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2013年2月

なぜ道徳教育は充実しないのか?

 何度も書いてきたことだから繰り返すまでもないことだが,

 なぜ多くの教師が道徳を苦手とし,

 多くの児童生徒が「もっとも充実していない時間」の一つに道徳をあげるのか?

 それは,

 「テストで成果が測れない」ことが一つの要因である。

 仮に「テストで成果が測れる」としても,

 学習に関する技能の「格差」なら子どもでも納得がいくが,

 「道徳性」に関する「格差」を持ち出されると,それが「心の傷」になりかねない。
 
 ある人のように,

 「生育歴のせいだ」

 なんて主張されると,自分だけでなく家族への「疑念」「否定」に結びつくおそれがある。

 名古屋市の中学生が,注意してきた父親をナイフで刺した。

 2人暮らしの父親がいなくなることの意味は何か。

 好きなだけゲームができることか。

 子どもを「指導すること」は,教師でも親でも難しい。

 もしこの生徒の「道徳」の「成績」があったとして,

 それが「たいへん優れている」というものであるのも恐ろしいし,

 「特に努力を要する」というものでも,ただ哀しいと嘆いてはいられない。

 
 「道徳」の「評価」に限らない。

 「学習評価」も同じである。 

 「評価」「評定」の機能を,見直すべきときである。

 「どういう成果が表れたのか」をすぐに知りたがる傾向を

 学校現場に持ち込んだのは,

 文部科学省である。

 学校教育を管轄する文部科学省が,

 いくつかの省庁から優秀な人材を集め直して

 教育省という新しい組織を立ち上げ,大変身を遂げない限り,

 日本の教育は,

 「小さく」「小さく」なっていく。

 今,「小さく」なっていく典型が「大学」である。

 話がそれたので,またの機会にしたい。


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年をとっても「変われる」ことの証明

 私からのコメントは全く無視するし,記事は読んでいないふりをするので,

 情報は完全な一方通行なのだが,

 今回は「リアクション」があったと断言できる。

 ある記事で,

 こんな記述があった。

>人格障害は、生育歴に問題があると愛情の連鎖にて説明したが、歪んだ性格は対人関係を悪くするので、集団の中では孤立しやすい。

>教師からも「いやなやつ」という見方をされる可能性があるので、体罰を受けやすいとも言える。


 簡単に言えば,「歪んだ性格の子どもが体罰を受けやすい」ということだ。

 この人は,体罰というものの本質がわかっていないというか,そもそも教育観がどうかしていることがわかる。

 教師は「いやななつ」に体罰をふるうのか?

 そうではないのだ。

 そもそも,「いやなやつ」という感覚を子どもに対して持つような人間は,教師になるべきではない。

 話が二重にそれるが,今,クラス替えをどうするか,どういうクラスをだれがもつか,という準備を各学校で行っていると思う。

 この作業のときに,「私はこの生徒と合わないから,とりかえてくれ」と食い下がる教師がいる学校がある。

 こういう「合わない生徒」がいる教師は,おそらく「合わない教師」だと思っている生徒がたくさんいる教師である。

 はっきり言えば,不適格教員である。

 このように「個人的な理由で受け持ちからはずす」という「わがまま」を,原則として禁止している学校も多いはずだ。

 なぜならば,「だれも持ちたくない生徒」の「押し付け合い」などという最も見苦しい「争い」が起こるのを防ぐためである。

 私がこの話を家内にして,「こんなわがままを許せるか?」と聞いてみたら,こう答えてきた。

 「そんな担任のクラスになった子どもの方がかわいそう」
 
 「嫌いだということが子どもに伝わってしまうだろうから」

 つまり,教師のわがままが,結果として子どものためになる,という教育の世界でよくある例の一つに整理されてしまった。


 話をもとに戻そう。

 人格障害で歪んだ性格は体罰の原因になる,という話はおかしいのだ。

 私は,人格障害という「診断」が思春期の子どもになされることはまずない,という趣旨のことを書いた。

 私の主張と同じことを,2日後にUPした記事で書いている。

 そして,記事の内容も,体罰の本質は理解していないものの,「教師向け」として恥ずかしくない内容にはなっている。

 年をとっても「変われる」ことを証明してくれた,と解釈する・・・・・

 という「評価」が,中学校の場合は「裏切られる」ことがよくあるのが,「教育現場」である。

 なぜなら,「人格の完成」を「目標」にしている職場だからである。

 賢い子どもは訴えたいだろう。

 教師に。

 「人格の完成」を目指してください・・・と。


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「ゆとり世代」だから,応用力がある・・・はずだったが・・・

 良問よりも悪問で「落とす」ことを重視した私立大学のことは脇へおいて,

 大学入試や公立高校の入試で,まとまった文字数の文章で解答させる問題が増えている。

 学習指導要領の改訂の趣旨を受けたものである・・・・はずだが,

 実は,改訂がなされなくても,そういう問題はある程度は出題されていてもよかったはず。

 しかし,問題を作成する側になってみるとわかるが,

 「正解」「採点基準」がはっきりした,文章で答えさせる問題というのはなかなか作りにくい。

 定期考査なら,返却が終わった後,いろいろと議論して,

 採点基準が変わることはあり得る。

 しかし,入試問題となると,そうはいかない。

 もし,その基準が誤っていたら・・・・。

 さて,一般的には

 「ゆとり世代」=「学力が低い」

 と思われているようだが,

 実際には,表現力や応用力を鍛える「ゆとり」があったのが「ゆとり世代」だから,

 そういう問題には強くないといけない。

 実際はどうか。

 東京都立の社会科の問題を教育委員会のHPからダウンロードして見てみたが,

 最後の問題の「模範解答」が気になる。

 「問い」に正対した「答え」になっていないように思えてしまう。

 ・・・・という問題が,起こりやすいのは,ある意味では当然のことである。

 「社会科」ならなおさらに。

 特定の正解や採点基準が絶対とは言えないおそれがある社会科では,

 記述式の問題を出すのが適当か?

 「1点」の差で「人生の分かれ目になる」入試には,やはり向かないのだろうか?

 新しい指導要領に基づいて学習し,高校を受験をするのは,現在の中学1生徒である。

 中2よりも,内容が充実した中1の方が,「学力」は高くなるはずであるが,実際のところはどうか?

 この比較によって,「ゆとり世代」の真価がわかる。 


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小中学生に「人格障害」と診断を下せる人がいる?

 その筋にはとてもくわしいはずだが,

 「人格」の形成途上である小中学生に対して「人格障害」という診断が下せると本気で考えているのだろうか?

 専門家の意見を聞いてみたい。

 なお,「人格障害」とは「Personality Disorder」のことだが,

 「精神分裂病」が「統合失調症」と変更された際,「人格障害」も「パーソナリティ障害」と変更されているらしい。

 日本語の一般名詞としての「人格」には,「人格者」というように価値を含む意味があるので,

 心理学などの分野で使う場合は「パーソナリティ」の方が適切であろうと思われる。

 教師は問題行動を起こす生徒の指導場面で,生育歴のことを念頭に入れるのはかまわないが,

 それを公の場で書いたり話したりすることは遠慮すべきである。

 しかも,それが単なる「誤解」に過ぎないのであれば,子どもや保護者に失礼である。

 教師は「医師のように」ふるまう場面もありうるが,「医師ではない」ことを忘れてはならない。

 そして,教師は,子どもが心の傷を負っていようといまいと,つらくあたるのではなく,いいところを見つけて声をかけてやることが大切なのは,言うまでもない。

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【再掲 ~道徳を考える・その3~】 子どもが道徳の時間に学んでいること(2009年9月←2008年7月「子どもが自らつかむ道徳的価値とは?」)

 長男の担任は,「道徳の時間が嫌いだ」と公言しているようです。

 そういう教師が「登場人物の気持ちになりきって」迫真の「演技」を授業でしている・・・。

 子どもの価値観は,どのように育っていくのでしょう。

 「道徳教育」という言葉があり,「道徳の時間」があるために,教師たちは学習指導要領に示された様々な「価値」を教えようと努力するわけですが,それが「どのような努力」「何のための努力」かを子どもが知ってしまうと,全くねらいとかけ離れた教育が営まれることになります。
 
 子どもたちにとって,「大人たちのずるさ」「建前重視の日本社会」を学ぶのが道徳の時間になってはいないでしょうか。(以上,2009年9月15日の記事)

********************

08/7/04

子どもが自らつかむ道徳的価値とは?

 道徳の副読本や「心のノート」には,ごくごく当たり前の指導言が書かれており,これに反対する人は一人もいないと思います。

 しかし、そう教師に言われた子どもが、みんなそのように学び合う関係をつくっていけるか

 それができたら「教育改革」なんて必要ありません。

 教師は、「道徳で教えたでしょ!その通りにしなさい」などとは言わないでしょうが、そんな感覚を抱く人は少なくないと思います。

 子どもは、大人の「ごく当たり前の指導言」に出くわすと、何と思うか。

 「きれいごとばかり言って!」「大人のあなたはそういう関係がつくれているのですか?

