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2013年3月

日本の大学は中国と同じだった

 大学の改革のリーダーシップ?を行政がとる。

 日本だけではなく,中国でも同じだということを

 加藤嘉一著『脱・中国論』(日経BP社)で知った。

 「大学がお役所的な空間と化している」

 ・・・・日本の大学につとめている方々は思わず

 うなってしまうであろう「共通点」であろう。

 中国の大学のカリキュラムには,

 「毛沢東思想」「鄧小平概論」「マルクス・レーニン主義」

 という「政治課」の必須科目があるそうだ。

 これを「共産党当局による学生の洗脳の手段」とみる人もいるだろうが,

 単位をとらなければ卒業できないわけだから,

 とにもかくにも「学ぶ」わけである。

 「学ぶ」ことで,「分かる」こともあるだろう。

 日本の子どもたちに道徳を学んでほしくない教師は多い。

 なぜなら,教師が道徳的でないことが分かってしまうからだ。

 とにかく「学ぶ」ことには意義がある。

 日本の学生は,本当に「学んで」いるのだろうか。

 40代,50代の人たちまでか。

 「大学で勉強した記憶はない」なんて堂々と言えるのは。

 中国の大学の学生は,

 「世界で通用する人間になる」ことへの情熱にあふれている。

 英語をバリバリ勉強する。

 こういう話を聞くと,

 文部科学省の人が焦るのだ。

 国会などで指摘されることは目に見えている。

 「何をしているのか」と追及される。

 だから,余計なことをいろいろと考えてしまう。

 しかし,やればやるほど「意欲」が失われる・・・・というジレンマを

 解消する方策を考えだした人は,

 歴史に名を残せるかもしれない。

 残念ながら,そういう人は,決して多くない。

 日本の場合,こわい話だが,

 次へのステップを可能にしてくれたのは,

 大きな「国難」であった。

 リーダーがでる,というより,

 国民全体で乗り切ってきた。

 これが日本の強みである。

 国民全体を動かせる

 リーダーが生まれると,なおよい,

 と手放しで望むことに危機感を覚えるという

 慎重さがあることも日本の強みである。

 この「強いのか弱いのか分からない」

 のが日本の強みだ,

 などと書いていられるのもそう長くはない

 という危機感も持っておきたいところである。


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大学という「殻」の中にいては分からないこと

 今,大学は生き残りをかけて必死である。

 一部の大学は,文科省からの圧力を真に受けて,

 どうでもいいことに貴重な労力を費やし,

 大切なことをおろそかにしている。

 一部の大学は,就職率の向上に必死である。

 これは,就職のための予備校化した方が効率がよい。

 大学の勉強などしている暇はないのだ。

 学生に,手取り足取り教えてあげる。

 「生きる力」がついていないことが前提の指導である。

 今,一番「生活指導」を熱心にやっているのは,「大学」かもしれない。

 昔の「大学」は今,ごく一部にしか存在しないらしい。

 一部の大学では,自分がつくりあげた「幻想」を

 教育現場にすすめ,より現場を混乱させている。

 いずれにせよ,

 教育界というより,社会全体としては何のプラスにも働かない。

 血迷い気味のブログを読むと,

 学校におけるペーパーテストの課題が何かを語る以前に,

 「点数をとれるようにすればいいのだろう」

 「それが成果だ」

 などと言い張っている。

 学習指導の本質は何か,

 学習の本質は何かを専門にしていない人は,

 指導方法や学習方法で何とかしようという

 浅はかな態度をとり続けている。

 これが学力向上のためのネックになっていることが自覚できないようだ。

 いずれにせよ,

 大学という「殻」の固さは半端ではない。

 文科省は,「殻」を割ろうとしているのかもしれないが,

 今のままだと

 決して割ることのできない内側の殻を,ますます厚くしていくことになる。

 まずは,市町村教育委員会で仕事をするといいのではないか。

 そのあと,都道府県教育委員会で仕事をする。

 そして,就職率が50%以下の大学で事務の仕事をする。

 児童生徒学生の姿が,

 「劣化」してはいないか,

 本気で考えるきっかけになるかもしれない。

 自分たちがやっていることは,

 だんだん人間が弱く,もろく,たよりなくなるような仕掛けかもしれない,

 といったん考えてみてほしい。


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生き残りをかける?日本マイクロソフトの戦略

 本ブログに登場する架空の学校のある部分が,

 現実のものになろうとしている。

 これは,どのくらい教育現場に浸透するだろうか。

 注目すべきニュースは,

>MSと東京書籍、教育のデジタル化で協業--学校生活支援アプリを無料で

 というものである。私はYahoo!ニュースで見た。

 学校では,ジャストシステムの「一太郎」を使っている人も多い。
 
 ワープロソフトで「シート」があるのがとても便利だからである。

 罫線もWordより一太郎の方が私は使いやすい。

 マイクロソフト製品で欠かせないのはExcelである。

 特に成績処理には欠かせない。

 PowerPointも便利である。

 ただ,タブレット機(マイクロソフト社は「タブレット機」ではなく,「スレートPC」と呼ぶそうだ)を使うようになってからは,

 PowerPointは絶対になくてはならないものではなくなった。

 大事なことは,(私の場合,)Windows8を使う必要を感じないということだ。

 こういう教師は少なくないかもしれない。

 日本マイクロソフトも,危機感を持っていると思われる。

 その表れが,このニュースでも鮮明になっている。

 東京書籍は,大手の教科書会社である。

 内容の良し悪しは別として,高いシェアを誇る教科書をつくっており,

 日本マイクロソフトの狙い目としては「当然の選択」だろう。

 学校現場にWindows8が浸透すれば,

 またどんどん新製品が生まれるであろう「Windows」の

 「将来の顧客」を増やすことができる。

 ただ,今日のようにデジタルの世界が身近になると,

 今回紹介された「スクールパレット」のように,

 大事なものはほとんどすべて

 ネットにつながっているだけで

 「無料」で手に入る。

 「スクールパレット」の実物を見ていないので

 よくわからないが,

 「スクールパレット」でなければいけない,

 というわけでもなかろう。

 日本マイクロソフトにしろ,東京書籍にしろ,

 利益を出さないといけない民間企業である。

 「ソフトウェア」や「教科書」を買ってもらって利益を上げる会社である。

 ここで民間企業の立場で考えたときの

 本当の危機はどこからくるかというと,
 
 ネット上に

 無料で使える便利なアプリケーションソフトや教科書,問題集のようなものが

 増えれば,どうなるのか,ということである。

 デジタル教科書というのは,

 コストもかかっているが,別の言い方をすると「二重取り」である。

 本物の教科書をデジタル化しているから利益が出るが,

 子どもたちが本当にこうした教科書を

 デジタル情報で扱うようになり,それが浸透していったら・・・,

 もし,教科書よりも,より有効な教材を子どもたちに提供できてしまう

 環境になったら・・・・,

 子どもたちが自由にそれを選択できる環境になったら・・・・。

 もはや,教科書はいらなくなってしまうかもしれない。

 教科書検定なども必要なくなってしまう。

 文部科学省がもしネット上に出回っている教材のうち,

 「おすすめ」というか「一定の品質保障」をしてしまえば・・・・。

 教育にかかるコストは一気に減り,

 必要なのは機器の代金とネットへの接続料金,電気代だけになる。

 さすがに12年間使える機器はないかもしれないが,

 逆に言えば「12年使えるハード」を作る技術は日本でしか生まれないのではないか。

 「教科書とはそもそも絶対に必要なものか」

 という問いが生まれてきてしまうおそれがある。

 小学校入学前から,通信教育の教材漬けになっている園児もいる。

 あえて教科書で「学び直す」必要もないくらい,充実した教材もある。

 
 話はまとまらないが,

 ICT活用が進めば進むほど,

 本当は「コストがかからない教育」が可能になるはずである。

 実際には,全くその逆になりそうだ。

 
 一番「コストがかからない教育」は,

 教師が自分の力でやることだ。

 私は,指導要録くらい,手書きでつけたい,と思うタイプである。

***************

 蛇足だが,

 「学校で作ったWordの文章が家で開けない」
 
 というトラブルの多くは,バージョンの問題である。

 バージョンアップの必要を本気で感じている学校現場の人間は多くないだろう。

 古いバージョンの文書が開けない人がいるので,

 古いバージョンの形式で保存してください,などという

 めんどうくさい指示が下ったりすることもある。

 
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謝り方を知らない人たち

 このタイトルと,どのようなニュースが結びつきますか?

