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« 中学生の各教科の評定は本当に妥当なものか? | トップページ | 学力の定着は保障しないと断言する人間に読ませたい「総則」 »

授業はどのような生徒の学習状況を基準に進めるべきか?

 なぜ子どもの(学力)レベルが中位のものに合わせた授業が,

 上位と下位の者を無視したものになるのだろうか?

 相変わらず,根拠のない,保護者にとっても理解不能な「授業論」を述べている人がいる。

 どこかのネジが足りないのである。

 上位は「十分満足な学習状況」が見られる(観点別評価ならAがもらえる)生徒,

 中位は「おおむね満足な学習状況」が見られる(観点別評価ならBがもらえる)生徒,

 下位は「努力を要する学習状況」の(観点別評価ならCがもらえる)生徒

 をさすと考えるのが一番分かりやすいだろう。

 こういうことが想定できない元教員は,指導要録というものの意味が分かっていない。

 以前も指摘した通りである。

 まともな仕事ができていたとは思えない。

 担任おろしの工作を保護者から受けて当然の教師である。
 
**************

 授業は,単調なレベルのことを単調に繰り返すものではない。

 授業の導入場面では,

 下位の生徒が全く歯が立たないような授業の続きに思われないように,

 基本的なことの復習から入るという方法がある。

 逆に,上位の子どもでも容易に解答できないような,意外な発問から入るという方法もある。

 展開部分では,教師は基本的には

 すべての生徒の学習状況が「B」となるように努力するわけである。

 したがって,基本的には「中位」の生徒の学習状況が適切に行われることを想定して授業は行われる。

 当然だが,「上位」の子どもには「より高度な内容」を教えてあげた方が,学習に充実感がもてて,さらに学力は向上する。だからといって,すべての子どもにそれを課すことはできない。

 また,「下位」の子どもには「より基本的な内容」を繰り返して教えてあげた方が,学習状況の改善には役立つ。
 
 しかし,やはり一斉授業では,その時間を確保することは難しい。

 ときどき,Aの状況の生徒の発言で,学習の質が全体として高まることはある。

 Cの状況の生徒の発言で,基本的だが誤解しやすい内容が分かることもある。

 学習の「波及効果」とは,具体的に例を出すと,こういうことなのである。

 ただ人数が集まればよい,というものではない。

 発問は,易しすぎてもダメ,難しすぎてもダメなのである。

 家庭学習の習慣がなぜ大切かというと,一斉授業では実現できなかった「もっと上」「もっと基本的」なことができるからだ。

 一斉授業のデメリットを解消するための一つの方法が

 「話し合い」「学び合い」なのだが,

 グループに「上位」「中位」「下位」がバランスよく存在するかというと,そうでもない。

 だから,一斉授業ではない形態の授業の成果はなかなか上がりにくい。
 
 人数が集まれば「波及効果」が出る,というのは

 浅はかな学習論である。

 こういう教師のもとでは,学力は向上しない。


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  • 雲のうえに頂をもつ高山を登ろうとするのに、その山相のすさまじさに圧倒され、おじけづいていては何もはじまらない。最初の一歩を踏み出さねば、山頂は近づいてこない。
    「楽毅」第四巻より
  • みごとなものだ。斂(おさ)めるところは斂め、棄てるところは棄てている。楽氏が棄てたところに、われわれの生きる道がある。
    「楽毅」第四巻より
  • 去ってゆく千里の馬を追っても、とても追いつかぬぞ。千里の馬の尾をつかむには、その脚が停まったときしかない
    「楽毅」第四巻より
  • ・・・つくづく人のふしぎさを感じた。道を歩く者は、足もとの石をたしかめようとしないということである。千里のかなたを照らす宝石がころがっていても、気がつかない。それほどの名宝は深山幽谷に踏みこまなければ得られないとおもいこんでいる。
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  • この城をもっとたやすく落とすべきであった。たやすく得たものは、たやすく手放せる。
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    「沙中の回廊(下)」より
  • 人を得ようとしたければ、まずその人のために勤めねばならぬ。すなわち、晋が諸侯を従えたいのであれば、諸侯のために骨折りをしなければならない。
    「子産(上)」より
  • 知るということは、活かすということをして、はじめて知るといえる。
    「青雲はるかに(上)」より
  • 師はつねに偉く、弟子はつねに劣っているものでもない。弟子の美点に敬意をいだける師こそ、真に師とよんでさしつかえない人なのではないか。
    「孟嘗君 2」より
  • 人を家にたとえると、目は窓にあたる。窓は外光や外気を室内にとりいれるが、室内の明暗をもうつす。そのように目は心の清濁や明暗をうつす。
    「孟嘗君 2」より
  • 人にものごとを問うということは、質問そのものに、問うた者の叡知があらわれるものである。
    「孟嘗君 3」より
  • 人から嫌われることを、避けようとする者は、心の修養ができていないことである。
    「中国古典の言行録」より
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    「太公望 中」より
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    「孟夏の太陽」より
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    「太公望 中」より
  • 他人を変革するためには、まず自己を改革しなければならね。
    「太公望 中」より
  • 人が何かを得るには、二通りあります。与えられるか、自分で取るかです。(中略)与えられることになれた者は、その物の価値がわからず、真の保有を知りませんから、けっきょく豊さに達しないのです。
    「奇貨居くべし 春風篇」より
  • みじかいなわしかついていないつるべでは、深い井戸の水を汲むことはできない。
    「奇貨居くべし 黄河編」より
  • 人は目にみえるものを信じるが、そのことにはかぎりがあり、けっきょく、人が本当に信じるものは、目にみえぬものだ
    「晏子」第二巻より
  • 人にはそれぞれこだわりがあり、そのこだわりを捨てて、変化してゆく現実や環境に順応してゆくことの、何とむずかしいことか。
    「奇貨居くべし 飛翔篇」より
  • 失敗を心中でひきずりつづけると、起死回生の機をとらえそこなう。それは戦場における教訓にすぎないともいえるが、大きな勝利とは、相手の失敗につけこむのではなく、自分の失敗を活かすところにある。楽毅の信念はそうである。
    「楽毅」第四巻より
  • 人の頭脳のなかの眼力は、木の幹にあたるであろうが、幹をささえるものは知識という葉ではない。根である。根は地上の者ではどうすることもできない伸びかたをする。その根は天から落ちてくる水を吸い、人からあたえられる水も吸って太ってゆく。
    「奇貨居くべし 春風篇」より
  • 大木にするためには、幹の生長に目をうばわれがちであるが、地中の根を大きく張らせることを忘れてはならない。花を咲かせることをいそぐと、花のあとの結実をおろそかにしてしまう。要するに、大木でなければ豊かな実をつけないということである。
    「奇貨居くべし 春風篇」より
  • あらゆる事態を想定して準備を怠らず、変化に対応できるようなトップでいなければならない。
    「中国古典の言行録」より