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【再掲 ~道徳を考える・その2~】 道徳の教科化(2007年4月)

 直近の話題(*注1:2007年のこと)に関する賛否の表明がブログというメディアのスタンスでは大切だと思うので,「道徳の教科化」について,主に「改正教育基本法反対」「反政府」の立場の人たちから反対意見が多い中,ちょっとだけ勇気をもって「賛成」意見を述べようと思います。

 ただし,「条件付」賛成です。

 まず,基本的に賛成の立場をとる理由は,まず,今までの道徳の時間の無駄が省けること。

 この4月で小学校3年生になる子どもが,最近になって,「心のノート」を本棚に入れていました。これは,1・2年生の副教材ですから,どんな勉強をしたのかなと思って開いてみたら,何の記入もなし。このノートは,書き込みができるのが特徴になっています。どうしたの?と聞くと,2年生が終わる3月に配布されたとのこと。

 学校現場というのは,こんな調子なのです。副教材を買わせて指導する学校もあるかもしれませんが,それがどれくらい活用されているかは疑問です。

 まず,教科になれば,このような税金の無駄や家庭の負担はなくなるということ。

 次に,「教科書」ができることで,教師が安心して指導できるようになるということ。

 ここが条件付ですが,この教科書に掲載する教材は,国語の教科書みたいな「読み物」中心では絶対にいけません。国語の教科の専門家につくらせてはいけない。これは譲れない条件です。ではつくる主体はだれかというと,社会科専門の教師です。

 現行の道徳の内容と改正教育基本法の中身をみると,驚くほど似ています。

 そして実は,社会科の教科目標とも似ている。

 社会科の教師が,現代社会のさまざまな問題の中から,,道徳的価値を自覚しやすいものを選び,「教え込み」でなく生徒が授業を創造できるような「学び合い」の教材として教科書化する。

 これが条件です。それほど難しい注文ではありません。

 研究熱心な社会科の教師の授業は,かなりの度合いで道徳的です。

 うまくいけば,今まで日本の教育ではタブーだった宗教にもふれられます。(*注2:平成20年の学習指導要領改訂で,中学校社会科の改訂の趣旨の一つに,「宗教に関する学習の重視」が盛り込まれました。)

 国際社会で生き抜く上で,宗教に関する無知は重大な課題となり,日本の将来にとっても命取りになりかねません。

 さらに付け加えたい条件は,道徳を教科にするなら,その専門家を育てること。

 現行の道徳は,担任が指導することが原則になっていますが,今後は,「道徳」の免許を持った教師が教える。ただしこれは,すぐに実現できるように,免許更新とセットで希望する教師に取得させる。道徳だけを教える教師がいてもよいということです。定数もこれに伴って変更する。

 道徳の教科化に批判的な人の大方の意見は,「どう評価するのか」ということですが,これは現行の指導要録の「行動の記録」をより具体的・計画的に評価できるシステムを構築する。

 現行の指導要録では,「反社会的」「滅公奉私」の行動をとる生徒を,記録の上で残せない問題がありました。
 
 ですから,テストの点はとるが,清掃はサボる,遅刻は多い,人を傷つける・・・そんな生徒でも優秀だと思われて進学してしまう仕組みがありました。

 「私的空間」を重視する倫理と違って道徳の場合は「公共空間」「社会」での生き方に重点がおかれます。自治活動や部活動がさかんな学校では,非常に評価しやすい内容になります。
 
 「国のため」というと「戦争で死ぬ」ことしか頭に浮かばない人が50代の教師に多いようですが,今の小中学生はまだ「国」とは何かがわかっていませんし,徴兵制の国でもなく,天皇は象徴(今では平和と国際親善の象徴の色合いが濃い)ですから,「戦前に逆戻り」というのは絶対にありえません。

 近代日本があの形をとれたのは,天皇権威を政治に利用できたからであって,権威のない政府や軍部だけでは成立しなかったのです。

 最後に賛成の理由をもう一つ。道徳は,総合的な学習の時間と同じように,地域や社会の人材を生かしやすい領域だということ。身近な地域の人々による教育参画が促せるようになります。

 私なら,「公共空間」に生きるとはどういうことか?「私共空間」(*注3:公の場所を,わがままな人間たちが私的な行動をとる場所にしてしまうこと)の誘惑にどう打ち勝つか?などをテーマに授業をしたいですね。

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  • 雲のうえに頂をもつ高山を登ろうとするのに、その山相のすさまじさに圧倒され、おじけづいていては何もはじまらない。最初の一歩を踏み出さねば、山頂は近づいてこない。
    「楽毅」第四巻より
  • みごとなものだ。斂(おさ)めるところは斂め、棄てるところは棄てている。楽氏が棄てたところに、われわれの生きる道がある。
    「楽毅」第四巻より
  • 去ってゆく千里の馬を追っても、とても追いつかぬぞ。千里の馬の尾をつかむには、その脚が停まったときしかない
    「楽毅」第四巻より
  • ・・・つくづく人のふしぎさを感じた。道を歩く者は、足もとの石をたしかめようとしないということである。千里のかなたを照らす宝石がころがっていても、気がつかない。それほどの名宝は深山幽谷に踏みこまなければ得られないとおもいこんでいる。
    「楽毅」第三巻より
  • この城をもっとたやすく落とすべきであった。たやすく得たものは、たやすく手放せる。
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  • なにかを信じつづけることはむずかしい。それより、信じつづけたことをやめるほうが、さらにむずかしい。
    「楽毅」第二巻より
  • からだで、皮膚で、感じるところに自身をおくことをせず、頭で判断したことに自身を縛りつけておくのは、賢明ではなく、むしろ怠慢なのではないか
    「楽毅」第二巻より
  • こうする、ああする、といちいち目的と行動とを配下におしえつづけてゆけば、配下はただ命令を待つだけで、思考をしなくなる。この四人はいつなんどき多数の兵を指揮することになるかもしれず、そのときにそなえて自立した思考力をもつ必要がある。
    「楽毅」第二巻より
  • 人は自分の存在を最小にすることによって最大を得ることができる
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  • 勇と智とをあわせもっている者は、攻めるときよりも退くときに、なにかをなすときより、なにもなさないときに、その良質をあらわす
    「楽毅」第二巻より