 もし明日,授業があるとしたら,

 導入で使えるネタである。

 すぐにクラスメイトの個人名を挙げてくれる生徒がいる。

 小さなニュースから大きなニュースまで,

 学校現場は事件が絶えない。

 多くの事件は問題を起こした人間が「謝る」ことで

 学校の場合は「次は気をつけるように」で終われるが,

 最近は

 「謝り方を知らない」生徒が増えてきている。

 本当に,「逆ギレした方が勝ち」

 「過ちを認めなければ勝ち」

 なんていう価値観が浸透している。

 これは家庭教育や小学校教育の立派な成果とも言える。

 「謝り方を知らない」人間に,

 研究者も仲間入りした。

 ほとんど流行語になりそうな

 「言い訳」が飛び出した。

 そんな話で揶揄するだけで,

 心労のあった関係者には失礼というものだ。

 ただ,「流行」というのはおそろしい。

 「催眠術にかかっていた」

 で許されるのは可愛いいたずらくらいだろうが。

 この話は,新聞ネタ,ニュースネタになる。

 明日のワイドショーではあちこちで取り上げられることになるだろう。


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行政によって「守られる」教師たち

 団体の教師たちにとって,「管理職」や「指導主事」は敵・・・・

 なぜなら「行政」の「手先」だから,

 つまり,「行政」は敵・・・・・

 という時代は,昔のものとなったようです。

 もちろんまだ裁判などでやりあっている人が一部にいますが,

 団体の組織率の低下は,

 教師と行政の関係を大きく変えているようです。

 行政側も,

 このまま学校現場にいい人材が集まらないのは危険だ,という認識が高まっているようで,

 教師たちを「救済する」「守る」姿勢を出し始めています。

 これは,

 私の認識では

 かつて団体の人々なら受け入れがたい,

 教師の側の「完全な敗北」にうつったはずです。

 また,現在の私の認識では,

 これは教育現場の

 「末期症状」です。

 病気をたとえにして申し訳ありませんが,

 「延命措置」にすぎません。

 個人のレベルでは,

 本人や家族が望むなら,

 「延命措置」というのはとても重要な意味をもちますが,

 社会のレベルでは,

 どうなのでしょう。

 日本は

 個人と社会の区別がつかない社会です。

 それがよい方に転ぶか,

 私の予想している悪い方に転ぶかはわかりません。

 身内にやさしくない行政というのが,

 魅力のない職場であることはたしかでしょう。

 一般社会の人と,やはり隔たりが大きいのが

 公務員の世界です。

 公教育をよくするためには,

 「大失敗」は欠かせないのかもしれません。

 現実は,悪い方に転がるばかり。

 ここでかつての「英雄」たちの話が出せるのが

 「歴史の授業」ですが,

 もうそれも通用しない世の中になってしまいました。


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授業観のない人たち

 人生観

 という言葉があるように,

 教育観

 教材観

 学習観

 生徒観

 授業観

 などの言葉が学校現場にはある。

 教育実習生に,これらについてどんなイメージをもっているかを問うことがある。

 これによって,大学までに受けてきた教育,

 大学で習っている教職課程の質がわかる。

 授業観というと,

 どうしても

 「教師が生徒に教えるもの」

 という観念が先に立つ。

 そういう表現をする学生に問う。

 生徒から教えてもらわなければならないことは何ですか?

 ・・・・・・

 答え,わかりますか?

 話は変わります。

 研修と授業はどう違うか。

 これがわからない教師が,案外多いのです。

 研修に縁のない人が,学校現場には多いのです。

 それはなぜだと思いますか?

