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2013年4月

発表者がメモをとれる学習

 いろいろと「失敗の本質」探しでご苦労いただいている実践事例についてですが,

 「失敗事例」とは書いていないことをお忘れなく。

 「成功例には見えない」とは,なかなか厳しいご指摘で・・・。

 でも,「どこが失敗だったか,考えていただく事例」なのです。


 さて,ご指摘の点ですが,

 発表者と聞き手の関係は,決して一方通行ではありませんでした。

 メモを熱心にとっているのは,発表者なんですね。

 聞き手が,外国人の方で,生徒の発表後,意見や感想,ご自分のお国での状況を話して下さったのです。

 それを発表者が熱心にメモしていた。

 学習後の総括(ふり返り)で,新たに得られた情報を組み込んで,自分の考えを磨き上げてくれたことは言うまでもありません。

 お招きしたゲストはみなさん「聞き手」だったのですが,

 お招きするにあたってのお願いとして,

 「生徒にはできるだけ質問して下さい」

 「生徒に正直な意見をぶつけて下さい」

 と伝えてありました。

 議論が起こった場所もありました。

 中学校1年生から3年生までと,地域の方,そして教師たちが,

 地域の公園の問題で,意見を出し合っているところがありました。

 まとめのパネルディスカッションでは,そうした「論争」が起こったことがらを中心に,

 「どうしていくべきか」をパネリストとして選ばれた地域の方や生徒の代表が

 意見を出し合ったのです。

 公園にゴミ箱を置くか置かないかだけでも,

 意見は分かれます。

 実際にゴミ箱の置いてある公園の様子,置いていない公園の様子を写真にとって比べていた生徒の主張は,説得力のあるものでした。

 ********

 上級生が下級生に教えるのは,レポートのまとめ方とか,ポスターセッションで使う資料のまとめ方などです。

 自分がすでに経験しているので,だれでも教えられる内容です。


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4個でも13個に勝れる理由が分からない人

 どうかしてしまったのだろうか。そういう文章を書いている人を,ご本人はナント呼んでおられたか,過去の記事をご覧になっていただきたい。

 「箱庭」はすてきな日本の文化である。

 「箱庭」に失礼だ。


 とてもとても貧弱な「知能モデル」が示されている。

 
 こういう人の「知識」観は,単なる「記憶」の個数が問題であり,授業モデルで言っても最低レベルの「知識」観である。

 授業では,「とにかくたくさん覚えろ」というのが決まり文句なのであろう。

 勉強を苦手とする子どもをけなすときは,

 「頭の中身が少ない」と言うのだろう。

 もし記憶量だけを増やせば学力がつくのなら,教師に専門性はいっさい必要ない。

 教科書だけあれば,教育は成立してしまう。

 4択問題ばかりをやらせておけばよい,ということになってしまう。

 こういう発想を,

 「独房型」と呼ぶことにしよう。

 本当に息が詰まるような教育観である。


 「開放型」の教育観では,

 4個は,15個になる。

 この計算ができるだろうか。

 ただの13個を容易に上回れるのである。


 この人に,「つながる」とか「深まる」という学力観は存在しないのだろうか。


 そう,断片的な知識のままで,それを臨機応変に組み合わせて使うことができない人が,

 人とトラブルを起こすのである。

 記憶型のテストはやたらと点がとれるが,社会性がない,人間関係をつくり能力がない人は,

 「つながり」「関係性」「類推」を意識した行動がとれないので,

 教師なら,対教師と,そして,子どもとの間で,トラブルを起こしてしまうのである。

 単なる気まぐれで書いたのだろうが,なぜ13個にしたのだろう。

 16個だったら,また別の方法を考えなければならなかった。

 
 最後に,教師をやめて新聞社に転職した人は,

 きっと教育への情熱を失っていた人なんでしょうね。

 または,本当にお金がほしかったんでしょう。

 
 
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教育の極意は「引き出す」こと

 偉そうなことをタイトルで書いていますが,

 教師になった人は,大学時代の「教育原理」の単位を取得するとき,必ず聞かされる話ですね。

 質問によって,

 子どもの能力,資質,興味,分析力,熱意,などなどを「引き出す」ことを,

 楽しめるのが教師という職業です。

 今回は,別に「楽しむ」ために質問したわけではありませんが・・・。

 残念ながら,

 お二人のご指摘は,あまり「失敗の本質」にせまれていませんでした。

 私がお聞きしていたのは,「評価」の「失敗」ではなく,

 「実践」に隠された「失敗の本質」です。


 今回ご紹介した「評価」は,

 初めて中学校に来て,「イベント」に参加していただいた,「地域の方」のものです。

 しかも,「評価」といっても,「ご感想をどうぞ」なんていう気軽なものでした。

 私たちの指導のねらいや,学習の経過は,簡単に説明させていただいていたのですが,

 詳しいことは生徒たちと話をして初めてわかるようなことでした。

 ですから,

 まずは「評価の仕方が悪い」というのは,筋違いということになります。


 次に,「授業が見えてこない」のは,それはおっしゃる通りで,

 この評価だけから見える「失敗の本質」を問うているわけなので,

 「授業が見えない」原因は,ただ私の説明不足にある,ということになるでしょう。

 
 今回の事例における総合的な学習の時間の年間の活動は,200人程度の全校生徒が,「理想のまちづくり」を大テーマに,環境や人権,交通などの個人テーマをもって1年間研究し,集録としてまとめたのですが,

 その研究の内容を,「国際的視野」をもってとらえなおし,説明したり,異なるテーマの生徒の発表を聞いたり,質疑応答を行ったり,「問題」になっていることを議論したりする,という2時間の活動でした。

 小さなテーマごとに「担当の先生」を決め,教師1人で最大でも20人程度までの生徒を指導するというものでしたが,縦割りで集団ができるので,事例の時間に至るまで,下級生は上級生に教えてもらう場面もありました。

 2時間のねらいは,

 自分たちが住んでいるまちを,中学生を含む地域の人々によってより暮らしやすくする,

 そのために,何ができるか,どんなことを知ることが大切か,何が課題になっているか,

 地域の人々はどう考えているのか,これらをポスターセッションやパネルディスカッションで

 探っていく,というものでした。

 ポスターセッションでは全校生徒が全員,時間をずらして発表し,質疑応答も行うので,

 より「聞き手」の生徒や地域の人々が多い方がいいだろう,ということで,

 「人集め」をがんばりました。

 日本語がまだあまり得意でない外国人の方とのやり取りは,

 出身が東アジア,東南アジア,南米と英語圏ではないために,

 生徒も苦労する場面がありましたが,一生懸命お互い理解し合おうと,

 身振り手振りでがんばっていました。

 通訳の方も数人見えたので,相手の方の国のお話など,興味深く聞き入っていた生徒もいました。

 保護者の方も参加されましたが,「授業参観」とは異なり,ご自分も議論に参加して意見を言わなければならないので,出席率は3割程度だったでしょうか。

 行政の方にも参加していただいて,生徒と地域の方がいっしょに練ったアイデアを提示する,といった場面もありました。

 他校の先生にも参加していただきました。

 その学校の教師たちも,議論に加わったことは,言うまでもありません。

 「学び方を学ぶ」総合的な学習の時間の中では,一つのイベント的な行事にもなりましたが,各自の学習の総括へ向けてのよい刺激剤にもなりました。

 
 これで,学習の実態はだいたいお分かりいただけましたでしょうか。

 さて,この実践から分かる「失敗の本質」とは何でしょう?

**************

 (追記)
 
 生徒は,地域のことを調べる上で,行政を含めて地域の方々にインタビューなどを行っている。そして,1年契約の「サポーター」となってくれる方を生徒がそれぞれ何人かもっており,生徒からの案内で,この方々もお招きしたことを追記しておく。残念ながら,授業時間中の実施であるので,当日参加できた方はそれほど多くはなかった。

 学習後,「研究集録」や「活動の振り返り」などは,このサポーターの方々にお渡しし,その場で1年間の学習の報告を行わせている。

 蛇足ながら,こうした学習の成果は,役所で実施された「まちづくりのシンポジウム」でも生徒会役員が発表した。中学生が大人顔負けの主張をしていたので,興味をもたれた他の地域の方々ともつながりをもつことができた。

 人集めのことはこの記事でふれたのであり,そこには「失敗の本質」は含まれていない。

*****************************

 (さらに追記)

 実践を紹介した学校での「総合的な学習の時間」には,きちんと名前がついている。

 それは,自分の将来を見つめ,生き方を考えようという意味である。

 卒業後,10年たったら,タイプカプセルを開けに学校に戻ってくる。

 そこでの交流で,もう一度,中学生のころ,思い描いていた原点に戻って,

 自分たちをふり返る,という活動で,ただの「クラス会」とは少し異なっている。

 「地域の中の私」という観点を重視した年には,「理想のまち」というのが大テーマになった。

 「まちの中で,将来,自分はどのような生き方ができるのか」は生徒全員がもっている問題意識である。

*****************************

 (そしてさらに追記)

 →記事にしました。


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成功事例?から失敗の本質を考える

 このブログは,基本的に「実践事例」は載せないことにしているが,

 今日は一つだけ,「総合的な学習の時間」の活動の「評価」を紹介したい。

 この実践のどこが「失敗」だったかを考えていただく材料にしてほしい。

 「理想のまちを国際的視野から考える」というのが2時間の活動のテーマで,

 多くのゲストをお招きしていた。中には,元内閣総理大臣の御嬢さんもいた。

 地域のサークルで日本語を勉強している外国人の方もいた。

 ポスターセッションやパネルディスカッションを実施した。

 以下の文は,当日参加していただいた地域の方(この文章で,都立高校の先生だったことが分かった)の「評価」から抜粋したものである。

**************************

○ 外国人講師も日本語で自国のことを得々と説明すれば聞く生徒もそれに対応し,更に質問は列をなして,矢継ぎ早にそしてメモをとる,てきぱきとひたむきなこの態度,真摯というべき,久しぶりで嬉しかった。

○ 自分担当の事項については自信をもって発表している。または書いたものを時々見ながら説明していた。ポイントをつかんでよくぞまとめたと賛辞を送る。少々足りないところは,多分次の機会に深められるであろうから。

○ グループ代表がそれぞれ要点をまとめて発表し,余りにも核心をつかんでいるので驚く,日常どのように取り組んでいるのかの質問に対しては,現在自分たち中学生にできることを述べたのには大きな拍手を贈りたい。身についた取り組みをしている結果といえよう。

○ 約二時間にわたる体育館内での活動態度,賞賛に値する(私語なく床に腰をおろし,よく聞いている)。私は都立高校に長年いましたが,こんな素晴らしい中学生を受け入れて高校がダメにしたのではないかと恥ずかしく思った。

○ 学習の基本方針をどのようにして打ち出したのか,指導計画と実施そして評価,○○中の宝を見せられたようだった。

○ 研究集録を見て,ひとりひとりの個性と成果がよくみられる,文章表現も非の打ちどころがない,パソコン・インターネットの利用がよくなされている。

**************************

 これをただの成功事例として読んだだけでは,教育を創造することはできない。


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難しく考え,多くを求めすぎる人たち

 完璧を求めようとするのは,心と体の調子をくずすもととなる。

 さて,私にはとても信じられない光景だったが,

 ある研究会で,中心になっていた先生の言葉を,まるで教祖の御神託をうかがうように聞いている教師たちがいた。

 この人たちには,まともな教育はできないだろうと直観した。

 そんな態度では,創造力は身につかない。

 自分の頭で考えることをやめたとき,そこは「教育」の場ではなくなる。

 
 そこは違うのではないか?という意見表明ができることが,子どもにとっても,成長への第一歩となる。

 しかし,日本には,面と向かって反対意見を述べることを,美徳としない文化がある。

 
 匿名のブログは,そうした文化を守りつつ,意見を表明することができる,便利な空間である。

 残念ながら,受け手が意識していないと,コミュニケーションは成立しないのではあるが。

 

 教育ブログには,自分勝手な日記のようなものや,人が読んで参考になるようなものなど,さまざまである。

 「もっとこういう記事を書いてほしい」なんて要望されるとしたら,それは幸せなことである。

 ただ,そういう関係は,リアルの世界で築いていけばよい。

 リアルの世界で,私がこのブログのような話ができる人たちは,

 ごくごくわずかである。

 10倍ぐらいに薄めた話なら,多くの先生に聞いてもらっているが。

 
 私が選択しているのは,匿名の世界である。

 私のようなブログを読んで,何かを考える人というのは,ごくごくわずかかもしれない。

 納得できる部分があり,共感しながら読んで下さる方もいれば,

 反発しながらも,わざわざ反論を書くのも面倒くさい,という方もいるだろう。


 あまり他の人にはない私の教育へのスタンスというのは,

 大きな感謝と同時に,

 児童生徒の時から,教育に不満を抱いていたということ,

 教師になって,教育のあり方に不満を抱いていたということ,

 教育行政に入って,も同様。

 子どもたちを学校に通わせ,保護者になっても,同様・・・・

 と,様々な角度からの不満を中心にすえている。

 
 完璧を求めているわけではない。

 勘違いの方向への努力と,

 間違ったことを実行しないだけでも,

 教育は格段によくなると信じている。


 しかし残念ながら,

 観点別学習状況の評価だったり,

 手抜き用の「学び合い」だったり,

 失敗を失敗と認めない世界が,教育の場にはたくさんある。


 創造の意義は,だれかが模範を示して,みんながそれにならう,という筋のものではない。

 創造するのは,みんなである。


 教育実践を行っていく上で,奇をてらったり,独自性を発揮しようと頑張っている人たちは,

 自分の努力に満足できるかもしれない。

 自分が教育のことを,子どものことを,これだけ考えてやっているんだ,

 という熱意をもっていることに,満足しているかもしれない。

 しかし,子どもがどのような学習成果を残しているか,それがどう次につながっているかを見ることなしに,

 つまり「ふり返り」をすることなしに,「こうすればいい」なんて言ってはいけない。


 唯一,言えることは,とりあえず,

 学習指導要領の解説を読んで,できることを実行する。

 何も難しく考える必要はない。

 工夫できるところを工夫する。

 
 当たり前のことを当たり前にできることが,創造の前提である。


 
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勘違いのプロ意識が高い教師たち

 職員旅行でお互いを「先生」などと呼び合わないように,団体の名称を一般企業のように変えることがあるのは,多くの教師が知っている。

 徹底しているのは,旅行会社が宿泊施設に連絡する団体名もそうする,という学校である。

 なぜ,そうするのか。ごく一部に,その理由がわからない人がいるらしい。

 校長は社長とか,所長と呼ぶ。

 副校長,教頭は副所長など。

 教務主任が部長など。

 半分お遊びであるが,これは自分たちが教師であることがばれないようにしたい,

 というのではなく,一般社会に出て(旅行にまで出かけて),「何とか先生」などと呼び合うのはお互いに遠慮すべきだろうという思いからである。

 そもそも,教師が校内でお互いを「先生」と呼び合うことへの抵抗感をもっている人も多い。

 だから,開かれた心をもっている人が多い学校では,そういう人にも配慮して,職務ではない「親睦旅行」の場面では,「先生」という言葉を使わないことを暗黙の了解としているところもあるだろう。