 道徳の授業が苦手な教師が多く、道徳の時間がくるのが待ち遠しいという生徒が少ない理由は、教師でなくても考えればわかることです。

 ポイントは、子ども自らが道徳的価値に気付けるような指導となっているかどうか。

 道徳の成否は、ごく当たり前の、常識的なことをわざとらしく答えなければならない授業ではなくて、それが「自ら学んだ」「自分で獲得した」価値となったかどうかにかかっています。
 
 なぜ「自分より実力のある人間とつき合いなさい」などと教師が言うのか。

 子どもたちにも、必ず考えてもらいたい問いなのです。

 本当に素直にこの言葉を受け取って、じっくりと人間観察を始める子どももいます。

 なぜ「誰とでも分け隔てなくつきあいなさい」という当たり前のことを言わないのか。そこに疑問や興味を感じる子どももいます。

 とりあえず、「自分より実力のある人間とつき合う」努力をしてみると、どんなことがわかるのか。

 自分は、「実力」を固定的にとらえていないか。

 勉強のできる子ばかりを探そうとしていないか。

 その幅の広がりに目が向いているか。

 自分は豊かな人間観・友人観をもっているか。 

 子どもたちは、さまざまなことを気付かされるのです。

 生徒たちに限らず、大人でも、自分より優れたものをもっている人とのつきあい方が上手でないために、損している人はたくさんいます。

 環境自体が誰とでも分け隔てなく活動するようなシステムになっている私の学校では、子どもに強調する第一点が、「長所を学び、盗んでいこう」ということになります。

 わざわざ、「あなたの長所をまねしたいのですが、いいですか」などと、断る必要はありません。

 どんどん盗んでいいのです。

 発表するとき、たとえや図を使いながら説明すると意味が伝わりやすいんだな。

 発言するときは、先生の方ではなく、教室の中央に向かって話すという方法もあるんだな。

 みんなの注目を集めるときは、ちょっとだけでもジェスチャーを入れるのが効果的なんだな。

 友達の失敗のフォローって、こうすると相手が傷つかないですむんだな。

 先生に質問するときは、あらかじめこういうメモをつくっておくといいんだな。

 テストで出そうな内容を質問するときのポイントはこれだな。

 この人のノートは見やすいっていうけど、ポイントはこのスペースの使い方なんだな。

 この人の話し方は、なんだか安心感を相手に与える。そのこつは笑顔とタイミングのいいうなずきかな。

 ・・・「学び慣れ」していくと、加速度的に長所が盗めるようになっていきます

 そして、最も「学び上手」の生徒が、よきリーダーとして育っていきます。

 さらに、「学び方」がわかってくると、それを他の生徒に教えることも得意になってきます。

 「気の合う」友達づきあいというのは、黙っていても子どもは勝手に始めるものですし、その中ですでに「学び合い」をしているかもしれません。

 また、「つきあい」には、メル友になるようなレベルのものもあるでしょうが、班、係、委員会、部活動、当番活動・・・など、子どもたちには「つきあい」だらけの毎日を過ごします。

 ただ、惰性のつきあいをしていると、子どもの中には、相手の欠点ばかりに目がいって、ときにはそれを攻撃の材料にしたり、自分と共通した欠点を互いに慰め合う材料にしたりするものです。

 いじめ問題も、多くの場合、「相手より優位に立ちたい(立ち続けたい)」という願望が引き起こしていると私は考えています。

 ですからあえて教師の側では、「力のある生徒とつきあおう」というわけです。

 自尊心が高すぎる生徒にはその鼻の高さを調整する指導を入れることがありますし、理想が高すぎて自己肯定感が弱い生徒には、友だちからのはたらきかけによってその感覚を高めさせる指導を入れることもあります。

 「長所に目を向けさせる」教育。

 子どもによっては、それが短所への攻撃性を高める原因になっているとお感じかもしれませんが、もし実際の攻撃があったときこそ、その生徒への「人間教育」の指導の糸口になるのです。

 人間が対等であるとか、敬意をはらうべき対象であるということは、子どもたちが道徳的実践の中で自ら気付いていくものです。「そういうものなんだから・・・」では、子どもを変えることはできません。

 「そんな言い方、おかしんじゃないか?」という興味・関心をひくことができただけでも、このような指導法の効果を実感していただけるのではないでしょうか。


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日本でカミングアウトが広がらない理由

 教師の話に,子どもが「ドン引き」してしまう,こういうことがある。

 たとえば,カミングアウトである。

 日本では,たとえば自分が自閉症である,うつ病である,ということをカミングアウトする人の割合が非常に低いという。

 カミングアウトする「目的」に対する「理解」が得られにくい社会であることが一因にあろう。

 あるブロガーは,自分の生い立ちを公開してくれている。

 それで読者は「だから他人のことをこういうふうに呼べるのか」ということを納得できるという効果もあるが,

 自分がそういう生い立ちだから,「他人の悪口を書く」ことが許されるわけではない。
 
 自分が許されないことをしていることの「言い訳」にしようとしているのか,と勘繰られるおそれがある,と心配する人なら,こういうカミングアウトはしない。

 幼児期に基本的信頼感が獲得できないで育った人間は,

 自分のことを批判してくる相手を
 
 「敵」としか理解できなから,学校でも荒れるのである。

 「相手が批判する目的」を考えるゆとりのある人間なら,

 相手の誤解を解消する努力をするとか,正しく理解してもらえるような説明をするとか,

 そういう努力ができるのである。

 その努力というか,行動が全くできないブロガーが,そのことによって読者の注目を集めるブログ村は,ある意味で「学校の縮図」である。

 教師の方の基本的スタンスは,「粘り強く」である。

 相手が分かるまで,説明する。

 「説得」はしない。

 あくまで相手が「気づく」ことが大切なのである。

 
 話は横道にそれるが,授業案の中で,「気づく」(「気づかせる」)を私が多用したことを批判した教師がいた。

 おそらくその教師は,「気づかせる」ことがどれだけ大変なことか,理解していない。

 「理解させる」ことが,どれだけ大変なことか,理解してない。

 
 どんなに理路整然とAという生徒が発表しても,その他の39名が理解できているとは限らない。

 小学校で,そういう風景をよく見る。

 ある子どもが,本当にもっともらしい答えを出し,その他の子どもがウンウンとうなずいている。

 その様子をみて,「みんな,よく理解できましたね」・・・・・・って・・・・。

 そんな子どもの理解状況への理解が正しいわけがないことは,中学生なら理解できる。

 なぜか。理解できていなかったことが理解できるから。

 
 話を戻そう。

 カミングアウトをする目的が,「私を理解して」ではなく,

 「私のような人を理解して」なら,いいのである。

 願いが「私のような人を理解して」ならば,

 「私のような人」が書いている文章に,きつく当たったりはできないはずなのだ。

 つまり,利己主義の人間のカミングアウトなど,だれも望んでいないということである。

 
 自分のことはどうでもいいから,他者にやさしくし,

 自分と同じような境遇にある人のことを理解してほしい,

 という願いのもとでの行動をとらなければならないのである。


 情熱が邪魔して自分だけ先走っている教師が少なくなれば,日本の教育は少しはましになる。

 
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子どもが負う心の傷

 どんな人でも,一度くらいは,

 「大人に騙された」

 と思う経験をするだろう。

 大人になれば,

 「ホンネとタテマエの世界」の必要性が理解できるから,

 納得して終わり,になる話だが,

 子ども時代はそうはいかない。

 子どもはまず

 「親に騙された」

 ことを知り,

 そして学校で

 「教師に騙される」

 ことを知る。

 いろんなレベルの「心の傷」を子どもは負いながら成長していくのである。

 「学校の先生は,全員,すべての子どものことが好きだと言っているよ」

 これは,事実かもしれない。

 しかし,「好きだと言っている」

 ことと,

 「好きである」

 ことは違う。

 そして,人間は,「好きな相手」にさえ,

 その人を傷つけるような行動をとってしまうものである。

 だから,

 そういう「口先だけの言葉」というのは,日本では価値はない。

 何を大事にすべきかというと,

 言葉で表現しなくても,それが伝わるような接し方をすることが大事なのである。

 行動が一番なのである。

 授業を自習にして,子どもがいるのに学校を離れるような教師になってはいけないのである。

 言葉のコミュニケーションが,言葉以外のコミュニケーションよりも非常に重視される国や地域であれば,考えていないことでも,とりあえず「自分がどういう人間であるかの宣言」をすることが必要だから,「話す」ことが重要である。

 日本のような国では,

 「何も話してくれなくても,そばにいてくれるだけで安心できる」

 人間関係が成立してきた。

 そして,「口先の言葉をあてにしてはいけない」という優れたリスクコントロール能力を体得している。

 「話す能力ばかりを重視する」の英語教育の結果,

 海外で騙される人の人間が増えるのは,当然のことである。

 中学校で教師をしていると,

 子どもは「教師とはこういうもの」「大人とはこういうもの」という「常識」をもって進学している。

 ある意味では,小学校の教師に感謝したい。

 中学校は,子どもの「教師」「大人」の観念を覆せる場所であり,

 初めて親以外で信頼できる大人に出会える場所になる可能性を秘めている。

 学級担任制の小学校では,

 信頼するもしないも,相手が一人しかいないのだから,

 子どもは「大人」を「学ぶ」ことができない。

 信頼しなくてはいけない大人ではなく,

 信頼できる大人に出会える場所で,子どもは変わっていく。

 それに失敗して大人になっていった子どもたちが,今,教師になって

 どういう生き方ができるだろう。

 子どもとの距離感がわからない教師が増えている理由はとても分かりやすい。


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「分かりやすさ」を第一にする教育が行き着く先

 以前に,書いた話だから繰り返さないが,

 ヒトラーはどのような演説を心がけていたか。

 それは,民衆の愚かさを逆手に取った作戦である。

 それと同じことを小学校では堂々とやっているらしい。

 「分かりやすさ」とは何か?

 このことへの深い洞察を持っている小学校教師がいたら教えてほしい。

 「分かりやすさ」で受けた政治家が,国民にもたらしたものは何なのか。

 「だれでも分かる」ということの意味は何か?

 そもそも「分かる」とは何か?

 あなたがもし教師だったら,自分が行っている教育の特色をひとことで表現できるだろうか?

 それも,専門とする教科指導における特色について。

 そんなものをひとことで表現できるような教師を,だれが優秀と判断してくれるのだろうか?

 だれが信用するのだろうか?

 「愛を大切にしています」と真面目に自分の担任が答えたら,

 保護者はどう感じるだろうか?

 キャッチコピー,キャッチフレーズ,全盛時代である。

 日本人は,流行語というものへの関心が高い。

 短いフレーズで,分かったような気持ちになることの危険性を,

 歴史から,社会の現実から学ぼうとする姿勢を子どもに身につけさせる場が学校である。

 「生きる力」という言葉は私がつけた,と自慢していた役人を忘年会で見たことがある。

 どの省庁の役人かは言うまでもないだろう。

 「言語活動」という言葉も,今,一人歩きしている。

 勘違いしている教師たちが,「話し合い」の時間をただ増やしている。

 「言語活動」を「はやらせた」人間は,地方から中央へ上ってきたらしい。

 この国の教育の課題は,こうした話からも明らかである。


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「自己愛」と「自己中」の違いが分からない人

 人間は,自分が持っていないものの話をしたがる傾向があるという。

 それはそれとして,

 教育を語るとき,「自己愛」を除く「愛」などという話を持ち出している人間がいる。

 心理学を学んだ形跡が感じられない。

 ここではいちいち引用しないが,

 自己愛が育たない子どもがどうして生まれるか,ということは,教育関係者でなくてもわかるだろう。

 どうして他人を大事に思うことができるのか?

