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一般教師の労働の質を問わない無責任体質

 教師の労働時間が長いことは,だいたい午前7時になる前には電車に乗っていることからもわかるだろう。

 多くの教師は,午前8時には職場についている。

 生徒が何時まで学校にいるかだけを考えても,帰りは遅いことは言うまでもない。


 ただ,授業時数を労働時間などと定義されてしまうと,

 夏休みは労働時間がゼロということになる。

 長い夏休みを夢見て教師になる人も,皆無ではなかろう。


 しかし,教師には,公務員が普通にやっている仕事がある。

 もし教師がそういう仕事を「雑務」なんて呼んでしまったら,

 普通の公務員は雑務しかやっていないことになる。

 
 分掌の会議,学年の会議,職員の会議,管理職と主任等による会議など,

 企業と同じように学校には会議の時間がたくさんある。

 情報交換や意思の疎通がうまくいっていないと,

 下手をすれば新聞沙汰になることが学校内で起こっているのに,

 関係者以外の教師は知らない,という事態になる。

 
 教材の準備が必要な教科が多い。

 担当になった教師にとって,行事の準備には相当時間が必要である。

 分掌の仕事があり,部活動の指導がある。


 よほど「好き」でないと「愚痴ばかりこぼす」最低の教師になってしまう。


 さて,書きたいことは,以上のような当たり前のことではない。


 教師にとって重要なのは,労働の量ではなく,質である。

 そこにまったくふれようとしないのが,例のブログである。

 指導力がなんだか分からないようだし,

 理想の教師は子どもの理想によって変わる,なんてことを書いている。

 教師の仕事がそもそも何なのかがわからなければ,

 なるほど,質なんていう話をするのは不可能だろう。

 