 もちろん,日頃のストレスを解消するための旅行という面もあるから,宿泊施設で大騒ぎし,問題を起こす学校もある。だから,旅行会社側,宿泊施設側のブラックリストに入っている学校もあるだろう。だからといって,学校名を企業名に詐称しても,簡単にばれてしまう。

 さて,本題はここからである。

 指導力不足教師の中に,

 自分の専門性だけを鼻にかける人間がいる。

 たとえば,音楽の教師で

 「自分はこんなに楽器の演奏がうまいんだぞ」

 「演奏会でこんなに客を呼んでいるんだぞ」

 「社会に出ても,通用するんだぞ」

 という人がいる。

 簡単にアドバイスさせてもらえれば,

 「早く教師を辞めて,演奏家として暮らせ」

 ということだ。

 「演奏家では食べていけないから,教師をしている」

 のであれば,教育の仕事をがんばってほしい。

 
 「専門」ばかりに目がいって,「教育」に心が開かれていない教師は,

 学校現場には必要ない。

 成績処理のソフトの開発にかけた時間を給料に換算してみたらどうか。

 買った方が安いのではないか。

 今ならフリーソフトがいくらでもあるから,それをカスタマイズしてつくることもできる。

 それだけ余計なことに時間がかけられる小学校はうらやましい限りである。

 私はケチな性分で,

 自分でできる作業をわざわざ外注して何万円も払うのは嫌いである。

 別に1日の労働時間が20時間近くになろうと,

 早く分析したい情報は,自分で処理したい。

 しかし,これをアルバイトの院生にやらせることは,

 現場の教師以外の人間が教育の世界を垣間見ながら,わずかだが収入にもなる,という点で,

 Win-Winの関係ができるとも言える。


 指導力不足教員が

 「つぶしがきく」ことは,教師や子どもにとってこの上もない吉事である。


 指導力不足教員の問題になっていることは,学校での音楽の授業の指導力である。

 生徒とのコミュニケーション能力である。

 「頭がおかしい」などと口にしてしまう,人権感覚である。

 「話のずれ」を自分ではなく人のせいにして,「相手にしない」という傲慢な態度をとることである。

 子どもは,それなりに社会の「不平等さ」を受け入れている。

 あることが得意な人は,別の面では不得意さも持っていることを知っている。

 不得意な部分で委縮しているような人に,やさしい言葉をかけることができる。


 だれにも相手にされていない人に,声をかけるのは,学校文化で強化された「やさしさ」「思いやり」である。

 大学で「よい先生」は育てられるか,

 という質問の答えの一つは,

 「教科の内容に関する専門的知識は,育てることができる」というもの。

 しかし,

 「教科指導に関する専門的技能」は,対象の子どもがいない場では育てにくい。

 医者なら患者で「実習」できるかもしれないが,

 教師の卵が「実習」できるのはたったの3週間しかない。

 だから,「上手に教えられない教師」がときどき誕生する。

 教える技能というのは,

 教える技能が高い教師に習ってきた生徒なら,大学に入る前に自然に身についてしまっている面があるが,そうでなければ,そもそも「教える技能が高い」ことの意味が分からない学生も多いだろう。


 早い話が,

 プロ野球選手が

 だれでもプロ野球選手の優れたコーチになれるわけではない,ということである。

 プロ選手として大成できなかった人の中にも,優れたコーチがいる。

 どうしてこういう人は,優れたコーチになれたのだろう。

 これが,「教師を育てる」意識をもった人間が関心をもつべきことであろう。


 勘違いのプロ意識の高さをもっている元教師は,

 教育には関係のない知識をひけらかして,暇つぶしにしている。

 「教える」ことにも「育てる」ことにも関係のないことを

 「教育ブログ」の村で公開しているあたりが,

 現役の教師として読むとさびしいばかりである。

 
 どんな授業をしていたのか?

 ピントがずれた部活動の指導の話は呼んだことがあるが,

 ためになりそうな授業の実践の記事を一度も読んだことがない。


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体罰が急増?・・・評定の誤りも急増する?

実際にあった体罰の数が急増したわけではなかろう。

 本気で調査したから,確認された件数が増加したに過ぎない。

 いじめと同じように,定義があいまいだったり,本人や被害者がそうだと認めなければ,カウントされることがなかったりしたため,学校側に報告を求める「調査」では「本当の実態」はわからなかったのだ。

 もし,生徒の評価・評定の根拠を本気で調査したら,どういうことになるだろう。

 指導力不足「予備軍」の教師を抽出調査してみたらどうだろう。

 評価・評定の根拠になった資料,テスト問題,ノート。

 きっと,「不適切な評価・評定」はすぐに見つかるだろう。

 そもそも,「評価規準」を理解していたかどうかが問題になるかもしれないし,

 「指導の目標」「指導過程」に問題があったのかもしれない。

 しかし,この誤りがばれると,

 評価・評定の数字は入学選抜に使われているから,

 入試が適正に行われていなかった,ということになってしまう。

 だから,「正しかったことにする」のが,今の教育界である。

 教育に関する「数」に信頼性が乏しい面があるのは,今回の「急増」からも明らかだろう。


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保護者に「出ていけ」と言える小1担任教師

 私語に対する毅然とした態度。

 もう自分の子どもも自立するようになった年配の教師の

 「保護者」対応は,

 「聞く気がないのなら出ていけ」と言えるくらい,

 堂々としたものになれるようである。

 
 ダメな子どもと,ダメな親のイメージをセットにして,

 職員室で愚痴をこぼしている姿が目に浮かぶようである。

 
 ここで言われた保護者の方がキレなかったから,

 話はそれで終わり。

 
 しかし,この教師の学級経営を,一度は見ておかなければならないと思った。

 授業公開の日に,こちらの時間の都合がつくかどうか。

 
 小学校1年生に対して恫喝でおとなしくさせる教師は,ごく少数ではない。

 あの「暴言教師」ほどではなくても,

 
 「こわがらせる」ことで「学級崩壊」を防ごうとしている教師がいるのは確かである。

 そういう教師は,いわゆる「学級崩壊」は防げるが,

 子どもの何かを「崩壊」させてしまわないかどうか,心配になる。

 その点について,第三者がきちんと判断できる機会がほしい。

 
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一般教師の労働の質を問わない無責任体質

 教師の労働時間が長いことは,だいたい午前7時になる前には電車に乗っていることからもわかるだろう。

 多くの教師は,午前8時には職場についている。

 生徒が何時まで学校にいるかだけを考えても,帰りは遅いことは言うまでもない。


 ただ,授業時数を労働時間などと定義されてしまうと,

 夏休みは労働時間がゼロということになる。

 長い夏休みを夢見て教師になる人も,皆無ではなかろう。


 しかし,教師には,公務員が普通にやっている仕事がある。

 もし教師がそういう仕事を「雑務」なんて呼んでしまったら,

 普通の公務員は雑務しかやっていないことになる。

 
 分掌の会議,学年の会議,職員の会議,管理職と主任等による会議など,

 企業と同じように学校には会議の時間がたくさんある。

 情報交換や意思の疎通がうまくいっていないと,

 下手をすれば新聞沙汰になることが学校内で起こっているのに,

 関係者以外の教師は知らない,という事態になる。

 
 教材の準備が必要な教科が多い。

 担当になった教師にとって,行事の準備には相当時間が必要である。

 分掌の仕事があり,部活動の指導がある。


 よほど「好き」でないと「愚痴ばかりこぼす」最低の教師になってしまう。


 さて,書きたいことは,以上のような当たり前のことではない。


 教師にとって重要なのは,労働の量ではなく,質である。

 そこにまったくふれようとしないのが,例のブログである。

 指導力がなんだか分からないようだし,

 理想の教師は子どもの理想によって変わる,なんてことを書いている。

 教師の仕事がそもそも何なのかがわからなければ,

 なるほど,質なんていう話をするのは不可能だろう。

 

 なぜか管理職の仕事の内容にふれているが,自分がなったことがなければ,

 何のために管理職が必要かも理解できないだろう。

 そういう分からない「仕事」について書くことを控えないのが,その人らしいところである。


 さて,教師の労働の質は,

 何で判断することができるか。

 学力テストの点で判断されては困ると,

 子どもに答えを教えてしまう教師がいる。

 評価というのは,評価者の立場になれば,ある程度は想像がつくだろう。

 子どもの立場で考えてもよいし,

 保護者の立場で考えてもよい。

 子どものいない一般の市民だって,教育に関心が高い人もいる。
 
 そういう「視野」がもてない教師の労働の質は,低くて当然である。

 テストである程度の点がとれることは,だれに聞かなくても望んでいるに決まっている。

 しかし,授業をまともにやっていなければ,

 その「成果」はテストで如実に表れる。


 ある小学校の教師の中に,授業をつぶして百人一首だけやらせていたり,

 新聞づくりばかりやっている人がいた。

 中学校の百人一首大会でめっぽう強い生徒がいたので,その原因が判明した。

 新聞づくりの「本」を持ってきてくれた生徒がいたので,判明した。

 では,百人一首が得意な生徒が,古典への興味が高いか,国語への興味が高いかというと,決してそうではなかった。

 新聞の内容は,中学校に入っても,小学校レベルであった。

 小学校で学ぶべきことを小学生が「習得」していなかったからである。


 こういう小学校教師が,「労働の質が低い」と校内で批判されることはまずない。

 教師の場合は,小中連携事業を行って,お互いのカリキュラム検討を重ねているうちに,ようやく

 「負の原因」に気づける,そういう問題である。

 しかし,教育に関心が高い保護者なら,気づくことができるはずである。

 
 授業参観で,同じ単元の授業を見比べてみる機会があれば面白い。

 ある教師が,ビデオを見せただけで終わったら,どう思うか。

 ある教師が,教科書を読んだだけで終わったら,どう思うか。

 極端な話だが,

 同じ「労働時間」の中で,「こんな質の授業」が行われているかもしれないのが,学校というところである。

 日記がわりの新聞づくりが,他教科の学習への関心度や理解力を高める効果がある程度は認められるはずである。

 しかし,九九を身につけさせないままで,分数の割り算を計算させられないままで小学校を卒業させるのは,教師として「恥」と思ってほしい。

 高校に進学する中学生と違って,「ほぼそのままの集団」が上がってくる小学生は,中学校の教師にとって,

 「小学校の教師の質」の絶好の判断材料となる。


 「労働の質」・・・・「教員の質」が問われるうちは,まだ,教育に期待が寄せられている証拠と,前向きに考えるのもそろそろ限界か。


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大学で「よい先生」をどう養成するか?

 教員養成系大学にとって,堂々と「こうやってよい先生を次々に現場に送り出しています」と胸をはれるカリキュラムがあるのは当たり前だと思われるだろうが,実態は個々の教師の指導力に左右されているようだ。

 多くの学生は,大学の教員がどういう経歴をもっているかということについては,興味をもたない。

 大学の教員がどれだけ本気か(言い方を変えれば,「どれだけこわいか」)ということには,ある程度の興味をもっている。

 そして中には,「単位が容易にとれるか」「評価がどのくらい甘いか」こそが大事な情報だというのもいる。

 「私はよい先生を育てている」という自負をもっている大学教師は,どのくらいいるのだろう。

 謙虚な大学教師は,

 「教師は現場で育つ」ことを知っているから,たとえば教育実習先の教師と密の連絡をとり,学校現場にもたびたび足を運んでいるだろう。

 ただ,そこで関係ができるのは,せいぜい「教科指導」の面だけである。

 正直な大学教師は,

 「そもそも学生の質が低い」

 と嘆き始めるかもしれない。

 「私のせいではない」

 というのが,教育の世界ではよく見られる「態度」である。


 「よい先生」の条件として,優れた教科指導ができることは必須と考える人が多いだろうし,それが教師としての第一条件だと考えているかもしれないが,長らく教育現場を見てきて,

 「教科指導が優れている」と評価される人はごくわずかである。

 「教科指導に課題がある」人と比べても,かなり少ない方だと思われる。

 多くの教師は「教科指導に大きな課題はない」教師である。

 このブログでは,「観点別学習状況の評価を適正に実施しているか」「その評価を適正に実施するための教科指導を行っているか」という厳しい目を向けているから,

 ここに重点をおいてみれば,ほとんどの教師が「課題あり」になってしまうという面もある。

 ただ,授業が成立して,理解の面では一定以上の生徒がその目標をおおむね達成し,進路に支障をきたさない,という力は多くの教師がもっている(成果面では,数学に関しては疑問符がつく)。

 丁寧に解説してくれるだけで,そういう目標が達成されるように,文科省がチェックしている教材としての教科書をもっているからである。

 自分が児童生徒の時代にそういう「普通」の授業を受けた経験があれば,同じような授業はできるだろう。

 「優れた教師だった人」に大学で教わっても,現場に入って自分が行う授業は,自分が受けてきた授業になる。

 「優れた教師」ではなく「よい先生」程度のことを目指すのであれば,教員養成課程で力を入れるべきは,組織を動かす知恵を学ぶことである。

 だから,大学の授業で学んだことよりも,サークルや体育会で学んだことの方が,現場で役に立つことが多かったりする。 


 一般に,教師が「指導力不足」というレッテルをはられるのは,

 児童生徒とのコミュニケーション不全を起こすときである。

 「子どもが言うことをきかない」

 と指導力不足教師は嘆く。

 勘違い教師は,

 「子どもはこわい先生の言うことはきく」

 などと誤解している。

 「私はこわい先生ではない」

 から,子どもが言うことをきいてくれない,というのだ。

 もしそうだとしたら,大学ではなく,

 別の世界に入って修行をした方がいいだろう。

 指導力不足教師は,

 自分の指導力不足に気づけないのが最大の欠点である。


 教育実習生の中には,まともな会話すら成立しない学生が混じっており,大学の教師に問い合わせたこともある。

 答えは,「人数が多いので個々の学生の特性はよく分からない」とのこと。

 大学は,こういう教師でも仕事がつとまるところのだということがよく分かった。

 「よい先生」を養成しようと考えている場所には,「よい先生」でない人が混じっている。

 実はそこを研究対象にしている学会(分科会)もあるが,

 私がかつて発表したとき,あまりにも厳しい指摘をしたため,思い切りひかれてしまった。

 甘すぎる発表内容をたれながされるつらさもあって,

 「教育をなめているのか」という怒りが発表のときにこもってしまったのかもしれない。

 しかし,学会での発表内容そのものが,

 教師の質が低いことを露呈しており,

 そういう人たちに教育の質の向上をなんて話されても,何の説得力というか希望も見えてこないのである。

 話を戻すと,

 大学で「よい先生」を養成するには,どうしたらよいか?