 教育に関する話は,真面目に書き出すと,

 「偽善者」と批判してくる人が昔はいた。

 そう揶揄したい気持ちは痛いほどわかる。

 自分がいかに不幸だったかを教えてくれた人もいた。

 こちらとしては,「なるほどね」と納得するのみである。

 今,たとえば小学校で,「自己愛」をもっていない子どもは,どう扱われているのだろうか。

 「自己愛」をもっていない教師は,「自己愛」をもっていない子どもをどう教育しようとするのだろうか。

 今日も,小学校の教師の課題を聞かされた。

 6~12歳の子どもばかりを相手にしていると,

 本当に社会の常識からはかけ離れた「信仰」をもってしまうらしい。

 「見栄えがよければいい」

 ・・・・・たまたま手に取った本に,「教室はこういう風に飾る」という見本が載っている。

 小学校の教室に入ると,だいたい同じような光景である。

 殺風景な教室を小学校で見たことがない。

 これが,そもそもの誤りのもとである。

 感覚がずれている。

 それを修正する方法は,今のところないらしい。


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小学校には,分かりやすい「いじめ」の原因がある

 あるブロガーが,教えてくれている。

 古いタイプの小学校教師が,みんな読んでいる本がある。

 そこに描かれている「教育」が,「いじめ」を起こす原因になっている。

 知らないのは,教師だけである。

 どうして小学校の教師は,「そこ」にふれたがるのだろう。

 中学校での常識は,「そこ」にはふれてはいけないのである。

 なかなか分かってもらうのは難しいだろうが,

 どこかで「子どもの本音」に接する場面をつくってあげたい。

 かなりのショックを受けるだろうが,そうでもしないと小学校の教育は変わりそうもない。

 本当に手を抜いているような教師のクラスでは,

 「いい問題」が「いい具合」に発生する。

 ところが,やけに「教師らしさを発揮しよう」とする教師のクラスでは,

 「嫌な問題」が「嫌な隠れ方」をする。

 充満したガスが破裂するのは中学校である。

 「いい問題」を「いい具合」に起こした経験のある小学生たちは,

 自分たちで問題を解決する(方法を知っている)ので,

 手がかからない。


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いずれ常態化する教師と子どもの排除合戦

 体罰の厳禁化だけでなく,過去にさかのぼっての告発が行われ始めている。

 教師の徹底的な排除合戦の幕開けである。

 すでに,荒れ始めている学校もあるだろう。

 そして,手がつけられないほどの暴力や破壊活動を繰り返す子どもは,指導を受ける機会も得られず,学校から排除されていく。

 私は中学校の教師で,荒れた学校の荒れ果てた生徒をどうにか希望の高校に入学させたものの,ごくごくわずかな期間で退学処分という形で排除されたという話を以前に書いた。

 高校の教師が生徒を挑発し,暴れさせて学校から追い出したのである。

 高校の教師は痛くもかゆくもない。

 いるだけ面倒くさい,邪魔だ,そういう生徒だったろうと思う。

 義務教育と,未履修をやらかすようないい加減な教育機関の違いがこれである。

 同じことが,義務教育でもおこるだろう。

 ・・・・・・・・・・というのが,悪いシナリオである。

 体罰の厳禁化によって,

 「理想の教育ができる」という希望に目を輝かせている人に会ってみたい。

 頼もしい限りである。


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【再掲 ~道徳を考える・その2~】 道徳の教科化(2007年4月)

 直近の話題(*注1:2007年のこと)に関する賛否の表明がブログというメディアのスタンスでは大切だと思うので,「道徳の教科化」について,主に「改正教育基本法反対」「反政府」の立場の人たちから反対意見が多い中,ちょっとだけ勇気をもって「賛成」意見を述べようと思います。

 ただし,「条件付」賛成です。

 まず,基本的に賛成の立場をとる理由は,まず,今までの道徳の時間の無駄が省けること。

 この4月で小学校3年生になる子どもが,最近になって,「心のノート」を本棚に入れていました。これは,1・2年生の副教材ですから,どんな勉強をしたのかなと思って開いてみたら,何の記入もなし。このノートは,書き込みができるのが特徴になっています。どうしたの?と聞くと,2年生が終わる3月に配布されたとのこと。

 学校現場というのは,こんな調子なのです。副教材を買わせて指導する学校もあるかもしれませんが,それがどれくらい活用されているかは疑問です。

 まず,教科になれば,このような税金の無駄や家庭の負担はなくなるということ。

 次に,「教科書」ができることで,教師が安心して指導できるようになるということ。

 ここが条件付ですが,この教科書に掲載する教材は,国語の教科書みたいな「読み物」中心では絶対にいけません。国語の教科の専門家につくらせてはいけない。これは譲れない条件です。ではつくる主体はだれかというと,社会科専門の教師です。

 現行の道徳の内容と改正教育基本法の中身をみると,驚くほど似ています。

 そして実は,社会科の教科目標とも似ている。

 社会科の教師が,現代社会のさまざまな問題の中から,,道徳的価値を自覚しやすいものを選び,「教え込み」でなく生徒が授業を創造できるような「学び合い」の教材として教科書化する。

 これが条件です。それほど難しい注文ではありません。

 研究熱心な社会科の教師の授業は,かなりの度合いで道徳的です。

 うまくいけば,今まで日本の教育ではタブーだった宗教にもふれられます。(*注2:平成20年の学習指導要領改訂で,中学校社会科の改訂の趣旨の一つに,「宗教に関する学習の重視」が盛り込まれました。)

 国際社会で生き抜く上で,宗教に関する無知は重大な課題となり,日本の将来にとっても命取りになりかねません。

 さらに付け加えたい条件は,道徳を教科にするなら,その専門家を育てること。

 現行の道徳は,担任が指導することが原則になっていますが,今後は,「道徳」の免許を持った教師が教える。ただしこれは,すぐに実現できるように,免許更新とセットで希望する教師に取得させる。道徳だけを教える教師がいてもよいということです。定数もこれに伴って変更する。

 道徳の教科化に批判的な人の大方の意見は,「どう評価するのか」ということですが,これは現行の指導要録の「行動の記録」をより具体的・計画的に評価できるシステムを構築する。

 現行の指導要録では,「反社会的」「滅公奉私」の行動をとる生徒を,記録の上で残せない問題がありました。
 
 ですから,テストの点はとるが,清掃はサボる,遅刻は多い,人を傷つける・・・そんな生徒でも優秀だと思われて進学してしまう仕組みがありました。

 「私的空間」を重視する倫理と違って道徳の場合は「公共空間」「社会」での生き方に重点がおかれます。自治活動や部活動がさかんな学校では,非常に評価しやすい内容になります。
 
 「国のため」というと「戦争で死ぬ」ことしか頭に浮かばない人が50代の教師に多いようですが,今の小中学生はまだ「国」とは何かがわかっていませんし,徴兵制の国でもなく,天皇は象徴(今では平和と国際親善の象徴の色合いが濃い)ですから,「戦前に逆戻り」というのは絶対にありえません。

 近代日本があの形をとれたのは,天皇権威を政治に利用できたからであって,権威のない政府や軍部だけでは成立しなかったのです。

 最後に賛成の理由をもう一つ。道徳は,総合的な学習の時間と同じように,地域や社会の人材を生かしやすい領域だということ。身近な地域の人々による教育参画が促せるようになります。

 私なら,「公共空間」に生きるとはどういうことか?「私共空間」(*注3:公の場所を,わがままな人間たちが私的な行動をとる場所にしてしまうこと)の誘惑にどう打ち勝つか?などをテーマに授業をしたいですね。

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【再掲 ~道徳を考える・その1~】 道徳の行方(2009年12月)

 道徳の学習は、「いっそのこと知識問題として捉えた方がスッキリする」と思っている生徒も教師も多いかもしれません。

 だれが何をどう評価したか、ということを評価することはそれほど難しいことではないのです。

 道徳が教科になるときは、教養というイメージに近い「知識モノ」になり、ますます「建前社会」が強化される準備が整うのでしょうか。

 価値を共感的に受け止めることのできる子どもは、価値が極めて高い形で表れているときには、感銘を受ける。

 子どもたちにとって、「学ぶことの価値」ほど実感のわかないものはありません。

 ですから「価値」自体を問題にする道徳ほど、指導が難しい時間はないのです。

 共感をおぼえたり感銘を受けたりすることそれ自体は、何も学校でなければ学ぶことができないものではないし、むしろわざわざなぜこんなことを学校で・・・という思いも抱いていることでしょう。

 すべての子どもにタイムリーな話題というのはなかなかありません。たとえ合唱コンクールの成功に向けてみんなが一丸となって努力しているように見えている時期でも、合唱「困苦ール」で悩んでいる子どももいるわけです。