 なぜか管理職の仕事の内容にふれているが,自分がなったことがなければ,

 何のために管理職が必要かも理解できないだろう。

 そういう分からない「仕事」について書くことを控えないのが,その人らしいところである。


 さて,教師の労働の質は,

 何で判断することができるか。

 学力テストの点で判断されては困ると,

 子どもに答えを教えてしまう教師がいる。

 評価というのは,評価者の立場になれば,ある程度は想像がつくだろう。

 子どもの立場で考えてもよいし,

 保護者の立場で考えてもよい。

 子どものいない一般の市民だって,教育に関心が高い人もいる。
 
 そういう「視野」がもてない教師の労働の質は,低くて当然である。

 テストである程度の点がとれることは,だれに聞かなくても望んでいるに決まっている。

 しかし,授業をまともにやっていなければ,

 その「成果」はテストで如実に表れる。


 ある小学校の教師の中に,授業をつぶして百人一首だけやらせていたり,

 新聞づくりばかりやっている人がいた。

 中学校の百人一首大会でめっぽう強い生徒がいたので,その原因が判明した。

 新聞づくりの「本」を持ってきてくれた生徒がいたので,判明した。

 では,百人一首が得意な生徒が,古典への興味が高いか,国語への興味が高いかというと,決してそうではなかった。

 新聞の内容は,中学校に入っても,小学校レベルであった。

 小学校で学ぶべきことを小学生が「習得」していなかったからである。


 こういう小学校教師が,「労働の質が低い」と校内で批判されることはまずない。

 教師の場合は,小中連携事業を行って,お互いのカリキュラム検討を重ねているうちに,ようやく

 「負の原因」に気づける,そういう問題である。

 しかし,教育に関心が高い保護者なら,気づくことができるはずである。

 
 授業参観で,同じ単元の授業を見比べてみる機会があれば面白い。

 ある教師が,ビデオを見せただけで終わったら,どう思うか。

 ある教師が,教科書を読んだだけで終わったら,どう思うか。

 極端な話だが,

 同じ「労働時間」の中で,「こんな質の授業」が行われているかもしれないのが,学校というところである。

 日記がわりの新聞づくりが,他教科の学習への関心度や理解力を高める効果がある程度は認められるはずである。

 しかし,九九を身につけさせないままで,分数の割り算を計算させられないままで小学校を卒業させるのは,教師として「恥」と思ってほしい。

 高校に進学する中学生と違って,「ほぼそのままの集団」が上がってくる小学生は,中学校の教師にとって,

 「小学校の教師の質」の絶好の判断材料となる。


 「労働の質」・・・・「教員の質」が問われるうちは,まだ,教育に期待が寄せられている証拠と,前向きに考えるのもそろそろ限界か。


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宮城谷昌光の言葉

  • 雲のうえに頂をもつ高山を登ろうとするのに、その山相のすさまじさに圧倒され、おじけづいていては何もはじまらない。最初の一歩を踏み出さねば、山頂は近づいてこない。
    「楽毅」第四巻より
  • みごとなものだ。斂(おさ)めるところは斂め、棄てるところは棄てている。楽氏が棄てたところに、われわれの生きる道がある。
    「楽毅」第四巻より
  • 去ってゆく千里の馬を追っても、とても追いつかぬぞ。千里の馬の尾をつかむには、その脚が停まったときしかない
    「楽毅」第四巻より
  • ・・・つくづく人のふしぎさを感じた。道を歩く者は、足もとの石をたしかめようとしないということである。千里のかなたを照らす宝石がころがっていても、気がつかない。それほどの名宝は深山幽谷に踏みこまなければ得られないとおもいこんでいる。
    「楽毅」第三巻より
  • この城をもっとたやすく落とすべきであった。たやすく得たものは、たやすく手放せる。
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    「楽毅」第二巻より
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    「歴史の活力」より
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    「晏子」(第四巻)より
  • 倹より奢に入るは易く、奢より倹に入るは難し
    「中国古典の言行録」より
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    「春秋の色」より
  • 都邑が矩形であるのは、この大地が巨大な矩形であると想像するところからきている。したがってかぎりない天地と形容するのは正確さに欠ける。大地にはかぎりがある。ただし大地は四方を高い壁でかこまれているわけではない。とにかく独創とか創見というものは、思考が狭い矩形をもたぬということではないか。人はいつのまにか思考を防衛的にしてきた。他者を拒絶しがちである。思考の四方に感情という壁を立てて、他者と共有してきた天を極端にせばめてしまった。
    「子産(下)」より
  • 人というものは、恩は忘れるが、怨みは忘れぬ。
    「孟嘗君 5」より
  • 人はたれにもあやまちがあります。あやまちを犯しても改めれば、これほど善いことはありません。『詩』に、初めはたれでも善いが、終わりを善くする者は鮮(すくな)い、とあるように、あやまちをおぎなう者はすくないのです。
    「沙中の回廊(下)」より
  • 「わたしは侈っている者を烈しく憎まない。なぜなら侈っている者はおのずと滅ぶ。が、なまけている者はどうか。わたしはなまけている者をもっとも憎む」
    「沙中の回廊(下)」より
  • 人を得ようとしたければ、まずその人のために勤めねばならぬ。すなわち、晋が諸侯を従えたいのであれば、諸侯のために骨折りをしなければならない。
    「子産(上)」より
  • 知るということは、活かすということをして、はじめて知るといえる。
    「青雲はるかに(上)」より
  • 師はつねに偉く、弟子はつねに劣っているものでもない。弟子の美点に敬意をいだける師こそ、真に師とよんでさしつかえない人なのではないか。
    「孟嘗君 2」より
  • 人を家にたとえると、目は窓にあたる。窓は外光や外気を室内にとりいれるが、室内の明暗をもうつす。そのように目は心の清濁や明暗をうつす。
    「孟嘗君 2」より
  • 人にものごとを問うということは、質問そのものに、問うた者の叡知があらわれるものである。
    「孟嘗君 3」より
  • 人から嫌われることを、避けようとする者は、心の修養ができていないことである。
    「中国古典の言行録」より
  • 人を利用すれば、かならず人に利用される。・・・企てというのは、人に頼ろうとする気が生じたとき、すでに失敗しているといってよい。
    「太公望 中」より
  • 与えられてばかりで、与えることをしないことを、むさぼると申します。むさぼった者は、なべて終わりがよくない
    「孟夏の太陽」より
  • ・・・料理をつくりながら、人と組織とをみきわめたのか。素材が人であれば、素材を合わせてつくった料理が組織である。それ自体はにがく、からいものでも、他の素材と合わされば、うまさを引きだすことができる。煮るとか蒸すとかいうことが、政治なのかもしれない。
    「太公望 中」より
  • 他人を変革するためには、まず自己を改革しなければならね。
    「太公望 中」より
  • 人が何かを得るには、二通りあります。与えられるか、自分で取るかです。(中略)与えられることになれた者は、その物の価値がわからず、真の保有を知りませんから、けっきょく豊さに達しないのです。
    「奇貨居くべし 春風篇」より
  • みじかいなわしかついていないつるべでは、深い井戸の水を汲むことはできない。
    「奇貨居くべし 黄河編」より
  • 人は目にみえるものを信じるが、そのことにはかぎりがあり、けっきょく、人が本当に信じるものは、目にみえぬものだ
    「晏子」第二巻より
  • 人にはそれぞれこだわりがあり、そのこだわりを捨てて、変化してゆく現実や環境に順応してゆくことの、何とむずかしいことか。
    「奇貨居くべし 飛翔篇」より
  • 失敗を心中でひきずりつづけると、起死回生の機をとらえそこなう。それは戦場における教訓にすぎないともいえるが、大きな勝利とは、相手の失敗につけこむのではなく、自分の失敗を活かすところにある。楽毅の信念はそうである。
    「楽毅」第四巻より
  • 人の頭脳のなかの眼力は、木の幹にあたるであろうが、幹をささえるものは知識という葉ではない。根である。根は地上の者ではどうすることもできない伸びかたをする。その根は天から落ちてくる水を吸い、人からあたえられる水も吸って太ってゆく。
    「奇貨居くべし 春風篇」より
  • 大木にするためには、幹の生長に目をうばわれがちであるが、地中の根を大きく張らせることを忘れてはならない。花を咲かせることをいそぐと、花のあとの結実をおろそかにしてしまう。要するに、大木でなければ豊かな実をつけないということである。
    「奇貨居くべし 春風篇」より
  • あらゆる事態を想定して準備を怠らず、変化に対応できるようなトップでいなければならない。
    「中国古典の言行録」より