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生き残りをかける?日本マイクロソフトの戦略

 本ブログに登場する架空の学校のある部分が,

 現実のものになろうとしている。

 これは,どのくらい教育現場に浸透するだろうか。

 注目すべきニュースは,

>MSと東京書籍、教育のデジタル化で協業--学校生活支援アプリを無料で

 というものである。私はYahoo!ニュースで見た。

 学校では,ジャストシステムの「一太郎」を使っている人も多い。
 
 ワープロソフトで「シート」があるのがとても便利だからである。

 罫線もWordより一太郎の方が私は使いやすい。

 マイクロソフト製品で欠かせないのはExcelである。

 特に成績処理には欠かせない。

 PowerPointも便利である。

 ただ,タブレット機(マイクロソフト社は「タブレット機」ではなく,「スレートPC」と呼ぶそうだ)を使うようになってからは,

 PowerPointは絶対になくてはならないものではなくなった。

 大事なことは,(私の場合,)Windows8を使う必要を感じないということだ。

 こういう教師は少なくないかもしれない。

 日本マイクロソフトも,危機感を持っていると思われる。

 その表れが,このニュースでも鮮明になっている。

 東京書籍は,大手の教科書会社である。

 内容の良し悪しは別として,高いシェアを誇る教科書をつくっており,

 日本マイクロソフトの狙い目としては「当然の選択」だろう。

 学校現場にWindows8が浸透すれば,

 またどんどん新製品が生まれるであろう「Windows」の

 「将来の顧客」を増やすことができる。

 ただ,今日のようにデジタルの世界が身近になると,

 今回紹介された「スクールパレット」のように,

 大事なものはほとんどすべて

 ネットにつながっているだけで

 「無料」で手に入る。

 「スクールパレット」の実物を見ていないので

 よくわからないが,

 「スクールパレット」でなければいけない,

 というわけでもなかろう。

 日本マイクロソフトにしろ,東京書籍にしろ,

 利益を出さないといけない民間企業である。

 「ソフトウェア」や「教科書」を買ってもらって利益を上げる会社である。

 ここで民間企業の立場で考えたときの

 本当の危機はどこからくるかというと,
 
 ネット上に

 無料で使える便利なアプリケーションソフトや教科書,問題集のようなものが

 増えれば,どうなるのか,ということである。

 デジタル教科書というのは,

 コストもかかっているが,別の言い方をすると「二重取り」である。

 本物の教科書をデジタル化しているから利益が出るが,

 子どもたちが本当にこうした教科書を

 デジタル情報で扱うようになり,それが浸透していったら・・・,

 もし,教科書よりも,より有効な教材を子どもたちに提供できてしまう

 環境になったら・・・・,

 子どもたちが自由にそれを選択できる環境になったら・・・・。

 もはや,教科書はいらなくなってしまうかもしれない。

 教科書検定なども必要なくなってしまう。

 文部科学省がもしネット上に出回っている教材のうち,

 「おすすめ」というか「一定の品質保障」をしてしまえば・・・・。

 教育にかかるコストは一気に減り,

 必要なのは機器の代金とネットへの接続料金,電気代だけになる。

 さすがに12年間使える機器はないかもしれないが,

 逆に言えば「12年使えるハード」を作る技術は日本でしか生まれないのではないか。

 「教科書とはそもそも絶対に必要なものか」

 という問いが生まれてきてしまうおそれがある。

 小学校入学前から,通信教育の教材漬けになっている園児もいる。

 あえて教科書で「学び直す」必要もないくらい,充実した教材もある。

 
 話はまとまらないが,

 ICT活用が進めば進むほど,

 本当は「コストがかからない教育」が可能になるはずである。

 実際には,全くその逆になりそうだ。

 
 一番「コストがかからない教育」は,

 教師が自分の力でやることだ。

 私は,指導要録くらい,手書きでつけたい,と思うタイプである。

***************

 蛇足だが,

 「学校で作ったWordの文章が家で開けない」
 
 というトラブルの多くは,バージョンの問題である。