 もし子どもの現実から道徳の学習を構成しようと思ったら、それは学習や生活の中に課題を見いだしていく形でなければ成立しないのです。

 道徳に対する考え方ほど、教師の中であやふやでかつ一致をみないものはありません。

 それが本来の道徳かもしれないことを、分かる「ゆとり」も大人が持っていないのが厳しいところです。


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中国に学ぶべきこと ~テレビに映される○○~

 中国のテレビでは,○○はそのまま画面に映される。

 日本では決してそんなことはしない。

 両国の文化の違いである。

 ある人は,日本も映すべきだ,と主張する。

 その主張の根拠は,日本人は,子どもも大人も,○○を目にすることがほとんどないから,

 思い詰めると自分で命を捨ててしまうのだ,というもの。

 悲惨な状況の○○を目にすれば,自分がそんなふうになることをおそれ,

 命を捨てる行為を思いとどまらせることができる・・・・・。

 ・・・・そうだろうか。

 私は使ったことがないが,ある中学校では,喫煙の習慣がおさまらない中学生に,

 がん患者の肺の写真を見せることで,抑止力にしようとしていた。

 これで効き目はあったかどうかは知らない。

 中学生や高校生はもちろんだが,小学生が命を絶つというニュースは非常に衝撃的である。

 なぜ命を投げ出さないといけないのか,理解できない子どもたちも多いだろうが,

 恐ろしいのは,「理解できてしまう子どもたち」が増えることである。

 学校における「強い指導」「厳しい指導」は,体罰などを伴わなくても,

 子どもが衝動的に自ら死を選んでしまうリスクが高くなっている,という現実をふまえて行わなければならない時代となった。

 子どものよりよい未来のために,教師は問題行動を背景とした指導でも,言葉をかけなければならない。

 もうすぐ,大切な感覚が欠如した元教師による記事が更新されるだろう。

 順番からすると音楽の話だろうが,音楽は演奏している人の心を豊かにするとは限らないものであることをこのブログ村では学ぶことができる。

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ガラケー化する学校

 日本の学校では,リーダーシップは重んじられない。

 横並び+年功序列が大事に大事に守られてきた「聖域」だから。

 もちろん,学校に限った話ではないが。

 学校と一言で表現しても,そこで働いている教師は,

 学校のため,というより,子どものため,という意識で教育しているから,

 「自分が正しいと思う道を行く」人が多い。

 「自分が正しい」と思えば,国旗に唾を吐きかけ,国歌に耳を貸さない。

 教育委員会を訴える。

 それで立派に?公務員がつとまる「自由」な国で生きていることに,感謝しているかどうかは知らないが。

 そんな教師が多数派の学校,

 そんな教師の影響力が多い学校では,

 リーダーシップを校長が発揮できるわけがない。

 リーダーシップを発揮するのは,わがままな人だけである。

 組織が一つにまとまることが決してない学校では,

 新しいことはほとんど決められない。

 今までどおり,というのが合い言葉になる。

 そして,時代に取り残されようとしている。

 学校ごと,「ガラケー」化していく。

 「ガラケーにもいいところはある」と人は言うだろう。

 しかし,「慣れ」というのは,おそろしいものである。

 人間は「習慣の奴隷」と言われる。

 スマホになれると,ガラケーのように表示画面の小さいものは使いたくなくなる。

 学校は,「ガラケー」のようになっているのである。

 「スマホ」のような学校をつくる自由を与えてしまえばよい。

 公立がよい。

 なぜか。一部の公立がそうなれば,結局,みんなそう変わらざるを得なくなるからである。

 ただ,「スマホ」のような学校の設立によって,私たち教師が恐れるべき事態が生じる可能性がある。

 それは,教師がだれにでもつとまる時代である。

 非正規雇用を主力とした,スーパーのような場所になるかもしれない。

 なぜそれが可能になるか。

 子ども1人に最低1人の教師がつく学校が生まれるからである。

 教師の存在意義は,いつの時代にも問われ続けている。

 近いうちに,「問う」時間が与えられない大きな変化が起こるかもしれない。

 時代に取り残されても文句が言えないのは教師だが,子どもだけは救ってあげたい。

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スマホで変わる学習の管理・変わらない学習モデル

 この記事はフィクションです。その点をご留意の上,お読みください。

 当学園のPTAより提案があった件について,理事会で承認されましたので,ただちに実施にうつりたいと思います。

 全校生徒に,専用のスマホを持たせます。

 本校が独自につくったアプリによって,全生徒の健康管理,学習状況の管理を行います。

 本校では,英語によるコミュニケーション能力を高めることをねらいとしておりますので,毎日,家庭で学習するためのアプリを開発いたしました。

 これは,音声認識によって本人が学習していることを確認した上で,会話の練習,音読の練習,単語や作文の練習をすべて記録し,学校でその学習状況を把握するものです。

 本人確認ができるようになったことで,自宅でのテストも実施可能になりました。

 長期休業中の学習の方法も変わります。

 夏休み中の課題は,休みに入る前にまとめて出すのではなく,毎週の学習のメニューが日曜日に配信されます。

 進行状況は,音声によって伝えることが可能です。

 メニューに従って音声入力することで,学校で自動的にさまざまな診断を行い,アドバイスが必要な生徒には,メールで指定した時間に教師が連絡を行います。

 本校では,夏季休業中でも4時間の家庭学習を義務付けておりますが,これまではご家庭にお任せしていた管理を,学校で通常に勤務している教師が業務として行うことになりました。

 専用のアプリの詳細につきましては,おってご連絡申し上げます。 

 今,無料でダウンロードできる様々なアプリの中から教育用に使えるソフトを厳選し,作成者とともに改善を進め,より学力向上に役立つものにしております。

 開発が終わったものから,順次お知らせいたします。

 以上。

 補足。

 パソコンを持たせるより,はるかに機能的に学習が進められ,その管理も自動で行えます。

 なお,蛇足ながら,本校では,基本的に教師と生徒,生徒と生徒の対話を重視した授業を行っていくことに変わりはありません。

 授業では教師が必要と認めた時点で,教室全員の生徒のスマホを同時に起動し,所定の画像を配信したり,テストを配布したりします。

 授業中に勝手にスマホを操作することは認められておりません。


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北朝鮮のタブレットPCと教育ソフト

 東洋経済オンラインのニュースで,「人気の北朝鮮製タブレットPC」が紹介されている。

 子ども向けの学習用ということだが,教科書を搭載しているタブレットPCを教育現場にいる人がふつうに持っている国は決して多くはない。

 日本の小中学校の教師で,タブレットPCという言葉の意味が分からない人は少なくないだろう。

 北朝鮮のIT技術はかなり蓄積されているそうで,ソフトウェアの方もそれなりに充実しているようである。

 こういうニュースにふれる政治家はそれなりに刺激を受けるだろうと予想できる。

 残念ながら,日本ではIT関係の予算を教育で十分にとってこなかった。

 最も笑えるのが「コンピュータ教室」というレベルの「施設」で,1日に6時間授業だったら,1クラスずつでたった6クラスしか利用できないことになる。たったこれだけの「施設」なのに,管理がたいへんだ,とくる。

 試験的にタブレットPCを教育で活用している学校の成果がニュースになれば,行政も動かざるを得ないと思われるが,これを期待していたら,あと10年は何も変わらないだろう。

 行政の動き方というのは非常に単純で,

 「北朝鮮に負けるな!」という合言葉さえあれば,簡単に予算がついたりする。

 小さいニュースかもしれないが,こういうニュースにも世界を動かしていく力がある。

 朝日新聞あたりは取り上げてもいいニュースであるが,これからしばらく様子をみていたい。


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テレビを見ても,国民は「ハクチ」化しなかった

 国民をバカにできる人は,国民にバカにされる。

 ウィキペディアには,語義だけでなくそれにまつわるエピソードが綴られているものがあるので読み物としてもおもしろい。

 社会評論家の大宅壮一が生み出した「一億総白痴化」という流行語がある。

 これは,テレビというメディアは非常に低俗なものであり,テレビばかり見ていると,人間の想像力や思考力を低下させてしまう,という意味合いの言葉であり,もとは「一億白痴化運動」というものだった(『週刊東京』1957年2月2日)。

 大宅壮一が批判したかったのは,国民ではなく,低俗な番組を垂れ流しするテレビである。

 テレビに出ていながら,国民の方をバカにした政治家がいた。

 民主党の菅直人議員(当時)である。

 田原総一朗の討論番組『朝まで生テレビ』の中で,菅直人は「一億白痴化」の話を出した。

 田原総一朗が「(国民は白痴に)なってないよ」と反論すると,

 菅直人は「(国民が白痴化したからこそ)だから自民党が(前年の郵政選挙で)勝ったんじゃないですか。」
と自論を展開。

 これに対する田原総一朗の返しも痛烈である。

 「じゃあこないだの参議院選挙で民主党は勝った。あれは国民が馬鹿だから勝ったのかい? こういう馬鹿な奴が居るから民主党は駄目なんだ!」

田原総一朗は,すべてを見抜いていたわけである。

 人の褌で相撲をとる人間は,

 人をバカにするとき,他人の言葉を借りてくる。

 ただ人をバカにしたいためだけに借りてくるものだから,

>情報を客観的に捉える能力

 は活用されていない。

 自分には責任がないかのような態度をとる。

 外国人なら,日本人をバカにしたい気持ちはわからないでもない。


>指揮者は大勢の音を選択的に聴く訓練をしていると同時に、全体を客観的に聴く訓練もしている。

 耳だけ鍛えても,頭を鍛えなければ,まともな作文はできない,ということを教えてくれている。


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言いたいこと(指摘したいおかしな話)は,山ほどある。

 一般的なブログの記事のように「短い文章」すら,まとまりを欠いて何の意味もないことが挿入されているものがある。


>4月になれば、新入生、新入社員の季節。
>一年生はそれが小学生、中学生、高校生、新入社員であろうとみなかわいいと言う。
>私もそう思う。
>でも、いつしかそのかわいさがなくなるのは、なぜだろう。
>余計な苔が生えたからではないだろうか?


 この一節がどういう文脈の中に挿入されているか,現代文の問題で出題されても,だれも解けないだろう。

 前後と何の脈絡もない一節だからである。

 そもそも,この一節の意味すら怪しい。

 「余計な苔」が生えるのは,だれか?

 この答えは何だろう。

 「かわいい」と見るのは,上級生や大人である。

 「かわいさがなくなる」と思うのも,同じである。

 その理由として,「余計な苔が生える」というたとえは日本語として成立するだろうか?

 「苔が生える

 という言葉の意味は,

 「長い年月を経る」とか,

 「古めかしくなる」というものである。

 中1に余計な苔が生えたのが,中2や中3なのだろうか?
 
 見る側に余計な苔が生えたのだろうか?

 失礼ながら,多くの日本人には,このたとえは通用しない。

 こういう「問題点の指摘」をメールで知らせてくれないのは,
 
 「裸の王様」としてコケにされているからではないのか?


***************


 人の心配をするより自分を見つめなければならないのだが,

 それが「絶対にできない」

 「絶対にしない」というしくみは,
 
 お隣の国と全く同じである。

 自分が世界の真ん中にいるから,人を見下ろすことしかできない。

 実際には自分のレベルは下なのに,見下ろすということをしなければならないから,

 体は宙に浮く。

 地に足がついてない。

 地に足がついていない文章は,常に「借り物」で飾られていないといけない。

 全く必要のない言葉の引用。意味の説明。

 内容が全く紹介されずにコピーだけされる本の表紙。

 言いたいことは,山ほどある。

 「長文でも本当に言いたいことはわずか」なのは自分だけの話である。

 どんなに記事を書き連ねようと,書いている内容はごくごく限られた世界の話で,かつ内容がない。

 言いたいことは,

 「自分はこんなにすごいんだぞ」に尽きる。

 そして,それを批判する相手は「頭がおかしい」とくる。

 当人にとっては大きな問題でも,そんな話は現実の「教育問題」とは何の関係もない。

ちなみに,

>先生が「さすが先生」と思ってもらえるのは、作文が書けて、文章が正しく解釈できる場合である。

 そんな程度で「さすが先生」と思われるというのは,どこの国の話なのか?


