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間違いが訂正できるか? ~国語の表現力・読解力の判定~

 以下の文を読んで,おかしいと思う内容を説明して下さい。

*********************

 一度言い出したことを訂正しない先生は,嫌われます。

 先生はプライドが高いと思われているので,お世辞を言われますが,調子にのって上から目線でいるのはよくありません。

 あの有名な習字の先生でさえも,字を間違えたことがあります。

 間違いを訂正すること,謝ることは,むしろ尊敬される方になります。

 なお,習字の先生が間違いを訂正したり誤ったかどうかはわかりません。

*********************

 習字の先生は,尊敬される人なのでしょうか,嫌われる人なのでしょうか。

 この文章だけからは,分かりかねます。

 あの有名な習字の先生でさえも,間違えたときに素直に訂正されました・・・・なんて

 いうことなら,「あの有名な習字の先生」を持ち出す意味があるのですが・・・・。

 これを書いている人に,何が足りなのでしょうか?

 (追記)

 そうですね。

 「間違えること」

 と,

 「間違えたらそれを素直に認め,謝ること」

 とは全く別の次元の話だということが,わかっていないんですね。

 「カラヤンでさえも,間違えたら謝ったんですよ」

 ならまだ分からなくもないのですが,

 子どもがこう言ったらどうでしょう。

 「カラヤンさんは,『間違い』を他の人が『正解』にしてしまうほどの権威だったんですよね。」

 「私はカラヤンさんより偉くないから,間違いを素直に認めて,謝れっていう話ですか?」

 「後醍醐天皇は,『朕が新儀は未来の先例たるべし』なんていう政治をしていました。他の人が『それは間違いだ』と言っても,本人は聞かなかったでしょうね。」

 「間違いを素直に訂正するのは,けっこう勇気がいることではないですか?」

 「だれでも,どんなに優れた人でも,人間だから,間違うことはありますよね。でも,

 素直に謝れる人というのは,そんなに多くはないと私は思います。」

 「特にプライドが高い人は,人に謝ること自体が嫌なんですよね。謝ったら権威が失われる,ということではなくて,謝ること自体,自尊心を傷つけるものだから,謝りたくないんです」

 ・・・・その通りでしょうね。
 
 特に,人の間違いを静かに諭してくれるのではなく,嬉しがって,アスペルガーだとか,からかうようなことを言う人が近くにいたら・・・。


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コメント

何が心配かというと,

今まで何人くらいこの人の犠牲になってしまった人がいるのか,ということです。

子どもだけでなく,同僚も。

学校現場では,心を病んでしまう人が多くいるのが知られていますが,

それは対子どもとの関係ではなく,

対教師との関係で,心理的に追い込まれることが多いであろうことを,

私も経験から知っています。

学校は企業や行政のように上下関係が厳しくないので,

パワハラというより,同僚からの軽視・いやがらせ等が心理的圧迫になることが多くあります。

やはり「頭がおかしい」なんて言われ方で批判されるのは,嫌なものでしょう。

ごく普通に解釈すれば、謝るだけの余裕が心にない、それだけ自尊心が傷ついているの言うことでしょう。
自分が間違えた、あるいは不適切な説明をしてしまったことを認めると、更に自尊心が傷つくと心の中で思っていて、他人のことを踏みにじってでも自分を保とうとするのです。
この傾向が長く続くとHPD,BPDなどの障害になり、周囲に危害を及ぼすようになります。
HPD,やBPDになるととても治療が難しいのかもしれません。周りの人が理解できないように自分を隠しさらに深刻化するのです。
 専門家も手こずる事が多く、とても深刻です。大人になってもこういう状態だともはや周りが察知して一定の距離を置く以外に対処方法は無いと考えられます。
 もし子供のうちにこういう傾向が見られたら、要注意ですし、社会不適合で試験だけで採用してもらえる職業に就く以外無いのですが、それが大変な弊害となって現れていると言うことだと思います。

現場でどのような指導をしてきたか,手に取るようにわかります。

研修でこういう教師を変えるための努力を行政はがんばっているのですが,研修を受けている教師が生まれ変わる前に,研修の担当になっている人間が体調を壊してしまう,それくらい,「変われない人間」の「強さ」はたいへんなものです。

「間違う」ことと「謝ること」の次元の違いに気づけないのは,

「謝ったこと」がないからなのかもしれませんね。

何が足らないかというと、おそらく自尊心ではないでしょうか。
要するに、権威に頼らないと、説明出来ないと言うところに帰着する一番の理由だと考えられます。
 至る所にそういう権威をちりばめて文章を作成したりしていないとだれにも信じてもらえないという思い込みを持っているのでしょう。
 この手の自尊心の欠落の裏には、愛着障害が潜んでいることが多いと考えられます。周りに、安心して接することが出来る人がいないと大人になってもずっと愛着障害を引きずることになります。周囲の人に心を開くことは無いでしょう。
 この愛着障害は、近年子育て環境の変化とともに、非常に増加しています。約20%近い子供にそのような傾向があるのではないかと思えてしまいます。

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  • 雲のうえに頂をもつ高山を登ろうとするのに、その山相のすさまじさに圧倒され、おじけづいていては何もはじまらない。最初の一歩を踏み出さねば、山頂は近づいてこない。
    「楽毅」第四巻より
  • みごとなものだ。斂(おさ)めるところは斂め、棄てるところは棄てている。楽氏が棄てたところに、われわれの生きる道がある。
    「楽毅」第四巻より
  • 去ってゆく千里の馬を追っても、とても追いつかぬぞ。千里の馬の尾をつかむには、その脚が停まったときしかない
    「楽毅」第四巻より
  • ・・・つくづく人のふしぎさを感じた。道を歩く者は、足もとの石をたしかめようとしないということである。千里のかなたを照らす宝石がころがっていても、気がつかない。それほどの名宝は深山幽谷に踏みこまなければ得られないとおもいこんでいる。
    「楽毅」第三巻より
  • この城をもっとたやすく落とすべきであった。たやすく得たものは、たやすく手放せる。
    「楽毅」第二巻より
  • なにかを信じつづけることはむずかしい。それより、信じつづけたことをやめるほうが、さらにむずかしい。
    「楽毅」第二巻より
  • からだで、皮膚で、感じるところに自身をおくことをせず、頭で判断したことに自身を縛りつけておくのは、賢明ではなく、むしろ怠慢なのではないか
    「楽毅」第二巻より
  • こうする、ああする、といちいち目的と行動とを配下におしえつづけてゆけば、配下はただ命令を待つだけで、思考をしなくなる。この四人はいつなんどき多数の兵を指揮することになるかもしれず、そのときにそなえて自立した思考力をもつ必要がある。
    「楽毅」第二巻より
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  • 勇と智とをあわせもっている者は、攻めるときよりも退くときに、なにかをなすときより、なにもなさないときに、その良質をあらわす
    「楽毅」第二巻より