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感心しない人

 三面鏡を使うと,はるか遠くにも自分の顔が写っている。

 この教育ブログ村には,

 こういう鏡に自分がたくさん映っているのに気づかない人がいる。

 学校という職場に限らず,

 社会に出るとトラブルメーカーというのが必ずいるが,

 その典型を自らさらしてくれる人がいるので,

 とても参考になる。

 トラブルメーカーなりのリーダーシップとでも呼んだらいいのか。

使ってはいけない言葉を,

 使わなくては気がすまない。

 困ったお方である。

 自分が「感心しない人」と羅列している内容のほとんどは,

 自分自身にあてはまっていることである。

 以前には自分自身が演奏している姿を(匿名のブログなのに)掲載していたが,

 こういう芸当ができるブロガーはすごい。

 芸能人レベルである。

 もはや匿名で書く必要はないだろう。

項目の一つは,非道徳を絵に描いたようなもので,

 書き手自身がすでに「感心しない人」を通り越して「ダメな人」である。
 

 学校現場でこういう教師は,絶対につぶれることはない。

 本当にたくましい存在である。

 自分自身の問題に全く気付かない人に初めて出会うと,最初は面食らうだろう。

 しかし,教員を長くやっていると,
 
 「そういう人だからこそやっていける職業」なのだなと思うときがくる。

 ただ,「そういう人」には決してなりたくない,

 と思うのがふつうの人間である。

 そして,悩んだり苦しんだりする。

 ある意味では,

 何の責任も感じないで生きていられる教師を見ると,

 安心できる。

 人は,自分がつぶれるのを見たくはないが,

 教師になろうとするような人間の多くは,

 他人がつぶれるのを見たくない「やさしさ」を持っている。

 何も持っていない人間が,

 実は最強なのだ,ということに気づく。

 そして,一度はすべてを捨ててみるか,という気にもさせてくれる。

 「感心しない人」に感心してしまう。

 そういうゆとりが現場にもほしいものだ。

 ただ,そういう人の尻拭いをする仕事は,最高につらいものだが。


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道徳の教科化によってすべての教科の質が変わる

 道徳の教科化に反対する人がいるのはよくわかる。

 反対意見をかわし,この政策を成功させる秘訣は,

 新たに登場する「教科書」という重要な「教材」の質の高さと,

 全教科の指導の改善に対する全国民の願いの強さである。

 教科の授業でも,

 教科書をだらだらよんで,まとめる,なんていう質の低い授業が行われている。

 こんな授業を道徳の時間にされたらたまらない。

 荒れた学校はますます荒れるだけの話である。

 プリントが配られて,穴埋めすれば,授業に参加していることになる,

 黒板にいろいろと書かれて,それをノートに写しさえすれば,よれでよい,

 という質の低い学習指導が行われている。

 そんな「最低」な教育からの完全脱皮を,

 道徳の教科化をきっかけに「全面的に」実現させる。

 道徳という新教科は,

 答えが最初からわかっている問題を解くようなものだという印象が強いだろう。

 決してそういうものではない。

 求められるのは,口先の「答え」ではなく,「行動」である。

 その「行動」に至るまでの「過程」こそが,子どもの成長の糧になる。

 「知識として教え込みたい」

 そういう考えの大人も多いだろう。

 しかし,それは自分の胸に聞いてみればいい。

 「わかっているのにやめられない」

 ことはたくさんある。

 中学生くらいの年齢だと,

 「わかっているがあえてやらない」

 「だめだとわかっているがあえてやる」

 生徒が多いのだ。

 何をさせればよいのか。

 特別活動を充実させればよいのだ。

 各教科の中でも,同様の工夫を行う。

 子どもが「行動」できるヒントを与えてあげることだ。

 そういう実践をしているモデル校があるが,ここでは残念ながら,明かせない。


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きまりは破るためにある

 小学生くらいのレベルだと,こう言っても何のことだか理解できないかもしれない。

思考の深さには,個人差もある。

 「きまりは破るためにある」

 教師が子どもにこの言葉を投げかけるとき,

 何を言おうとしているのだろう。

 ヒントは,この記事のカテゴリーである。

 答えは書かない。

 将棋で言えば,

 何手先のことをどのくらいの速さでシミュレーションできるかで,

 その人の強さが決まる。


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教員養成の大学の先生による体罰の意味

 教員養成のための大学では,

 将来の先生を育てるための指導を熱心に行っていると思う。

 ある先生が,学生を教室で投げ飛ばしたという話を聞いたことがある。

 私を後任に誘ってくれた先生でもあり,実現はしなかったが,今でも恩義を感じている。

 大学生にも体罰がふるえる先生というのはすごい。

 小田原の中学校の先生がふるった「ビンタ」については,

 擁護の声も多いそうだ。

 やってはいけない体罰をやった先生に対して,

 「指導力がない」と言える人は,さぞ「指導力のある立派な方」なのだろう。


 教員養成系の大学でなくても,教職教養や

 教科の指導法を担当している人は,その人がもてる限りの力を注いで,

 卵を温めてくれているはずである。

 私が今,一緒に仕事をさせていただいている大学の先生も,

 卒業生が採用になった話を本当にうれしそうにしている。

 できが悪い子ほどかわいいとはよく言ったもので,

 そういう「親心」は苦労にもなるが,かけがえのない仕事の結晶とも言える。

 私は,教育実習生という形で学生を預かる身だが,

 3週間しか付き合いはなくても(実際には事前指導を入れるともう少し長いが),

 それに近い経験をすることができる。

 話はここからが本番である。


 中学校現場にいる身からすると,心配ばかりが先走る。

 本当に教師に向いているのかどうか,

 学校現場でしっかり仕事ができるかどうか,という目で見ると,

 心は穏やかではない。

 複雑な気持ちになるのは,

 だいたい,これは現場ではたいへんそうだな,という人の多くが

 実際に採用されていることである。

 期待したい人はみんな一般企業に就職していく。

 人材不足を肌で感じているのは,

 現場の教師である。

 決して,本人のせいでも,大学の先生のせいでもない。

 大学の先生の中には,現場の経験がない人もいるから,

 とんでもない学生を「ぴか一」などと期待を持たせたりもする。

 生活指導の「せ」もできなさそうな・・・つまり,

 学習指導・・・いや,一人で話すタイプの「授業」の「じ」はできる人を

 「自信をもって」送り出してくる。

 私の現在の勤務校は生徒指導で苦労することはない。

 だから,教師になれる気になってしまうかもしれない。

 教師は授業で勝負するものだ,

 という言葉から,多くを連想できない人が,

 現場に入るとどういうことになるかを,

 私は実際にこの目で見てきた。

 教員養成系の大学の存在価値はどこにあるのか。

 授業研究を熱心にしてくれる学生。

 これは教師になるための基本である。

 しかし,教師というより,大人としての,

 もっと言えば人間としての基礎ができてない人が多すぎないか。

 挨拶ができない。

 返事ができない。

 時間が守れない。

 質問にきちんと正対した答えが返せない。

 言葉が明瞭ではない。

 字が丁寧でない。

 何が言いたいかわからない。

 基礎的な生活から,基礎的な学力から,

 多くの部分が欠けている人が,

 大学という閉じた空間なら,何とかやっていけるのだろう。

 しかし,難しい子どもと,それよりはるかに難しい親と,

 渡り合っていく「基礎」がない人には,

 決して教師は務まらない。

 教師というのは,フォローがけっこう難しい仕事である。

 授業のフォローがしたくても,
  
 その時間,自分も授業をしている。

 学級経営のフォローがしたくても,
 
 自分の学級も放ってはおけない。

 小学校のような「個人経営の零細企業」は,本当に難しいだろう。

 ただ,小学生ならまだ「だまし」がきく。

 中学生になると,そうは言っていられない。

 何の苦労もなく育ってきた若者に,

 今の公立中学校の教育を簡単に担わせようとする制度そのものが,

 もはや「無茶」な状況になっている。

 教員養成大学は,

 何よりもまず人間養成大学でなければならない。

 何が人間にとっての基礎かを教えてほしい。

 学校現場には,膿がたまっている。

 それをあらかじめキチンと教えてあげてほしい。

 将来の本当の「改革」に備えて。


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道徳の授業の原動力は感動?

 道徳が教科になれば,

 子どもたちが「副教材」を購入しなくてすむ。

 「検定教科書」が誕生する。

 そこには,かつての偉人から

 有名スポーツ選手,

 ハンディキャップを克服した人などが

 登場し,

 子どもたちの「感動」をよびおこす教材がおさめられるはずである。

 道徳の授業における「感動」が,

 子どもに「実践する気」をおこさせ,

 実践力をつけさせていく。

 ・・・・・・

 というシナリオがなんとなく思い浮かぶだろう。

 ここでネックになるのは,

 たよりない教師の存在である。

 教科書を使う授業というのは,

 教師の指導力が如実にあらわれる。

 教材に登場した人たちの苦労は子どもたちに伝わるが,

 教師の苦労は,伝わらない。

 道徳の教材づくりは,

 教師が本当に「苦労」してつくり出すものである。

 教科書ができてしまうと,

 それだけで教材研究をしなくなる教師が大量に生まれてしまうだろう。

 道徳の教科書の「指導書」を読む教師なら,まだまともか,というくらいの話である。

 教育の原動力は,

 教師たちが苦心の末に生み出す,

 子どもたちにとって最良の
 
 「教材」である。

 道徳の授業をしたことがない・・・・つまり,

 担任をもったことがない人間が,

 道徳を揶揄する・・・・

 これこそが,道徳教育の「成果」である。

 

 「感動」は原動力になっても,

 推進力として維持することは難しい。

 教育の推進力は,教師の「苦労」「苦心」である。

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評価というとすぐテストを思い浮かべる人へ

 私の似たような記事を書き始めた人がいるので,

 その人との違いを明確にしておこう。


 教師たちは管理職から評価をされる。

 当たり前だが,この評価を行うときにペーパーテストはしない。

 では,何をもとにして評価をするのか。

 どんな実績が評価対象になるのか。

 それは年度の初めに,管理職との面談ではっきりさせている。

 評価というのは,このように

 評価する側と評価される側の相互理解があると,

 評価のための評価にならなくてすむ。

 

 道徳の研究校になった。

 研究のねらいは何か。

 道徳で気づかせたい価値は多岐にわたる。

 主として自分自身に関すること

 主として他の人とのかかわりに関すること

 主として自然や崇高なものとのかかわりに関すること

 主として集団や社会とのかかわりに関すること

 道徳は,学校におけるすべての教育活動とかかわりがある。

 各教科と道徳,総合的な学習の時間と道徳,特別活動と道徳の関連も

 明確にした上で,研究は行わなければならない。

 こういう手続きの経験がない人間は,研究校の話をしてはならない。

 自分で研究しない人間が本を読んでその成果や課題を語ることに意味はない。

 どんな柱を立てるにしても,

 当然のことだが,

 1年や2年で成果を出すのは難しい。

 荒れた学校を立て直すのも,最低でも3年はかかる。

 最も大切なのは,

 教師の意識である。

 それが変わるのに3年かかるということだ。

 ただ,1日で変わるものもある。

 それは,

 評価や成績と聞くとすぐに

 ペーパーテストを思い浮かべてしまう,

 教育への無知である。

 これを恥と感じ,

 学び直す。

 せっかくの本の表紙を掲げても,

 その中身に全くふれない,

 中身に書かれている大事なことが,

 理解できていないまま,

 ただ紹介している。

 こういう人間が学校にいると,

 研究校での研究の実態がどうなるか,

 それだけは非常にわかりやすい記事がある。

 こういう学校をどうにかしなければならないが,

 研究発表の内容にケチをつける文化が

 今の学校にはない。

 このままでは,公立学校で

 何も学べない教師たちが再生産されてしまう。

 まず,

 子どもの評価とは,何のために行うのか。

 これは,自分の評価はだれがどのようにしてくれるのが

 うれしいか,考えてみてほしい。

 褒められないとやる気が出ない小学生のような

 大人が増えている理由を,小学校の教師は早く気づいてほしい。

評価は,いつ行うか。

 子どもを前にしているときは,常に行っているものである。

 

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子どもの学力向上に責任を持たない人間の典型

 一昔前は,組織率90%を誇っていた人たちが

 口をそろえて言っていたことがある。

>人を上中下のように区分けしないで、先入観を持たず、一人一人を尊重するという姿勢を大切にしています。

 こういう人間たちが,「東大」にはめっぽう弱い。

 なぜ「東大」の話だけ特別に行うのか。

 だれに聞くまでもあるまい。

 「東大」は,「その筋」だからでもあろうが。

 さて,「先入観」は持ってはいけないが,

 どの児童生徒が,学習に入る前の段階で,

 どのような学習状況であったかはすべての教師が知っているはずである。

 これは「先入観」ではなく,適切な児童生徒観である。

 授業が始まる前は,それぞれの学習状況の違いを踏まえて,一人一人を尊重する姿勢で指導に当たらなければならない。

 授業が終わった後も,同様である。

 授業の過程でも,何をすべきかを常に考えていなければならない。

 学力や学習状況は,「みんな同じ」ではなく,「みんな違う」のである。

 何をすべきか,その答えが何もなかった。

 その実践がなかった。

 「一斉指導には波及効果がある」なんて話でお茶を濁している人間もいる。

 ただの偶然の話をしてみても,何も始まらない。

 わざわざ「特別なことはしていない」なんて断っている元教師もいる。

 それでは,何のためのブログかわからない。

 「具体的な指導法」を書くつもりもなく,ただ自慢しないと気が済まない

 この書き手のブログは本当に役に立たない代物である。


 いかにして手が抜けるか,

 手抜きをいかにして「それらしい仕事」に見せかけるか。

 「学び合い」という名の「手抜き」はあちこちで行われている。

 そういう地域がどこかが,今,明らかにされている。

 さて,組織率は30%となり,もうその団体のせいにはできない。

 子どもの可能性を奪ってきたのは,団体の人間ではなく,

 そういう考え方の人間たちである。
 
 この手の人間たちが好きな言葉がある。

 「授業に感動を」

 ・・・・これは,自己満足を得たい大人の,しかもかなり年を重ねた終わりの近い大人の感性である。

小学校の教師たちは,「見た目」「演出」にこだわる。

 子どもたちが「感動」を糧に力をつけるのならまだしも,

 「感動」それ自体が目的になった授業をたくさん見てきた。

 子どもたちは,「感動」を得たい教師たちによって「見世物」にされただけである。

 子どもたちは,教師の自己満足のための道具として扱われている。

 それに気づいた小学生が,どういう仕打ちを担任教師から受けるかは,

 いくらでも実例を挙げることができる。

 多くの子どもたちは,中学校2年生くらいになると,

 ようやく「気づく」ときがくる。

 「失われた時間」は元には戻らない。

 算数ができない子どもたちは,

 中学校に上がってから,高校に進学すると

 6年間,苦しい思いをすることになる。

 以前に,算数ができない大学生が話題になったが,

 どこのだれが責任放棄していたかは明白である。

 できないままで「何となく過ごす」ことがいかに危険なことか,

 どこに問題があったか,

 本人が気づいてからでは遅いのだ。

 責任感のない大人たちの典型としての教師が,

 いたるところにいる。

 それを応援している「原型」の人間も,あちこちにいる。

 今,「感動」では生きていけない時代になった。

 子どもたちが,懐古主義の大人たちによって蝕まれている。

 せめてもの救いは,小学校で,若返りが進んでいることである。

 もはや無責任の塊のような原理主義者たちの出る幕はない。


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学力の定着は保障しないと断言する人間に読ませたい「総則」