 私の一番のおすすめは,

 自分の教科に関係が深い「遠足」と「宿泊行事」を企画立案し,それを模擬的に実行することである。

 ここで一番大切なことは,

 「遠足」と「宿泊行事」の運営は,生徒に行わせることを大原則とすることである。

 教師ははじめの言葉と終わりの言葉を言えばいいだけで,

 あとは全部,生徒がしきれるような行事にするのである。

 もちろん,「事前学習」のカリキュラムも決定する。

行事を運営する生徒の指導に時間をかけるのも当然のことである。

 下見も,運営する生徒と一緒に行く。

 これは大学では,学生集団で行うのだ。


 これを実践してくれている大学の先生を知っている。

 この先生は,「大学生の質が低い」とは,口が裂けても言わないだろう。

  
 教師は「子どもの質が低い」といって,教育の手が抜ける職業ではない。

 だからこそ,やりがいのある仕事である。


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デジタル機器の故障はなおせるか?

 放置されてしまっている問題がある。
 
 相手が「問題」だと認識してくれないのがその原因である。

 現在のところ,黙殺されてしまっているのが,以下のコメントである。

********************

 「間違いが訂正できる人に」で,

>企業の、お客さん対応部門でも、先生が嫌われるのは一度言い出したことを訂正しないという理由です。
先生は概して、プライドが高いと思われがちですから、お世辞をタラタラ言われますが、いい気になって上から目線はよくないと思います。

>あの有名なカラヤン氏でさえも振り間違えたことがあります。

>間違いを訂正すること謝ることは、むしろ尊敬される方になると思います。

 とありました。

 間違いを訂正しない人は,要はプライドが高い人なんでしょうね。その人に,「カラヤン氏も間違える」なんていっても,効き目はないと思いますよ。

 なぜなら,「間違い」を気にしているのではなく,「間違いを認めることで低く見られるかもしれないこと」を気にするのですから。

 「カラヤン氏も間違える」というお話しがもし,

 「間違えたらこわいから,演奏できない」なんていう人を励ますために使うのであれば,理解できるのですけれど。

*********************

 あるいは,「カラヤン氏でさえも間違えたら謝った」なら,わかる。

 「弘法も筆の誤り」を,「間違えたら謝るべきだ」という話の中で使っているのは,当のご本人なのだ。

 デジタル機器にも誤作動がある。

 上の事例のような単純なプログラムミスが原因のものもあろうが,

 「想定外」のことに対応できないのが原因である場合もある。

 「間違いを指摘される」のが,「想定外」のことなのだろう。

 教師は,そういう機会が少ない職業の一つである。

 

 人間は,とても不思議な生き物である。

 他人の視野が狭いのはよく見えるのだが,

 自分の視野が狭いのは認識できない。

 
 他人に「いけませんよ」と注意を促していることを,その場で自分がしてしまっていることに気づけない人がいる。

 
 私は,そういうタイプの人を学校現場でたくさん見てきた。

 なぜか教師に多いタイプなのである。


 どこかでプログラムが誤っているため,修正がきかない。

 自分で自分のプログラムを書き換える知能をもったプログラムは存在するのだろうか?


 それでも,教師がつとまっている人がいる。

 教師というのは,「いけないこと」を子どもに注意できればつとまる仕事なのだろうか?

 たとえ,自分が「いけないこと」をしていても。

 
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私はデジタル人間

 これは,私が試した,リクナビNEXTの「社会コミュニケーションに役立つ デジタル人間VSアナログ人間 診断」の結果である。

 デジタル人間の一般的な特徴として,以下のような「短所」が示されている。

 「突発的な事態への対応が下手」

 「言葉で人を傷つけることがよくある」

 「周囲からの干渉を嫌う」

 「融通が利かない」

 「批判的」

 そんなことはないぞ,と反発したい面がある。

 そういうのを仕事にしている,と言いたくなるようなものもある。

 また,・・・・・これは,だれかにぴったりではないか?

 とも思ってしまう。

 長所は,

 「論理的な思考ができる」

 「公平であることを尊ぶ」

 「沈着冷静」など

 ・・・・おかしいな,これはだれかには残念ながら当てはまらないな,と思う。

 デジタル人間を相手にすると,こんなストレスを受ける,という事例も紹介されている。

 「開き直りと他人任せ」

 「デジタル人間に近親憎悪」

 うむ・・・・自分の間違いを認めないあたり,ストレスに感じる人からは,相手にされなくなるんだなと納得する。

 コメントを入れた人に対して,

 いきなり「アスペルガー?」なんて書き込む「つわもの」は,

 「自尊心の強さ」というアナログ人間の長所と同時に,

 「緻密さが足りない」というアナログ人間の短所ももっている。

 デジタルだのアナログだの言いだすところはデジタルの証拠なのだが,

 人間はデジタルとアナログの両方をうまく使いながら,社会を生き抜いている。

 そこに考えが及ばないあたりが残念なところである。

 労働観の乏しさも哀しくなるばかりで,これでは学校で進路担当など任せることはできない。

 「デジタル」のよさと弱さ,「アナログ」のよさと弱さをじっくり考えて,

 よさを生かし弱さを補う方法を考えるのが,教育を語る人間の「仕事」である。

 こっちに頭を使わおうとする意欲がほしい。

   
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教育実習生を担当される先生へ ~あなたは指導案のダメだしを何回までやっていますか?~

 教員養成の世界では,

 「教育実習の充実」は欠かせない要素の一つであろうが,

 学校現場における教育実習は,

 教師にとっては「負担増」,

 生徒にとっては「授業の質の低下」というあまりうれしくない代物である。

 もちろん教師は若いころの自分を思い出しながら,

 情熱をもって教育に取り組もうとする学生を見て悪い思いはしないし,

 生徒は自分と年齢が近い若いお兄さんお姉さんに接することができて,

 いい刺激にもなっている。

 ただ,教育実習生は「お客様」ではない。

 企業で言えば,正式な「従業員」の一人となる。

 だから企業は本気で教育に取り組むだろう。

 教育実習生を受け入れる学校側はどうか。

 本気で教師を育てようと思って教育実習生を鍛えているか?

 その指標は,それほど難しくない。

 指導案を何回くらい突き返しているか。

 授業の反省に何時間くらい費やしているか。

 子どもたちとどのくらい過ごさせているか。

 この姿勢は,

 自分自身が教育に向き合う姿勢とぴったり重なるはずである。

 もしも,

 教育実習生が授業をしてくれるから,

 自分は息抜きができる,

 なんて教師がいたとしたら・・・・

 教育実習は,現場の現在の教育の質も,将来の質も下げるのに

 貢献している制度ということになる。


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視力検査で分かる? 生徒と学校の個性

 4月から5月にかけては,各学校で健康診断が実施されている。

 私は今年も視力を測定する担当となった。

 一番疲れる仕事である。

 それは,「読み間違い」が非常に多く,判定に時間がかかるからである。

 見えなければ「見えません」と言ってくれればいいのに,

 わずかな隙間が見えたのか,当たれば儲け物と考えているのか,

 「そうじゃない」答えが頻発する。

 これは,「間違うことをおそれるな」などと教育している日頃の成果だろうか。

 それとも,「少しでも視力がよかったことにしたい」という気持ちの表れか。

 「分かりません」「見えません」という反応が,とても少ない。

 「がんばるところが違うのではないか」というのが普通の印象だろう。

 それでも,すぐにあきらめるのではなく,じっくり見つめて集中している姿を見るのは

 悪い気持ちはしない。

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漢字を間違えてバカにされる学生たち

 教育実習生たちは,「先生」と呼ばれる立場で教壇に立つ。

 大学生としての「プライド」を,「一応」もって,授業をする。

 しかし,緊張のせいか,学力的な問題によってか,定かではないが,

 漢字を間違えて板書する学生が多い。

 字の大きさがまちまちだったり,あまり上手とは言えないのはご愛嬌なのだが,

 さすがに字の誤りは生徒も気にはなる。

 生徒は苦笑しながら指導している教師の方を見てくる。

 「指摘してあげた方がよいのか」

 「だまってスルーしてあげた方がよいのか」

 と問うまなざしである。

 中には残酷な?生徒がいて,

 大きな声で誤りを指摘してくれる。

 「間違い」を発見したうれしさが隠せないような指摘の仕方である。

 漢字も,間違え方によっては,本当に学力水準がうかがわれてしまう場合がある。

 こういうとき,素直に「ごめんね」と謝れるかどうかは,

 それこそ「性格」に由来するものである。

 「羞恥心」でいっぱいになって,「ごめんね」なんて言葉が出てこない人もいる。

 こういう人がもし,「弘法も筆の誤り」なんて意識で,しかも自分でそんなことを口にしたら,

 それこそ笑いものになってしまうだろう。

 「お前は三筆か!」と突っ込まれるだけである。

 生徒がもし,「弘法も筆の誤り」と言ってくれたら,それは思いやりに満ちた言葉と言える。

 いや,ただのきつい皮肉かもしれない。


 
 誤りが繰り返されれば,

 「木登りが不得意な猿」などと呼ばれかねない。

 誤りを指摘されてムッとくるような学生は,

 「不可」にしておきたい。

 そういう学生に対して,

 「弘法も筆の誤り,というだろう」

 なんて見当はずれのアドバイスをしている教師は,指導者失格である。


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「道徳教育」充実に向けての最大のネック

 学校教育における道徳の指導の内容を詳しく知れば,

 その大切さを理解してもらえると思う。

 問題は,

 「道徳」とか「道徳教育」という言葉自体に

 強い嫌悪感をもっている教師たちの意識改革である。


 学校は,教師の意識改革によって大きく変貌できる。

 その変化は,子どもの成長という形で実を結ぶ。


 子どもが悪い,学力が低い,家庭教育がなってない,・・・・

 などと嘆いている教師たちにとって,

 最も必要なのは「自分ができることは何か」を第一に考える

 教師としての姿勢である。


 ただ,こういう姿勢がなかなか持てない。

 自分たちだけが分かる言語によるプログラムが,二重の意味で欠陥だらけなのである。


 こういう教師たちの意識改革には,

 何段階ものプロセスを必要とするので,

 はじめは雲をつかむような状態から始まるが,

 教師が変われば,一瞬で子どもも変わることがある。

 その積み重ねで,教師自身が自信をつけていくしかない。

 
 道徳教育を充実させる・・・・・

 これを校長が,今年度の最重要課題だと宣言するとする。

 もちろん,年度末に教育委員会によって受理された,教育課程届に示された内容である。

 そこに,反対を表明する教師が現れるとする。

 「校長は,道徳教育を充実させれば,いじめが減るとでも思っているか!」

 まわりにいる教師は,こういう発言に対して,どういう態度で臨むべきだと思うか?

 採用試験の面接での問題例である。

 
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我が家の「多様性」

 めったに書かない家族ネタである。

 考えていることが,私と妻と子どもでみんな違っているというたわいもない話。

 中3の長男は,ある学校で生徒会長をしている。

 生徒会の顧問の先生から,

 学校の定期考査期間中に,ある行事に参加させたいので,許可してほしい,

 という相談があったそうだ。

 子どもは,

 テストを休めるので行きたい

 との考え。

 妻は,
 
 顧問の先生と同じ意見で,

 いい経験をさせたい

 との考え。

 私は,

 行事で何をしてくるのか,知りたい,

 との考え。

 みんな定期考査を公欠で休むことに賛成。

 ただその根拠が違う。

 考えていることは少しずつ異なるが,

 進む方向は一緒。

 理想の家族かどうかは知らないが,

 理想の学校とは,こんな面をもっているところと言えなくもなかろう。


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にぎわってきた「教育論ムラ」

 経済や国際問題と異なって,

 教育という分野への関心は,すべての国民にあるとは言い難い。

 もう子どもが自立してしまっているような方にとっては,

 「教育」はご自身にとっても「卒業したもの」と受け止められがちなのではないか。
 
 だから,選挙などでは教育はあまり争点にならず,

 教育改革も,いくつかの意見を調整しているうちに

 どうでもいいというか,どうしようもないことになっていくことが多い。

 このブログ村の教育論・教育問題のカテゴリーでも,

 教育・・・中でも学校教育にかかる記事が注目されることがあまりなかった。

 しかし,先週から,

 ご新規の方や復縁された方が増えて,

 にぎわいを見せるようになっている。

 とてもいいことだと思っている。

 学校は,いじめや体罰,いい加減な成績処理など,

 ニュースになる話題もあるが,

 ニュースになることは少なくても,非常に大きな問題が山積しているところでもある。

 ハインリッヒの法則をご存じの方は多いだろう。

 「重大事故の陰に29倍の軽度事故と,300倍のニアミスが存在する」というものである。

 教師として,行政の立場として,保護者として,

 この「軽度事故」や「ニアミス」を見逃さないようにすることが

 教育現場にも求められる。

 このブログには,

 「めでたし」「めでたし」

 「結果オーライ」系の

 話はほとんど登場しない。

 今もかなり遠くで発生した地震を感知したが,

 破壊的に大きな問題が発生する前に,

 コストがたくさんかかったとしても,

 学校の問題を,

 教師の問題を

 見える化 していかなければならない。

 被害を最小限に抑えるためのコストを積極的にかけていくべきである。

 社会科の授業では,

 分かったつもりになることを戒めるために,

 あえて一度,「否定してみる」「批判してみる」

 ことを薦めている。

 それを分かった上でも,後味が悪いというか,

 嫌な内容が書かれているこのブログを読んで応援してくださっている

 方々には,感謝申し上げたい。

 そしてできたら,問題の学校を変えることに少しだけでも

 力を注いでいただきたいと願っている。


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人の「間違い」を嬉しがるあさましき人間の姿

 相手が間違うと,

 喜び勇んで「頭がおかしい」とコメントに書き込んでいるブログがある。

 こんな教師に教えられたら,

 子どもは「間違い」を本当に怖がるようになるだろう。

 調布市の小2の担任が,どういう授業をしていたか,

 何だか目に浮かぶようだ。

 そういう授業を自分も受けたことがあるから。

 以前も書いたことがあるが,

 「人間の体はいくつに分かれているか」と理科の時間に聞かれて,

 私が「分かれていない」と答えると,

 その教師は私の首をつかんで,教卓の前で全員の方を向かせ,

 「ここで分かれているだろう」

 と怒りの説明をした。

 私は内心で,「それでも首と胴体は分かれていない」と主張していたのだ。

 「節足動物と哺乳類を一緒にするな!」という気持ちだったのだろう。

 
>相当に、読解力のレベルが低い。

>おかしいのは→頭がおかしい


 元教師のこのブロガーは,これでも何と「理想の教師」とか「教師の品格」なんて

記事を書いている。そういう教師の感化を受けることはできなかったようだ。

 
>誰か妄想??