 
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自称「世界の中心の国」式の反論モデル

 社会科の授業で扱う時事問題のトップといえば,

 「あの国」の動きをめぐるものだ。

 中学生から見てもその「言い訳」は「見苦しいもの」である。

 自分が「世界の中心である」という自意識自体を否定するつもりはない。

 そう思うのは「自由」である。

 ただ,他の人がそう思うかどうかは別の問題である。

 「あの国」は,やりたいことがはっきりしているから,

 なぜそれをしているのかは理解できる。

 自分の利益のためである。

 今回のことでは,政府が知らないことを

 指摘されてしまったので「あわてて」しまった。

 そのあとの対応が「あの国」らしいものだった。 

 その「らしさ」を惜しげもなく発揮してくれている。

 この国にも,相似形のブログがある。

 「世界の中心」で叫んでいる。

 批判の方法に5W1Hが生かされていない。

 何を批判されているのかが読み取れていないのだから,仕方がないのだが。

 自分がやっていることが常に正しい・・・・という方法は,いずれ破たんするだろう。

 まずは,自分が言っている通りに行う・・・・

 正しいことを言って,その通りに実行する・・・・言行一致があって,人は信頼される。

 かつては,批判するときもWhereが示されていた。

 今は自分が言っていることをやっていない。

 もっと恥ずかしいことは,

 自分で読んでおきながら,「メールで知った」などととぼけていることである。

 さて,卒業式についての誤解を解いておこう。

 昔から職員会議の段階から「時間の無駄」に悩まされていた卒業式。

 職員会議は,本当に長かった。

 儀式のように毎年毎年「国旗・国歌」でもめていた。

 法律で定められたことで一段落ついたわけだが。

 卒業式をもっと簡素にしよう,5曲も6曲も歌わせるのはやめよう。音楽会ではない。・・・というまともな議論をするのも時間が足りなかった。

>なぜ、あれほどにも長い時間をかけるのだろう?

 事情は,地域によって異なる。

 私がいた学校では,来賓の紹介だけで,生徒がじっとしていられなくなるくらいの時間がかかった。

 今,多くの学校では生徒数が少ないから,卒業証書授与にかかる時間はそれほど長くはない。

 ただ,やたらと歌を歌わせるのが好きな学校(学年)がある。

 もっと普段の音楽の授業を真面目にやってほしい,という教師の学年のときに,

 歌が必要以上に多く,卒業式が長くなることがある。

>それは、卒業の意味の重さを皆が感じるためだろう。

 これは,大嘘である。

 時間が長くなれば,「重さを感じる」というものではない。

 今の私の勤務校の卒業式は,長くて1時間である。

 では「重さを感じないか」といえば,決してそんなことはない。

 卒業式が来るのは,入学する前からわかっている。

 その卒業式の重さとは,入学してからその式を迎える日までの経験によって決まるのである。

 繰り返し言おう。

 卒業式の意味の重さを感じるのは,式の時間が長いからではない。

>なぜ、あれほどにも長い時間をかけるのだろう?

>それは、卒業の意味の重さを皆が感じるためだろう。

 読解力とは,卒業式の長さを長くしないと,その意味の重さを感じさせることができない,という不安を学校の教師がもっているのではないか?と考えることである。

 横浜市では,授業時数の不足を補う措置をとろうとしているが,

 「卒業式練習」などの時間が,どうカウントされているか,まともに説明できる学校がいくつあるだろうか?
 
 
 
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作文力のつけ方

 小学校の教師には,平気で嘘を教える人がいる。

 「作文では,起承転結を用いろ」というもの。

 もう,こんなことを本気で教えている人はいない。

 そもそも起承転結は,漢詩の絶句のように,

 起承転結が楽しめるもののためにある文章スタイルである。

 当たり前だが,

 「自分の言いたいこと」を書くとき,

 「自分が相手に強く伝えたいこと」を書くときは,

 そんな形式にこだわる必要はない。

 論文を書くときのことを考えてみればよい。

 「転」などあってはならないのだ。

 今,仮に「起承転結」が大事だ,なんて指導する場合も,

 「転」は「視点を変える」などの意味で使われており,

 本来の意味の「転」ではない。

>言いたいことを強調するために、起承転結がある

 などというのは大嘘である。

 知識の更新を強く訴えている本人が,

 全くそれに応えていないところが痛々しい。

 人間には,

 「わかっている」が「できない」ことがある。

 「できない」ことを何とか「できる」ようにさせることができるのは,

 学校のように,「教育」の機能があるところでないと難しいらしい。


 文学や詩文と,「言いたいことをストレートに強調する」ための文は違うのである。

 漢詩のように,一定の形式の中で書く力を伸ばす,

 ということも大事だろうが,

 言いたいことはストレートに言う。

 書きたいことはストレートに書く。

 それが一番大事なことである。

 「何の役にも立たない」だけでなく,平気で「誤解をまき散らす」という意味では,
 
 本当に「迷惑なブログ」である。

 知識はあっても,

 それが活用できないのが,学力をめぐる問題の一つである。


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学校は江戸時代の「藩」と同じ

 公立の学校というのは,江戸時代の「藩」と同じである・・・・

 こういう思いを抱きながら,今までテレビ朝日開局55周年記念番組

 「上意討ち~拝領妻始末」を見ていた。

 「孤独な」「役目だけで働いている」「暴れん坊将軍」がラストで討たれるあたりも,

 徹底的にキャストを豪華にして制作された番組である。

 校長がそこまでひどいことをするわけではないが,

 問題を揉み消しにしようとするのは,

 「すべての上役がそれを願っている」と信じているからである。

 学校が「藩」なら,教育委員会が責任をとらない「幕府」である。

 もちろん,教育委員会が「藩」で,文部科学省が「幕府」であるという見方もある。

 そして,文部科学省が弱小の「藩」で,政府が「幕府」であるとも言える。

 何が犠牲になっているかをよく考えさせられる。

 教師たちは,自分たちが犠牲になっていると勘違いしているが,

 犠牲者はあくまでも子どもたちである。

 どうしたら,風通しが悪く,何を考えているかわからない「藩」をつぶせるか。

 どうしたら,どこも全く同じようで何の特色もない「藩」を変えられるか。

 それは,政府が,「放置しない」ことに限る。

 「藩」が「幕府」を変えることは容易なことではない。

 ただ,「幕府」は簡単に「藩」を変えることができる。

 しかし,そこには「幕府」が全く新しい「政府」に変わることが条件である。

 教育を変える力は,「文部科学省」にはない。「政府」の仕事である。


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なぜそのブログは役に立たないか?

 ここに,「読解力のつけ方」という本があったとしよう。

 その結論が,「勝手な解釈をしないようにしよう」というものだけだったら,

 読者は「騙された」と思われるだろう。

 以前に紹介したように,

 本の中には,ベストセラーではあるが,

 だれもこの本を通読していないだろう,という本がある。

 こういう場合,著者は多くの印税を手に入れることができるが,

 背後には,本のタイトルを決めた編集者が,「これはおれのおかげ」

 という本音が隠されている。

 タイトルというのは,非常に重要なものである。

 教育書の出版社にいつも文句をつけたいのは,

 明らかに小学校の教師だけのための本なのに,タイトルや帯の説明などからそれが分からないようにしてあるものが多い。

 買わされた方は,非常に残念に思う。

 教育ブログというのは,

 どういう人が,何のために読むのだろう。

 そういう「読み手のこと」を全く考えていない人間がいる。

 「読解力のつけ方」というタイトルの記事があったら,

 教育ブログの読者というのは,

 「読解力を身に付けるポイントはこれと,これと,これは知っているけど,他にもあるのかな?」

 などと思って読む場合も多いだろう。

 その役に立たないブログには,教師のためのブログというタイトルがついている。

 しかし,教師のためになる記事はほとんど見られない。

 ためにするとすれば,

 「こんな文章を書くような人間にはなってはならない」ということが学べるということだ。

 「作文の書き方」の授業で,

 「ダメなタイトルのつけ方」の例には使える。

 どうして,

 タイトルと無関係のことが堂々と書けてしまうのだろう。

 そういうレベルでポイントがずれてしまうわけだから,

 大事な教育でもずれてしまうのはしかたのないことだったのだろう。


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退職後のための人脈づくりより,今の自分の能力を最大限に伸ばすことが優先

 もしあなたが教育に情熱をかける教師だったら,退職後の自分の生活のことなど考えるだろうか。

 退職金は減額の傾向が強まるだろうから,たしかに心配かもしれない。だが,もらえないよりましである。

 退職後の自分のことより,何よりも今,目の前にいる子どものことを精一杯,考えるべきである。

 そのために必要な人脈とは何か?