 感覚的で独善的な学力観,学習指導の考え方にふれてしまい,

 せっかく教育に情熱をかける意欲があるのにそれを実らせないで終わる教師が増えるのは惜しいと思ったので,以下のことにふれておく。

 学校は,すべての子どもたちに当該学年までに学習する内容の確実の定着を図ることが求められているのである。

 本人の努力が足りないからダメなのだ,ではすまされない。

 学習指導要領には,「総則」がある。

 この「総則」にも,「解説」があり,出版されている。130円で。

 刷れば刷るほど赤字になる,そういう本がある。

 ブログの左サイドに,その内容が読めるリンクが貼ってある。

 「7 指導方法や指導体制の工夫改善など個に応じた指導の充実(第1章第4の2(7))」

 を参照してほしい。

 学校が,何をしなければならないかが書いてある。

 これらのことを学校が行って,成果が出ない場合,

 その成果が出せないことの検証をきちんと行って,少しでも

 成果が出せるように努力する姿勢が学校には求められる。

 それを実行せずに,

 学力はついていなくても,日本は進級させるのが普通だ,などと言ってはならない。

 日本では,教育課程実施上の配慮事項がきちんと実現されているのを前提にしているから,進級させるのだ。

 そういう指導は,教育委員会が行うことになっている。

 もちろん,どこかがいい加減だから,今のこの状況があるわけだが,

 総則通りにがんばってくれる学校に,子どもは入学させたい。

 手抜きをしている学校は残念ながら,必ずある。

 教育ブログを読めば,そういう教師がいたことがよくわかる。

 教師が少ない=小規模な学校で,教育に情熱をかける教師がいない学校は危険である。

 もちろん,教師の数が多いと,それだけ「さぼれる」教師も多くなる。

 ただ,「指導体制の充実」を図るのに,職員10人の学校と30人の学校では,違いがあって当然だろう。

 学校には,「適正な規模」というのが必ずある。

 教育行政は,その実現を最優先にすべきである。

 教師は,現状を受け入れ,できる限りのことをすべきである。

 何をどうすべきかがわからなければ,総則を読む。

 そこに原則が書いてある。

 137円払えば,読むことができる。

 もちろん,ネット上ではタダで読める。


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授業はどのような生徒の学習状況を基準に進めるべきか?

 なぜ子どもの(学力)レベルが中位のものに合わせた授業が,

 上位と下位の者を無視したものになるのだろうか?

 相変わらず,根拠のない,保護者にとっても理解不能な「授業論」を述べている人がいる。

 どこかのネジが足りないのである。

 上位は「十分満足な学習状況」が見られる(観点別評価ならAがもらえる)生徒,

 中位は「おおむね満足な学習状況」が見られる(観点別評価ならBがもらえる)生徒,

 下位は「努力を要する学習状況」の(観点別評価ならCがもらえる)生徒

 をさすと考えるのが一番分かりやすいだろう。

 こういうことが想定できない元教員は,指導要録というものの意味が分かっていない。

 以前も指摘した通りである。

 まともな仕事ができていたとは思えない。

 担任おろしの工作を保護者から受けて当然の教師である。
 
**************

 授業は,単調なレベルのことを単調に繰り返すものではない。

 授業の導入場面では,

 下位の生徒が全く歯が立たないような授業の続きに思われないように,

 基本的なことの復習から入るという方法がある。

 逆に,上位の子どもでも容易に解答できないような,意外な発問から入るという方法もある。

 展開部分では,教師は基本的には

 すべての生徒の学習状況が「B」となるように努力するわけである。

 したがって,基本的には「中位」の生徒の学習状況が適切に行われることを想定して授業は行われる。

 当然だが,「上位」の子どもには「より高度な内容」を教えてあげた方が,学習に充実感がもてて,さらに学力は向上する。だからといって,すべての子どもにそれを課すことはできない。

 また,「下位」の子どもには「より基本的な内容」を繰り返して教えてあげた方が,学習状況の改善には役立つ。
 
 しかし,やはり一斉授業では,その時間を確保することは難しい。

 ときどき,Aの状況の生徒の発言で,学習の質が全体として高まることはある。

 Cの状況の生徒の発言で,基本的だが誤解しやすい内容が分かることもある。

 学習の「波及効果」とは,具体的に例を出すと,こういうことなのである。

 ただ人数が集まればよい,というものではない。

 発問は,易しすぎてもダメ,難しすぎてもダメなのである。

 家庭学習の習慣がなぜ大切かというと,一斉授業では実現できなかった「もっと上」「もっと基本的」なことができるからだ。

 一斉授業のデメリットを解消するための一つの方法が

 「話し合い」「学び合い」なのだが,

 グループに「上位」「中位」「下位」がバランスよく存在するかというと,そうでもない。

 だから,一斉授業ではない形態の授業の成果はなかなか上がりにくい。
 
 人数が集まれば「波及効果」が出る,というのは

 浅はかな学習論である。

 こういう教師のもとでは,学力は向上しない。


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中学生の各教科の評定は本当に妥当なものか?

 我孫子市教委がバッシングを受けている。
 
 右往左往した横浜市教委のことを知っていてか,どうかは知らないが。

 やろうとしていることが,決して「とんでもない」こととは思えない。

 保護者の立場で言うなら,

 自分の子どもに対して中学校が下した評価(評定)を事前に知った上で,

 高校受験ができることにはメリットがある。

 しかし,高校受験を前にして,それが「適正」「妥当」な評価(評定)でないことが気になった場合,だまっていられるだろうか?と考えてしまう。

 昔のように,

 相対評価で「5」がつけられる生徒が何人,と決まっていた時代なら,

 簡単には「うちの子どもの成績を上げてくれ」とは言いにくい。

 しかし,絶対評価で「5」は何人いようがかまわない,ということであれば,

 たとえば同じような成果を出しているはずの

 A校のXさんとB校のYさんで成績が違っていたら,気になるというものだ。

 塾ではそういう情報は簡単に手に入る。

 こういう状況もあって,一般的には

 現在の評価(評定)は

 「インフレ」が常態化している。

 しかし,ときどき

 「真面目に」評定をつける人がいる。

 こういう人に限って,評価が「辛い」。

 それぞれの教師は,それぞれの教師の指導に基づいて評価を行うから,

 どうしても評価・評定の基準はずれてくる。

 評定が本当に妥当なものか?

 その資料まで合わせて開示するようになれば,

 こんどはその「評定の付け方」の妥当性はもちろん,

 「指導の妥当性」にまで「異議申し立て」が加えられる可能性が出てくる。

 自分の子どもが

 いい加減な指導に基づく厳しめの評価を受けていたら,

 きっとだまっていられなくなると思う。

 特に受験の直接的な材料になる3年生の12月の評価・評定に関しては。

 その時点で指導の問題を取り上げても仕方がないのだが。

 私立学校では,テストの得点を中心に評価が下される。

 結局,公立学校も「私立」化した方が,

 業務はラク,

 苦情対応もなくてラク,

 評価の客観性も高くなる,

 などのメリットが明らかになって変わっていくのだろうか?

 ・・・・こういう疑問に決然と立ち向かえる公立学校の校長はどのくらいいるだろうか?