>アスペルガー ?

 コメントを寄せた人に,こんな言葉を投げかけられるブロガーが,この村にはいるのだ。

 ここまで狙い通りの反応をしてくれるとは思わなかったが,

 こういう反応をする人間が,「間違いを認めたくない」という気持ちを人に起こさせる原因の一つになっていることは,ほんのかけらも感じることができないのだろう。

 一流の人でも間違えることがある,

 ということと,

 間違いを認めようとしない人がいる,

 ということとは,全く「別の話」である。

 それがどうも理解できないらしい。
 

 間違いを素直に認めない子どもに,「一流選手だって間違ってパスをすることがあるんだから,君も間違ったパスをしたら,それを認めて謝らないとだめだよ」なっていっても,意味がないことくらい子どもを育てたことがある人間ならわかるだろう。

 ましてや,プライドの高い人間に,

 「一流の人でも間違うのだから」

 なんて言っても何のなぐさめにも,説得にもならないことは言うまでもなかろう。

 いずれにせよ,自分の誤りに気づかない限り,謝りようがない。

 それが「困った教師」の最大の特徴であることは,すでに述べた。

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きまりは破るためにある(再掲+追記)

 小学生くらいのレベルだと,こう言っても何のことだか理解できないかもしれない。

思考の深さには,個人差もあるので注意が必要である。

 「きまりは破るためにある」

 教師が子どもにこの言葉を投げかけるとき,

 何を言おうとしているのだろう。

 規範意識が希薄な生徒の中にも,この言葉にこめられた意図が分かる者もいる。

 学校は何を学ぶところか。

 「きまりは守りなさい」

 なんてことばかり言っていても,何も変わらない理由に気づけない教師がいる。

 小学校の児童でも,

 「きまりは破るためにある」とはどういう意味なのか,

 道徳の授業が成立していた学級の子どもなら分かるに違いない。 


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「教師の暴言に関する調査」発令か?

 「体罰に関する調査」に引き続き,

 今度は「暴言に関する調査」か?

 それにしても,小学校低学年の子どもにこの調査を行うことは可能だろうか?

 わずか7歳の子どもが,

 「最低の教師」を報告する・・・・そんな悲惨な教育現場がこの国にはある。

 
 問題の教師は,「厳しい指導で定評のあった人」らしい。


 「厳しい指導」の代名詞は,「体罰」だけではない。

 教師には,「暴言」という「強力な武器」がある。

 調布市の小学校でなぜ今,保護者会が開かれるのかが不思議だが,

 小学校2年生への「暴言」は,さすがに保護者も耐えられないことだろう。

 小学校のように個人による「密室」「密着」型の教育機関では,

 担任教師の影響力は絶大である。

 人格の完成はおろか,

 人格への悪影響が心配されるような「暴言」とは,

 具体的に何だったのか。

 ボイスレコーダーを持たせて録音してしまう親もなかなかだが,

 それが「動かぬ証拠」となった。

>どういう脳みそ? 不思議な脳みそねえ

 こうした暴言のすべてを,文字におこして公開していただきたい。

 保護者達の心配は,

 「研修」を受けさせられた教師が,

 学校現場に復帰してしまうことである。

 自分の子どもの担任になることはなくても,

 他の子どもに同じような思いをさせたくない,

 という思いは,道徳の授業でも培われた心情である。

 この教師の「暴言」と,似たようなことを書いている人が,

 このブログ村にはいる。

 「頭がおかしい」という言葉を平気で使える人である。

 同じような教師の発掘作業がこれから

 行われるのか?


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間違いが訂正できるか? ~国語の表現力・読解力の判定~

 以下の文を読んで,おかしいと思う内容を説明して下さい。

*********************

 一度言い出したことを訂正しない先生は,嫌われます。

 先生はプライドが高いと思われているので,お世辞を言われますが,調子にのって上から目線でいるのはよくありません。

 あの有名な習字の先生でさえも,字を間違えたことがあります。

 間違いを訂正すること,謝ることは,むしろ尊敬される方になります。

 なお,習字の先生が間違いを訂正したり誤ったかどうかはわかりません。

*********************

 習字の先生は,尊敬される人なのでしょうか,嫌われる人なのでしょうか。

 この文章だけからは,分かりかねます。

 あの有名な習字の先生でさえも,間違えたときに素直に訂正されました・・・・なんて

 いうことなら,「あの有名な習字の先生」を持ち出す意味があるのですが・・・・。

 これを書いている人に,何が足りなのでしょうか?

 (追記)

 そうですね。

 「間違えること」

 と,

 「間違えたらそれを素直に認め,謝ること」

 とは全く別の次元の話だということが,わかっていないんですね。

 「カラヤンでさえも,間違えたら謝ったんですよ」

 ならまだ分からなくもないのですが,

 子どもがこう言ったらどうでしょう。

 「カラヤンさんは,『間違い』を他の人が『正解』にしてしまうほどの権威だったんですよね。」

 「私はカラヤンさんより偉くないから,間違いを素直に認めて,謝れっていう話ですか?」

 「後醍醐天皇は,『朕が新儀は未来の先例たるべし』なんていう政治をしていました。他の人が『それは間違いだ』と言っても,本人は聞かなかったでしょうね。」

 「間違いを素直に訂正するのは,けっこう勇気がいることではないですか?」

 「だれでも,どんなに優れた人でも,人間だから,間違うことはありますよね。でも,

 素直に謝れる人というのは,そんなに多くはないと私は思います。」

 「特にプライドが高い人は,人に謝ること自体が嫌なんですよね。謝ったら権威が失われる,ということではなくて,謝ること自体,自尊心を傷つけるものだから,謝りたくないんです」

 ・・・・その通りでしょうね。
 
 特に,人の間違いを静かに諭してくれるのではなく,嬉しがって,アスペルガーだとか,からかうようなことを言う人が近くにいたら・・・。


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名前を間違えられる子どもたち

 私は基本的に自分の家族のことは書かないが,

 今日は一つだけ「悩み」を紹介させていただく。

 私の娘の名前は,一文字だけ,少し変わった字を使う。

 一文字だけなので,ぱっと見ると,

 全く違う読み方をする名前になってしまう。

 幼稚園のときも,

 最初のおたよりに紹介された子どもの名前が間違っていた。

 そして小学校に入学して,

 配布された家庭訪問の表の名前も,間違っていた。

 私は行政にいたことがあるから,

 先方の名前を間違えて書くというミスを犯したら,

 自分で退職願を出さなければならない,くらいの緊張感があった。

 学校現場は,そのあたりが非常に緩い。

 評価や出欠の数を間違えてしまうなんてくらい,平気でやってくれるところである。

 せめて,受け持っている子どもの名前くらいは正確に覚えてほしい。

 残念ながら担任教師は,

 入学して10日以上がたっているが,

 まだ私の子どもの名前を覚えていない。

 (間違った名前で入力していることがわかる間違え方であり,「入力ミス」ではない)

 特に知らせたりすることはしないが,

 親としては腹の立つことではある。

 これが,中学校入学後はどうかと考えてみる。

 私は社会科の教師なので,

 名字の由来について,本人に確かめてみることが多い。

 ついでに,名前の方の「親の思い」などを聞くことがある。

 そういう目で子どもの名前を見るから,

 字をよく見ないで「何となくこういう名前だ」という勘違いをすることはない。

 どうして「この字を使ったのか」を常に想像したりするからである。

 中等教育の教師と,初等教育の教師の学力レベルに,

 それほど大きな差があるとは思えないが,

 私の子どもの名前は,その差を示してくれる材料の一つになるかもしれない。

 中学校入学のときを楽しみにしてみたい。


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生徒が考えた「理想の先生」

 生徒たちが

 「こういう『理想の先生』いませんか?」

 と聞いてきたら,どうしましょう。

1 授業中,どんなにおしゃべりしていても,寝ていても,マンガを読んでいても,ゲームをしていても,怒ったり注意しない先生

2 どんなにテストで悪い点をとっても,いい成績をつけてくれる先生

3 練習に全く出ていなくても,試合に出してくれる先生

 本当にいるからこわい話です。

生徒にとって,「いい先生」とは,「自分たちにとって都合のいい先生」だったりする。

 もちろん,ある生徒にとっての「いい先生」「理想の先生」は,同僚や他の生徒たちにとっては「最悪の先生」になる。

 生徒にとって・・・・ということを考えるより先にあるべきなのが,

 「生徒にとって理想の先生とはこういう先生だ」

 と教師なりに考えていることです。

 
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保護者の私語で困ったときに・・・

 教師の方へ。

 もし,授業参観や公開授業のとき,保護者など参観者の私語で困ったら,どうしますか。

 なかなか「注意」などできませんね。

 授業で子どもが私語をしていたらどうしますか。

 それと同じ対処をすればいいのです。

 「静かにしなさい」

 なんて指示をしないですむ方法は?


 その場に近づけばよいのです。

 話を聞きに行けばいい。

 
 普通は,私語はやめます。

 教師に聞かれたくない話なら。

 
 聞いてほしかった話なら,

 そこで発言として取り上げることができます。


 保護者も同じ。

 近寄っていくだけで,

 教師がどうしてほしいか保護者には伝わるでしょう。

 
 教師は,教室内をもっと動くべきです。


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保護者の方へ ~授業参観では,どんどんおしゃべりをしましょう~

 マナーとして,授業中のおしゃべりは,子どもでも参観者でもつつしむべきことです。

 でも,実際におしゃべりが

 「できてしまう」

 ような授業がある。

 もし,「おしゃべり」できてしまうような授業なら,

 してもかまわないでしょう。

 1秒たりとも子どもや教師から目が離せないような授業が,

 そう簡単にできる教師は少ないでしょうからね。

 「おしゃべり」

 するときの見どころは,

 子どもの集中力のとぎれ具合,

 教師の反応です。

 「おしゃべり」することで,

 これら重要な

 「学力」「教育力」

 を測り知ることができてしまいます。

 親がおしゃべりしていても,

 そんなことに影響を受けず,

 教師の話に子どもが集中する姿を見ることができたら,

 とても安心するでしょう。

 「安心できない子どもはだれか」が一目瞭然になります。


 昔,大学で,

 「学生の私語を禁じるには」

 などという真面目な「研究」があったそうですね。

 そんな「研究」より,

 まずは「教材研究」の方が先でしょう。

 ちなみに,私の場合は,

 参観者がおしゃべりしてくれていた方が,

 子どもの反応に集中できて助かります。

 黙って無反応で見られるのが一番苦手ですね。

 
 子どもにとって,本当は一番黙っていてほしいのは

 教師だったりもします。


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「間違えてもいいこと」「間違えてはいけないこと」

 どうしてそれが「間違いなのか」

 その話のどこがどう「間違いなのか」

 を具体的にお示ししているのですが,

 ダメな人はダメですね。

 「間違い」をまず「間違い」と認めてもらえないと,

 「訂正」も「謝罪」もあったものではありません。

 ただ,「間違い」を自覚できない脳のメカニズムは,完璧すぎて,崩せそうもない。


 入学式で,新入生の呼名を「間違える」・・・しかも,その場で気づかなかったら・・・

 後で謝罪することになるでしょうが,

 もう取り返しがつきません。

 入試で,採点を「間違える」・・・そして,不合格になる・・・

 後で気づいても,もう取り返しがつかないところにいっている可能性がある。

 教育現場では,
 
 「間違えてもたいしたことはないこと」

 「間違えてはいけないこと」

 がある。

 その区別ができない人,違いを認識していない人がいるのが大問題なのです。

 間違いに気づいたら,訂正したり謝罪するのは,当たり前のこと。

 しかし,「避けられる間違い」を犯してしまった場合,

 当分その人たちは,信用されなくなります。

 学校全体でチェックすべきことをしていなかった場合は,

 学校全体,教師全体が信用されなくなります。

 そして,行政側としては,「締め付け」と受け止められるようなことをせざるを得なくなる。

 

 「名人の間違い」は,

 ことわざにもあるように,

 「人間らしさ」が伝わってきて,

 あるいは「普通の人」にとっても教訓になるという意味で,

 それはそれで「役に立つ」ことです。


 しかし,二度,三度と「間違う」ようになると,

 「名人も終わった」とみなされるようになり,

 「引退」という道をたどる。

 
 野球選手に「引退」があるように,

 教師にも「引退」があってよいかもしれませんね。


 その後の職探しもたいへんでしょうが,

 ちゃんと資格をとって,頑張っている人もいる。


 「引退」した人が,また「現場復帰」するのも悪くはないと思いますが,

 そこまで人材が払底しているという事実の方が教育の暗さを物語っています。

 
 問題は,「引退」すべきであることを本人が自覚できるかどうか。


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「手におえない教師」への対応は,中国・アメリカへの対応と同じ

