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「選手はよくやった」は,「責任は選手にある」と同じ意味

 WBC日本代表の準決勝敗退の原因に,多くの声が寄せられている。

 山本監督の言葉には,

 選手への信頼やねぎらいの気持ちがよく表れている。

 しかし,選手から見た監督というのは,いっさい批判ができない相手である。

 打者の阿部からすれば,

 「ランナーが走るかもしれない」という

 「投球に集中できない状況」をつくらされたことには

 不満があるだろう。

 ホームランで同点という場面である。

 走者の二人からすれば,

 「万が一,アウトになったら試合がぶち壊しになる」

 というプレッシャーより,

 「阿部選手の邪魔をしたくない」

 という気持ちが強かったはずである。

 ただ,仮にこう思ったとしても,野球の世界では,

 監督の作戦に対して選手はいっさい批判をすることはできない。

 下手にすれば,選手生命を失いかねない。

 引退後の仕事にも影響が出る。

 

 これは,教師と児童生徒との関係に似ている。

 学級王国をつくってしまう小学校はまさにこの世界である。

 「学び合い」といういかがわしい「学習形態」がある。

 これを児童は批判することができない。

 これで学力がつかないことを教師のせいにできない。

 なぜなら,学習しているのは自分たちだからである。

 山本監督の

 「成功する見込みがあるなら盗塁してよい」

 というサインも,

 子どもに「学び」を預ける教師の姿によく似ている。

 子どもというのは,「自ら学ぶ」べき存在だが,

 何をどのようにするのか指示を受けないと,方向性が定まらず,

 そのために何がどのように必要かを理解していないと,

 大切な目標を見失う危険がある。大きな失敗を犯す危険すらある。

 授業の重要な場面で何も助言しない教師に対して,

 研究協議で「ここで明確な指示が必要だった」との批判が集まることがある。

 WBC準決勝戦での山本監督の作戦は,これと同じであるように思えた。

  
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コメント

近藤さん,コメントありがとうございます。

私も大学時代は高校教師志望でした。

でも,社会科(地歴科・公民科)の採用が1名だったので,

すぐに教師になりたかった私は中学校を受けました。

今,東京都の場合は,中等教育は一括して受験させられているようです。

中学校と高校では大違いでしょうが,

いい中学校と厳しい高校を比べると,授業の内容やレベル,

生徒会活動の充実度は,中学校が上回ってしまいます。

高校はそれこそ

学校を「状況別」に分けた選抜・採用制度があるとおもしろいかもしれません。

はじめまして。
近藤沙織と申します。
野球と授業の類似点を書かれていて、非常に感心しました。
目のつけどころがとてもいいですね。
私は今、高校教師志望する方へむけて、ブログをかいています。
よかったら1度見にきてくださいね♪

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宮城谷昌光の言葉

  • 雲のうえに頂をもつ高山を登ろうとするのに、その山相のすさまじさに圧倒され、おじけづいていては何もはじまらない。最初の一歩を踏み出さねば、山頂は近づいてこない。
    「楽毅」第四巻より
  • みごとなものだ。斂(おさ)めるところは斂め、棄てるところは棄てている。楽氏が棄てたところに、われわれの生きる道がある。
    「楽毅」第四巻より
  • 去ってゆく千里の馬を追っても、とても追いつかぬぞ。千里の馬の尾をつかむには、その脚が停まったときしかない
    「楽毅」第四巻より
  • ・・・つくづく人のふしぎさを感じた。道を歩く者は、足もとの石をたしかめようとしないということである。千里のかなたを照らす宝石がころがっていても、気がつかない。それほどの名宝は深山幽谷に踏みこまなければ得られないとおもいこんでいる。
    「楽毅」第三巻より
  • この城をもっとたやすく落とすべきであった。たやすく得たものは、たやすく手放せる。
    「楽毅」第二巻より
  • なにかを信じつづけることはむずかしい。それより、信じつづけたことをやめるほうが、さらにむずかしい。
    「楽毅」第二巻より
  • からだで、皮膚で、感じるところに自身をおくことをせず、頭で判断したことに自身を縛りつけておくのは、賢明ではなく、むしろ怠慢なのではないか
    「楽毅」第二巻より
  • こうする、ああする、といちいち目的と行動とを配下におしえつづけてゆけば、配下はただ命令を待つだけで、思考をしなくなる。この四人はいつなんどき多数の兵を指揮することになるかもしれず、そのときにそなえて自立した思考力をもつ必要がある。
    「楽毅」第二巻より
  • 人は自分の存在を最小にすることによって最大を得ることができる
    「楽毅」第三巻より
  • 勇と智とをあわせもっている者は、攻めるときよりも退くときに、なにかをなすときより、なにもなさないときに、その良質をあらわす
    「楽毅」第二巻より