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大学で「よい先生」をどう養成するか?

 教員養成系大学にとって,堂々と「こうやってよい先生を次々に現場に送り出しています」と胸をはれるカリキュラムがあるのは当たり前だと思われるだろうが,実態は個々の教師の指導力に左右されているようだ。

 多くの学生は,大学の教員がどういう経歴をもっているかということについては,興味をもたない。

 大学の教員がどれだけ本気か(言い方を変えれば,「どれだけこわいか」)ということには,ある程度の興味をもっている。

 そして中には,「単位が容易にとれるか」「評価がどのくらい甘いか」こそが大事な情報だというのもいる。

 「私はよい先生を育てている」という自負をもっている大学教師は,どのくらいいるのだろう。

 謙虚な大学教師は,

 「教師は現場で育つ」ことを知っているから,たとえば教育実習先の教師と密の連絡をとり,学校現場にもたびたび足を運んでいるだろう。

 ただ,そこで関係ができるのは,せいぜい「教科指導」の面だけである。

 正直な大学教師は,

 「そもそも学生の質が低い」

 と嘆き始めるかもしれない。

 「私のせいではない」

 というのが,教育の世界ではよく見られる「態度」である。


 「よい先生」の条件として,優れた教科指導ができることは必須と考える人が多いだろうし,それが教師としての第一条件だと考えているかもしれないが,長らく教育現場を見てきて,

 「教科指導が優れている」と評価される人はごくわずかである。

 「教科指導に課題がある」人と比べても,かなり少ない方だと思われる。

 多くの教師は「教科指導に大きな課題はない」教師である。

 このブログでは,「観点別学習状況の評価を適正に実施しているか」「その評価を適正に実施するための教科指導を行っているか」という厳しい目を向けているから,

 ここに重点をおいてみれば,ほとんどの教師が「課題あり」になってしまうという面もある。

 ただ,授業が成立して,理解の面では一定以上の生徒がその目標をおおむね達成し,進路に支障をきたさない,という力は多くの教師がもっている(成果面では,数学に関しては疑問符がつく)。

 丁寧に解説してくれるだけで,そういう目標が達成されるように,文科省がチェックしている教材としての教科書をもっているからである。

 自分が児童生徒の時代にそういう「普通」の授業を受けた経験があれば,同じような授業はできるだろう。

 「優れた教師だった人」に大学で教わっても,現場に入って自分が行う授業は,自分が受けてきた授業になる。

 「優れた教師」ではなく「よい先生」程度のことを目指すのであれば,教員養成課程で力を入れるべきは,組織を動かす知恵を学ぶことである。

 だから,大学の授業で学んだことよりも,サークルや体育会で学んだことの方が,現場で役に立つことが多かったりする。 


 一般に,教師が「指導力不足」というレッテルをはられるのは,

 児童生徒とのコミュニケーション不全を起こすときである。

 「子どもが言うことをきかない」

 と指導力不足教師は嘆く。

 勘違い教師は,

 「子どもはこわい先生の言うことはきく」

 などと誤解している。

 「私はこわい先生ではない」

 から,子どもが言うことをきいてくれない,というのだ。

 もしそうだとしたら,大学ではなく,

 別の世界に入って修行をした方がいいだろう。

 指導力不足教師は,

 自分の指導力不足に気づけないのが最大の欠点である。


 教育実習生の中には,まともな会話すら成立しない学生が混じっており,大学の教師に問い合わせたこともある。

 答えは,「人数が多いので個々の学生の特性はよく分からない」とのこと。

 大学は,こういう教師でも仕事がつとまるところのだということがよく分かった。

 「よい先生」を養成しようと考えている場所には,「よい先生」でない人が混じっている。

 実はそこを研究対象にしている学会(分科会)もあるが,

 私がかつて発表したとき,あまりにも厳しい指摘をしたため,思い切りひかれてしまった。

 甘すぎる発表内容をたれながされるつらさもあって,

 「教育をなめているのか」という怒りが発表のときにこもってしまったのかもしれない。

 しかし,学会での発表内容そのものが,

 教師の質が低いことを露呈しており,

 そういう人たちに教育の質の向上をなんて話されても,何の説得力というか希望も見えてこないのである。

 話を戻すと,

 大学で「よい先生」を養成するには,どうしたらよいか?


