なぜ道徳教育は充実しないのか?
何度も書いてきたことだから繰り返すまでもないことだが,
なぜ多くの教師が道徳を苦手とし,
多くの児童生徒が「もっとも充実していない時間」の一つに道徳をあげるのか?
それは,
「テストで成果が測れない」ことが一つの要因である。
仮に「テストで成果が測れる」としても,
学習に関する技能の「格差」なら子どもでも納得がいくが,
「道徳性」に関する「格差」を持ち出されると,それが「心の傷」になりかねない。
ある人のように,
「生育歴のせいだ」
なんて主張されると,自分だけでなく家族への「疑念」「否定」に結びつくおそれがある。
名古屋市の中学生が,注意してきた父親をナイフで刺した。
2人暮らしの父親がいなくなることの意味は何か。
好きなだけゲームができることか。
子どもを「指導すること」は,教師でも親でも難しい。
もしこの生徒の「道徳」の「成績」があったとして,
それが「たいへん優れている」というものであるのも恐ろしいし,
「特に努力を要する」というものでも,ただ哀しいと嘆いてはいられない。
「道徳」の「評価」に限らない。
「学習評価」も同じである。
「評価」「評定」の機能を,見直すべきときである。
「どういう成果が表れたのか」をすぐに知りたがる傾向を
学校現場に持ち込んだのは,
文部科学省である。
学校教育を管轄する文部科学省が,
いくつかの省庁から優秀な人材を集め直して
教育省という新しい組織を立ち上げ,大変身を遂げない限り,
日本の教育は,
「小さく」「小さく」なっていく。
今,「小さく」なっていく典型が「大学」である。
話がそれたので,またの機会にしたい。
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