 タイトル=課題のみです。

 どのような対応をすることが,他の教師たちにとって,子どもたちにとって,

 他国の人々にとって,

 「最善」といえるでしょうか。

 あくまでも,平和と秩序を保つことが前提です。

 これを,実践されている方がいます。

 ある人のブログに,ひたすらよいしょコメントを入れている人です。

 徹底して何の役にも立たない話を繰り返していても,「よいしょ」しておけば,

 本人が誤解してくれる。

 これが平和を保つうえで,非常に大事なところです。

 中国・アメリカとは別のあの国でも,

 「その部屋にそんなもの置いて,『波紋』はどうなるんだ?」

 ということをやっていますね。

 自壊をただ待つというのも気の毒に思えます。

 暴発だけはさせないで。


 
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勝手な定義と勝手な解釈をする教師に教育はつとまらない

 学校の教師は忙しい,

 子どもが大変だ,保護者対応が大変だ,

 などと言うが,

 学校の教師にとって一番大変なのは,

 「手におえない教師」の存在である。

 学校のルール,社会のルール,

 指導上の言葉,一般社会の言葉を

 自分で勝手に定義し,その上さらに勝手な解釈をする。

 「滅茶苦茶なこと」を突然言い出したり,

 「それは違う」などと急に怒り出したりする。

 「内容」の話ではなく,「形式」の話でぐだぐだ駄々をこねる。


 教師としての責任を果たそうとしない人間が,

 自分の「逃げ道」を探すとき,よくこういう行動に出るのだ。

 これが現場では,本当に「手におえない」ことをやらかしてくれる。

 現職ではないが,こういう人間がいるのを紹介しよう。

 「理想の先生」などという話を持ち出した人間がいる。

 「理想の先生」とは,

 「理想の先生」として必要な条件をすべて満たした人間だという。

 この時点で

 「手におえない」程度が分かるようなものだが,

 私が新しいハンドルネームで質問したら,

 「理想の先生」とは,

 「生徒によって違う」ことを強調した。

 しかも,「体育を3から5にする」とか,

 「ソルフェージュが弱いということなら、ソルフェージュの指導に長けた教師が担当する」

 などと語り出している。

 こんな話なら,「学校の先生」よりもはるかに「理想」の人がたくさんいるだろう。

 要は,「理想の先生」とは,

 「採用試験に受かって先生をやっている人以外から探した方が,いいかもしれない」

 ということを言っていることになる。

 塾の話をここでするまでもないだろう。

 「理想の先生を求める時は、どういう条件を満たしたら十分とするかということを、始めに定めておくことが大切」なんて書いているが,

 「どういう条件を満たしたら十分か」ではなく,

 もともとは「条件をすべて満たしたら十分」と言っていた。

 「すべて」がいつのまにか,「人によって」「場合によって」にすり替えられている。

 「思考停止」ではなく,「逃げること」に思考が総動員されている。

 どんなに指導力がない教師,魅力のない教師でも,

 「採用試験に合格している」だけで,

 「理想の先生」に必要な条件の一つを満たしている,

 などと言ったところで,いったい何の意味があるというのか。

 ブラックジャックという漫画でも読んでほしい。


 場面や場合を上記のように限定して,それができたら「理想の先生」なんて,

 教育をなめているとしか思えない。

 しかも,それは「子どもから見て」という話らしい。

 学校教育とは何か。公教育は何のためにあるのか。

 それを理解していないとしか考えられない。 

 学校の先生がすべきこと,これは,

 だれが定めるのか。

 子どもが定めるのではない。

 公立学校では,子どもは定められた目標の実現を目指して,教師と一緒に学ぶのだ。

 教育の目標は,法律で定められている。

 教科教育等の目標は,学習指導要領で定められている。

 道徳も特別活動も。

 要は,そういう目標の達成に導いてくれる先生を,社会は求めているのである。
 
 そして,採用試験に合格して教師になった人間の中に,

 その目標の達成に導く力が非常に弱い人間がいることは確かなのだ。

 「子どもにとっての理想の先生」などと曖昧な話で逃げている場合ではないのだ。

 なぜ,学校教育にまともに向き合えないのだろう。

 貧相とか,そういう「程度」の問題ではない。

 公教育に従事して責任を果たすことの意義を認識していない。

集合の論理の話をしながら,「十分条件」や「必要条件」などという「専門用語」を,

 自分の勝手な解釈で話を進めのは紛らわしくてたまらない。

 「すべての必要条件を満たした場合,それが(それらが?)十分条件になる」という論理が,笑いごとではすまされない。

 こういう教師がいるから,子どもは「勉強がわからなくなる」「勉強が嫌いになる」のだ。

 勝手な定義と,勝手な解釈で,教育を語るのはいい加減にやめてほしい。


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「悪口」と「批判」の区別がつかない人たち

 教育の世界には独特な部分があり,

 一般の方々には「こいつ,わかってないな・・・」と思えてしまう文章がどんなものか,つかみにくいでしょうが,

 落ち着いて自分が生徒のころを振り返ってみれば,

 そういう人,教師にはたくさんいませんでしたか?

 本当に口先だけなら偉そうなことをいくらでも話せそうな教師,実際に話している教師が,

 まともな指導ができない。

 独り言をしゃべっているだけなら立派に見えるが,

 「対話」になってしまうと,

 「そういう表現はいかがなものか」というものを連発してしまう。

 対人関係能力がダメなんですね。
 
 私は指導主事という「憎まれる」役柄をしていたので,

 学力は高そうだけど,対人関係が苦手な教師にたくさん出会ってきました。

 私のような立場の人間を相手にすると,その

 「苦手さ加減」が際立ってしまうのです。

 こういう人は,頭はいいのに,

 子どもと話ができない。

 子どもの心が読み取れない。

 ・・・つまり,早い話が,

 「もっとほかの仕事をした方がいろんな人のためになりそうなのに」

 という教師に見える。

 教師には,教師たちが使う,独特な言葉があります。

 一般的な小学生の保護者なら,使うことがない言葉。

 みじめなもんです。

 この村は,何のために存在しているのでしょう。

 学校現場が,問題の隠蔽体質をもっていることは,

 いじめの問題でもはっきりしました。

 行政もそうです。

 観点別学習状況の評価に信頼性がないことは,

 多くの人が気づいているのです。

 やっと,それに関する大学の先生の調査結果にふれることができました。

 「ちゃんとやっていることにする」

 としらをきるのはやめて,こうやって問題を「見える化」してほしいと思います。

 教師を辞めた人も,

 辞める前は気づかなかった問題が,

 いったいどのようなものだったのか,本質的な部分への洞察が可能になるかもしれません。

 陰で「悪口」を言っていても仕方がないのです。

 堂々と建設的な「批判」できる「国家の形成者」たることが,

 残された課題でしょう。


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もし保護者が「自宅に来てほしい」と要望してきたら?

 担任をしている子どもの保護者から,

 「相談したいことがあるので,自宅に来てほしい」と要望されたら,

 まず,

 「学校においでいただくことは可能でしょうか」

 と聞きましょう。

 「自宅でしか相談できません」

 「どうしても自宅で相談したいのですが」

 と言われたら,

 「なぜか」を問いただすことはせずに,

 即答を避け,必ず学年主任や管理職と相談してください。

 同じような要望が多すぎると,対応することが不可能になり,

 「どうしてあっちは訪問してこっちは来ないのか」

 などと問題になる場合があるので,

 勝手に判断してはいけません。

 公的な用事で家庭に訪問するときは,

 必ず管理職にことわってください。

 「出張扱い」とはならないと思いますが,

 「単独行動」はいけません。

 
 訪問することが決まったら,

 訪問日時を保護者と相談の上,

 保護者の側に断る必要はありませんので,

 学年主任か,同じ学年の教師と一緒に

 家庭訪問をしてください。

 「なぜ担任だけでないのか」と聞かれたら,

 「この学校では,すべての教師がすべての子どもとご家庭のことに責任をもつので」

 ということにしてください。

 もし,「担任だけでないとだめ」

 ということなら,もう一人の教師は,話し合いが終わるまで,

 家の外で待機して下さい。

 話が終わったら,その結果を,必ず学校に戻り,

 学年主任や管理職に報告してください。

 

 女性の先生が,父親=一人親から

 要望された場合は,

 絶対に複数で家庭訪問するようにしてください。

 
 繰り返しになりますが,単独行動は絶対にしてはいけません。


 教師は,個人営業している業者ではないのです。

 
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「教員制度改革」=教員採用試験の代案

教員制度改革の,私の代案である。


 教員免許は,国家資格とする。


 ペーパー試験を,国家試験とする。


 これは,「公務員試験」である。


 教員の採用試験は,都道府県等が実施する。


 これは,実技試験である。


 7~8月を利用して,模擬授業を多数行う。


 試験は,全国の各学校で行う。


 授業を受ける生徒は,「公簿」で選んだその学校の生徒である。


 生徒から見れば,


 ただで「夏期講習」が受けられるようなものだ。


 児童生徒の学力向上に結び付くかどうかは知らないが,

 
 「一挙両得」をねらってもばちは当たらないだろう。


 もちろん,実技教科の実技指導も受けられる。


 生徒は,「試験官」の一人でもある。


 保護者参観も可とする。つまり,保護者も,「試験官」の一人になれる。


 授業の感想を通して,その受験者の「教師としての資質」を見定めるのが,


 各学校の管理職や主幹の仕事である。


 教師としての細かい指導技術は,学校に入ってから,研修で学べばよい。

 
 初任者研修には,それくらいの「意義」がなければならない。

 
 これくらいの改革を,安倍政権にはぜひともやってほしい。

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学校現場のことがわかっているようでわかっていない自民党の「教員制度改革」案

 ブレーンはだれだろう。

 学校のことが,わかっているようで,わかっていない人たちが中心になって考えたのだろう。

 まるで私立学校の教師のような扱い方である。

 どうせなら学校の施設だけを貸して,あとはすべて「委託」にしてしまった方が,「ダメな学校」は「委託業者」がすぐにつぶれるし,教育の自由度と質は格段に上がることが予想されるが,そんな話はここではやめておく。


 自民党の「教員制度改革」案は,教育現場にとって逆効果になりかねないものである。

 民主党政権時の「教員の修士レベル化」は論外でどうしようもない案だったが,

 3~5年の「試用期間」(「インターン制度」)を設けるという自民党の案が実現すると,

 学校現場の教育の質をさらに悪化させる結果に終わるだろうと私は予想している。

 教育は,「お試し」「仮免許」でつとまる仕事ではない。

 現場に入ったら,その日から「一人前」でなければならない仕事である。

 「一人前」でない教師はもちろんたくさんいる。

 30年たっても「一人前」でない教師もいる。

 それでも,教師は自分が「一人前でない」という自覚だけでなく,「一人前の教師でなければならない」という強い意思をもっていなければならない。


 この国の教員制度の大問題は,

 簡単に「教員免許」がとれてしまうことだった。

 今,現場には,「お試し」としての「教育実習生の受け入れ」という大きな負担がある。

 これを,「負担」に感じない受け入れ校があるとしたら,

 そもそも「お試し」に取り組んでいる大学生を,まともな教師に育てようとする意思がない証拠となる。

 そういう学校が多いから,

 教育実習で「単位を落とす」=教員免許がとれない,

 という大学生がほとんどいない。

 まずここが大問題である。

 民主党案のように,大学だけでなく,大学院でたくさん勉強させれば,いい教師の卵が育つ,という考えが甘すぎるのは言うまでもない。

 だから,自民党案の,

 「簡単に本免許を出すわけにはいかない」という考えには強く同意する。

 自民党案では,

 大学卒業時には「准免許」を与え,

 学校現場での「お試し」期間で「基準を満たした」と判断されたら「本免許」が与えられるしくみだという。

 しかし,現場の教師として断言できることは,

 「常勤講師」のような「お試し」「仮免許」の仕事で「基準を満たした」と判断できるほど,

 教育の仕事は甘いものではない。

 せめて判断できるのは,「これからも何とかやっていけるかもしれない」くらいのことである。

 「仮免許」で3~5年間も教師をさせることのデメリットは,「責任の軽さ」に慣れ親しんでしまうことである。

 「本免許」をとって初めて
 
 「責任の重さに耐えられない人間である」ことが発覚する,というおそれもある。

 「本免許」がとれたので,いきなり手抜きをしようとする人間もいるだろう。

 「お試し教員」など,はじめから,子どもや保護者,教師さえも「軽く見る」だろう。


 そもそも,

 この「教員としての基準」というのが最大の曲者である。

 「本免許」は教育委員会が出すそうなので,基準はバラバラであろう。

 さらに言えば,この「基準を満たした」と判断する人間が2番目の曲者である。

 おそらく,

 ほとんどの「お試し教員」には,「本免許」が与えられることになるだろう。

 しかしこれは,「教育実習で単位が与えられる」ことと本質的には何も変わらないことである。

 
 この制度の大きな問題の一つは,

 「どういう学校でつとめるか」である。

 公立学校というのは,これはだれに説明するまでもないことだが,

 ピンからキリまである。

 教師の指導力から子どもの状況まで,大きな開きがある。

 
 「お試し教師」でも難なくつとまってしまう学校もあれば,

 「お試し教師」を教育する余力のない学校もある。


 教師というのは,初任の学校で学んだことで,そのあとの教師生活が大きく左右させる職業である。

 それが,初任の学校が「お試し場所」になってしまい,大きな期待や仕事が与えられず,3年から5年もの期間,ただただ「見定められる」だけの時間になってしまうことは,「本物の教師の卵」にとっては最悪の時間の浪費である。

 

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普通の家に業務用冷蔵庫はいらない

 教育をよく吟味していくと,

 軽自動車にロケットエンジンを積み込もうとするような

 「おかしい」計画がみつかる。

 「いい音」を生み出すための条件は,音の発生源だけではないことが

 わからない人がいる。

 そのスピーカーで適したリスニングポイントは,部屋の中に存在しないだろう,

 というのは,音楽の素人の私でもわかる。

 音の混濁,干渉波の調整をどうクリアしているのだろうか?


