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「疎外感」を子どもに与える理由がわかっていない教師

 「阿吽の呼吸」というのを教師と子どもに求めようとしている人間は,教師には向いていない。

 部活動という濃密な教師と子どもとの関係ですら,それを求めるのは危険である。

 ましてや,小学生と教師が「阿吽の呼吸」で生活できるとは,一定の見識をもった大人なら信じることはないだろう。

 小学校の教師というのは,非常に狭い世界で生きている。

 これは現在の制度では,宿命のようなものである。

 だから,非常に視野が狭くなる。
 
 思考がAかBかの単純なものになりやすくなるだけでなく,

 AとBが非常に両極端になるのだ。

 「阿吽の呼吸」で動ける状態と「互いに警戒感や遠慮がある」状態を対比したりしてしまう。

 そういう「思考回路」になってしまう最大の原因は,

 おそらくは,「阿吽の呼吸」でのやりとりをした経験がないからであろう。

 そういうものに憧れるから,ついつい文章化してしまうのだろう。

 人間は,持っていないものを語りたがる傾向がある,というのは以前にもふれた。

 実践では,「阿吽の呼吸」が実現できなかったことを切に願う。

 その理由を以下に述べる。

 「阿吽の呼吸」のように,「言葉によらないコミュニケーション」というのは,非常に高度なものである。

 Aという児童には通用するが,Bという児童には通用しない恐れがある,という可能性に,教師になるような人間には,強い警戒心を抱けるようになっていてほしい。

 日本人は「阿吽の呼吸」を独特の文化として自慢したがる傾向にあるが,

 その呼吸が読めない人間からすると,

 人によっては本当に計り知れない疎外感を持たせる行為となる。

 目くばせで子どもが動く,ということは確かにありうる。

 しかし,それは全員ではない。

 小学校の教師というのは,一部の子どもを自分の分身のように操ることができるようになる。

 「阿吽の呼吸」で動いてくれる子どもが近くにいるのは,担任教師にとっては「おもしろい」はずである。

 私も,そういうふうに育て上げられてしまった子どもをたくさん知っている。

 こういう子どもは,本当に教師の分身になる術を身につけていることが分かるのである。

 詳しくは語れないが,

 子どもは「こういうふうになればうまく気に入られるようになれる」という術を知っている。

 だから,教師と阿吽の呼吸で何かができるようになる,なんて状態は,そういう子どもにとっては願ってもない状況である。

 しかし,そんな教師と児童の関係を見た児童や部外者は,どんなふうに感じるだろう。

 学校が,言葉によるコミュニケーションを重視するようになっているのは,

 「空気」によるコミュニケーションが実は「差別」「仲間外し」「いじめ」を生む大きな要因になっていることがわかったからである。

 教師は,子どもに言葉で伝える機会を増やすべきである。

 阿吽の呼吸で動いてくれる,なんてことを自慢したり,そういう関係を夢見たりするのはやめるべきである。

 

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宮城谷昌光の言葉

  • 雲のうえに頂をもつ高山を登ろうとするのに、その山相のすさまじさに圧倒され、おじけづいていては何もはじまらない。最初の一歩を踏み出さねば、山頂は近づいてこない。
    「楽毅」第四巻より
  • みごとなものだ。斂(おさ)めるところは斂め、棄てるところは棄てている。楽氏が棄てたところに、われわれの生きる道がある。
    「楽毅」第四巻より
  • 去ってゆく千里の馬を追っても、とても追いつかぬぞ。千里の馬の尾をつかむには、その脚が停まったときしかない
    「楽毅」第四巻より
  • ・・・つくづく人のふしぎさを感じた。道を歩く者は、足もとの石をたしかめようとしないということである。千里のかなたを照らす宝石がころがっていても、気がつかない。それほどの名宝は深山幽谷に踏みこまなければ得られないとおもいこんでいる。
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  • この城をもっとたやすく落とすべきであった。たやすく得たものは、たやすく手放せる。
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    「楽毅」第二巻より
  • からだで、皮膚で、感じるところに自身をおくことをせず、頭で判断したことに自身を縛りつけておくのは、賢明ではなく、むしろ怠慢なのではないか
    「楽毅」第二巻より
  • こうする、ああする、といちいち目的と行動とを配下におしえつづけてゆけば、配下はただ命令を待つだけで、思考をしなくなる。この四人はいつなんどき多数の兵を指揮することになるかもしれず、そのときにそなえて自立した思考力をもつ必要がある。
    「楽毅」第二巻より
  • 人は自分の存在を最小にすることによって最大を得ることができる
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  • 勇と智とをあわせもっている者は、攻めるときよりも退くときに、なにかをなすときより、なにもなさないときに、その良質をあらわす
    「楽毅」第二巻より