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「声がかからない」ことを嘆くことはない

 「声がかかる」

 ・・・・自分が必要とされていることが実感できることである。

 「声がかからなくなる」

 ・・・・自分は必要とされなくなったと不安になることである。

 「声がかかる」

 それだけ,「使い勝手がよい」と思われている証拠と考えることもできる。

 相手からすると,「声がかかる」ことで喜んでくれる単純な人間は,利用しやすいのだ。

 人間には,人から認められたい,という欲求が人一倍強い人がいる。

 教育ブログで語っている人間はだいたいそういう人間だと考えればよい。

 私のように,人から反感を買うようなことを書いてばかりいる人間は少数派だろう。

 私は,10年前以上前から文部科学省や国立教育政策研究所で仕事しているが,

 正直言って,もう「声をかけてほしくない」。

 子どもと遊ぶ時間が減るからである。

 教材研究の時間が減るからである。

 私は,行政から見れば,とても「便利」な存在である。

 このブログの内容を読んでいただければわかるが,

 内部には決して入れられない。

 しかし,道具としては,使える。

 義理の世界もあり,断れない。

 地方の教育委員会から,研修の講師を依頼される。

 教科書会社から,研究会の講師を依頼される。

 私的な研究会から,講師を依頼される。

 これらは,毎月のことではないので,機会があれば

 今後も「声をかけて」ほしい。
 
 「声がかからなくなる」状況は,

 目の前の子ども(自分の子どもも含めて)と向き合う時間が確保されるので,これはこれでうれしいことである。

 目の前の子どもがいなくなったとき,

 「声がかからなくなる」状況をどう思うか。

 つまり,だれかのために役に立たなくなることをどう思うか,ということである。

 それなら,ブログで役に立つと思われることを書いていればよい。

 「声をかけてくれる」人が出てくるはずである。

 いや,声はかからなくても,

 ブログで読んだことを役立ててくれればそれでよい。

 作家の人たちも,講演会に呼んでもらいたくて,小説を書いているわけではないだろう。

 読んでもらいたくて読み物を書いているのではないか。

 中には,自分が書きたいから書いているだけ,という人もいるだろうが,

 編集者が邪魔をする。

 そう,編集者のような人が近くにいない人は,

 孤独を生きる覚悟をした方がよいのかもしれない。

 たとえ「呼ばれて」そこに行ったとしても,

 自分以外の人間が行って指導したら,もっといい成果が出たはずなのに,

 と自分で後悔するのもさみしいものである。


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質の低い「学び合い」は質の低い教員集団と同じ

 日経で「仲が良いけれど成績が悪いチーム」の改善方法を示してくれた記事があった。

>チーム内で波風が立つことを恐れる,表面的には平和主義なリーダーは,チームの成長を阻害する元凶

 という言葉に,耳が痛い人が多いだろう。

 人に嫌われたら,

 人に嫌がられたら,

 パフォーマンスが低下し,いい結果がでないだろうから,

 「いい人」を演じる・・・というリーダー。

 小学校の校長に多いタイプである。

 教育ブログでもそれが非常によくわかるタイプの記事が多い。

 「事なかれ主義」は,何も学校に限った話ではなく,

 一般企業にも多く見られる現象らしいが,

 そこからの脱出策が示されている。

 チームの成長に欠かせないものは何か。

 子どもの成長や学力向上に欠かせないものは何か。

 いくつかの大切なステップを経なければ,

 子どもも大人も成長しない。

 私が教育雑誌を批判しているのは,

 果実だけを読んでも意味はないこと,

 果実が得られるまでのステップを知ることならまだ意味があることを

 示したいからである。

 中学校の一部にもそういう面があるが,

 「見た目」にこだわるのは小学校が突出している。

 教室掲示を見れば一目瞭然である。

 「見た目にこだわる」という教師の悪癖は,

 「見た目でごまかす」という子どもの悪癖を生む。

 「わいわい楽しそうに子どもが話し合い活動をしている」のを小学校教師は喜ぶ。

 それがいかに質の低い会話でも。

 実際に,その会話の内容を知らないまま,時間が過ぎていくことも多い。

 こういう「学び方」をよしとするような教師集団に,

 真の「学び合い」は期待できない。

 研究で成功している学校の,

 「形成期」

 「混乱期」

 「標準期」

 「達成期」

 をじっくり聞いてみるといいだろう。

 3年かかって成功した学校の真似をして成功するには,

 やはり3年かかると考えるのが自然だろう。

 その時間短縮のノウハウを知るには,

 それに成功している学校をさらに探さなければならないのだ。

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「選手はよくやった」は,「責任は選手にある」と同じ意味

 WBC日本代表の準決勝敗退の原因に,多くの声が寄せられている。

 山本監督の言葉には,

 選手への信頼やねぎらいの気持ちがよく表れている。

 しかし,選手から見た監督というのは,いっさい批判ができない相手である。

 打者の阿部からすれば,

 「ランナーが走るかもしれない」という

 「投球に集中できない状況」をつくらされたことには

 不満があるだろう。

 ホームランで同点という場面である。

 走者の二人からすれば,

 「万が一,アウトになったら試合がぶち壊しになる」

 というプレッシャーより,

 「阿部選手の邪魔をしたくない」

 という気持ちが強かったはずである。

 ただ,仮にこう思ったとしても,野球の世界では,

 監督の作戦に対して選手はいっさい批判をすることはできない。

 下手にすれば,選手生命を失いかねない。

 引退後の仕事にも影響が出る。

 

 これは,教師と児童生徒との関係に似ている。

 学級王国をつくってしまう小学校はまさにこの世界である。

 「学び合い」といういかがわしい「学習形態」がある。

 これを児童は批判することができない。

 これで学力がつかないことを教師のせいにできない。

 なぜなら,学習しているのは自分たちだからである。

 山本監督の

 「成功する見込みがあるなら盗塁してよい」

 というサインも,

 子どもに「学び」を預ける教師の姿によく似ている。

 子どもというのは,「自ら学ぶ」べき存在だが,

 何をどのようにするのか指示を受けないと,方向性が定まらず,

 そのために何がどのように必要かを理解していないと,

 大切な目標を見失う危険がある。大きな失敗を犯す危険すらある。

 授業の重要な場面で何も助言しない教師に対して,

 研究協議で「ここで明確な指示が必要だった」との批判が集まることがある。

 WBC準決勝戦での山本監督の作戦は,これと同じであるように思えた。

  
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権力腐敗と学級王国の崩壊

 小学校の崩壊学級の話をまた耳にした。

 この学級の子どもたちは,平気でうそをつく。

 うそがばれても,悪びれる様子もない。

 担任教師そっくりの人間が再生産されたのである。

 学級王国の主は,ときに「反乱」を引き起こされるが,

 「王」にとってかわることができる小学生はいない。

 授業は「王」にやってもらうしかない。

 しかし「王」に授業をする力がない。

 こういう「王」と「子ども」を救う一つの方法が「学び合い」になっている。

 私から見れば,これも「権力腐敗」の一例である。

 「教える」ことができない教師には,「学び合い」をさせる力もない。

 日本は,「学び合い」ながら滅んでいこうとしている。

 何を「学び合い」しているのか。

 何をどうすれば「学び合い」が成立したと言えるのか。

 「学び合い」がうまくいかない,と嘆く教師は正直でいい。

 「学び合い」は「教える」ことを否定する学習指導の方法ではない。

 そういう最も基本的な理解がない教師はなぜ登場してしまうのか。

 それは,「キーワード」ばかりに目がいって,本質を見極めようとしない「手抜き」の姿勢が生む当然の結果である。

 くだらない事例ばかりを載せる雑誌も諸悪の根源の一つである。

 2頁の原稿を書くのに要した時間,使用した資料の数,行った実践の数や時間を考えてほしい。

 大事なのは,「そっち」である。

 書名に誘われて,本を買うのはやめた方がよい。

 買う前に,雑誌よりもはるかに薄っぺらな内容が,薄くて値段が高い本の中に並んでいるだけのものではないことを確認すべきである。
 

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S県の「異動予想」記事の滑稽さ

 先週末はS県に出かけていたのですが,地元の地方紙を読んでびっくり。

 小・中・高校の管理職の「異動予想」なるものがちょうど掲載されている日でした。

 「○○氏有力」

 「○○氏か?」

 「○○氏濃厚」

 などの字が踊り,顔写真までついていました。

 新聞社に教育委員会の人事部からリークされた情報を載せているのでしょうか?

 「なんでこんなのが載ってるの?」

 という質問に,私は

 「事前にもらして,反対の声が多く寄せられると,取りやめるのではないか?」

 と予想を述べてみたのですが,実際はどうなのでしょう。

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中国の政府と国民を区別した後,どうする?

 中国政府がやろうとしていることは理解できない,と言っている人がいる。

 多くの日本人は,そう感じているだろう。

 それは,単にマスコミの論調がそうだからというわけではない。

 日本人の感性が「中国は理解できない」と言っている,そういう言い方が伝わらない文化の国もあるだろうが,論理を超えて,共感してしまう部分があるから,仕方がない。言葉では説明しにくい。

 「論理」が大好きな人がいるが,それは「共感」が得られない人の武器にすぎない面があることも忘れてはならないだろう。

 論理的に考えることができても,体験や共感がともなわないものは,「理解した」とは言いにくい。

 「習得された知識」とも言いにくい。

 多数の少数民族をもち,多くの国と国境を接している国の「たいへんさ」は日本人には理解しにくいだろう。

 ただ,一定の論理さえあれば,「わかる」こともある。

 日本には,中国という国がそもそもどういう国か,なぜ中国共産党が国の中心なのかがわかっていない人が多い。

 だから,こんな「見当はずれ」の言葉が語られることがある。

>尖閣諸島の問題は、中国国民の意思とは関係なく、中国共産党(幹部)の意向ではないかと思える

 ・・・・今,日本政府も,日本国民も,

 尖閣諸島の問題をどのように「問題」と考えているのか,その「理由」すらわかっていない人がいるということである。

 また,悪い癖として,国民と政府を完全に別のものに見立てて,

 「国民は悪くない,政府が悪い」

 という「論法」で納得して終わってしまっている人がいるのだ。

 仮に,将来,中国の分裂が起こるとする。

 尖閣諸島の問題はどうなっていくだろうか?

 すぐに答えられないだろう。

 結局,自分が無責任なことを言っているにすぎないことに気づかなければならない。

 ほとんど責任を持たないですむ人間を山ほど生み出してきた日本の教育。

 その成果がそこにもあった。

 
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「なでしこ」の佐々木監督と「侍」の山本監督の違い

 WBC日本代表が3連覇を逃した。

 「予想通り」なんてコメントできる勇気のある人はいるだろうか?

 「アメリカがいないからチャンス」と思っていた人は多かったのではないだろうか?

 私がここで書きたいのは,おそらく他でも書いている人がいるだろうことである。

 「侍」を率いる山本監督と,

 「なでしこ」を率いる佐々木監督の何が違っていたか?

 目標のレベルである。

 佐々木監督は,「ベストいくつ」という目標を立てていたから,優勝できなかったことを後悔し,あくまでも「金メダル」を目標に戦って,実際にそれを手に入れた・・・という話をテレビのインタビューで耳にした。

 山本監督が立てた合言葉は何だったか?

