ウェブページ

最近のトラックバック

本の検索・注文


  • サーチする:
    Amazon.co.jp のロゴ

« 「ゆとり世代」だから,応用力がある・・・はずだったが・・・ | トップページ | なぜ道徳教育は充実しないのか? »

年をとっても「変われる」ことの証明

 私からのコメントは全く無視するし,記事は読んでいないふりをするので,

 情報は完全な一方通行なのだが,

 今回は「リアクション」があったと断言できる。

 ある記事で,

 こんな記述があった。

>人格障害は、生育歴に問題があると愛情の連鎖にて説明したが、歪んだ性格は対人関係を悪くするので、集団の中では孤立しやすい。

>教師からも「いやなやつ」という見方をされる可能性があるので、体罰を受けやすいとも言える。


 簡単に言えば,「歪んだ性格の子どもが体罰を受けやすい」ということだ。

 この人は,体罰というものの本質がわかっていないというか,そもそも教育観がどうかしていることがわかる。

 教師は「いやななつ」に体罰をふるうのか?

 そうではないのだ。

 そもそも,「いやなやつ」という感覚を子どもに対して持つような人間は,教師になるべきではない。

 話が二重にそれるが,今,クラス替えをどうするか,どういうクラスをだれがもつか,という準備を各学校で行っていると思う。

 この作業のときに,「私はこの生徒と合わないから,とりかえてくれ」と食い下がる教師がいる学校がある。

 こういう「合わない生徒」がいる教師は,おそらく「合わない教師」だと思っている生徒がたくさんいる教師である。

 はっきり言えば,不適格教員である。

 このように「個人的な理由で受け持ちからはずす」という「わがまま」を,原則として禁止している学校も多いはずだ。

 なぜならば,「だれも持ちたくない生徒」の「押し付け合い」などという最も見苦しい「争い」が起こるのを防ぐためである。

 私がこの話を家内にして,「こんなわがままを許せるか?」と聞いてみたら,こう答えてきた。

 「そんな担任のクラスになった子どもの方がかわいそう」
 
 「嫌いだということが子どもに伝わってしまうだろうから」

 つまり,教師のわがままが,結果として子どものためになる,という教育の世界でよくある例の一つに整理されてしまった。


 話をもとに戻そう。

 人格障害で歪んだ性格は体罰の原因になる,という話はおかしいのだ。

 私は,人格障害という「診断」が思春期の子どもになされることはまずない,という趣旨のことを書いた。

 私の主張と同じことを,2日後にUPした記事で書いている。

 そして,記事の内容も,体罰の本質は理解していないものの,「教師向け」として恥ずかしくない内容にはなっている。

 年をとっても「変われる」ことを証明してくれた,と解釈する・・・・・

 という「評価」が,中学校の場合は「裏切られる」ことがよくあるのが,「教育現場」である。

 なぜなら,「人格の完成」を「目標」にしている職場だからである。

 賢い子どもは訴えたいだろう。

 教師に。

 「人格の完成」を目指してください・・・と。


ブログランキング・にほんブログ村へにほんブログ村 教育ブログへにほんブログ村 教育ブログ 教師教育・教員養成へにほんブログ村 教育ブログ 教育論・教育問題へ

« 「ゆとり世代」だから,応用力がある・・・はずだったが・・・ | トップページ | なぜ道徳教育は充実しないのか? »

教育」カテゴリの記事

ブログネタ」カテゴリの記事

仕事術」カテゴリの記事

教師の逆コンピテンシー」カテゴリの記事

コメント

この記事へのコメントは終了しました。

トラックバック


この記事へのトラックバック一覧です: 年をとっても「変われる」ことの証明:

« 「ゆとり世代」だから,応用力がある・・・はずだったが・・・ | トップページ | なぜ道徳教育は充実しないのか? »

2021年11月
  1 2 3 4 5 6
7 8 9 10 11 12 13
14 15 16 17 18 19 20
21 22 23 24 25 26 27
28 29 30        
無料ブログはココログ

宮城谷昌光の言葉

  • 雲のうえに頂をもつ高山を登ろうとするのに、その山相のすさまじさに圧倒され、おじけづいていては何もはじまらない。最初の一歩を踏み出さねば、山頂は近づいてこない。
    「楽毅」第四巻より
  • みごとなものだ。斂(おさ)めるところは斂め、棄てるところは棄てている。楽氏が棄てたところに、われわれの生きる道がある。
    「楽毅」第四巻より
  • 去ってゆく千里の馬を追っても、とても追いつかぬぞ。千里の馬の尾をつかむには、その脚が停まったときしかない
    「楽毅」第四巻より
  • ・・・つくづく人のふしぎさを感じた。道を歩く者は、足もとの石をたしかめようとしないということである。千里のかなたを照らす宝石がころがっていても、気がつかない。それほどの名宝は深山幽谷に踏みこまなければ得られないとおもいこんでいる。
    「楽毅」第三巻より
  • この城をもっとたやすく落とすべきであった。たやすく得たものは、たやすく手放せる。
    「楽毅」第二巻より
  • なにかを信じつづけることはむずかしい。それより、信じつづけたことをやめるほうが、さらにむずかしい。
    「楽毅」第二巻より
  • からだで、皮膚で、感じるところに自身をおくことをせず、頭で判断したことに自身を縛りつけておくのは、賢明ではなく、むしろ怠慢なのではないか
    「楽毅」第二巻より
  • こうする、ああする、といちいち目的と行動とを配下におしえつづけてゆけば、配下はただ命令を待つだけで、思考をしなくなる。この四人はいつなんどき多数の兵を指揮することになるかもしれず、そのときにそなえて自立した思考力をもつ必要がある。
    「楽毅」第二巻より
  • 人は自分の存在を最小にすることによって最大を得ることができる
    「楽毅」第三巻より
  • 勇と智とをあわせもっている者は、攻めるときよりも退くときに、なにかをなすときより、なにもなさないときに、その良質をあらわす
    「楽毅」第二巻より