 「自分のための人脈」ではなく,「子どもによりよい教育をするための人脈」づくりが必要なのだ。

 まずは,今,一緒に仕事をしている学校の教員,学年,分掌の教員たちとの絆を深めることである。

 小学校では,「学級」という孤立傾向の強い小規模事業所が仕事の中心なので,なかなか難しいことかもしれないが,授業の悩みを正直に打ち明けられる教師を近くに持つべきである。

 管理職は,そういう教員間の関係を築けるように,さまざまな支援をするべきである。
 
 小学校で教育に熱心な教師は,よく本を買い,研究会に参加する。

 そこまではすばらしいが,

 残念なことは,こういう教師同士のつながりが乏しいことである。

 研究会に参加して,発言できる教師はごくわずかである。

 研究会後,小グループに分かれて飲み屋に繰り出して,授業論をたたかわせることができる教師はどれだけいるだろう。

 中学校の研究会の風景を見ていると,参加者どうしの会話が多い。

 さまざまな情報交換をそこで行っている。

 小学校ではこれが少ない。

 個人競技しかないスポーツと,団体競技のスポーツの選手の違いと言えばわかりやすいだろうか。

 これが,小学校と中学校の学校風土の違いである。

 小学校は,個人プレーで成立する。(だから,個人の力不足で簡単に崩壊する)

 中学校は,個人プレーだけでは成立しない。(だから,組織で動かざるを得ない)

 小学校の教員が中学校でも勤務するようになることが,人が少ない地方ではときどきあるようである。

 そういうところでは,容易に文化の違いを体感することができるだろう。

 人は人,自分は自分,という感覚を持ちやすい自分を認識することができる人は,

 一緒に教育の問題を真剣に議論し合える仲間をつくるのがいい。

 愚痴を言い合うような仲間ではダメである。

 そんな教師は組織には必要ない。

 改善意見を堂々と発言できるような,度胸をすえるべきである。

 そのためには,失敗したとき,次の策をすぐに講じるよう一緒に動いてくれる仲間が必要である。

 教師には,「折れている」暇はない。

 子どもは,毎日毎日,確実に成長する。

 そして,一部の学校では,子どもは,毎日毎日,問題を起こす。

 それに対処する「情熱」が続いているうちは,一生,教師でいてほしい。

 定年制度はいらない。

 本当の意味の教育への「情熱」がない教師は,1年目でも2年目でも,辞めるべきである。

 「制度」というのは,ある意味で,教育を守るためのものだが,

 破壊する原因にもなるものである。

 採用時に,年齢を聞いてはいけない,というきまりをもつ国は,うらやましいものである。

 年齢ではない。

 大事なのは能力とやる気である。

 能力に結びついた経験は必要であるが,

 手を抜くこと,ごまかすこと,人のせいにすることが体得できてしまうような「経験」は,

 教育にとって邪魔なだけである。
 
 ボランティアで学校現場に協力してくれる退職者はどのくらいいるだろうか?

 
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学校の先生は,校長の方針を多数決で否定することができる・・・yesかnoか?

 大学の先輩でもあるし,学校に訪問したこともある人のことだから,

 あまり悪いことは書きたくないが,

 裁判所の判決に納得する人は多いと思われる。

 東京都教育委員会は,「職員会議で教職員に挙手や採決をさせてはならない」との通知を2006年に出している。

 その目的は,裁判所が述べているとおり,

 「職員会議が重要事項を多数決で決定する実態」というか「慣例」が

 校長の学校運営上,支障をきたすことが多かったので,

 学校経営でリーダーシップを発揮できるように,校長を支援するために出されたものである。

 あなたが地方の事業所に所長として赴任して,自分なりの方針や,社長の方針を徹底させたいと考えるとする。

 しかし,事業所に勤務している社員たちが,多数決で所長や会社の方針に従わず,何でも反対しているという事態を想像してみてほしい。

 所長は存在する意味をもたない。

 このように,社会の常識が,高校では通用しないという実態があった。

 通知文の内容に,一般の教員が不服を申し立てるというのなら,筋は通っている。

 今まで通り,「自分たちの好きなようにやりたい」というのが本音だろう。

 しかし,校長という立場の人間がなぜ,こういう通知に対して

 「教育への不当な支配」と判断するのか。

 校長も,何でも「職務命令」で済ませたくはない。

 教員の意見をしっかり取り入れながら,学校経営はしてきたいものである。

 ただ,「ここは譲れない」というものもあるだろう。
 
 これがことごとく「多数決」で反対されてしまっては,トップとして存在する意味はない。

 今までは,「泣き寝入り」する校長ばかりだったのだ。

 というか,ただの「飾り」にすぎなかったわけである。

 それでよい,と割り切っていた校長も多かったはずだ。

 教員や生徒たちにとっては,「いてもいなくても関係ない」のが校長だったのだ。

 それが,今は校長に「経営者」としての資質が求められるような時代になった。

 「こんな学校いらない」という批判に,きちんと答えられる人材が求められるようになった。

 教育委員会は校長を孤立させない。

 そういう強い意思をもって,校長をバックアップするようになった。

 それに校長が反発したわけである。

 簡単に言えば,事業所長が社長の方針に背いたのである。

 教育長の方針に校長が反対しているのだ。

 こういう態度をとっている人間が,退職後もなお,雇ってもらおうとする態度は一般企業なら考えられないだろう。

 私はもう東京都とは縁が切れているが,

 東京は,世界から見れば「国」に匹敵する人口を抱えた大都市であり,その
 
 動向が日本全体に与える影響は非常に大きい。

 天下りをはじめとして,悪しき慣例で自分たちを守ろうとする公務員に厳しい目が向けられている今,

 敗訴した元校長の主張はなかなか理解してもらえないだろう。


 
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公立中よりも私立中を選ぶ理由

 公立も中高一貫校が増えていることを述べたが,

 私立中を選ぶ親には,「高校受験」という「無駄」を省いてあげたいと考えている人がいる。

 ねらいは「大学受験」であり,中高一貫の6年間のカリキュラムをそのゴールに向けて効率的に組めるのが私立の特徴である。

 非常に残念なのは,公立の中高一貫校も,「大学受験」の成果を求める傾向にあることである。

 ナントカの一つ覚えのように,「東大合格者何名」が合言葉になる。


 「中学受験」と「高校受験」のうち,一度だけできるとすると,どちらの方が人生にとってプラスになるだろうか。

 私は「中学受験」組だったから,あの頭の柔らかい時期に,「難問」にチャレンジできたことはとてもよかったと思っている。

 何しろ,小学校では全く学ぶことのない,教科書の何倍もの知識や技能や思考が問われる問題の「準備」ができるからだ。

 逆に言うと,塾に通わなければ,入試で通用する力はつきにくい。


 公立中学校のほとんどの生徒が経験する「高校受験」の場合には,こういうものが少ない。

 塾に通う必要はないと思われる。

 「高校受験」は,私も中学生を多く見てきた経験から,ないならそれに越したことはない「負担」のように感じられる。

 たいしたことない公立の入試問題で選抜される中学生たちが,哀れでならない。

 ただ,「試験による選抜」に対して,

 そういう「同情」が社会的に通用しない国が近くに複数ある。

 自己責任が強く自覚されている国々である。

 こういう国と対抗できる人材を育てるのは,「試験」では無理である。

 「教育」の中身の充実が強く求められる。

 だから,

 「学習指導要領」の内容にもっと口が出せるしくみを社会として築くべきであろう。

 下村大臣には,そういう感覚で改革してくれる期待感がある。

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負けず嫌いのブロガーの関心事

 自分の話で情けない思いをしたあとは,必ず「おかしな反撃」をしてくるのが慣例である。

 どこで調べてきたのか,東京の教育に関心のあるブロガーが,

 ネットの掲示板から楽しそうに公立学校への悪口を拾っている。

 どこから情報をもってくるかで,すでに「アウト」である。

 教育に情熱をかける教師には,決して学んでほしくない典型的な人間である。

 
 嫌悪感を禁じ得ないのは,子どもを「残りカス」と呼べる感覚をもつ人間に親近感をもっていることだ。


 いつの時代のデータか知らないが,首都圏と書きながら,内容は東京都の教育である。


 東京都は,中高一貫校が増えた影響もあり,保護者の中学受験に対する関心は高まっている。

 それでも,多くの子どもは公立中学校に進学する。

 23区だけでも900万人いる規模の大都市である。

 中国・四国地方の9県の人口を足しても,東京都の人口には250万人近く足りない。

 フィンランドの教育が一時期注目を集めたが,

 フィンランドの人口は北海道よりも少ない。

 日本は子どもよりもお年寄りを大切にする国。せっかく規模が小さくても,教育にお金はまわってこないから,地方は本当にもったいないことをしている・・・というのは個人的な感想である。


 話を戻そう。

 ネット掲示板上の「悪い話」ばかりを集めて,

 「東京の教育は悪い」と宣伝したい「田舎のおじさん」は,

 教育に情熱をかける教師に何を伝えたいのだろう?

 結局,そんなものは何も持ち合わせていないのだ。

 持っているのは,自分を守りたいという感覚だけである。

 どうして「まもとな修学旅行をしてきた」ことを強調したいのだろう。
 
 しかし,残念なことに,次の一言でアウトである。

 これを「丸投げ」「業者任せ」という。

>修学旅行も、何社かにプランを出させ、それを何人もの先生で協議し、いいものを採用しています。

 一番いい方法がある。

 業者がつくったものでもかまわないから,当時の「行動要領」を示してくれればいい。

 でも,それもどうでもいいのである。

 だれも,「接待を受けていたかどうか」などを追求する気はない。

 修学旅行というのは,業者に旅行代金のどれだけがいくか,その数字がすべてを物語ってくれるのだ。

 経済に関心のある人間なら,容易に想像がつく話である。

 
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「再分配」が機能している各都道府県の教育事情

 人口1000人当たりの教職員数が最も多いのは島根県である。

 上位の県は,高知,徳島,岩手,沖縄と続く。

 一方,人口1000人当たりの教職員数が少ないのは

 東京,神奈川,埼玉,大阪,福岡の順である。

 この違いがどうして生まれるのかは,説明するまでもないだろう。

 人口1000人当たりの教職員数ランキングは,

 地方公務員数ランキングと高い相関を示している。

 一方,最低賃金や基準地価,県民所得,高卒求人倍率とは負の相関となっている。

 もし「経済格差をなくすためには教育(教員の数を確保すること)が重要」という考え方があるとすれば,その条件は満たされているということになる。

 団塊の世代くらいの年代の人間は,

 「東大合格者の数」が大好きなようだから,

 大学進学率でその「成果」を見ようとすると,

 島根県は29位と,47位の沖縄,46位の岩手と比べると,検討はしている。

 1位は京都,2位は東京,3位は神奈川である。

 2012年の全国学力テストの結果では,島根県は32位である。

 沖縄は47位,高知は44位。東京は6位。


 島根県の教員数は約9,000人で

 東京都は約75,000人。

 他に仕事がいくらでもある地域で,教員を確保するのは難しい。

 質の確保が難しいというのは当然の話である。

 ただ,教員の質がどのようなデータに反映されるかを厳密に測ることは難しい。

 人口1000人当たりの教員数と学力調査の結果には,相関はみられない。

 組織率が低くても,組合が「勢力をふるう」県と,学力調査の結果が悪い県には相関があるようだが。

  
 教員は,数ではない。

 意識である。

 教育に対するやる気である。

 東大に何人入ったかなどを気にするのは,塾の先生だけでいい。


 
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人間の「強さ」を教えられる教師をめざそう

 批判に対して正対できない教師,

 批判を無視する教師,

 批判に逆ギレする教師・・・・

 こういう教師は,人間の「弱さ」を子どもに見せつけてくれている。

 「反面教師」としての役割ももっているが,

 こんな教師ばかりでは,「反面」であることがわからない子どもがたくさん生まれてしまう。

 教師は,批判に正対するべきである。

 批判を無視すべきではない。

 自らの実践をもって,批判にこたえるべきである。

 マーティン・ルーサー・キングの言葉に,こういうものがある。

われわれに苦難を負わせようとする力に,われわれがどれだけ耐えられるかという,われわれの力を対抗させる。あるいはわれわれが迫害された場合,どこまでわれわれは迫害する人間をも愛することができるか,という力を対抗させよう。これが一番強いのだ。