 いくら野球が好きでも,部屋の中にバッティングセンターのマシーンを置いても,使いものにならない。

 

 小学生や中学生に,もうそれは必要ないだろう,

 という教育内容を探してみてほしい。


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教師を辞めた人間が書くブログ

 現役の教師から見ると,それは「哀しい」文章である。

 保護者の立場から見ると,それは「空しい」文章である。

 
 ・・・・このブログは,私が行政から現場に戻ってから,書き始めている。

 現文部科学大臣は,今も発信を続けているが,

 私の場合,さすがに行政にいるときは書けなかった。


 現場からの発信は,なかなか頻繁にはできないこと・・・・・こんなブログを書いている暇があったら,教材研究でもしろ!と怒られそうな気もするだろう・・・・が,

 私は私なりに,「教育への信頼」を取り戻す方法を模索している。


 教師を辞めると,金銭的な余裕はなくなるが,時間的な余裕ができる。

 だから,ブログで「存在証明」をしたくなる人が多いようだ。
 
 「辞めて当然」「辞めてくれて本当によかった」という気持ちにさせてくれるブログ,

 「辞めたからこそ,自分の問題を客観的に分析できて,教育の課題をより明確にできる」と期待させてくれるブログ,

 「この人は辞めない方がよかったな」と思われてくるブログ・・・・

 様々である。


 教師を辞めた方々に,ブログを書く上で

 一番避けてほしいことがある。

 それは,

 教育を「他人事」のようにとらえている,と感じられてしまうような文章を書くこと。

 
 ダメな教師たちの多くが持っている共通性は,

 「当事者意識がない」ことである。


 辞めた上でもまだ「ダメ」なことを書いていては,

 みじめなだけだ。

 
 残念ながら,教育とは別の,全く違ったところに「当事者意識」をもってがんばっている人がいる。


 人とズレた面をもって社会を生き抜くのは非常に難しいことであるが,

 こうしたネット上の世界だけでいくら頑張ってもしかたがない。

 
 どんな「影響力」がもてるようになるか。


 それを今一度,思い浮かべてほしい。


 (追伸)

 この文章を読んで,

 「何て上から目線なのだ」

 と思われる人もいるだろう。


 現役の教師は,覚悟をしてほしい。

 保護者の中には,言葉や態度には出さなくても,

 こういう「上から目線」で教師に

 「モノが言いたい」人はたくさんいるのである。


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「理想の教師」という抽象的な話ではなく「理想的な指導」を追究する姿勢がないから,「教育的」でない話になる

 タイトルが長くてすみません。

 「理想の教師」とは,

 「理想の教師である条件をすべて満たしている教師である」・・・・なんて言ってみても,何も始まらない。

 この言葉には何の意味もないと思う人が多いのは当然だろうが,

 どうしてこんな話が登場するのか,というと,

 ある人は,採用試験に合格していない,非常勤講師などを「学校の先生」として認めたくない,

 採用試験に合格していないけれども(採用試験を受けていないけれども)

 「子どもが分かる授業ができる人」を「学校の先生」と呼びたくない,
 
 それを言いたいだけと考えればよい。

 

 非常勤講師の方が授業が分かりやすい,

 採用試験を受けてすらいない,

 塾の先生の方が授業がわかりやすい,

 まだ教員免許を持ってすらいない,

 大学生(教育実習生)の方が授業がわかりやすい,

 なんていうことを言われるのは,採用試験に受かって何年も教師を続けている人間からすると,嫌だろう。

 しかし,現実には,あり得る。

 
 子どもたちにとって,どんな人でもいいから,

 「分かる授業をしてほしい」という願いが「理想」になってしまったら,

 中学生でも「理想の先生」になり得るのである。

 
 生徒200人を動かすことを,

 採用試験を受けて合格している教師よりも上手にこなしてしまう中学生もいる。

 「これが理想だ」と言える指示が出せる中学生もいる。

 動きや指示が的確だから,下手な教師よりもその中学生にみんな従う。


 「ああいう採用試験」が常態化していたのは,大分県だけではあるまい。

 「採用試験に受かっている」のにダメな教師が多いから,

 公教育が信頼されないのである。

 

 採用試験に受かっていない人が「理想の先生」になれないかというと,

 子どもの立場からするとそんなことはないのだ。

 
 「採用試験」だから,想定されているのは公立学校の教師なのだろうが,

 国立大学法人附属学校の教師は,「採用試験」ではなく,「書類審査」と「面接」で採用が決定してしまうところがある。

 そういう教師は,「理想の先生」になれないかというと,そうとは言えない。


 ・・・・・・こんな話はいつまでしていても,意味はあるまい。


 「理想の教師」などを望むより,親も子どもも,学校の教師たちも,

 「もっとましな教師」を望んでいる。

 
 授業があるのに出張して,他の教師のために働いているような人間は,

 子どもにとっては「最低」の教師である。

 そういう出張命令を出している校長は「最低」の校長であり,

 それを黙認している教育委員会事務局の人間たちは「最低」である。

 
 ・・・いや,もっとダメなのがいるから,「最低」は訂正する必要がありそうだ。


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「ミス」ではなく,「無責任」が招いた評価・評定の誤り

 「校務の省力化」として,コンピュータで成績処理を行っている学校が多い。

 あらかじめ設定した計算式に基づいて,評価の結果が出る。

 それを指導要録や通知表に記載する。

 指導要録の内容は保護者に知らせることはないから,

 保護者は通知表でしか指導要録を含んだ評価の誤りに気づくことができない。

 横浜市では,数学や理科の教師による評定・評価の誤りが見つかったようだ。

 「さもありなん」

 と思うのは私だけではないだろう。

 データの信憑性が怪しい科学者は職につけない。

 数学や理科の教師の中には,
 
 数学者や科学者になれない研究者の「落ちこぼれ」が多いというのを

 聞いたことがあるが,

 「さもありなん」である。

 評価・評定の信頼が,

 「入力した数字の正しさ」「計算式の正しさ」の確認」をされないと保証されないのが,

 コンピュータによる成績処理の最大の欠点である。

 教育的な話はここではしない。

 そもそも,入力した数字自体が正しいのか,

 そんな計算式で,本当に妥当な評価・評定が出せるのか,

 それを議論しだしたら,それだけで何か月もたってしまう。

 その話はここではしない。

 

 「確認」作業というのは,非常にめんどうくさい作業である。

 そもそも「めんどうくさい」からコンピュータを使うのだが,

 この「確認作業」は案外,手間と労力のかかる仕事である。

 それをやらないのは,「ミス」ではなく,

 ただの「無責任」「責任放棄」である。

 
 「ミス」と表現してしまう報道の姿勢は,

 「ミス」ではなく,これも「無責任」である。


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必要条件と十分条件を正しく理解しよう!

 数学で用いられる

 「必要条件」と「十分条件」の意味を正しく理解しましょう。

 話し合いの基本は用語を正しく理解することから始まります。

 自分勝手な使い方をして,相手が間違っている,と主張するのはいけないことです。

 「AならばBである」が正しいとき,

 AはBであるための十分条件,

 BはAであるための必要条件といいます。

 「採用試験に受かった先生は,理想の先生である」は,正しくありませんね。

 反例は現実に存在しますから。

 考える意味がない命題になりますが,

 「理想の先生は,採用試験に受かった先生である」がもし常に正しければ,

 A(理想の先生)は,B(採用試験に受かった先生)であるための十分条件で,

 B(採用試験に受かった先生)であることは,A(理想の先生)であるための必要条件です。

 A(理想の先生)であるためには,少なくともB(採用試験に受かった先生)である必要があります。

 必要条件とは,ある物事が成り立つために必要な条件を指し,

 十分条件とは,ある物事が成り立つために十分な条件を指します。

 「教師ならば人間である」の場合,

 教師は人間であるための十分条件です,というのは,

 人間は教師であるための必要条件です,というのより,理解しにくいかもしれませんね。 

 この「十分条件」の意味を勝手に解釈されてしまうと,議論がかみ合いません。

 
 実はそれどころではなく,

 「理想の先生は,採用試験に受かった先生である」という「命題」にも,反例があるのです。

 長年,教員養成にたずさわってきた大学の先生が,

 小学校で「理想の授業」をしてしまったら・・・。

 「こんないい授業を毎回してくれる先生がいたら,理想的なのに・・・」

 アルバイトの学生が,不登校生徒に寄り添って,学校で学ぶより多くのことを学ばせてしまったら・・・。

 「先生にこういう学生のような力があったら,不登校にはならなかったのに・・・」

 こういった話は,そもそも,

 まず「理想の先生」とは何かが定義されていなければならないのですね。

 もし何か一つでも問題がある先生を「理想の先生」とは呼ばないとすれば,

 「理想の先生」はそもそも存在するのか・・・つまり,何の問題もない先生はいるのか?

 という疑問ばかりが頭に思い浮かんでしまいます。

 
 論理の勉強って・・・・おもしろいですかね・・・・。


 採用試験には受からず,非常勤講師として学校で活躍している人がたくさんいます。

 「理想の先生」の卵もたくさんいるのです。

 一発で採用されて,大学卒業後すぐに教師になった人よりも,

 教材研究がたくさんできるという強みが非常勤講師の方々にはあります。

 指導力のない,ただ年をとっただけの,元気とやる気を失って休職目前の教師より,

 教え方がうまくて,子どもたちに人気のある非常勤講師がいる学校はゼロですか?


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自分のことが「読みとれない」人

 人はひたすら,自分にないものを語りたがる。

 人は,「自分のこと」を知ることを最も恐れる動物である。

 「恐れている」という意識はない。

 「本当の自分を知ることが怖い」というのは無意識の世界の話である。

 ただ,人間がそういう生き物であるということを知ってしまうと,

 話は変わってくる。

 自分の主張はこうであり,

 相手は別の読み方をしている。

 その食い違いはどこから来るのか。

 食い違いの原因を全面的に相手に求めるタイプの人間が,

 中学生には必ずいる。

 大人にもいる。

 それに気づけるかどうかは,

 「相手が間違っている」

 という「自分の意見」を言う前に,

 「食い違い」と感じている具体的な内容を示して,

 それが本当に「食い違い」かどうかを
 
 第三者に判断してもらうのがよい。

 それが本能的に「怖い」と感じてしまう

 (自分は「怖い」と感じているという意識はない)

 のが人間らしいところである。

 だから具体的に

 何のどの点が問題か,ということにふれないで

 ただ,だれかを批判している人がいるのも,納得できる。
 


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「それではよろしくない」場合に,何を言えるか?

 「それでいい」と子どもを受容することは大切である。

 しかし,「それではよろしくない」という場面にたくさん出会うのが

 教育現場である。

 「それでいい」だけを言っていれば成り立つ教育を夢見たい気持ちは分からないでもないが,

 教育現場はそれほど甘くない。

 教育ブログの中には,

 「それだけではよろしくない」というレベルを超えて,

 「それではよろしくない」という内容が豊富なものがある。

 まがりなりにも,

 「教育ブログ」である。

 「それではどうしてよろしくないか」を説明しなければならない。

 具体的に。

 その「なぜ」の説明が,抽象的になってしまうのが,

 指導力のない教師の典型である。

 その教師と同じくらいの力をもっている人間ならば,

 抽象的な言葉から類推して,具体的な自分の問題に気づけるかもしれないが,

 そうではない場合がほとんどであるのが

 教育現場である。

 「それではよろしくない」と言われ慣れていない人が増えている。

 具体的に「よろしくない」理由を言われてしまうと,折れてしまう人がいたり,

 思考停止してしまう人がいたり,

 逆切れしてしまう人がいる。

 「言語活動の充実」が求められているのは,

 子どもよりもまず教師である。


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初任(新卒)のころの自分を超えろ!

 初任者にしかない武器がある。

 それは「おかしな教師を見る目」である。

 慣れてくると,何がどう「おかしいか」が見えなくなってくる。

 教育現場に立って一番驚くのは,

 いろんな生徒がいる,ということよりも,

 いろんな教師がいる,ということだろう。

 いろんな生徒がいるということは,自分の生徒時代に気づけることであるが,

 自分が習っていた教師たちに,

 「まさかこんな面があろうとは」

 と愕然とする場面に出会うことになろう。


 会議で寝ている。

 時間に遅れてくる。

 提出物の締め切りを守らない。

 生徒の扱いがひどい。

 言葉づかいが荒い。


 こんなのがざらにいる学校は,

 荒れているか,すごく落ち着いているか,どちらかである。

 すごく落ち着いている学校でそういう状況が見られるときは,

 そのうち荒れてくるので楽しみに?していてほしい。


 さすがに今,職員会議や朝の打ち合わせで管理職に聞こえるように悪口や野次を飛ばす教師は少なくなっただろうが,本人がいない場では,言いたい放題という場面に出会うだろう。

 初任者は,初任者研修をはじめとして,

 管理職と過ごす時間が教師生活の中で最も多い1年だから,

 問題教師たちに染まりきって同化する人間はいないだろうが,

 「基礎基本」が培われると,2年目からどうなるか分からない。

 初任者研修に出かけると,同じ自治体の初任者たちと毎週のように会うことになるが,

 この初任者たちの中にも,実はすでに「問題性」が見えてくることもある。

 人間は,習慣の奴隷である。

 1週間で染まる,

 1か月で染まる,

 1学期で染まる,

 いろんなスパンがあるだろうが,

 最初に出会った違和感だけは忘れないでほしい。


 初任者には,現場を離れて研修しなければならない「初任者研修」という悉皆研修がある。

 そのために授業はカバーされる仕組みが整備されているはずである。

 だから,自分が出張したからといって,

 子どもたちを自習にさせるわけではない。

 安心して研修に励んでほしい。

 この1年間で,他校の初任者たちと一緒に学ぶ意義は大きい。

 人によっては,同じような研修や研究をその後,ほとんど経験しないで退職を迎えることになるだろう。

 10年経験者研修も悉皆研修だが,初任者研修ほどたいへんではない。

 免許更新講習は,大学生レベルの学力があれば問題ない。

 教員採用試験よりも易しい勉強でクリアできてしまう。

 自分が教師として成長した後,

 常に「初任のころの自分を超えろ!」という意識で仕事ができるようになるほど,

 この1年間にかける研修を含めた仕事の質・量は大きなものになるはずである。

 私は20年たっても,初任者のときを超える量の研究・研修はできていない。

 量の減少を質の向上でごまかそうという気はない。

 1日は,24時間もある。
 


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「ベテラン教師」の強みとは?

