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教員養成の大学の先生による体罰の意味

 教員養成のための大学では,

 将来の先生を育てるための指導を熱心に行っていると思う。

 ある先生が,学生を教室で投げ飛ばしたという話を聞いたことがある。

 私を後任に誘ってくれた先生でもあり,実現はしなかったが,今でも恩義を感じている。

 大学生にも体罰がふるえる先生というのはすごい。

 小田原の中学校の先生がふるった「ビンタ」については,

 擁護の声も多いそうだ。

 やってはいけない体罰をやった先生に対して,

 「指導力がない」と言える人は,さぞ「指導力のある立派な方」なのだろう。


 教員養成系の大学でなくても,教職教養や

 教科の指導法を担当している人は,その人がもてる限りの力を注いで,

 卵を温めてくれているはずである。

 私が今,一緒に仕事をさせていただいている大学の先生も,

 卒業生が採用になった話を本当にうれしそうにしている。

 できが悪い子ほどかわいいとはよく言ったもので,

 そういう「親心」は苦労にもなるが,かけがえのない仕事の結晶とも言える。

 私は,教育実習生という形で学生を預かる身だが,

 3週間しか付き合いはなくても(実際には事前指導を入れるともう少し長いが),

 それに近い経験をすることができる。

 話はここからが本番である。


 中学校現場にいる身からすると,心配ばかりが先走る。

 本当に教師に向いているのかどうか,

 学校現場でしっかり仕事ができるかどうか,という目で見ると,

 心は穏やかではない。

 複雑な気持ちになるのは,

 だいたい,これは現場ではたいへんそうだな,という人の多くが

 実際に採用されていることである。

 期待したい人はみんな一般企業に就職していく。

 人材不足を肌で感じているのは,

 現場の教師である。

 決して,本人のせいでも,大学の先生のせいでもない。

 大学の先生の中には,現場の経験がない人もいるから,

 とんでもない学生を「ぴか一」などと期待を持たせたりもする。

 生活指導の「せ」もできなさそうな・・・つまり,

 学習指導・・・いや,一人で話すタイプの「授業」の「じ」はできる人を

 「自信をもって」送り出してくる。

 私の現在の勤務校は生徒指導で苦労することはない。

 だから,教師になれる気になってしまうかもしれない。

 教師は授業で勝負するものだ,

 という言葉から,多くを連想できない人が,

 現場に入るとどういうことになるかを,

 私は実際にこの目で見てきた。

 教員養成系の大学の存在価値はどこにあるのか。

 授業研究を熱心にしてくれる学生。

 これは教師になるための基本である。

 しかし,教師というより,大人としての,

 もっと言えば人間としての基礎ができてない人が多すぎないか。

 挨拶ができない。

 返事ができない。

 時間が守れない。

 質問にきちんと正対した答えが返せない。

 言葉が明瞭ではない。

 字が丁寧でない。

 何が言いたいかわからない。

 基礎的な生活から,基礎的な学力から,

 多くの部分が欠けている人が,

 大学という閉じた空間なら,何とかやっていけるのだろう。

 しかし,難しい子どもと,それよりはるかに難しい親と,

 渡り合っていく「基礎」がない人には,

 決して教師は務まらない。

 教師というのは,フォローがけっこう難しい仕事である。

 授業のフォローがしたくても,
  
 その時間,自分も授業をしている。

 学級経営のフォローがしたくても,
 
 自分の学級も放ってはおけない。

 小学校のような「個人経営の零細企業」は,本当に難しいだろう。

 ただ,小学生ならまだ「だまし」がきく。

 中学生になると,そうは言っていられない。

 何の苦労もなく育ってきた若者に,

 今の公立中学校の教育を簡単に担わせようとする制度そのものが,

 もはや「無茶」な状況になっている。

 教員養成大学は,

 何よりもまず人間養成大学でなければならない。

 何が人間にとっての基礎かを教えてほしい。

 学校現場には,膿がたまっている。

 それをあらかじめキチンと教えてあげてほしい。

 将来の本当の「改革」に備えて。


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  • 雲のうえに頂をもつ高山を登ろうとするのに、その山相のすさまじさに圧倒され、おじけづいていては何もはじまらない。最初の一歩を踏み出さねば、山頂は近づいてこない。
    「楽毅」第四巻より
  • みごとなものだ。斂(おさ)めるところは斂め、棄てるところは棄てている。楽氏が棄てたところに、われわれの生きる道がある。
