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行政によって「守られる」教師たち

 団体の教師たちにとって,「管理職」や「指導主事」は敵・・・・

 なぜなら「行政」の「手先」だから,

 つまり,「行政」は敵・・・・・

 という時代は,昔のものとなったようです。

 もちろんまだ裁判などでやりあっている人が一部にいますが,

 団体の組織率の低下は,

 教師と行政の関係を大きく変えているようです。

 行政側も,

 このまま学校現場にいい人材が集まらないのは危険だ,という認識が高まっているようで,

 教師たちを「救済する」「守る」姿勢を出し始めています。

 これは,

 私の認識では

 かつて団体の人々なら受け入れがたい,

 教師の側の「完全な敗北」にうつったはずです。

 また,現在の私の認識では,

 これは教育現場の

 「末期症状」です。

 病気をたとえにして申し訳ありませんが,

 「延命措置」にすぎません。

 個人のレベルでは,

 本人や家族が望むなら,

 「延命措置」というのはとても重要な意味をもちますが,

 社会のレベルでは,

 どうなのでしょう。

 日本は

 個人と社会の区別がつかない社会です。

 それがよい方に転ぶか,

 私の予想している悪い方に転ぶかはわかりません。

 身内にやさしくない行政というのが,

 魅力のない職場であることはたしかでしょう。

 一般社会の人と,やはり隔たりが大きいのが

 公務員の世界です。

 公教育をよくするためには,

 「大失敗」は欠かせないのかもしれません。

 現実は,悪い方に転がるばかり。

 ここでかつての「英雄」たちの話が出せるのが

 「歴史の授業」ですが,

 もうそれも通用しない世の中になってしまいました。


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宮城谷昌光の言葉

  • 雲のうえに頂をもつ高山を登ろうとするのに、その山相のすさまじさに圧倒され、おじけづいていては何もはじまらない。最初の一歩を踏み出さねば、山頂は近づいてこない。
    「楽毅」第四巻より
  • みごとなものだ。斂(おさ)めるところは斂め、棄てるところは棄てている。楽氏が棄てたところに、われわれの生きる道がある。
    「楽毅」第四巻より
  • 去ってゆく千里の馬を追っても、とても追いつかぬぞ。千里の馬の尾をつかむには、その脚が停まったときしかない
    「楽毅」第四巻より
  • ・・・つくづく人のふしぎさを感じた。道を歩く者は、足もとの石をたしかめようとしないということである。千里のかなたを照らす宝石がころがっていても、気がつかない。それほどの名宝は深山幽谷に踏みこまなければ得られないとおもいこんでいる。
    「楽毅」第三巻より
  • この城をもっとたやすく落とすべきであった。たやすく得たものは、たやすく手放せる。
    「楽毅」第二巻より
  • なにかを信じつづけることはむずかしい。それより、信じつづけたことをやめるほうが、さらにむずかしい。
    「楽毅」第二巻より
  • からだで、皮膚で、感じるところに自身をおくことをせず、頭で判断したことに自身を縛りつけておくのは、賢明ではなく、むしろ怠慢なのではないか
    「楽毅」第二巻より
  • こうする、ああする、といちいち目的と行動とを配下におしえつづけてゆけば、配下はただ命令を待つだけで、思考をしなくなる。この四人はいつなんどき多数の兵を指揮することになるかもしれず、そのときにそなえて自立した思考力をもつ必要がある。
    「楽毅」第二巻より
  • 人は自分の存在を最小にすることによって最大を得ることができる
    「楽毅」第三巻より
  • 勇と智とをあわせもっている者は、攻めるときよりも退くときに、なにかをなすときより、なにもなさないときに、その良質をあらわす
    「楽毅」第二巻より