 新任の教師は,教科の学習指導で,

 先輩の教師にどのような質問を投げかけることが

 「双方にとって」

 有意義であろうか?

 最適な質問は,

 中学校教師になら,

 中学生は,どのような分野のどのようなレベルの学習は得意で,

 何が不得意でしょうか。

 不得意な部分では,どのような工夫をしたらいいでしょうか?

 というものだろう。

 ベテラン教師には,

 過去の生徒たちの学習の履歴が頭に入っている。

 どのような指導をすると,どのような成果が生まれるのかを知っている。

 大事な情報は,どのような指導をしても,成果が生まれない部分があるということである。

 そこに重点を置くべきか,

 低レベルの入試問題のようなテストに出そうな,単純なことを

 習得することだけに重点を置くべきか,

 その方針を適切にアドバイスしてくれるだろう。

 ベテランは,多少の冒険ができる。

 今までになかった指導法に挑戦することである。

 新任の教師の多くは,

 自分が受けて,自分が身につけた通りの学習指導を行ってしまう。

 最初はそれでよいのかもしれないが,

 自分の同級生で学習が苦手で困っていた人に,

 どんな態度で接していたかが,

 教師になってから問われてくる。

 基本的に,「道」はつくっておくべきである。

 どこだかわからないところに生徒を導くのではない。

 最初は何だかわからなかった成果が生まれるかもしれないところが,教育の醍醐味ではあるが,

 それは「基本的な路線を歩いていて」初めてお目にかかれる「牡丹餅」である。

 「道」が見えないまま,見切り発車で授業をして,失敗する。

 「先輩」から,どこがどう誤っていたのか,アドバイスをもらえれば,

 生徒や保護者から問題を指摘されて慌てるという「失態」をあらわにしなくてすむ。

 どこがどう問題かを説明する能力がなければ,

 指導者としては失格である。

 ただ「相手がおかしい」と言っているだけでは,何も始まらない。


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教師よりも「個人教授」の方が向いている人

 いつか一斉授業の意義を述べていた。

 今は「個別指導」の話をしている。

 内容は非常に偏っていて,「技能」に関する「指導」の話である。

 正確には,「指導」の話ではなく,「評価」の話である。

 より正確には,「指導の改善のための評価」の話ではない。

 「指導の改善のための評価」ではない「評価」とは,

 簡単に言えばコンテストでの優劣決めである。

 教育とは無縁の話である。

 教師論でも,教育論でも何でもない。


 教師の中には,「個別指導」しかできない人がいる。

 40人とか,200人を相手に話ができない人のことである。

 こういう人たちを,行政は「へき地」の極小規模校に転任させる。

 しかし,生徒が学級に数人いたら,

 やはり「一斉授業」をしなければならない場面が出てくる。

 でも「一斉授業」として成立させることができない。

 校長先生から「どうしたら改善することができますか」と問われたことがあるが,

 私は大規模校に転任させることをお薦めした。

 授業は崩壊する・・・つまり,「一斉放棄授業」「一斉蜂起授業」に

 なる可能性が高いのだが,

 そこから教師は「出発」する。

 過去の失敗と同じことを繰り返すかもしれないが,

 新島襄の言葉を送りたい。

 男子たるもの,最後の血の一滴が流れるまで,戦い抜け・・・・

 こんな時代ではなくなったのは承知しているが,

 その気概がなければ教師などは続けていられない。

 延命措置としての異動には私は反対である。

 個人指導専門の塾の講師になってもらう方がよい。


 ある教科では,自分の専門性やプライドが逆効果になって,

 生徒の能力を高めることができないという典型的なタイプが多い。

 こういう人は,教師には向かない。

 
 個人教授になることを強くお薦めする。


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ダメ教師を見ると奮い立つ!

 藤田晋社長は,こんなことを言っている。

 成長し続けている会社は,外から見ると,安定しているように見える。

 しかし,それは錯覚にすぎない。

 静止して見えるコマが,

 実際は素早く回転しているようなものであると。

 柳井社長も,こんなことを言っている。

 会社経営では,会社も個人も成長しなければ死んだも同然だと。

 現状維持ではだめなのだ。

 私はかつて,このブログで
 
 「落ち着いた学校がすぐに荒れる原因」

 として,このような趣旨を述べたことがある。

 「荒れた学校」から「落ち着いた学校」に転任してきたある教師が,こんなことを吐き捨てた。

 「この学校では少し休ませてもらう」

 案の定,この学校は間もなく荒れ始めた。

 教師が全力で教育に取り組んだ成果としての「安定」なのである。

 学校を「安定」させるために,教師たちは「働き続けている」のだ。

 「安定した学校」は「安住の地」ではない。

 それを教師たちが勘違いしてしまうのが,学校が荒れる原因である。

 行政に入って,教師の中には「荒れた学校」を「安住の地」にしている人間もいることを知った。

 これでは公立学校はよくはならない。

 何がどうダメなのか。

 このブログ上では,それを書き続けている。

 荒れた学校で勤務したおかげかどうか,分からないが,

 「荒れた生徒」を見ると,教師としての血が奮い立つ。

 行政に入って,自分が学校現場で生徒に指導できなくなった3年間があったからかどうか,分からないが,

 「ダメ教師」を見ると,やはり奮い立つ。

 「ダメブログ」を見ても,本当に「やる気」がでる。

 なぜ,「ダメ教師」は自分の問題に気づけないのか?

 何度も繰り返している「ダメ指導」の例で恐縮だが,

 もしコメントをくれた中学生(自称)の四季さんがこの記事を読んでくれていたら,

 問わせてもらいたい。

 こんな教師,どう思う?

 部活動に遅刻してきた生徒がいた。

 顧問は遅刻してきた生徒ではなく,部員に何と言ったと思う?

 「何時なら全員がそろうんだ?」「部活動を始める時間を話し合いで決めろ」

 だって。

 その話し合いの結果に驚いた。

 普通なら遅れてきた人間が反省して,

 「次は遅れないので,時間通りにしましょう」って言うだろう?

 しかし,教師がキレて「全員が集まれる(遅刻しないですむ)時間」を決めさせたのが致命的だった。

 結果,集合時間を遅らせたそうだ。

 どうして遅刻した人間のために時間を遅らせなければならないのか?

 この教師は,

 本当に「遅刻」が大嫌いなんだろう。

 実際には,「全員に遅刻を認めた」ことと同じ結果になったのだ。

 間抜けとしか言いようがない。

 しかも,これを自分が転入したばかり(生徒のことが分かっていない)の状態で

 やったらしい。

 この教師は,普段の学校の授業に遅刻している生徒に,

 どんな指導をしていると思う?

 世の中には,いろんな教師がいる。

 その多くは,「裸の王様」なのだ。

 だから,その醜い姿に気づかせる人間が必要だと私は考えている。


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新卒をなめるな!

 疲れて家に帰ってきて,相変わらずのダメ記事を読むのはつらい。

 けれども,教師になる人間の質はそこまで低くはないということを証明しておかなければならない。

 今,新卒の教師が増える中,

 子どもの学力低下以上に

 教師の指導力低下が問題になっている。

 しかし,実はこれは今に始まったことではない。

 今は昔よりも少ない時間数で多くの成果を求められている分,

 より高度な指導力が教師に求められていることを忘れてはならない。

 むしろ,

 役に立たない「物語」ばかりを読んで

 幻想にひたっている古い教師よりも,

 今の新卒の教師の方が,

 学習指導に関してはよく勉強している。

 古い教師の中には,

 学習指導要領の「解説」を知らない人間がいるらしい。

 それが「先輩」という登場人物である。

 昔は「指導書」という時代もあったが,

 教科書会社が出している教科書の「指導書」とは別に,

 文部科学省が「大綱的な基準である学習指導要領の記述の意味や解釈などの詳細について説明するため」に作成しているのが「学習指導要領解説」である。

 教員採用試験に合格するためには,この「解説」を読んで教科だけでなく道徳や総合的な学習の時間,特別活動の内容や指導上の留意点を知っておかなくてはならない。

 学習指導要領はあくまでも「大綱」だが,

 大きな道筋は「解説」に示されている。

 昔も今も,「解説」を読まずに,教科書の「指導書」や市販の「指南書」を読んで授業をしている教師はいるだろう。

 しかし,本当に学習指導要領に示された趣旨を実現させようと思えば,解説を読まなければ先に進めないのが本物の教師である。

 昔はまともな議論すらなかった「学力」が,今や法律でも示される「力」として私たちの目の前にある。

 「学力」をただ漠然として自らの定義もろくにできない人間が,

 あたふたするのは無理もない。

 新卒を悩ませるのは,そんなことではない。

 学習指導要領に示された内容をきちんと実現するための授業をすることと,

 入試で得点がとれるようにする授業との両立で苦しむのである。

 入試で得点がとれるようにする学習指導は,難しいものではない。

 難しいのは,学習指導要領に示された目標を実現させることである。

 入試で「中世の日本の全体像を図で示せ」なんて問題は絶対に出されない。

 しかし,授業ではそれを求めることができる。

 それをしなければならないかどうかは,指導者の感性による。

 私の場合は,本当に時代像を理解しているかどうかを確かめるには,

 自分が図解することだけでなく,他の生徒がつくった図解をもとに語らせることが効果的だと考えているから,そういう実践を行っている(そういう実践は別の村の話だから,ブログも別に示してある)。

 もしあなたが新卒の教師なら,

 先輩がつくった年間計画と指導の重点,評価基準表,定期考査の問題を見せてもらうのが一番である。

 それで頼れる先輩かどうかはすぐに分かる。

 飲み友達をつくりたいだけなら,

 だれでもいい。


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「フルスペックゆとり」人間を生み出した学校教育

 政治家がダメだ,行政がダメだ,

 と嘆いていても社会は変わらない。

 社会を担っているのは現場の人間たちである。
 
 現場の人間だからこそ,現場の人間に注文がつけられる,

 というのは私の考えである。

 退職後に政治や行政に文句をつけていても何も始まらない。

 司法にまで噛みついて,あとはもう何もすることがないだろう。

 いや。

 現場を見ることからすべては始まる。

 部活動のめんどうをみたところで,「教育」は何も変わらない。

 児童生徒学生は百面相である。

 今,授業はどうなっているのか。

 今,生徒はどのような自主的な活動を学校で展開しているのか。

 「生きる力」を身につけさせる教育は,どのように行われているのか。

 「学力向上」のための様々な取組は,具体的にどのような成果として現われているのか。

 現場を見ればわかることである。

 ****

 表題の「フルスペックゆとり」とは,手取り足取りやってあげないと何もできない「就活生」のことを企業の人事担当者が揶揄して呼んでいる名称である。

 もう,正しい「ゆとり教育」(=「ゆとりの中で生きる力をはぐくむ教育」)の意味を知っている人はいないかもしれない。

 それくらい「ゆとり教育」「ゆとり世代」というマスコミ用語は「ダメな教育」によってつくりだされた「ダメな人間」を象徴する言葉になってしまっている。

 「総合的な学習の時間」が本格的に中学校でスタートしたのが平成14年である。そこで身につけた力は何なのか,社会が問える時期が今である。

 そこで下された評価の一つが,「フルスペックゆとり」である。

 これほど人間や教育をバカにした言葉はない。

 塾がつくりあげる入試のための「フルスペック学力」が役に立たなくなることは

 いくらでも揶揄してよいし,多くの人たちの実感である。

 ある有名な塾が流しているCFで生徒に語らせている言葉がすべてを物語っている。

 「人間として成長できる」塾・・・・人は,自分たちにないものを語りたがる。

 しかし,これを幻想と笑い飛ばせないほど,学校現場は腐ってしまったのか。

 「フルスペックゆとり」とは,学校教育の敗北を意味する。

 実は,すでに現行の学習指導要領で「敗北宣言」は出されていた。

 しかし,内容を大幅に増やしたとしても,以前ほどの時間数ではない。

 内容を難しくして,時間数を増やせば,

 塾が出せるような成果は出せるだろう。

 ただ,就活生がマニュアルを頼ったり,人に聞かないと何もできないような状況に陥っているのは,

 「ゆとり教育」とは全く別次元の話である。

 小学生から「就活」が始まったり,

 「就活」のための「塾」が繁盛する時代になるのかもしれない。

 なお,膨大な人事の仕事は外注されているそうだ。


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鉄を打つことではなく熱くすることが求められている

 Strike while the iron is hot.

