水の南に生ずれば、すなわち橘となります。ところが淮水の北に生ずれば、すなわち枳となります。葉は似ておりますが、実のあじわいはことなります。なにゆえにそうなるかと申しますと、水と土がちがうからです。そのように、その者は斉で生まれ育ったときは盗みをしなかったのに、楚にはいって盗みをしたのです。楚の水と土は、民に盗みをうまくさせようとするところがありませんか
    「晏子」(第四巻)より
  • 倹より奢に入るは易く、奢より倹に入るは難し
    「中国古典の言行録」より
  • 礼儀という熟語がある。礼とは万物を成り立たせている根元に人がどうかかわるかという哲理のことで、儀とは礼をどう表現するかというレトリックをいう。その二つが組み合わさって礼儀ということばが生まれた。
    「春秋の色」より
  • 都邑が矩形であるのは、この大地が巨大な矩形であると想像するところからきている。したがってかぎりない天地と形容するのは正確さに欠ける。大地にはかぎりがある。ただし大地は四方を高い壁でかこまれているわけではない。とにかく独創とか創見というものは、思考が狭い矩形をもたぬということではないか。人はいつのまにか思考を防衛的にしてきた。他者を拒絶しがちである。思考の四方に感情という壁を立てて、他者と共有してきた天を極端にせばめてしまった。
    「子産(下)」より
  • 人というものは、恩は忘れるが、怨みは忘れぬ。
    「孟嘗君 5」より
  • 人はたれにもあやまちがあります。あやまちを犯しても改めれば、これほど善いことはありません。『詩』に、初めはたれでも善いが、終わりを善くする者は鮮(すくな)い、とあるように、あやまちをおぎなう者はすくないのです。
    「沙中の回廊(下)」より
  • 「わたしは侈っている者を烈しく憎まない。なぜなら侈っている者はおのずと滅ぶ。が、なまけている者はどうか。わたしはなまけている者をもっとも憎む」
    「沙中の回廊(下)」より
  • 人を得ようとしたければ、まずその人のために勤めねばならぬ。すなわち、晋が諸侯を従えたいのであれば、諸侯のために骨折りをしなければならない。
    「子産(上)」より
  • 知るということは、活かすということをして、はじめて知るといえる。
    「青雲はるかに(上)」より
  • 師はつねに偉く、弟子はつねに劣っているものでもない。弟子の美点に敬意をいだける師こそ、真に師とよんでさしつかえない人なのではないか。
    「孟嘗君 2」より
  • 人を家にたとえると、目は窓にあたる。窓は外光や外気を室内にとりいれるが、室内の明暗をもうつす。そのように目は心の清濁や明暗をうつす。
    「孟嘗君 2」より
  • 人にものごとを問うということは、質問そのものに、問うた者の叡知があらわれるものである。
    「孟嘗君 3」より
  • 人から嫌われることを、避けようとする者は、心の修養ができていないことである。
    「中国古典の言行録」より
  • 人を利用すれば、かならず人に利用される。・・・企てというのは、人に頼ろうとする気が生じたとき、すでに失敗しているといってよい。
    「太公望 中」より
  • 与えられてばかりで、与えることをしないことを、むさぼると申します。むさぼった者は、なべて終わりがよくない
    「孟夏の太陽」より
  • ・・・料理をつくりながら、人と組織とをみきわめたのか。素材が人であれば、素材を合わせてつくった料理が組織である。それ自体はにがく、からいものでも、他の素材と合わされば、うまさを引きだすことができる。煮るとか蒸すとかいうことが、政治なのかもしれない。
    「太公望 中」より
  • 他人を変革するためには、まず自己を改革しなければならね。
    「太公望 中」より
  • 人が何かを得るには、二通りあります。与えられるか、自分で取るかです。(中略)与えられることになれた者は、その物の価値がわからず、真の保有を知りませんから、けっきょく豊さに達しないのです。
    「奇貨居くべし 春風篇」より
  • みじかいなわしかついていないつるべでは、深い井戸の水を汲むことはできない。
    「奇貨居くべし 黄河編」より
  • 人は目にみえるものを信じるが、そのことにはかぎりがあり、けっきょく、人が本当に信じるものは、目にみえぬものだ
    「晏子」第二巻より
  • 人にはそれぞれこだわりがあり、そのこだわりを捨てて、変化してゆく現実や環境に順応してゆくことの、何とむずかしいことか。
    「奇貨居くべし 飛翔篇」より
  • 失敗を心中でひきずりつづけると、起死回生の機をとらえそこなう。それは戦場における教訓にすぎないともいえるが、大きな勝利とは、相手の失敗につけこむのではなく、自分の失敗を活かすところにある。楽毅の信念はそうである。
    「楽毅」第四巻より
  • 人の頭脳のなかの眼力は、木の幹にあたるであろうが、幹をささえるものは知識という葉ではない。根である。根は地上の者ではどうすることもできない伸びかたをする。その根は天から落ちてくる水を吸い、人からあたえられる水も吸って太ってゆく。
    「奇貨居くべし 春風篇」より
  • 大木にするためには、幹の生長に目をうばわれがちであるが、地中の根を大きく張らせることを忘れてはならない。花を咲かせることをいそぐと、花のあとの結実をおろそかにしてしまう。要するに、大木でなければ豊かな実をつけないということである。
    「奇貨居くべし 春風篇」より
  • あらゆる事態を想定して準備を怠らず、変化に対応できるようなトップでいなければならない。
    「中国古典の言行録」より