 これは,

 大塚久雄著『生活の貧しさと心の貧しさ』,みすず書房,1978年

 の中で,

 大塚野百合,加藤常昭『愛と自由のことば』,日本基督教団出版局,1972年

 に掲載されたものの一部として紹介されたものである。

 大塚久雄は,

これは長いキリスト教の歴史を通じて,その信仰の奥底に流れつづけてきた思想ではないでしょうか。

 と記している。

 私はキリスト教徒ではないが,

 キリスト教が世界宗教となった背景には,

 古い「正当性の意識」で凝り固まった人間からの迫害にひたすら耐え,心の平安を保つ姿が,多くの人にとってすばらしいと思われるものだからだと考える。

 私たちは,

 教育という名のもとに迫害が行われているのではないか,と自問しなければならない。

 伝統的な「正当性の意識」という殻に閉じこもっていないと教育できないような,

 そういう教師を変えていかなければならない。

 体罰という暴力に耐えている子どもの側から,学ばなければならないということである。

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体罰を止めるための教育実践が求められる

 子どもがいる親かどうか,

 親や教師から体罰を受けた経験があるかどうか,

 体罰をしてきた人間かどうかが伝わってきます。

 教師で俄然強気の意見が言えるのは,もちろん,体罰を行った経験がほとんどない人。

 「自分は無関係」という無責任な雰囲気が漂っているのが,

 「そういう教師らしい」ところです。

 いじめと同じで,体罰に関しても,

 体罰をした教師に対して本人が何をしたか,何ができたかが大事です。

 私は,体罰が起こりそうになったときは子どもと教師の間に体を入れてしまいますから,

 問題を未然に防ぐことができますが,

 何もできない人は多いでしょう。

 
 学校で体罰を受ける子どものいくらかは,家でも体罰を受けています。

 何と今でも,「何か問題を起こしたら,手をあげてもらってかまいません」

 という親がいます。

 こういう親に限って,本当に子どもが体罰を受け,その理由に納得できないと激怒することになるのですが。

  
 教師は,親に対しても,「体罰はいけない」と訴える必要があるでしょう。

 「親は法律で体罰を禁止されていない」という声が聞こえてくるかもしれませんが,

 要は,「体罰をしても効果は一時的なもの」ということを伝えればよいのです。

 
 親の場合は,体罰の対極に,

 ネグレクトというのがあります。


 教師の姿を見てください。

 授業をしながら「ネグレクト」している教師がいかに多いか。

 
 体罰だけを見ると,大切なことを見落とします。


 教育は,親と,教師と,社会の協同作業だということを忘れてはいけません。

 
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私たち教師は,結果が出せる前のノーベル賞受賞者である

 本当に問題にすべきことを隠して,どうでもいいことで論戦をする。

 論点の「ずらし」は政治家の得意分野という固定観念があるが,

 これが「プロ」並みに上手なのは,教育の分野なら教育委員会や学校の教員である。

 一般市民からみると,「ずらし」というより「ごまかし」に近い。

 学校現場で何が問題なのかと言えば,

 教員の指導力が低いことである。
 
 学習指導だけでない。生活指導,進路指導も,十分満足にできている,なんて自信をもっている教師は少数派だろう。

 手は抜かないでやっている。

 だから批判される言われはない,と考えてしまうのが,公務員が非常識であるいわれである。

 常に,批判を受け入れ,その通りだが,現状はこうだ,今,改善に向かっているのは,これだ,と覚悟を決めて説明しなければならない。
 
 教師たちは,結果が出る前のノーベル賞受賞者のような気持ちでいればよいのだ

 ただ,教員への直接的な批判はなかなか届かないのが普通である。


 学校では,満足のいく学力がつかないと多くの親が実感しており,それは現実の問題でもある。

 親は,「教員の指導力が低い」ことを知っているが,普通はわざわざそれを問題にしたりはしない。

 問題になるのは,体罰やいじめが深刻なものになったときだけである。

 今の親は,私の実感だが,昔の親よりも,

 「全体にこういう指導をしています」という言葉に説得力を感じなくなってきている。

 「あなたの子どもにこういう指導をしました」という言葉を待っているのが,今の親である。

 だからいじめの問題では,

 「クラス全体では~」という話を伝えても,意味がなくなりつつある。

 「あなたの子どもには~」とか,「あなたの子どもに~した子どもには~という指導をしました」と伝えないと,「伝えない」というだけで,親は教師を信頼しなくなっている。

 学習面では,昔から,そういうことを伝えてくれることをそもそも親は教師に望んでいない。

 だから,教育産業の需要がなくならないわけだ。

 教師にとって最も重要な問題は,

 学校の教育力,教師の教育力が十分でないことだが,

 そもそも批判を受けつけない体質があるだけでなく,親は大きな問題が起こらない限り批判をしてこないから,堂々と現状を変えないでいられるわけである。

 おそらく,よほどの学校でない限り,

 進んで他の教師の授業の問題点に切り込んでいこうとする教師など存在しないだろう。

 「そんな授業では,私たちの学校の子どもが可哀想だ!」

 なんて会議で叫べる人はなかなかいない。

 「何がどの程度,できていないのか」ということに目を向けらえる強さをもつことが,学校を変える上で重要な前提条件である。


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PTA役員への「お土産を買う」ことに反対する教員

 若い先生たちには,とても参考になる話を提供してくれる人がいる。

 授業を自習にしてのこのこと出張できてしまう一方,

 学校の「慣例」に,会議という公的な場で反対できてしまうような人が,どこにも一人くらいはいるだろう。

 公的な場で,私的な話を出してしまうのは,一般社会では「ご法度」である。

 これが教員の非常識の一例である。

 社会の常識を知らない公務員は,なぜか

 ツボにはまると,ピンポイントで「公務員ぶる」ことがある。

 修学旅行に行った帰りに,教員がPTA役員へのお土産を買う,というのは,

 これは「表向き」にやっていることではない。

 もしも「表向き」になってしまっていたとしたら,

 ある校長がやったことを,その次の校長が踏襲せざるを得なくなって,続けていたことである。

 当たり前だが,そんなお土産を買う義務はない。

 しかし,それがあくまで「私的」なものなら,禁止されるいわれはない。

 業者は,子どもを必ず「お土産屋」に案内するだろう。

 「お土産を買う」というのも,子どもにとっては立派な「社会勉強」である。

 お土産を買ってくれる人が来るから,観光業は成立するのである。

 「子どもは観光のために旅行しているわけではない」というのはただの詭弁である。

 それならば,観光地に行ってはならない。

 教員が「日頃お世話になっているPTAの役員にもお土産を買うんだ」と子どもに言っても,それが教育的な価値をもつ場合がある。

 教員がPTA役員にお土産を渡している,という話を聞いて,

 「怒る国民」がいるだろうか。

 もちろん,子どもから集めた金で買っていたら問題だろう。

 しかし,ポケットマネーで買っていたとしたら,

 「一応,社会人としての常識があるんだ」と見られるのが普通である。

 修学旅行の話なら,ほかに

 いくらでも「おかしい」ことはあるはずである。

 費用は適正なのか?

 訪問先はそこでよいのか?

 そもそもそれは必要なのか?

 学習として本当に成立しているのか?