 イギリスのことわざですが,直訳してみたら,そのまますっきり

 日本人にも理解できる文になりました。

 「鉄は熱いうちに打て」

 ・・・・教育関係者がこれを使う場合は,

 「柔軟な心をもつ若いうちにいい教育を」

 という意味で使いますが,

 真の教育者でない教育関係者は,

 「柔軟な心を失った人間はダメだ」

 という「切り捨て論理」を主張したいときに使います。

 また,どういう指標でか知りませんが,

 ある基準で顧客を性格でABCランクに分けて接しているビジネスマンもいるようですね。

 性格を見分けて自分の労力の無駄を省こうとする。

 効率的な手法かもしれませんが,

 ビジネスともなると,Aランクばかりを相手にするわけにもいかないでしょうから,

 CランクをどうしたらBランクに,BランクをどうしたらAランクにできるか,

 という智慧も必要になるのでしょう。

 それこそ,教員時代の「資質・能力」が活用できる世界ではないですか。

 でも,そういう期待も無駄になりそうな人も少なくない。

 わざわざ「子どもは別」なんてことわっているあたりがあやしい。

 「性格がおかしい,だからお前はだめなんだ」

 なんて指導?がありうるとしたら,本当にぞっとする話です。

 

 どんな大人でも,ちゃんと批判すれば「変わる」でしょう。

 全く本の内容にふれない記事ばかり書いていたのに,

 ここ2回はちゃんと本の紹介もしている。

 過去100冊分の扱い方を分析してみれば,

 その「変化」は一目瞭然ですよ。

 ただの「飾り」にすぎなかった「本」の中身が紹介されるようになっている。 
 
 言い逃れやごまかしができない事実がそこにあります。


 残念ながら,書き手の趣旨とは全く別の「運用」をしているのがバレバレになってしまったから,今まで通りの方が「ハッタリ」らしくてよかったのですけどね。


 こうやって「鉄」は「熱くするところから始める」という教育の一面が実証できるわけです。

 
 教育失敗学の私にしてみれば,どうでもいい記事でも,

 その「いい加減さ」「教育に対する無責任さ」が私を「熱くする」原因になってくれているのです。


 教育にたずさわる立場から書かせてもらうと,

 学校現場の私たち教師は,

 鉄をただ熱いうちに打つ,

 ということより,

 どうしたら鉄を熱することができるか,

 ということに心を砕いているのが伝わる仕事がしたいものです。

 「いつやるか? 今でしょ」

 という人気講師のフレーズに代表されるように,

 「鉄を熱くしてくれる」人材はのどから手が出るほど学校現場もほしいのです。

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大切なものは,今,ここで手に入る

 学校が子どもに身につけさせようとしている力は,

 何でもが「向こう岸」にあって何だか分からないようなものばかりではありません。

 子どもが「分かる」ことの実感がしっかりもてて,

 「分かる」ことの意義もしっかり理解できるような授業は,
 
 何でも「分かったつもり」にしかさせられない教師には手の届かないものかもしれませんが,

 たとえば総合的な学習の時間では,そういう授業なり学習なりを展開しやすいのです。

 実態としてはどうか,ということを真面目に検証しようとする人間がいないので,

 教育課程の実施状況を読むしかありません。

 学校の魅力を取り戻すには,どうしたらいいか。

 一部の教師は,部活動のことしか考えられない。

 一部の教師は,そんなことに興味はない。

 どこかの自治体が・・・・

 大阪市あたりはやってくれるかもしれませんが,

 中学生たちに「教育委員会」をつくってもらうというのが一つの手段かもしれませんね。

 社会科の教師なら分かると思いますが,

 中学生のエネルギーは,小学生どころの話ではありません。

 高校生と比べても,「思い切り」がいい発想や発言ができる。

 「大切なものは,今,ここで手に入る」

 そんな実感が得られる授業をしている人たちが「発言」してくれそうな

 学校経営を促す。

 とにかく何でも試してほしいと思います。

 体罰ができなくなったのだから,

 子どもではなく,

 教師としても,もう「こわいもの」はなくなったのですから。


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プロの指導者とはどうあるべきか? ~窪田テニス教室から学べること~

 プロの指導者が,指導者らしくあるとは,どういうことか。

 それをこの教育論・教育問題村にある『窪田テニス教室』というブログから学べました。

 別の村の話ではなく,教育論の村にふさわしいブログです。

 タイトルだけの教育ブログとは天と地のひらきがある。

 
 こちらのブログを訪問したきっかけは,

 小学校に入学する娘が近くのテニススクールに通い始めたことと,

 私が野球部を指導しているときによく話に出る
 
 「体重移動」にかかわる内容が紹介されているのかと思ってのぞいたことでした。

 「教える準備」という記事では,

>正しいと思うことを否定する

>間違っていると思うことを肯定する

 私が日々の教育実践や自分のブログの中で心がけてきたことが書かれていました。

>何かにこだわると当たり前が見えなくなる

 とは,まさにその通りのことです。

 他の指導者の言葉をまねようとすることしか考えていない教師,

 そういう教師を想定して手取り足取り教えようとしている安っぽい教育本,

 自らの指導に責任を持とうとしない教師に読ませたい記事が

 「プロの仕事」でした。 

 教師らしい教師をめざす人,

 本当の意味で教育に情熱をかけたい人には,

 とても参考になりそうなブログです。

 少しうらやましいのは,

 「お金を払ってやってくる生徒」を教えるプロであること。

 公立学校の教師のモチベーションを支えるのは,

 「使命感」「責任感」なのですが,

 これがなくても学校を異動させられてしまえば問題にならないので。


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せめて自分がいた学校の教育課程くらい読め!

 質問に答えないくせに,

 質問ばかりなげかける。

 第四権力のマスコミのような記事を書いている人がいる。

 ずばり一言。

 自分が働いていた学校の教育課程を読んだことがあるのか?

 教務主任や管理職じゃない人間は,そんなものに縁はないのか?

 おおげさに言えば,

 教育課程は

 その学校の憲法のようなものである。

 自分たちを強く拘束しなければならないはずのものなのに,

 それを実行しこう,目標を実現するために努力しよう,

 という「意図」が見えない教師たちがいる。

 学力向上の意味が分からない?

 寝ぼけを覚ます人がいないのは本当に気の毒であるが,

 古いレコードの針がとんでいるような記事はもうおしまいにできないものか。

 これは,おおげさな話ではない。

 どの学校にも,教育課程を言えない教員はいる。

 私も決してえらそうなことは言えない。

 暗記はしていなかった。

 ただ,「重点」がどこにどのようにおかれているかくらいは知っていた。

 どの学校も,

 学力向上やいじめの根絶などのための指導には重点がおかれているはずである。

 自分はそこにどのようにかかわっているのか。

 言語活動の充実という「手段」によって,

 基礎的・基本的な知識・技能を確実に習得させて,これらを活用して課題を解決するために必要な思考力,判断力,表現力その他の能力をはぐくむのだ。

 探究活動の質的充実が総合的な学習の時間に図ることができている学校全体の「指導力」は非常に高い。

 知りたければ聞けばよい。

 公開授業を見ればよい。

 問題は,そこからまた発見できる。


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「妄想」の「妄想」らしさがよく分かる

 悪い「妄想」に包み込まれてしまうとどうなるか,

 貴重なことを教えてくれる記事に出会いました。

 こういうネタでないと,「注目記事ランキング」ベスト10には入ってこれないようですね。

 「支離滅裂」のお手本のような記事です。

 作家やライターの方々がこれを読めば,どこか見下された気になることでしょう。

 あまりに次元が低い話に自分たちの仕事が関連付けられてしまっている。

 迷惑千万といったところかもしれません。

 失礼なことを書いても,

 「作家」そのものを見下している場合には,何も感じることができないのでしょう。

 世の中には,

 フィクションの話で「おもしろい」と感じる人と,
 
 ノンフィクションの話で「おもしろい」と感じる人がいます。

 双方の「おもしろさ」の質が違います。

 これは,授業と同じこと。

 バラエティー番組のような「おもしろさ」と,

 クイズ番組のような「おもしろさ」は違うんですね。

 子どもたちにさまざまな「おもしろさ」を提供するのが授業です。

 低レベルな「おもしろさ」ばかり追求すると,

 子どもの「学力」は向上しません。

 「おもしろい」ものの一つに,「妄想」があります。

 「妄想」は自分がするから「おもしろい」のであって,

 これを他人に押し付けると,全く「おもしろみ」のないものになる。
 
 教師の「妄想」に汚染された子どもの姿を

 道徳の研究授業で見たことがありますが,その話はまたの機会にしましょう。

 だれかの「妄想」を真に受けて,迷惑をこうむるのはただの「おばかさん」だ,という認識は子どもにもあり,それなりに警戒する力を自分で育てていきます。


 さて,

 私は役割上,教育に関する論文をたくさん読ませてもらいますが,

 「自己満足」の塊に出会うことがあります。

 これを「妄想」と呼んではかわいそうなのですが,

 教師というのは,

 自分の実践が正しいと信じることで,

 かろうじて教育の現場に立ち続けることができる

 非常に弱い存在と言えます。

 自分に自信がない教師は,

 子どもたち,親たちから総スカンをくいます。

 せめて堂々としていてくれ,と要求されるのが教師です。

 ただ,どう読んでも「とんでもない」実践を,

 喜々として書く神経は,一般企業の人たちには信じられないことでしょう。

 こういう教師たちは,心の病にかかることはないのです。

 自分が正しいという「妄想」の中で生き続けている。

 そもそも教育とは,こういった「妄想」の塊かもしれません。

 「妄想」を抱ける人が,つとめてこれた職場が教育現場なのです。

 以下のような「論理」が「成立」してしまう人がいます。

>実践がなければ説得性のない文章になり、

>根拠の不明なものは空想の連続

>というより、それは妄想の羅列

 考え方そのものが「妄想」です。

 「妄想」の「妄想」らしいところはどこか。

 それは本人が自覚できないことです。

 妄想まみれの実践をたくさん見てきた私からすれば,

 SF小説のように,人を楽しませることができる

 「妄想」を教育現場にはもっと増やしてほしいと思ってしまいます。

 現実に目をやると,

 教育行政は,

 たとえば道徳を年間35時間,きちんとやったかどうかを真剣に調べています。

 何をやったか,どのようにやったか,どんな成果がでたかは決して調べようとしませんが,

 何時間やったかは徹底的に調べます。

 35時間やったんですね。はい,ごくろうさま。

 そういうスタンスです。

 ただの「時間」「回数」だけがものさしになっている。

 これでよしとすることができる神経は,「おかしい」のです。

 いい加減な35時間が褒められて,

 濃密な34時間は「お叱り」の対象になってしまう。

 困ったものです。

 非常に大きな「妄想」が,「観点別評価」なのですが,それはまたいずれ。


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卑怯者の決まり文句

 人質をとって様々な要求を突き付ける犯罪者を

 私たちは「卑怯者」と呼びます。

 「命とカネとどっちが大事か」なんて

 選択を迫る人間は,「卑怯者」です。

 道徳の授業では,ときに教師がそういう「卑怯者」と同じになることがあります。

 「それと命とどっちが大事か?」

 ・・・・・

 子どもたちでも,「命は何よりも大切」という認識をもっていますが,

 いきなり「命」と比べられても困るようなものがあります。

 自分が反対したいものをこの「何」にあてはめて子どもを納得させようとする人間が教師にもいるのです。

 道徳の授業で

 「活発な議論」を呼び起こさせようとする教師は,

 いわゆる「ジレンマ教材」を使うのですが,

 やってはいけないのが「命とそれとどっちが大事か?」

 という問いです。

 なぜこの問いをしてはいけないか,

 それがよく分からない人がいるようです。

 自分が言いたいことは,

 「○○をなくしたい」・・・・

 それに尽きる,というだけの話なのです。

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教育界における平成25年度のキーワード

 教育界における平成25年度のキーワードとは何だろう?

 すでに見られている「動き」に関連するもので言えば,

 「道徳の教科化」である。

 「教科」と「領域」はどう違うのか,という理解が一般的でない中で行われている議論なので,

 社会の人々からは「成績はどうつけるのか?」

 という疑問が集中する。

 しかし,「指導要録」というものを知っている教師たちは,

 「そんなことはすでにやってきている」

 ことを知っている。

 しかも,「いい加減なものだ」ということも知っている。

 だから「大きな声」は出せない。

 第二・第三のキーワードは,

 「いじめ」と「体罰」である。

 どのような法律が出来上がるのか,

 その法律に基づいて,どのようなことを現場はしなければならなくなるのか。

 まだ先は見えない。

 第四のキーワードは,

 「土曜授業」である。

 すでに各学校の教育課程は決まっている。

 教育の世界は,

 新しい管理職が決まっても,

 1年間はもとの管理職が決めた計画通りに教育を進める。

 「もっと土曜授業ができないか」

 と多くの新しい管理職は焦り始めるだろう。

 学校選択が自由化されている地域では,

 土曜授業が多かったり,部活動がさかんな学校に生徒が流れていく。

 どんなに生徒数が減っても

 失業するおそれがないのが教員だから,

 土曜授業への抵抗は大きいだろう。

 私(たち)のような中学校の教師は部活動の指導で土曜日曜もないから,

 土曜授業に抵抗するとしたらその日の部活動が犠牲になるのが嫌だ,

 という反対理由である。

 小学校教師の場合は,労働基準法の通りに働くのが当然の権利だと思っているはずだ。

 いずれにせよ,

 どの話題も,

 過去に中途半端なことをし続けてきたツケにどう始末をつけるかの話である。

 結局,ここには

 「政治的決断」しか突破口はない。

 動くとしたら「選挙後」である。

 本当の平成25年度は,

 「選挙後」にスタートするのだろう。


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宮城谷昌光の言葉

  • 雲のうえに頂をもつ高山を登ろうとするのに、その山相のすさまじさに圧倒され、おじけづいていては何もはじまらない。最初の一歩を踏み出さねば、山頂は近づいてこない。
    「楽毅」第四巻より
  • みごとなものだ。斂(おさ)めるところは斂め、棄てるところは棄てている。楽氏が棄てたところに、われわれの生きる道がある。
    「楽毅」第四巻より
  • 去ってゆく千里の馬を追っても、とても追いつかぬぞ。千里の馬の尾をつかむには、その脚が停まったときしかない
    「楽毅」第四巻より
  • ・・・つくづく人のふしぎさを感じた。道を歩く者は、足もとの石をたしかめようとしないということである。千里のかなたを照らす宝石がころがっていても、気がつかない。それほどの名宝は深山幽谷に踏みこまなければ得られないとおもいこんでいる。
    「楽毅」第三巻より
  • この城をもっとたやすく落とすべきであった。たやすく得たものは、たやすく手放せる。
    「楽毅」第二巻より
  • なにかを信じつづけることはむずかしい。それより、信じつづけたことをやめるほうが、さらにむずかしい。
    「楽毅」第二巻より
  • からだで、皮膚で、感じるところに自身をおくことをせず、頭で判断したことに自身を縛りつけておくのは、賢明ではなく、むしろ怠慢なのではないか
    「楽毅」第二巻より
  • こうする、ああする、といちいち目的と行動とを配下におしえつづけてゆけば、配下はただ命令を待つだけで、思考をしなくなる。この四人はいつなんどき多数の兵を指揮することになるかもしれず、そのときにそなえて自立した思考力をもつ必要がある。
    「楽毅」第二巻より
  • 人は自分の存在を最小にすることによって最大を得ることができる
    「楽毅」第三巻より
  • 勇と智とをあわせもっている者は、攻めるときよりも退くときに、なにかをなすときより、なにもなさないときに、その良質をあらわす
    「楽毅」第二巻より