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勝手な定義と勝手な解釈をする教師に教育はつとまらない

 学校の教師は忙しい,

 子どもが大変だ,保護者対応が大変だ,

 などと言うが,

 学校の教師にとって一番大変なのは,

 「手におえない教師」の存在である。

 学校のルール,社会のルール,

 指導上の言葉,一般社会の言葉を

 自分で勝手に定義し,その上さらに勝手な解釈をする。

 「滅茶苦茶なこと」を突然言い出したり,

 「それは違う」などと急に怒り出したりする。

 「内容」の話ではなく,「形式」の話でぐだぐだ駄々をこねる。


 教師としての責任を果たそうとしない人間が,

 自分の「逃げ道」を探すとき,よくこういう行動に出るのだ。

 これが現場では,本当に「手におえない」ことをやらかしてくれる。

 現職ではないが,こういう人間がいるのを紹介しよう。

 「理想の先生」などという話を持ち出した人間がいる。

 「理想の先生」とは,

 「理想の先生」として必要な条件をすべて満たした人間だという。

 この時点で

 「手におえない」程度が分かるようなものだが,

 私が新しいハンドルネームで質問したら,

 「理想の先生」とは,

 「生徒によって違う」ことを強調した。

 しかも,「体育を3から5にする」とか,

 「ソルフェージュが弱いということなら、ソルフェージュの指導に長けた教師が担当する」

 などと語り出している。

 こんな話なら,「学校の先生」よりもはるかに「理想」の人がたくさんいるだろう。

 要は,「理想の先生」とは,

 「採用試験に受かって先生をやっている人以外から探した方が,いいかもしれない」

 ということを言っていることになる。

 塾の話をここでするまでもないだろう。

 「理想の先生を求める時は、どういう条件を満たしたら十分とするかということを、始めに定めておくことが大切」なんて書いているが,

 「どういう条件を満たしたら十分か」ではなく,

 もともとは「条件をすべて満たしたら十分」と言っていた。

 「すべて」がいつのまにか,「人によって」「場合によって」にすり替えられている。

 「思考停止」ではなく,「逃げること」に思考が総動員されている。

 どんなに指導力がない教師,魅力のない教師でも,

 「採用試験に合格している」だけで,

 「理想の先生」に必要な条件の一つを満たしている,

 などと言ったところで,いったい何の意味があるというのか。

 ブラックジャックという漫画でも読んでほしい。


 場面や場合を上記のように限定して,それができたら「理想の先生」なんて,

 教育をなめているとしか思えない。

 しかも,それは「子どもから見て」という話らしい。

 学校教育とは何か。公教育は何のためにあるのか。

 それを理解していないとしか考えられない。 

 学校の先生がすべきこと,これは,

 だれが定めるのか。

 子どもが定めるのではない。

 公立学校では,子どもは定められた目標の実現を目指して,教師と一緒に学ぶのだ。

 教育の目標は,法律で定められている。

 教科教育等の目標は,学習指導要領で定められている。

 道徳も特別活動も。

 要は,そういう目標の達成に導いてくれる先生を,社会は求めているのである。
 
 そして,採用試験に合格して教師になった人間の中に,

 その目標の達成に導く力が非常に弱い人間がいることは確かなのだ。

 「子どもにとっての理想の先生」などと曖昧な話で逃げている場合ではないのだ。

 なぜ,学校教育にまともに向き合えないのだろう。

 貧相とか,そういう「程度」の問題ではない。

 公教育に従事して責任を果たすことの意義を認識していない。

集合の論理の話をしながら,「十分条件」や「必要条件」などという「専門用語」を,

 自分の勝手な解釈で話を進めのは紛らわしくてたまらない。

 「すべての必要条件を満たした場合,それが(それらが?)十分条件になる」という論理が,笑いごとではすまされない。

 こういう教師がいるから,子どもは「勉強がわからなくなる」「勉強が嫌いになる」のだ。

 勝手な定義と,勝手な解釈で,教育を語るのはいい加減にやめてほしい。


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宮城谷昌光の言葉

  • 雲のうえに頂をもつ高山を登ろうとするのに、その山相のすさまじさに圧倒され、おじけづいていては何もはじまらない。最初の一歩を踏み出さねば、山頂は近づいてこない。
    「楽毅」第四巻より
  • みごとなものだ。斂(おさ)めるところは斂め、棄てるところは棄てている。楽氏が棄てたところに、われわれの生きる道がある。
    「楽毅」第四巻より
  • 去ってゆく千里の馬を追っても、とても追いつかぬぞ。千里の馬の尾をつかむには、その脚が停まったときしかない
    「楽毅」第四巻より
  • ・・・つくづく人のふしぎさを感じた。道を歩く者は、足もとの石をたしかめようとしないということである。千里のかなたを照らす宝石がころがっていても、気がつかない。それほどの名宝は深山幽谷に踏みこまなければ得られないとおもいこんでいる。
    「楽毅」第三巻より
  • この城をもっとたやすく落とすべきであった。たやすく得たものは、たやすく手放せる。
    「楽毅」第二巻より
  • なにかを信じつづけることはむずかしい。それより、信じつづけたことをやめるほうが、さらにむずかしい。
    「楽毅」第二巻より
  • からだで、皮膚で、感じるところに自身をおくことをせず、頭で判断したことに自身を縛りつけておくのは、賢明ではなく、むしろ怠慢なのではないか
    「楽毅」第二巻より
  • こうする、ああする、といちいち目的と行動とを配下におしえつづけてゆけば、配下はただ命令を待つだけで、思考をしなくなる。この四人はいつなんどき多数の兵を指揮することになるかもしれず、そのときにそなえて自立した思考力をもつ必要がある。
    「楽毅」第二巻より
  • 人は自分の存在を最小にすることによって最大を得ることができる
    「楽毅」第三巻より
  • 勇と智とをあわせもっている者は、攻めるときよりも退くときに、なにかをなすときより、なにもなさないときに、その良質をあらわす
    「楽毅」第二巻より