    「楽毅」第四巻より
  • 去ってゆく千里の馬を追っても、とても追いつかぬぞ。千里の馬の尾をつかむには、その脚が停まったときしかない
    「楽毅」第四巻より
  • ・・・つくづく人のふしぎさを感じた。道を歩く者は、足もとの石をたしかめようとしないということである。千里のかなたを照らす宝石がころがっていても、気がつかない。それほどの名宝は深山幽谷に踏みこまなければ得られないとおもいこんでいる。
    「楽毅」第三巻より
  • この城をもっとたやすく落とすべきであった。たやすく得たものは、たやすく手放せる。
    「楽毅」第二巻より
  • なにかを信じつづけることはむずかしい。それより、信じつづけたことをやめるほうが、さらにむずかしい。
    「楽毅」第二巻より
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    「楽毅」第二巻より
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    「沙中の回廊(下)」より
  • 人を得ようとしたければ、まずその人のために勤めねばならぬ。すなわち、晋が諸侯を従えたいのであれば、諸侯のために骨折りをしなければならない。
    「子産(上)」より
  • 知るということは、活かすということをして、はじめて知るといえる。
    「青雲はるかに(上)」より
  • 師はつねに偉く、弟子はつねに劣っているものでもない。弟子の美点に敬意をいだける師こそ、真に師とよんでさしつかえない人なのではないか。
    「孟嘗君 2」より
  • 人を家にたとえると、目は窓にあたる。窓は外光や外気を室内にとりいれるが、室内の明暗をもうつす。そのように目は心の清濁や明暗をうつす。
    「孟嘗君 2」より
  • 人にものごとを問うということは、質問そのものに、問うた者の叡知があらわれるものである。
    「孟嘗君 3」より
  • 人から嫌われることを、避けようとする者は、心の修養ができていないことである。
    「中国古典の言行録」より
  • 人を利用すれば、かならず人に利用される。・・・企てというのは、人に頼ろうとする気が生じたとき、すでに失敗しているといってよい。
    「太公望 中」より
  • 与えられてばかりで、与えることをしないことを、むさぼると申します。むさぼった者は、なべて終わりがよくない
    「孟夏の太陽」より
  • ・・・料理をつくりながら、人と組織とをみきわめたのか。素材が人であれば、素材を合わせてつくった料理が組織である。それ自体はにがく、からいものでも、他の素材と合わされば、うまさを引きだすことができる。煮るとか蒸すとかいうことが、政治なのかもしれない。
    「太公望 中」より
  • 他人を変革するためには、まず自己を改革しなければならね。
    「太公望 中」より
  • 人が何かを得るには、二通りあります。与えられるか、自分で取るかです。(中略)与えられることになれた者は、その物の価値がわからず、真の保有を知りませんから、けっきょく豊さに達しないのです。
    「奇貨居くべし 春風篇」より
  • みじかいなわしかついていないつるべでは、深い井戸の水を汲むことはできない。
    「奇貨居くべし 黄河編」より
  • 人は目にみえるものを信じるが、そのことにはかぎりがあり、けっきょく、人が本当に信じるものは、目にみえぬものだ
    「晏子」第二巻より
  • 人にはそれぞれこだわりがあり、そのこだわりを捨てて、変化してゆく現実や環境に順応してゆくことの、何とむずかしいことか。
    「奇貨居くべし 飛翔篇」より
  • 失敗を心中でひきずりつづけると、起死回生の機をとらえそこなう。それは戦場における教訓にすぎないともいえるが、大きな勝利とは、相手の失敗につけこむのではなく、自分の失敗を活かすところにある。楽毅の信念はそうである。
    「楽毅」第四巻より
  • 人の頭脳のなかの眼力は、木の幹にあたるであろうが、幹をささえるものは知識という葉ではない。根である。根は地上の者ではどうすることもできない伸びかたをする。その根は天から落ちてくる水を吸い、人からあたえられる水も吸って太ってゆく。
    「奇貨居くべし 春風篇」より
  • 大木にするためには、幹の生長に目をうばわれがちであるが、地中の根を大きく張らせることを忘れてはならない。花を咲かせることをいそぐと、花のあとの結実をおろそかにしてしまう。要するに、大木でなければ豊かな実をつけないということである。
    「奇貨居くべし 春風篇」より
  • あらゆる事態を想定して準備を怠らず、変化に対応できるようなトップでいなければならない。
    「中国古典の言行録」より