 それらを問うことなく,

 「お土産反対」を会議で提案する人は,本当におもしろい。

 はっきり言えば,「どうでもいい話」である。


 こういうとき,管理職はどう対処するか。

 公の場では,「もうやめます」と言えばよいのである。

 反対している人間に気づかれないように続ければいいだけの話。


 いかに「自分はまともか」「自分は正常である」ことを必死にPRしているのが,

 痛々しい。その行為そのものが「正常」ではないからだ。

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元教員の貴重な「非常識事例」

 ひどい慣例が残る中学校の「修学旅行」の実態を披露してくれていますね。

 業者はなぜそれで困らないかというと,簡単な話,もうけられるから。

 一応,公務員である教員が引率する形にしているから,業者からみればコストもかからず,安全性も高く,しかも,「大きな儲け」になる。

 
 非常識で時代錯誤の教員たちをうまくコントロールする方法も,教えてくれています。

 自分たちはコントロールされた側なのに,それに気づけないところが,

 社会から隔絶された「ムラ」の住人だからでしょう。

 
 保護者の方は,何でもいいから教員をおだてることで,決して損することはありません。

 どんなに教員が当たり前のことをしようが,

 「そんなことをしてくれるなんて,なんてすばらしいことだ」

 と感動してあげればよいのです。


 教員は実社会がそうやって動いていることを知らないから,

 単純でその気になりやすい習性をもっています。

 要は,子どもにやって喜ばせているようなことを,自分がされて喜んでしまっているという,

 滑稽な存在が教員というものです。


 学校の批判をすれば「クレーマー扱い」を受けることになりますから,

 本当に困ったときだけ,マスコミに知らせるのがいいでしょう。

 それが教師を育てていることにならない最低のスタンスであることは確かですが,

 子どもが最悪の学校生活を送るよりは,ましでしょう。


 ところで,前言がひっくり返ることは珍しくはないものの,これだけ露骨に自分が批判していた通りの姿を自らすすんで見せられてしまう人はなかなかいないものです。

 天声人語くらいのものならもっと話題になってもいいのですが。

 自爆系ライターは注目を集めるものです。

 それをねらっているなら,また立派なもの。

 「おかしいことをおかしいと言える人」ではないことは,

 自分の学年の子どもの自殺の「方法」まで自分のブログで公開してしまっていることからもよくわかります。

 正常ではなくなるのが,ブログを読んでもらうコツなのでしょうか。

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修学旅行は旅行業者の仕事

 修学旅行先での教師の仕事を知っている人はどれだけいるだろうか。

 私がかつて勤務していた学校は,京都・奈良を訪れていたが,

 ガイドさんとタクシーの運転手さんが生徒を誘導している。

 ほとんどが「業者の仕事」であり,これを「教育」と胸を張って言えるのは,よほど無神経な人間しかいない。

 時代錯誤もいいところのただの「お祭り」「観光旅行」が今の「修学旅行」である。

 お金を払わない生徒は,参加できない。

 ただそれだけのことである。

 事前学習だけ,しっかりやってくれればいい。あとは現地でクラスの生徒が「見学」してきてくれる。


 本当の「修学旅行」を行っている学校が,今,全国にどれだけあるだろう。

 学校名は書けないのだが,

 バス会社の紹介だけ旅行業者を通すだけで,本当の「修学旅行」を行っている学校がある。

 下見だけで年間3回行わないと,安全に実施できないところもある。

 
 今の多くの学校の「修学旅行」は,完全に業者委託で構わないだろう。

 または,「教育」をしてもらえる業者に委託するという方法もある。


 今の修学旅行のように「考えられないほどの高コスト」の無駄ではなく,

 学校教育より相当「低コスト」で,教育的効果が高い「修学旅行」を提供してくれるところが生まれるかもしれない。

 その先は,書くのを遠慮しておく。

  
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体罰防止装置の開発?

 体罰を繰り返す教員の研修で,画期的なものはない。

 なぜ教員は体罰を繰り返すのか?

 ある教師は,「これだけさわがれているなかで体罰をしたのは申し訳ない」

 と謝罪したという。

 「ほとぼりがさめるのを待っていられなかった」

 ということか。

 いや,体罰は,なかなか「やめられない」ものなのだ。

 よく,「信頼されている先生」

 「すごい指導力のある(といわれる)先生」が

 体罰で処分を受ける。

 指導力のない人は,逆に暴力を受ける対象になる。非常に対照的である。

 
 体罰を行っているときの,教師の「脳」では何が起こっているのだろう。

 体罰を行う瞬間の「脳の働き」を調べることは容易ではないだろう。

 しかし,

 「観察」によってわかることがある。

 体罰は,他の教師や生徒の面前で行われることも多い。

 そのときの教師の様子を,言葉で表現するとどんなふうになるのか。

 「使命感の塊」

 「不動明王のような形相」

 「まわりが見えていない」

 「自分が見えていない」

 「迷いがない」

 「自分だけが正しいと思っている」

 「協力者がいない」

 「孤独」「孤立」

 ・・・・・・・・・・別に「体罰防止装置」を開発しようとしているわけではない。

 行政の立場なら,

 「実効性のある体罰防止策」を講じる必要がある。

 顧問の指導の姿をすべて「録画」=記録するという方法も考えられる。

 これによって,外部の評価機関に「指導力の査定」をしてもらうこともできる。

 それよりも,

 まもとな授業が行われるように,

 すべての教師の授業を「録画」=記録することが求められる時代が来るかもしれない。

 いや,もう現在,子どもが持ち込む小型カメラで授業は録画されているかもしれない。

 卒業生が,盗撮で退学になった同級生の話をしてくれた。

 教師は,カメラの前でも,
 
 体罰ができるだろうか。

 教師は,カメラの前でも,

 恥ずかしい授業ができるだろうか。

 学校として,絶対に問題にしてほしくないことがある。

 体罰以上に,隠したいものがある。

 それが「授業」である。

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書く力を磨くために ~支離滅裂の文章から学べること~

1 >私が,ある時期から多くなってきたと思われる思考のはたらき

 =集合の概念が欠落

2 >国語の書く力を高めるには,考える力が必要

 →考える力を高めるには,答えのないものに取り組まないといけない

  (原典には,答えのある勉強で子供の生活時間を埋めないこと,子供に考える力をつけるには,自由に遊べる余地を残しておくこと,とある)

3 >子どもの場合=遊び

  >大人の場合も同じ=趣味もいいのではないか

4 >書く力=作文力は読解力も必要

5 >日本は識字率が高い・・・・が,

6 >正しく理解できているのか→先生のような仕事をしている人であっても疑問

7 >読み取ったことが正しいかどうか確認するために,自分の意見に添えて,それは何処の部分か参照するかリンクすることがいいのでは

8 >正しく文章を理解しないで,自分で勝手にきめつけて解釈をする人を「こんにゃく思考」と呼ぶことにしましょうか?

 以上のような流れをもつ文章で,

 結局,言いたいことは6~8の部分でしょう。

 あとの部分には,何の意味もありません。

 まず,1から2にはつながりがない。

 集合の概念がないのは,この人の場合「~のせい」である,と常々書いています。

 書く内容にもよりますが,考えた結果を書く場合は,考える力がなければものは書けないのです。

 2では,「読む力」ではなく,「思い込む力」の強さを感じさせてくれます。

 引用している文には書いてないことが,解釈の内容に表れています。

 2から3へのつながりがおかしいのも明らかです。

 「問題」に対する「遊び」なのに,「遊び」がいきなり「趣味」に飛んでいます。

 「思います」「気がします」の多用は,作文では避けるべきこと,と教えてくれる先生がいなかったのでしょうか。

 4では,すぐ上で自分に「読解力」がないことを示した上で,それが必要だと示してくれています。

 4から5はまた話が飛びます。

 「読解力」から「識字率」にレベルが下がっていきます。

 「読解力」というのは,文章を読んで,「ああ,この人,どうかしているな」とわかる力のことを指します。

 「識字率」の説明は,引用の通りです。

 結局,言いたいことは,6以下なのです。

 しかし,それで自分を守ることはできません。


「国語力」「考える力」のレベルが,話の中でごちゃまぜになっているのですよ。

 小学校1年生から6年生までを教える人なら,わかっているはずのことなのですが・・・。
 

 そこまで論理的でない文章を読まされれば,

 「どうしてそうなってしまったんだろう」

 という心配を呼び起こすことになってしまうのです。

 書く力を磨くためには,

 自分の欠点をごまかそうとしないことが重要です。

 「正しく理解していない」証拠を示さないといけないのに,

 それには全くふれませんね。

 理由は簡単。

 それをやってしまうと,自分の方が不利になるのが明白だから。

 指導力のない教師の最大の問題は,

 自分に問題があるということを絶対に認めないことなのです。

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教育委員会は,保護者ではなく教員の味方

 毎日新聞が本日配信したニュースから,

 宇都宮市教育委員会と,問題の現在小3担任教員の関係が明らかにされている。

 小学校で,学級担任をもたせられない教師が多いのは,教育委員会としても頭を抱える問題である。

 だから,教育委員会としては,「親の苦情程度」で

 「二度と担任を持たせない」などという指導をすることはできない。

 「最悪より最低を選ぶ」のが,行政や管理職の選択である。

 それにしても,教育委員会(事務局)の教師をかばう態度はあまりに露骨。

>「大きな(教育上の)成果も出している。総合的に判断したい」

 教育委員会(事務局)は,教師出身者がいないと動かせない組織だから,

 子どもを道具にできる教師は「役に立つ」のである。

 教師も教育委員会も,やっていることは同じ。


 教育委員会をもっと「市民に近いものに」という声もあろう。


 行政一筋の事務方ばかりだと,

 「教育に関する指導」が成立しない。

 しかし,

 体罰ですら「教育の一環」という認識がある地域では,

 「教育に関する指導」以前の指導が成立しない。

 無法地帯である。

 これをどうにかするには,保護者が動くしかない。

 場合によっては,保護者の方に問題があることもあるだろう。

 一番役に立つのは,

 今のタイミングなら,マスコミである。

 宇都宮のこの程度の教員の話でニュースになる時期である。

 もうすぐ24年度も終わってしまうが,

 25年度は,保護者が上手にマスコミを味方につけて,子どもを守れる元年にしたらいいだろう。

 学校や教師を評価する外部の目が確かになれば,

 学校は変わる可能性がある。

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宮城谷昌光の言葉

  • 雲のうえに頂をもつ高山を登ろうとするのに、その山相のすさまじさに圧倒され、おじけづいていては何もはじまらない。最初の一歩を踏み出さねば、山頂は近づいてこない。
    「楽毅」第四巻より
  • みごとなものだ。斂(おさ)めるところは斂め、棄てるところは棄てている。楽氏が棄てたところに、われわれの生きる道がある。
    「楽毅」第四巻より
  • 去ってゆく千里の馬を追っても、とても追いつかぬぞ。千里の馬の尾をつかむには、その脚が停まったときしかない
    「楽毅」第四巻より
  • ・・・つくづく人のふしぎさを感じた。道を歩く者は、足もとの石をたしかめようとしないということである。千里のかなたを照らす宝石がころがっていても、気がつかない。それほどの名宝は深山幽谷に踏みこまなければ得られないとおもいこんでいる。
    「楽毅」第三巻より
  • この城をもっとたやすく落とすべきであった。たやすく得たものは、たやすく手放せる。
    「楽毅」第二巻より
  • なにかを信じつづけることはむずかしい。それより、信じつづけたことをやめるほうが、さらにむずかしい。
    「楽毅」第二巻より
  • からだで、皮膚で、感じるところに自身をおくことをせず、頭で判断したことに自身を縛りつけておくのは、賢明ではなく、むしろ怠慢なのではないか
    「楽毅」第二巻より
  • こうする、ああする、といちいち目的と行動とを配下におしえつづけてゆけば、配下はただ命令を待つだけで、思考をしなくなる。この四人はいつなんどき多数の兵を指揮することになるかもしれず、そのときにそなえて自立した思考力をもつ必要がある。
    「楽毅」第二巻より
  • 人は自分の存在を最小にすることによって最大を得ることができる
    「楽毅」第三巻より
  • 勇と智とをあわせもっている者は、攻めるときよりも退くときに、なにかをなすときより、なにもなさないときに、その良質をあらわす
    「楽毅」第二巻より