 バージョンアップの必要を本気で感じている学校現場の人間は多くないだろう。

 古いバージョンの文書が開けない人がいるので,

 古いバージョンの形式で保存してください,などという

 めんどうくさい指示が下ったりすることもある。

 
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宮城谷昌光の言葉

  • 雲のうえに頂をもつ高山を登ろうとするのに、その山相のすさまじさに圧倒され、おじけづいていては何もはじまらない。最初の一歩を踏み出さねば、山頂は近づいてこない。
    「楽毅」第四巻より
  • みごとなものだ。斂(おさ)めるところは斂め、棄てるところは棄てている。楽氏が棄てたところに、われわれの生きる道がある。
    「楽毅」第四巻より
  • 去ってゆく千里の馬を追っても、とても追いつかぬぞ。千里の馬の尾をつかむには、その脚が停まったときしかない
    「楽毅」第四巻より
  • ・・・つくづく人のふしぎさを感じた。道を歩く者は、足もとの石をたしかめようとしないということである。千里のかなたを照らす宝石がころがっていても、気がつかない。それほどの名宝は深山幽谷に踏みこまなければ得られないとおもいこんでいる。
    「楽毅」第三巻より
  • この城をもっとたやすく落とすべきであった。たやすく得たものは、たやすく手放せる。
    「楽毅」第二巻より
  • なにかを信じつづけることはむずかしい。それより、信じつづけたことをやめるほうが、さらにむずかしい。
    「楽毅」第二巻より
  • からだで、皮膚で、感じるところに自身をおくことをせず、頭で判断したことに自身を縛りつけておくのは、賢明ではなく、むしろ怠慢なのではないか
    「楽毅」第二巻より
  • こうする、ああする、といちいち目的と行動とを配下におしえつづけてゆけば、配下はただ命令を待つだけで、思考をしなくなる。この四人はいつなんどき多数の兵を指揮することになるかもしれず、そのときにそなえて自立した思考力をもつ必要がある。
    「楽毅」第二巻より
  • 人は自分の存在を最小にすることによって最大を得ることができる
    「楽毅」第三巻より
  • 勇と智とをあわせもっている者は、攻めるときよりも退くときに、なにかをなすときより、なにもなさないときに、その良質をあらわす
    「楽毅」第二巻より
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    「楽毅」第四巻より
  • 人というものは、自分のやっていることをたれもみていないと思い込んでいるが、じつはたれかがみており、やがて賛同してくれる人があらわれる。
    「春秋の名君」より
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    「歴史の活力」より
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    「奇貨居くべし 春風篇」より
  • 外をもって仕えている者は信用するに足りぬ。つまり男でも女でも内なる容姿というものがあり、その容姿のすぐれている者こそ、依恃(いじ)にあたいする。
    「奇貨居くべし 春風篇」より
  • 橘という木があります。この木が淮水の南に生ずれば、すなわち橘となります。ところが淮水の北に生ずれば、すなわち枳となります。葉は似ておりますが、実のあじわいはことなります。なにゆえにそうなるかと申しますと、水と土がちがうからです。そのように、その者は斉で生まれ育ったときは盗みをしなかったのに、楚にはいって盗みをしたのです。楚の水と土は、民に盗みをうまくさせようとするところがありませんか
    「晏子」(第四巻)より
  • 倹より奢に入るは易く、奢より倹に入るは難し
    「中国古典の言行録」より
  • 礼儀という熟語がある。礼とは万物を成り立たせている根元に人がどうかかわるかという哲理のことで、儀とは礼をどう表現するかというレトリックをいう。その二つが組み合わさって礼儀ということばが生まれた。
    「春秋の色」より
  • 都邑が矩形であるのは、この大地が巨大な矩形であると想像するところからきている。したがってかぎりない天地と形容するのは正確さに欠ける。大地にはかぎりがある。ただし大地は四方を高い壁でかこまれているわけではない。とにかく独創とか創見というものは、思考が狭い矩形をもたぬということではないか。人はいつのまにか思考を防衛的にしてきた。他者を拒絶しがちである。思考の四方に感情という壁を立てて、他者と共有してきた天を極端にせばめてしまった。
