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「妄想」の「妄想」らしさがよく分かる

 悪い「妄想」に包み込まれてしまうとどうなるか,

 貴重なことを教えてくれる記事に出会いました。

 こういうネタでないと,「注目記事ランキング」ベスト10には入ってこれないようですね。

 「支離滅裂」のお手本のような記事です。

 作家やライターの方々がこれを読めば,どこか見下された気になることでしょう。

 あまりに次元が低い話に自分たちの仕事が関連付けられてしまっている。

 迷惑千万といったところかもしれません。

 失礼なことを書いても,

 「作家」そのものを見下している場合には,何も感じることができないのでしょう。

 世の中には,

 フィクションの話で「おもしろい」と感じる人と,
 
 ノンフィクションの話で「おもしろい」と感じる人がいます。

 双方の「おもしろさ」の質が違います。

 これは,授業と同じこと。

 バラエティー番組のような「おもしろさ」と,

 クイズ番組のような「おもしろさ」は違うんですね。

 子どもたちにさまざまな「おもしろさ」を提供するのが授業です。

 低レベルな「おもしろさ」ばかり追求すると,

 子どもの「学力」は向上しません。

 「おもしろい」ものの一つに,「妄想」があります。

 「妄想」は自分がするから「おもしろい」のであって,

 これを他人に押し付けると,全く「おもしろみ」のないものになる。
 
 教師の「妄想」に汚染された子どもの姿を

 道徳の研究授業で見たことがありますが,その話はまたの機会にしましょう。

 だれかの「妄想」を真に受けて,迷惑をこうむるのはただの「おばかさん」だ,という認識は子どもにもあり,それなりに警戒する力を自分で育てていきます。


 さて,

 私は役割上,教育に関する論文をたくさん読ませてもらいますが,

 「自己満足」の塊に出会うことがあります。

 これを「妄想」と呼んではかわいそうなのですが,

 教師というのは,

 自分の実践が正しいと信じることで,

 かろうじて教育の現場に立ち続けることができる

 非常に弱い存在と言えます。

 自分に自信がない教師は,

 子どもたち,親たちから総スカンをくいます。

 せめて堂々としていてくれ,と要求されるのが教師です。

 ただ,どう読んでも「とんでもない」実践を,

 喜々として書く神経は,一般企業の人たちには信じられないことでしょう。

 こういう教師たちは,心の病にかかることはないのです。

 自分が正しいという「妄想」の中で生き続けている。

 そもそも教育とは,こういった「妄想」の塊かもしれません。

 「妄想」を抱ける人が,つとめてこれた職場が教育現場なのです。

 以下のような「論理」が「成立」してしまう人がいます。

>実践がなければ説得性のない文章になり、

>根拠の不明なものは空想の連続

>というより、それは妄想の羅列

 考え方そのものが「妄想」です。

 「妄想」の「妄想」らしいところはどこか。

 それは本人が自覚できないことです。

 妄想まみれの実践をたくさん見てきた私からすれば,

 SF小説のように,人を楽しませることができる

 「妄想」を教育現場にはもっと増やしてほしいと思ってしまいます。

 現実に目をやると,

 教育行政は,

 たとえば道徳を年間35時間,きちんとやったかどうかを真剣に調べています。

 何をやったか,どのようにやったか,どんな成果がでたかは決して調べようとしませんが,

 何時間やったかは徹底的に調べます。

 35時間やったんですね。はい,ごくろうさま。

 そういうスタンスです。

 ただの「時間」「回数」だけがものさしになっている。

 これでよしとすることができる神経は,「おかしい」のです。

 いい加減な35時間が褒められて,

 濃密な34時間は「お叱り」の対象になってしまう。

 困ったものです。

 非常に大きな「妄想」が,「観点別評価」なのですが,それはまたいずれ。


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宮城谷昌光の言葉

  • 雲のうえに頂をもつ高山を登ろうとするのに、その山相のすさまじさに圧倒され、おじけづいていては何もはじまらない。最初の一歩を踏み出さねば、山頂は近づいてこない。
    「楽毅」第四巻より
  • みごとなものだ。斂(おさ)めるところは斂め、棄てるところは棄てている。楽氏が棄てたところに、われわれの生きる道がある。
    「楽毅」第四巻より
  • 去ってゆく千里の馬を追っても、とても追いつかぬぞ。千里の馬の尾をつかむには、その脚が停まったときしかない
    「楽毅」第四巻より
  • ・・・つくづく人のふしぎさを感じた。道を歩く者は、足もとの石をたしかめようとしないということである。千里のかなたを照らす宝石がころがっていても、気がつかない。それほどの名宝は深山幽谷に踏みこまなければ得られないとおもいこんでいる。
    「楽毅」第三巻より
  • この城をもっとたやすく落とすべきであった。たやすく得たものは、たやすく手放せる。
    「楽毅」第二巻より
  • なにかを信じつづけることはむずかしい。それより、信じつづけたことをやめるほうが、さらにむずかしい。
    「楽毅」第二巻より
  • からだで、皮膚で、感じるところに自身をおくことをせず、頭で判断したことに自身を縛りつけておくのは、賢明ではなく、むしろ怠慢なのではないか
    「楽毅」第二巻より
  • こうする、ああする、といちいち目的と行動とを配下におしえつづけてゆけば、配下はただ命令を待つだけで、思考をしなくなる。この四人はいつなんどき多数の兵を指揮することになるかもしれず、そのときにそなえて自立した思考力をもつ必要がある。
    「楽毅」第二巻より
  • 人は自分の存在を最小にすることによって最大を得ることができる
    「楽毅」第三巻より
  • 勇と智とをあわせもっている者は、攻めるときよりも退くときに、なにかをなすときより、なにもなさないときに、その良質をあらわす
    「楽毅」第二巻より