ウェブページ

最近のトラックバック

本の検索・注文


  • サーチする:
    Amazon.co.jp のロゴ

« 勘違いのプロ意識が高い教師たち | トップページ | 成功事例?から失敗の本質を考える »

難しく考え,多くを求めすぎる人たち

 完璧を求めようとするのは,心と体の調子をくずすもととなる。

 さて,私にはとても信じられない光景だったが,

 ある研究会で,中心になっていた先生の言葉を,まるで教祖の御神託をうかがうように聞いている教師たちがいた。

 この人たちには,まともな教育はできないだろうと直観した。

 そんな態度では,創造力は身につかない。

 自分の頭で考えることをやめたとき,そこは「教育」の場ではなくなる。

 
 そこは違うのではないか?という意見表明ができることが,子どもにとっても,成長への第一歩となる。

 しかし,日本には,面と向かって反対意見を述べることを,美徳としない文化がある。

 
 匿名のブログは,そうした文化を守りつつ,意見を表明することができる,便利な空間である。

 残念ながら,受け手が意識していないと,コミュニケーションは成立しないのではあるが。

 

 教育ブログには,自分勝手な日記のようなものや,人が読んで参考になるようなものなど,さまざまである。

 「もっとこういう記事を書いてほしい」なんて要望されるとしたら,それは幸せなことである。

 ただ,そういう関係は,リアルの世界で築いていけばよい。

 リアルの世界で,私がこのブログのような話ができる人たちは,

 ごくごくわずかである。

 10倍ぐらいに薄めた話なら,多くの先生に聞いてもらっているが。

 
 私が選択しているのは,匿名の世界である。

 私のようなブログを読んで,何かを考える人というのは,ごくごくわずかかもしれない。

 納得できる部分があり,共感しながら読んで下さる方もいれば,

 反発しながらも,わざわざ反論を書くのも面倒くさい,という方もいるだろう。


 あまり他の人にはない私の教育へのスタンスというのは,

 大きな感謝と同時に,

 児童生徒の時から,教育に不満を抱いていたということ,

 教師になって,教育のあり方に不満を抱いていたということ,

 教育行政に入って,も同様。

 子どもたちを学校に通わせ,保護者になっても,同様・・・・

 と,様々な角度からの不満を中心にすえている。

 
 完璧を求めているわけではない。

 勘違いの方向への努力と,

 間違ったことを実行しないだけでも,

 教育は格段によくなると信じている。


 しかし残念ながら,

 観点別学習状況の評価だったり,

 手抜き用の「学び合い」だったり,

 失敗を失敗と認めない世界が,教育の場にはたくさんある。


 創造の意義は,だれかが模範を示して,みんながそれにならう,という筋のものではない。

 創造するのは,みんなである。


 教育実践を行っていく上で,奇をてらったり,独自性を発揮しようと頑張っている人たちは,

 自分の努力に満足できるかもしれない。

 自分が教育のことを,子どものことを,これだけ考えてやっているんだ,

 という熱意をもっていることに,満足しているかもしれない。

 しかし,子どもがどのような学習成果を残しているか,それがどう次につながっているかを見ることなしに,

 つまり「ふり返り」をすることなしに,「こうすればいい」なんて言ってはいけない。


 唯一,言えることは,とりあえず,

 学習指導要領の解説を読んで,できることを実行する。

 何も難しく考える必要はない。

 工夫できるところを工夫する。

 
 当たり前のことを当たり前にできることが,創造の前提である。


 
ブログランキング・にほんブログ村へにほんブログ村 教育ブログへにほんブログ村 教育ブログ 教師教育・教員養成へにほんブログ村 教育ブログ 教育論・教育問題へ

« 勘違いのプロ意識が高い教師たち | トップページ | 成功事例?から失敗の本質を考える »

教育」カテゴリの記事

学習指導要領」カテゴリの記事

ブログネタ」カテゴリの記事

教職教育」カテゴリの記事

仕事術」カテゴリの記事

教師の逆コンピテンシー」カテゴリの記事

コメント

この記事へのコメントは終了しました。

トラックバック


この記事へのトラックバック一覧です: 難しく考え,多くを求めすぎる人たち:

« 勘違いのプロ意識が高い教師たち | トップページ | 成功事例?から失敗の本質を考える »

2021年11月
  1 2 3 4 5 6
7 8 9 10 11 12 13
14 15 16 17 18 19 20
21 22 23 24 25 26 27
28 29 30        
無料ブログはココログ

宮城谷昌光の言葉

  • 雲のうえに頂をもつ高山を登ろうとするのに、その山相のすさまじさに圧倒され、おじけづいていては何もはじまらない。最初の一歩を踏み出さねば、山頂は近づいてこない。
    「楽毅」第四巻より
  • みごとなものだ。斂(おさ)めるところは斂め、棄てるところは棄てている。楽氏が棄てたところに、われわれの生きる道がある。
    「楽毅」第四巻より
  • 去ってゆく千里の馬を追っても、とても追いつかぬぞ。千里の馬の尾をつかむには、その脚が停まったときしかない
    「楽毅」第四巻より
  • ・・・つくづく人のふしぎさを感じた。道を歩く者は、足もとの石をたしかめようとしないということである。千里のかなたを照らす宝石がころがっていても、気がつかない。それほどの名宝は深山幽谷に踏みこまなければ得られないとおもいこんでいる。
    「楽毅」第三巻より
  • この城をもっとたやすく落とすべきであった。たやすく得たものは、たやすく手放せる。
    「楽毅」第二巻より
  • なにかを信じつづけることはむずかしい。それより、信じつづけたことをやめるほうが、さらにむずかしい。
    「楽毅」第二巻より
  • からだで、皮膚で、感じるところに自身をおくことをせず、頭で判断したことに自身を縛りつけておくのは、賢明ではなく、むしろ怠慢なのではないか
    「楽毅」第二巻より
  • こうする、ああする、といちいち目的と行動とを配下におしえつづけてゆけば、配下はただ命令を待つだけで、思考をしなくなる。この四人はいつなんどき多数の兵を指揮することになるかもしれず、そのときにそなえて自立した思考力をもつ必要がある。
    「楽毅」第二巻より
  • 人は自分の存在を最小にすることによって最大を得ることができる
    「楽毅」第三巻より
  • 勇と智とをあわせもっている者は、攻めるときよりも退くときに、なにかをなすときより、なにもなさないときに、その良質をあらわす
    「楽毅」第二巻より