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有名教師の「国語」指導法を読んで

 直接的な批判というわけではないが,あまりよいことを書くわけではないので,
 
 書名は明かさないことにしておく。

 私は子どものときから,「国語」の教科書というのが嫌いで仕方がなかった。

 「新出漢字」を覚えるのがめんどうくさい,ということもあったが,

 もっとめんどうくさかったのが,

 わずか数ページに何時間もかけて

 「ああでもない」「こうでもない」とやる

 「国語」の授業である。

 その「つまらなさ」を象徴する存在として,「国語の教科書」があった。

 小学校のころは,子どもながらに,

 「それはどうでもいいことだ」

 と思ったことに,教師がやたらとこだわって,

 次々に意見を求めることが,

 大げさな表現だが「人生の時間の浪費」を感じた。

 40人中,まともに話にかかわっているのはせいぜい5人くらいである。

 35人がさぼっている時間といっても何の支障もない。

 これが中学校,高校と繰り返されると,やがてその嫌悪感も麻痺してきたが,

 少し厚めで重たい「国語の教科書」が嫌いなのは変わらなかった。

 声を出して読めばよい,という齋藤孝の『理想の国語教科書』のように,

 単純なものだったら,どれだけよかったか。

 小学校から高校時代にかけて,国語の時間だけで,いったい何十冊の本が読めたか。

 いまさらながらに「後悔」している。

 「国語の教科書」は嫌いだったが,

 「本」が嫌いなわけではない。

 強く主張したいことは,「国語の授業」があったから,「本」が好きになったわけではない。

 「本」が好きになったのは,無駄な「国語の授業」があったからである。

 「国語の授業」で失われた大いなる「時間」を

 必死に取り戻そうとするかのように,むさぼるように本を読んだ時期もあった。

 ここからようやく有名な先生の「国語」指導法に関する感想だが,

 そういう指導を受けたからといって,論理的な思考ができるようになるわけではないことは,進学してくる小学校7年生を見ていればよくわかる。

 私の実感としては,たくさんの板書をノートに書いている時間が無駄である。

 今日の成績に関する会議で,
 
 「中学生で成績が下降する生徒の7つの共通点」の1つをおさらいできた。

 それは,「ノートをきれいに書く」生徒である。

 作業を丁寧にすることは大切なことである。

 しかし,丁寧に書くことが目的になってしまって,「思考」の方がおろそかになってしまっている子どもが多い。

 小学校では,ノートをきっちりとって,きれいにわかりやすく書くと,教師から高い評価をもらっていたのだろう,それが中学校では「最悪の結果」を招いていく。

 もっと自分の頭で「考えさせる」ことが大切であり,自分の手で「書かせる」ことが大切である。

 「板書」というのは,実は子どもに学力を定着させるための手段ではなくて,

 勉強をしたつもりになるという最悪の「落とし穴」になる可能性が高いことを知っておかなければならない。


 また,学校の「国語の授業」というのは,教師が凝っていく分,子どもは「お客様」になりやすい。

 教師は,何十回もその教材を読んでいる。何千何万という作品を読み込んできた大人である。

 家庭学習をしていない子どもは,そもそも「文章」に慣れていない。

 そのギャップからスタートしてほしい教師を私は何人も知っている。

 教師の「誘導」に子どもがひかかっていく,あるいは,教師が無理矢理子どもの言葉を自分に都合のいいように解釈して,子どもの考えは「改宗」され,まるめこまれていく,そういう姿をよく見てきた。

 文章を読むことが好きで,書くことが好きで,話すことが好きな子どもを育てるのに,

 「そういう教え方でいいのか?」という問いを常に発してほしい。

  
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宮城谷昌光の言葉

  • 雲のうえに頂をもつ高山を登ろうとするのに、その山相のすさまじさに圧倒され、おじけづいていては何もはじまらない。最初の一歩を踏み出さねば、山頂は近づいてこない。
    「楽毅」第四巻より
  • みごとなものだ。斂(おさ)めるところは斂め、棄てるところは棄てている。楽氏が棄てたところに、われわれの生きる道がある。
    「楽毅」第四巻より
  • 去ってゆく千里の馬を追っても、とても追いつかぬぞ。千里の馬の尾をつかむには、その脚が停まったときしかない
    「楽毅」第四巻より
  • ・・・つくづく人のふしぎさを感じた。道を歩く者は、足もとの石をたしかめようとしないということである。千里のかなたを照らす宝石がころがっていても、気がつかない。それほどの名宝は深山幽谷に踏みこまなければ得られないとおもいこんでいる。
    「楽毅」第三巻より
  • この城をもっとたやすく落とすべきであった。たやすく得たものは、たやすく手放せる。
    「楽毅」第二巻より
  • なにかを信じつづけることはむずかしい。それより、信じつづけたことをやめるほうが、さらにむずかしい。
    「楽毅」第二巻より
  • からだで、皮膚で、感じるところに自身をおくことをせず、頭で判断したことに自身を縛りつけておくのは、賢明ではなく、むしろ怠慢なのではないか
    「楽毅」第二巻より
  • こうする、ああする、といちいち目的と行動とを配下におしえつづけてゆけば、配下はただ命令を待つだけで、思考をしなくなる。この四人はいつなんどき多数の兵を指揮することになるかもしれず、そのときにそなえて自立した思考力をもつ必要がある。
    「楽毅」第二巻より
  • 人は自分の存在を最小にすることによって最大を得ることができる
    「楽毅」第三巻より
  • 勇と智とをあわせもっている者は、攻めるときよりも退くときに、なにかをなすときより、なにもなさないときに、その良質をあらわす
    「楽毅」第二巻より