 「アメリカに行こう」

 である。

 準決勝を戦う前で,すでに,目標は達成されていた。

 山本監督はじめ,選手の1人1人の気持ちはわかる。

 3連覇へのプレッシャーを全身で感じていた。

 だから,ブラジルにも中国にも苦戦し,台湾には紙一重のところで勝てたのだ。

 しかし,アメリカを破った強豪チームには勝てなかった。
 
 あえて「3連覇」を合言葉にしていたら,

 台湾にもキューバにも勝てなかったかもしれない。

 勝負の世界は難しい・・・・・というか,厳しい。

 結果が伴わなければ,

 「どこがどうだめだったか」をいろんなところからつつかれる。

 教育現場も同じである。

 本当の目標を達成するのは,ほとんど不可能に近いかもしれない。

 しかし,

 「雑音」「モンスター」などといって批判を排除するようでは,

 教育は何も変わらない。

 どんな批判にも耳を傾けることができ,

 腐ったりキレたりせず,

 常によりよい方向を目指しながら前進していく姿勢。

 それが,子どもに学んでほしい大人の姿勢である。

 逃げている教師を子どもに見せる時点で,

 それは教育ではない。


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「なでしこ」の商品価値

 女子サッカーの国際大会で「なでしこ」は5位となった。

 同じ大会のTV視聴率は,去年の3分の1に下がり,「商品価値」の暴落をなげく声も聞こえる。

 WBCに注目が集まっているのはわかるが,やはり「5位」という結果への目は厳しいものがあるだろう。

 監督や選手は,その「冷たい視線」や「雑音」に耐えなければならない。

 体格で劣る選手が大きなホームランを打ったり,豪快なシュートを決めるのは,

 日本人が喜ぶタイプのスポーツの醍醐味である。

 「柔道」のすさまじい「価値」暴落,「レスリング」の「消滅」問題と,暗い話題が多いスポーツの世界で,

 WBC台湾戦の大逆転劇のようなものは,小さい子どもにも「夢」を与えてくれるという意味で,本当に喜ばしい。

 ただ,こういう「華やかな舞台」を見ると,

 「結果に結びつかない努力」があることの厳しさに,やりきれない思いも浮かんでくる。

 東大合格者数の特集を雑誌が組む季節である。

 高校の「商品価値」が決まる季節なのだ。

 受験者数にも大きな影響が出る「東大合格者数」は,

 「経営」にとっては大きな財産である。

 これを,都立の中高一貫校がまねしようとしている。

 本末転倒の極みである。

 数字や結果に表れないものについて,いかに意味を語れるかが「教育」である。

 ゴールを誤り,「自殺点」を増やそうとしているのだ。

 仮にWBCで日本が連覇を逃しても,私は日本野球にとって大きな収穫があったと考える。

 ただ,その野球に関しても,

 「東京ドームの風」疑惑が心配である。


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日本人の中国像の「つくり手」

 日本には日本なりの「中国像」の「つくり手」がいる。

 中国には中国なりの「日本像」の「つくり手」がいる。

 双方にはメリットがある。
 
 それはお互いに「批判対象」がいるということである。

 これが,一方通行だと,「いじめ」になる。

 バランスがとれていると,

 一面的にみると「いじめ」だが,

 全体としては「いじめ」ではない。

 あとはどれだけ「叫ぶ」か,どれだけ「つぶやく」かによる。

 中国での勤務が長い人からの話を聞くと,

 とても新鮮な「中国像」が手に入る。

 残念ながらそういう情報が手に入らない人たちは,

 日本側も中国側も,

 何十年も同じことを繰り返しているだけである。

 いつかどこかで,

 「化石」になっている教師という話を読んだ。

 そういうことを書いている人間がまさに

 「化石」そのものの記事を公開している。

 「化石」ならまだよいが,「日本国憲法」と中国の憲法の違いがよくわかっていないらしい。

 だからブラックホールみたいな教育論になってしまう。

 国の違いは,憲法を読み比べてみれば簡単にわかる。

 しかし,国民の実態は,実体験をもった複数の人から教わるしかない。

 日本人には,変化のスピードというものがもう記憶の彼方へと消し飛んでいる。

 中国の人々は,変化のスピードを今,体感している。

 日本は時代に取り残されようとしている。

 実際に,取り残されたことを知らずに去っていく人たちは,

 幸せなのかもしれない。


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池上彰著『学び続ける力』の価値

 最近,講談社現代新書で読んだ本は,池上彰著『学び続ける力』と橋爪大三郎×大澤真幸×宮台真司著『おどろきの中国』である。

 『学び続ける力』の本体価格は720円。

 『おどろきの中国』は900円。

 『学び続ける力』を買って驚いたのは,

 本の薄さと,文字の大きさである。

 『学び続ける力』は37字×14行×184ページ。

 『おどろきの中国』は40字×16行×381ページ。

 文字数で比較すると,9万5千字と24万字という違いである。

 『おどろきの中国』の方が,文字数が2.5倍なのに価格は1.25倍。

 読んでみるとわかるが,『おどろきの中国』は,半分「歴史の本」である。

 「どうやって中国と付き合ってゆけばよいのか?」を

 考える前に,

 「歴史を知る」ことが大切なことを実感させてくれる。

 『学び続ける力』にある

>「すぐには役に立たないこと」を学んでおけば「ずっと役に立つ」

 という「教え」そのものである。

 『学び続ける力』はだれが読むのが一番良いか。

 これは中学生から大学生くらいが最適だろう。

 60歳を過ぎても活躍の場が新たに得られるような人になるには,

 どのような生き方するのがよいか。

 「学び続ける力」の源泉はどこにあるのか。

 それが示されている。

 『学び続ける力』は「本」であるために,

 「本」を宣伝する「本」になっていることも確かだが,

 「本」には,「電子書籍」にはない「魂」がこもっている。

 『おどろきの中国』は読みごたえがある。

 おそらく,買っても通読できる人はそう多くないだろう。

 ところどころに,主張を整理してまとめたり,論点を図解するなどの

 「親切」な配慮があれば,1000円を超えても価値のある本だと思われる。

 中国を知るための貴重な本の1冊だと思われるが,

 ここまで時間をかけて

 「中国との対話」に真剣に取り組もうとする「一般人」は,そう多くはないだろう。

 「要するにどういうこと?」と問われ続けると,

 人間は「学ぶ」ことをやめてしまう動物なのだ。


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有名教師の「国語」指導法を読んで

 直接的な批判というわけではないが,あまりよいことを書くわけではないので,
 
 書名は明かさないことにしておく。

 私は子どものときから,「国語」の教科書というのが嫌いで仕方がなかった。

 「新出漢字」を覚えるのがめんどうくさい,ということもあったが,

 もっとめんどうくさかったのが,

 わずか数ページに何時間もかけて

 「ああでもない」「こうでもない」とやる

 「国語」の授業である。

 その「つまらなさ」を象徴する存在として,「国語の教科書」があった。

 小学校のころは,子どもながらに,

 「それはどうでもいいことだ」

 と思ったことに,教師がやたらとこだわって,

 次々に意見を求めることが,

 大げさな表現だが「人生の時間の浪費」を感じた。

 40人中,まともに話にかかわっているのはせいぜい5人くらいである。

 35人がさぼっている時間といっても何の支障もない。

 これが中学校,高校と繰り返されると,やがてその嫌悪感も麻痺してきたが,

 少し厚めで重たい「国語の教科書」が嫌いなのは変わらなかった。

 声を出して読めばよい,という齋藤孝の『理想の国語教科書』のように,

 単純なものだったら,どれだけよかったか。

 小学校から高校時代にかけて,国語の時間だけで,いったい何十冊の本が読めたか。

 いまさらながらに「後悔」している。

 「国語の教科書」は嫌いだったが,

 「本」が嫌いなわけではない。

 強く主張したいことは,「国語の授業」があったから,「本」が好きになったわけではない。

 「本」が好きになったのは,無駄な「国語の授業」があったからである。

 「国語の授業」で失われた大いなる「時間」を

 必死に取り戻そうとするかのように,むさぼるように本を読んだ時期もあった。

 ここからようやく有名な先生の「国語」指導法に関する感想だが,

 そういう指導を受けたからといって,論理的な思考ができるようになるわけではないことは,進学してくる小学校7年生を見ていればよくわかる。

 私の実感としては,たくさんの板書をノートに書いている時間が無駄である。

 今日の成績に関する会議で,
 
 「中学生で成績が下降する生徒の7つの共通点」の1つをおさらいできた。

 それは,「ノートをきれいに書く」生徒である。

 作業を丁寧にすることは大切なことである。

 しかし,丁寧に書くことが目的になってしまって,「思考」の方がおろそかになってしまっている子どもが多い。

 小学校では,ノートをきっちりとって,きれいにわかりやすく書くと,教師から高い評価をもらっていたのだろう,それが中学校では「最悪の結果」を招いていく。

 もっと自分の頭で「考えさせる」ことが大切であり,自分の手で「書かせる」ことが大切である。

 「板書」というのは,実は子どもに学力を定着させるための手段ではなくて,

 勉強をしたつもりになるという最悪の「落とし穴」になる可能性が高いことを知っておかなければならない。


 また,学校の「国語の授業」というのは,教師が凝っていく分,子どもは「お客様」になりやすい。

 教師は,何十回もその教材を読んでいる。何千何万という作品を読み込んできた大人である。

 家庭学習をしていない子どもは,そもそも「文章」に慣れていない。

 そのギャップからスタートしてほしい教師を私は何人も知っている。

 教師の「誘導」に子どもがひかかっていく,あるいは,教師が無理矢理子どもの言葉を自分に都合のいいように解釈して,子どもの考えは「改宗」され,まるめこまれていく,そういう姿をよく見てきた。