    「子産(下)」より
  • 人というものは、恩は忘れるが、怨みは忘れぬ。
    「孟嘗君 5」より
  • 人はたれにもあやまちがあります。あやまちを犯しても改めれば、これほど善いことはありません。『詩』に、初めはたれでも善いが、終わりを善くする者は鮮(すくな)い、とあるように、あやまちをおぎなう者はすくないのです。
    「沙中の回廊(下)」より
  • 「わたしは侈っている者を烈しく憎まない。なぜなら侈っている者はおのずと滅ぶ。が、なまけている者はどうか。わたしはなまけている者をもっとも憎む」
    「沙中の回廊(下)」より
  • 人を得ようとしたければ、まずその人のために勤めねばならぬ。すなわち、晋が諸侯を従えたいのであれば、諸侯のために骨折りをしなければならない。
    「子産(上)」より
  • 知るということは、活かすということをして、はじめて知るといえる。
    「青雲はるかに(上)」より
  • 師はつねに偉く、弟子はつねに劣っているものでもない。弟子の美点に敬意をいだける師こそ、真に師とよんでさしつかえない人なのではないか。
    「孟嘗君 2」より
  • 人を家にたとえると、目は窓にあたる。窓は外光や外気を室内にとりいれるが、室内の明暗をもうつす。そのように目は心の清濁や明暗をうつす。
    「孟嘗君 2」より
  • 人にものごとを問うということは、質問そのものに、問うた者の叡知があらわれるものである。
    「孟嘗君 3」より
  • 人から嫌われることを、避けようとする者は、心の修養ができていないことである。
    「中国古典の言行録」より
  • 人を利用すれば、かならず人に利用される。・・・企てというのは、人に頼ろうとする気が生じたとき、すでに失敗しているといってよい。
    「太公望 中」より
  • 与えられてばかりで、与えることをしないことを、むさぼると申します。むさぼった者は、なべて終わりがよくない
    「孟夏の太陽」より
  • ・・・料理をつくりながら、人と組織とをみきわめたのか。素材が人であれば、素材を合わせてつくった料理が組織である。それ自体はにがく、からいものでも、他の素材と合わされば、うまさを引きだすことができる。煮るとか蒸すとかいうことが、政治なのかもしれない。
    「太公望 中」より
  • 他人を変革するためには、まず自己を改革しなければならね。
    「太公望 中」より
  • 人が何かを得るには、二通りあります。与えられるか、自分で取るかです。(中略)与えられることになれた者は、その物の価値がわからず、真の保有を知りませんから、けっきょく豊さに達しないのです。
    「奇貨居くべし 春風篇」より
  • みじかいなわしかついていないつるべでは、深い井戸の水を汲むことはできない。
    「奇貨居くべし 黄河編」より
  • 人は目にみえるものを信じるが、そのことにはかぎりがあり、けっきょく、人が本当に信じるものは、目にみえぬものだ
    「晏子」第二巻より
  • 人にはそれぞれこだわりがあり、そのこだわりを捨てて、変化してゆく現実や環境に順応してゆくことの、何とむずかしいことか。
    「奇貨居くべし 飛翔篇」より
  • 失敗を心中でひきずりつづけると、起死回生の機をとらえそこなう。それは戦場における教訓にすぎないともいえるが、大きな勝利とは、相手の失敗につけこむのではなく、自分の失敗を活かすところにある。楽毅の信念はそうである。
    「楽毅」第四巻より
  • 人の頭脳のなかの眼力は、木の幹にあたるであろうが、幹をささえるものは知識という葉ではない。根である。根は地上の者ではどうすることもできない伸びかたをする。その根は天から落ちてくる水を吸い、人からあたえられる水も吸って太ってゆく。
    「奇貨居くべし 春風篇」より
  • 大木にするためには、幹の生長に目をうばわれがちであるが、地中の根を大きく張らせることを忘れてはならない。花を咲かせることをいそぐと、花のあとの結実をおろそかにしてしまう。要するに、大木でなければ豊かな実をつけないということである。
    「奇貨居くべし 春風篇」より
  • あらゆる事態を想定して準備を怠らず、変化に対応できるようなトップでいなければならない。
    「中国古典の言行録」より