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学校現場のことがわかっているようでわかっていない自民党の「教員制度改革」案

 ブレーンはだれだろう。

 学校のことが,わかっているようで,わかっていない人たちが中心になって考えたのだろう。

 まるで私立学校の教師のような扱い方である。

 どうせなら学校の施設だけを貸して,あとはすべて「委託」にしてしまった方が,「ダメな学校」は「委託業者」がすぐにつぶれるし,教育の自由度と質は格段に上がることが予想されるが,そんな話はここではやめておく。


 自民党の「教員制度改革」案は,教育現場にとって逆効果になりかねないものである。

 民主党政権時の「教員の修士レベル化」は論外でどうしようもない案だったが,

 3~5年の「試用期間」(「インターン制度」)を設けるという自民党の案が実現すると,

 学校現場の教育の質をさらに悪化させる結果に終わるだろうと私は予想している。

 教育は,「お試し」「仮免許」でつとまる仕事ではない。

 現場に入ったら,その日から「一人前」でなければならない仕事である。

 「一人前」でない教師はもちろんたくさんいる。

 30年たっても「一人前」でない教師もいる。

 それでも,教師は自分が「一人前でない」という自覚だけでなく,「一人前の教師でなければならない」という強い意思をもっていなければならない。


 この国の教員制度の大問題は,

 簡単に「教員免許」がとれてしまうことだった。

 今,現場には,「お試し」としての「教育実習生の受け入れ」という大きな負担がある。

 これを,「負担」に感じない受け入れ校があるとしたら,

 そもそも「お試し」に取り組んでいる大学生を,まともな教師に育てようとする意思がない証拠となる。

 そういう学校が多いから,

 教育実習で「単位を落とす」=教員免許がとれない,

 という大学生がほとんどいない。

 まずここが大問題である。

 民主党案のように,大学だけでなく,大学院でたくさん勉強させれば,いい教師の卵が育つ,という考えが甘すぎるのは言うまでもない。

 だから,自民党案の,

 「簡単に本免許を出すわけにはいかない」という考えには強く同意する。

 自民党案では,

 大学卒業時には「准免許」を与え,

 学校現場での「お試し」期間で「基準を満たした」と判断されたら「本免許」が与えられるしくみだという。

 しかし,現場の教師として断言できることは,

 「常勤講師」のような「お試し」「仮免許」の仕事で「基準を満たした」と判断できるほど,

 教育の仕事は甘いものではない。

 せめて判断できるのは,「これからも何とかやっていけるかもしれない」くらいのことである。

 「仮免許」で3~5年間も教師をさせることのデメリットは,「責任の軽さ」に慣れ親しんでしまうことである。

 「本免許」をとって初めて
 
 「責任の重さに耐えられない人間である」ことが発覚する,というおそれもある。

 「本免許」がとれたので,いきなり手抜きをしようとする人間もいるだろう。

 「お試し教員」など,はじめから,子どもや保護者,教師さえも「軽く見る」だろう。


 そもそも,

 この「教員としての基準」というのが最大の曲者である。

 「本免許」は教育委員会が出すそうなので,基準はバラバラであろう。

 さらに言えば,この「基準を満たした」と判断する人間が2番目の曲者である。

 おそらく,

 ほとんどの「お試し教員」には,「本免許」が与えられることになるだろう。

 しかしこれは,「教育実習で単位が与えられる」ことと本質的には何も変わらないことである。

 
 この制度の大きな問題の一つは,

 「どういう学校でつとめるか」である。

 公立学校というのは,これはだれに説明するまでもないことだが,

 ピンからキリまである。

 教師の指導力から子どもの状況まで,大きな開きがある。

 
 「お試し教師」でも難なくつとまってしまう学校もあれば,

 「お試し教師」を教育する余力のない学校もある。


 教師というのは,初任の学校で学んだことで,そのあとの教師生活が大きく左右させる職業である。

 それが,初任の学校が「お試し場所」になってしまい,大きな期待や仕事が与えられず,3年から5年もの期間,ただただ「見定められる」だけの時間になってしまうことは,「本物の教師の卵」にとっては最悪の時間の浪費である。

 

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  • 雲のうえに頂をもつ高山を登ろうとするのに、その山相のすさまじさに圧倒され、おじけづいていては何もはじまらない。最初の一歩を踏み出さねば、山頂は近づいてこない。
    「楽毅」第四巻より
  • みごとなものだ。斂(おさ)めるところは斂め、棄てるところは棄てている。楽氏が棄てたところに、われわれの生きる道がある。
    「楽毅」第四巻より
  • 去ってゆく千里の馬を追っても、とても追いつかぬぞ。千里の馬の尾をつかむには、その脚が停まったときしかない
    「楽毅」第四巻より
  • ・・・つくづく人のふしぎさを感じた。道を歩く者は、足もとの石をたしかめようとしないということである。千里のかなたを照らす宝石がころがっていても、気がつかない。それほどの名宝は深山幽谷に踏みこまなければ得られないとおもいこんでいる。
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  • この城をもっとたやすく落とすべきであった。たやすく得たものは、たやすく手放せる。
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