 文章を読むことが好きで,書くことが好きで,話すことが好きな子どもを育てるのに,

 「そういう教え方でいいのか?」という問いを常に発してほしい。

  
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小学校のあきれたルール

 これはすべての小学校にあてはまることではないことを,あらかじめ断っておく。

 当たり前の話だが,それが通用しない人間がこの村にはいるので。

 携帯電話の持ち込みを許可している小学校がある。

 トランプのようなものから,

 ゲーム機まで,持ち込みを許可している小学校がある。

 学級によってこのルールは異なっている場合があるようで,

 正確に言うなら,

 そういう小学校の「学級」がある,ということである。

 その理由は,

 「自習のときに教室の外に出歩かないため」

 「落ち着かない児童を静かに遊ばせておくため」

 というものであるらしい。

 こういう小学校で,

 学力がつくはずがない。

 パズドラを授業中にどうしてもやってしまう小学生が問題になっているそうだ。

 スマホを小学生が授業中にいじる時代である。

 豊かな国が,やがて滅んでいく。

 絵にかいたような国家の衰退劇が,この国では小学校から現在進行形である。

 道徳の授業で教えようとしていることと,

 全く別のことを許可している。

 あきれるばかりである。

 一部の小学生は,学校を「楽しむところ」と本気で考えている。

 一部の教師は,学習を「楽しませる」ことばかり考えている。

 教育の原点に戻るべきである・・・・と書くと,

 すぐに過剰反応をする教師が必ず出てくる。

 小学校の場合は,

 学級担任を責めにくい悪条件のもと,

 保護者たちは我慢を強いられている。

 人質となっている自分の子どもを守るために,教育を守ることを放棄している。


 中学校に入学したときに,

 中学校教師が何に一番苦労しているか,

 理解してもらうことはそれほど難しいとは思っていない。

 あり得ないルールが当たり前だと思っている小学校7年生を,

 中学校1年生にするための重労働は避けられない。

 これの手抜きをすれば,

 高校生になっても児童のままの生徒たちを生み出すだけである。

 しかし,中学校でどんなにがんばっても,

 高校に入ると「小学校帰り」を果たしてくれる。

 哀しい現実である。

 この国には憐れな

 「小・高一貫」という現実がある。


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道徳の授業にうんざりしてきた子どもの声に耳を傾けるべき時

 道徳の授業にうんざりしている子どもの声を,教師に届けることは難しい。

 教師の多くも,建前的な道徳の授業には乗り気ではない。

 しかし,教科の授業以外のために教材開発をするほど余裕がない。

 だから,手抜きをして,ありきたりの市販の教材でお茶を濁すしかない。

 道徳教育は充実させることはできるが,

 道徳の授業を充実させることは困難を極める。

 一番笑えないのが,「道徳の研究校」の実態である。

 ここではそこを追及するのはやめよう。

 なぜ子どもは,道徳の授業が嫌いなのか。

 評価がないから,動機づけにならない,という生徒もいるだろう。
 
 しかし,一番大きな原因は,教師が道徳の授業が好きではないからである。

 道徳の授業が大好き,という教師の,教科指導をみてみたい。

 そこに道徳の指導で培った成果が表れているのなら,すばらしいかもしれない。

 しかし,えてしてこういう教師の場合,教師が頑張っている一方で

 子どもはしらけていることが多い。

 思わずそういう教師たちの顔が思い浮かんでしまうほど,

 教師というのは自分に酔っている人が多いのだ。

 だからやっていける,という部分はなくもない。

 しかし,子どもから白い目で見られる教師を見るのもつらいものである。

 「裸の王様」は本当に気の毒でならない。

 子どもの素直な言葉を聞き出せる教師でありたい。

 小学校の先生方が今,気の毒でならないが,

 子どもの成長にとっての,「いい踏み台になった」と割り切ってもらうしかない。

 道徳教育に力を入れたければ,

 道徳の授業よりも力を入れるべき時間がある。

 それは,特別活動の時間である。

 中学校には,生徒会活動というものがある。

 多くの学校行事がある。

 これらの充実にしっかりと時間が使えるようになれば,

 学校は変われる。

 子どもは変わる。

 一番のネックは,教師である。

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「疎外感」を子どもに与える理由がわかっていない教師

 「阿吽の呼吸」というのを教師と子どもに求めようとしている人間は,教師には向いていない。

 部活動という濃密な教師と子どもとの関係ですら,それを求めるのは危険である。

 ましてや,小学生と教師が「阿吽の呼吸」で生活できるとは,一定の見識をもった大人なら信じることはないだろう。

 小学校の教師というのは,非常に狭い世界で生きている。

 これは現在の制度では,宿命のようなものである。

 だから,非常に視野が狭くなる。
 
 思考がAかBかの単純なものになりやすくなるだけでなく,

 AとBが非常に両極端になるのだ。

 「阿吽の呼吸」で動ける状態と「互いに警戒感や遠慮がある」状態を対比したりしてしまう。

 そういう「思考回路」になってしまう最大の原因は,

 おそらくは,「阿吽の呼吸」でのやりとりをした経験がないからであろう。

 そういうものに憧れるから,ついつい文章化してしまうのだろう。

 人間は,持っていないものを語りたがる傾向がある,というのは以前にもふれた。

 実践では,「阿吽の呼吸」が実現できなかったことを切に願う。

 その理由を以下に述べる。

 「阿吽の呼吸」のように,「言葉によらないコミュニケーション」というのは,非常に高度なものである。

 Aという児童には通用するが,Bという児童には通用しない恐れがある,という可能性に,教師になるような人間には,強い警戒心を抱けるようになっていてほしい。

 日本人は「阿吽の呼吸」を独特の文化として自慢したがる傾向にあるが,

 その呼吸が読めない人間からすると,

 人によっては本当に計り知れない疎外感を持たせる行為となる。

 目くばせで子どもが動く,ということは確かにありうる。

 しかし,それは全員ではない。

 小学校の教師というのは,一部の子どもを自分の分身のように操ることができるようになる。

 「阿吽の呼吸」で動いてくれる子どもが近くにいるのは,担任教師にとっては「おもしろい」はずである。

 私も,そういうふうに育て上げられてしまった子どもをたくさん知っている。

 こういう子どもは,本当に教師の分身になる術を身につけていることが分かるのである。

 詳しくは語れないが,

 子どもは「こういうふうになればうまく気に入られるようになれる」という術を知っている。

 だから,教師と阿吽の呼吸で何かができるようになる,なんて状態は,そういう子どもにとっては願ってもない状況である。

 しかし,そんな教師と児童の関係を見た児童や部外者は,どんなふうに感じるだろう。

 学校が,言葉によるコミュニケーションを重視するようになっているのは,

 「空気」によるコミュニケーションが実は「差別」「仲間外し」「いじめ」を生む大きな要因になっていることがわかったからである。

 教師は,子どもに言葉で伝える機会を増やすべきである。

 阿吽の呼吸で動いてくれる,なんてことを自慢したり,そういう関係を夢見たりするのはやめるべきである。

 