 私の一番のおすすめは,

 自分の教科に関係が深い「遠足」と「宿泊行事」を企画立案し,それを模擬的に実行することである。

 ここで一番大切なことは,

 「遠足」と「宿泊行事」の運営は,生徒に行わせることを大原則とすることである。

 教師ははじめの言葉と終わりの言葉を言えばいいだけで,

 あとは全部,生徒がしきれるような行事にするのである。

 もちろん,「事前学習」のカリキュラムも決定する。

行事を運営する生徒の指導に時間をかけるのも当然のことである。

 下見も,運営する生徒と一緒に行く。

 これは大学では,学生集団で行うのだ。


 これを実践してくれている大学の先生を知っている。

 この先生は,「大学生の質が低い」とは,口が裂けても言わないだろう。

  
 教師は「子どもの質が低い」といって,教育の手が抜ける職業ではない。

 だからこそ,やりがいのある仕事である。


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コメント

教育実習を受けられる学生を大学で選抜してほしいというのが,現場の願いです。

今は,だれでも受けられるしくみでしょう。

犠牲になるのは,子どもなんですね。
現場のフォローにも限界があります。

あと,教師や子どもが少ない現場での育成が困難なのはおっしゃるとおりです。

かねから,私は学校の規模を大きくする方向で改革を行うべき,と主張しています。

実は,子どもの数は急激に減っていますが,教師は余り減っていません。

これが意味するものは何でしょう。

ゆとり教育以来、学生の学力が下がったというけれど、それに併せてカリキュラムまで下げているのは、ついて行けない学生が多くでるから仕方ない、になっていますね。
私の子の教育学部に進学した友達の大学のカリキュラムが工学系の半分以下だったということで、実に衝撃を受けていたことがあります。医学系と比べれば1/4程度では無いでしょうか。
教育系のカリキュラムはどうして中途半端な教育実習だけで終わるのでしょうか。
毎週2回4~8時間程度の実習をやってほしいものです。
授業計画書などを毎週提出させるなどもやるべきです。

インターン制度なんてくだらないことをでっち上げ、大学でしっかり実習させようとしないというのはお文部科学省のサボりのように思えてなりません。

この問題は、少子化が進む中、1クラス10人以下という学校が沢山現れ、現場で育成が困難な場合があるという点に配慮が全くありません。

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宮城谷昌光の言葉

  • 雲のうえに頂をもつ高山を登ろうとするのに、その山相のすさまじさに圧倒され、おじけづいていては何もはじまらない。最初の一歩を踏み出さねば、山頂は近づいてこない。
    「楽毅」第四巻より
  • みごとなものだ。斂(おさ)めるところは斂め、棄てるところは棄てている。楽氏が棄てたところに、われわれの生きる道がある。
    「楽毅」第四巻より
  • 去ってゆく千里の馬を追っても、とても追いつかぬぞ。千里の馬の尾をつかむには、その脚が停まったときしかない
    「楽毅」第四巻より
  • ・・・つくづく人のふしぎさを感じた。道を歩く者は、足もとの石をたしかめようとしないということである。千里のかなたを照らす宝石がころがっていても、気がつかない。それほどの名宝は深山幽谷に踏みこまなければ得られないとおもいこんでいる。
    「楽毅」第三巻より
  • この城をもっとたやすく落とすべきであった。たやすく得たものは、たやすく手放せる。
    「楽毅」第二巻より
  • なにかを信じつづけることはむずかしい。それより、信じつづけたことをやめるほうが、さらにむずかしい。
    「楽毅」第二巻より
  • からだで、皮膚で、感じるところに自身をおくことをせず、頭で判断したことに自身を縛りつけておくのは、賢明ではなく、むしろ怠慢なのではないか
    「楽毅」第二巻より
  • こうする、ああする、といちいち目的と行動とを配下におしえつづけてゆけば、配下はただ命令を待つだけで、思考をしなくなる。この四人はいつなんどき多数の兵を指揮することになるかもしれず、そのときにそなえて自立した思考力をもつ必要がある。
    「楽毅」第二巻より
  • 人は自分の存在を最小にすることによって最大を得ることができる
    「楽毅」第三巻より
  • 勇と智とをあわせもっている者は、攻めるときよりも退くときに、なにかをなすときより、なにもなさないときに、その良質をあらわす
    「楽毅」第二巻より