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【提言】 道徳教育充実のためのカリキュラム

 道徳の時間をただ確保したり,時間を増やすだけでは道徳教育は充実しない。

 現状では「形だけ」の道徳教育になっている学校があることは,一目でわかってしまうことである。

 私の提言は,「道徳の時間」を設けないことによって,道徳教育は充実させることができる,というものである。

 優れた担任による学級指導は,

 毎日の朝と帰りの「学活」が,道徳になっている。

 月曜日から金曜日まで,朝と帰りの5分間,合計すると50分になる。

 これを道徳の時間と読む。

 授業のコマが1つ空く。

 これは,特別活動の時間とする。

 特別活動は,2コマ連続した形,しかも学年ごとに同じ時間を設定し,曜日は全校で同じとする。

 なぜ特別活動が重要か。

 これは中学校で教師をしている人間なら,説明するまでもない。

 学級活動,生徒会活動,学校行事・・・・・生徒が自分から動かなければならないこれらの時間での行動によって,道徳的実践力は育っていく。

 教育委員会は,授業時数の届け出を鵜呑みにするのではなく,

 学校に行ったら過去の学級日誌をきちんとチェックしてみればよい。

 行事のために授業がカットされる,

 会議のために授業が短縮される,

 そういう「事実」がいくらでも見つかるだろう。

 行事に力が入れられる学校,生徒会活動が充実した学校,部活動がさかんな学校の生徒と,

 「うちの学校は道徳の授業に力を入れています」という学校の生徒の比べてみればよい。

 固定的な道徳の授業から,足を洗うときは今である。

 子どもの100%,教師の90%は,私の提言に賛成してくれると思う。

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絶望

 小学生にとって,いつも接している担任の教師は,信頼すべき大人の一人である。

 子どもによっては,信頼できる唯一の存在であるかもしれない。

 その教師の一言は非常に大きな意味をもつ。

 ときに,その教師の一言が,子どもを絶望へと導く。

 大人の側の感覚で,「そんな大げさな」と,子どもの「感じ方」を評価してはならない。

 「この程度のことは,いつも言っていることで,大した問題ではない」

 という教師の言い訳は,

 自分を守るための言葉であって,

 決して子どもを守るための言葉ではない。

 小学校時代に,教師への「基本的信頼感」を喪失した子どもの指導は難しい。

 固い殻に守られた,頑なな心をもつ一方,

 小さな一言で容易に「折れる」状態になっている。

 そういうことがよくわかっている教師の中には,

 自分の方が折れてしまう人が多い。

 こちらも「仕事なんだから頑張れ」なんて言葉を安易にかけることはできない。

 学校という現場は,

 「妥当性のある評価」によって,

 「現実を直視させる場」であり続けるべきか,

 それとも

 「夢」を見させる場であるべきか。

 私は,進学指導をする必要がない小学校教師の多くは,

 「夢」派だと考えていたが,最近は違ってきているようである。

 公立の中高一貫校の誕生は,

 本来のねらいとは

 完全に逆の効果を生み出してきているといえる。

 小学生に「夢」がない学校教育を引き継ぐ

 中学校の教育は困難を極める。

 部活動や学校行事で何とか救っているのが現状である。

 教科教育という狭い枠で研究を進める時代は終わったのかもしれない。

 今,学校は子どもを「絶望」の淵へと追いやる危険性をもっていることだけは,すべての教師が認識しておきたい。


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あなたはどのようなマニュアルがほしいか? ~AかBかしかない人間の発想~

 マニュアルは,どの人間でもそこに指示された手順の通りに実行すれば,誤りなく目的が達成できるようにするためのものである。

 だから,全国で1位をとるためのマニュアルというのは存在しない。

 しかし,全国で1位をとった学校が,どういう指導をしてきたか,という「実践記録」はつくれる。

 全国で1位をとりたい教師はそういうものを読みたいから,読み物や出版物としての需要もある。

 では,「実践記録」はだれにでも書けるものか,というと,そうでもない。

 カリキュラムにも,「ヒドゥン・カリキュラム」という世界があるように,

 自分がこれが当たり前だと思っている指導,

 これはやらないのが当たり前だと思っている指導は,

 なかなか「言葉」にならない。

 だから,全国で1位をとるような学校については,第三者が記者のように張り付いて,すべてを観察することで,その全貌が明らかになるかもしれない。

 問題は,ただの記者ではだめで,少なくとも専門性をもった指導者の立場の人間でないと,「実践記録」のようなものは書くことができない。

 小学校の教師になる人は,必ず読むような本がある。

 これは,教師自身による実践記録で,読むと確かによくできている。

 しかし,そこに書かれていることがすべてではないことくらいはだれでもわかる。

 私の教え子にも,本にはいいことを書いている先生だが,実際には全然違う教育を受けてきた子どもがたくさんいる。

 教師と子どものやりとりは,たかだか1000ページ,2000ページくらいの本で語れるものではない。

 実践記録から読めることの限界はある。

 ただ,「魂」はきっと伝わる。

 マニュアルにも,「魂」を伝えることはできる。

 「魂」をもった人が,「魂」の入ったマニュアルを使って指導すれば,

 きっと伝わるものがある。

 学習指導要領の解説には,「魂」が宿っている。

 中教審などの答申にも,「魂」は宿っている。

 それを「感じる」センスのある人でないと,教育はできない。

 そこに何もふれることができない教育関係者は,ニセモノである。


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教室に入ったら,教師はまずどこを見る?

 授業が始まる前,教師は教室に入ったとき,まず何をするべきか?

 すべてが教師の方を向いているものがある。

 それは生徒の顔である。

 教師は,まず生徒の心と体の健康状況を確認しなければならない。

 そして,課題を発見した場合は,授業の始まりの合図の前に,

 生徒に声をかけなければならない。

 教師は何のためにその場に入ってきたのか。

 授業をするためである。

 だれを対象に?

 その学級の生徒である。

 生徒のためにその場にやってきたのだ。

 しかし,生徒から見て,

 「私たちのためにやってきてくれた」

 と思えないような教師がいる。

 こういう教師の50分のスタートは,

 「まためんどうくさい50分のはじまり」と思っていることが伝わってしまうのである。

 50分のスタートは,

 まず「挨拶」から始まる。

 その「挨拶」の前に,体調の悪い生徒,元気のない生徒が放置されてしまうのは,

 「挨拶」がただの形式にすぎないことを強調していることになってしまう。

 教室で,まだ席についていない生徒を席につかせるより先に,

 全員の顔を見ることである。

 目が合うかどうかで,その教師が生徒にどう思われているかがわかる。

 教師がどういうスタンスで仕事を始めてくれるかが生徒に伝わったら,

 生徒は教師を見てくれる。

 だまっていても,席についてくれる。

 日本では,無言の挨拶も重要である。

 挨拶は,教室にはいったときから,「はじまっている」。
 
 それは,授業の「はじまり」でもある。


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【東京都民からの要望】 入試で試験時間を間違えた高校へ 

 教師の事務処理能力の低さは,現場に入ればよくわかる。

 大したことのない書類でも,「軽く見ている」のが一番の原因だろう,締め切りを過ぎても出さずに平気でいられる教師もいる。

 しかしさすがに,

 高校入試で試験時間を間違えて実施する人間がいるのは今までの「想定外」である。

 しかも,監督の教師は2人ついていた。

 50分の試験を55分かけようと,実質的にはたいした問題ではないが,

 「公平性」の観点から見ても,一部の受験生が5分長く問題を解くことができた,この試験は「無効」である。

 それを「調整」で済まさざるを得ないのは,本当に苦しい限りである。

 問題が起こった高校には,特徴がある。

 中学校の成績は比較的よい生徒ばかりが集まるが,大学進学の実績では目立たない,

 気楽に教育を行いたい教師にとっては「最高」の環境の職場である。

 だから問題が起こった,というわけではないが,

 仕事に対する緊張感のなさが容易に想像される「大事故」である。

 都教委も「過去に例がない」とコメントしているようが,

 おそらく試験を解いていた受験生は全員気が付いたはずである。

 情報がもれないわけがない。

 23日のテストのこのミスを,監督の教師が校長に報告したのは25日だそうだ。

 おそらく,教師から校長に報告が入る前に,情報が入ったことは容易に想像がつく。

 校長が教師に問いただして確認した,という可能性も高いだろう。

 何から何まで,教育公務員というより,公務員としての資質が問われる「重大事故」である。

 レベルが違う問題である。

 どうしてこういうことが起こるか?

 こういうことが起こることが想定されていないから,というのも答えの一つだろうが,

 やはり都民としては,

 「教師の単なる勘違い」

 ですましてほしくない。

 業務マニュアルを公開してもらい,その問題点を検証することを,ぜひ年度内にやってもらいたい。

 教師を処分すればよい,異動でとばせばすむという問題ではない。


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宮城谷昌光の言葉

  • 雲のうえに頂をもつ高山を登ろうとするのに、その山相のすさまじさに圧倒され、おじけづいていては何もはじまらない。最初の一歩を踏み出さねば、山頂は近づいてこない。
    「楽毅」第四巻より
  • みごとなものだ。斂(おさ)めるところは斂め、棄てるところは棄てている。楽氏が棄てたところに、われわれの生きる道がある。
    「楽毅」第四巻より
  • 去ってゆく千里の馬を追っても、とても追いつかぬぞ。千里の馬の尾をつかむには、その脚が停まったときしかない
    「楽毅」第四巻より
  • ・・・つくづく人のふしぎさを感じた。道を歩く者は、足もとの石をたしかめようとしないということである。千里のかなたを照らす宝石がころがっていても、気がつかない。それほどの名宝は深山幽谷に踏みこまなければ得られないとおもいこんでいる。
    「楽毅」第三巻より
  • この城をもっとたやすく落とすべきであった。たやすく得たものは、たやすく手放せる。
    「楽毅」第二巻より
  • なにかを信じつづけることはむずかしい。それより、信じつづけたことをやめるほうが、さらにむずかしい。
    「楽毅」第二巻より
  • からだで、皮膚で、感じるところに自身をおくことをせず、頭で判断したことに自身を縛りつけておくのは、賢明ではなく、むしろ怠慢なのではないか
    「楽毅」第二巻より
  • こうする、ああする、といちいち目的と行動とを配下におしえつづけてゆけば、配下はただ命令を待つだけで、思考をしなくなる。この四人はいつなんどき多数の兵を指揮することになるかもしれず、そのときにそなえて自立した思考力をもつ必要がある。
    「楽毅」第二巻より
  • 人は自分の存在を最小にすることによって最大を得ることができる
    「楽毅」第三巻より
  • 勇と智とをあわせもっている者は、攻めるときよりも退くときに、なにかをなすときより、なにもなさないときに、その良質をあらわす
    「楽毅」第二巻より