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教育に理想のない人間の「言い逃れ」

 小学校の教師にはよくわからないことかもしれないが,

 中学校や高校の部活動というところは,

 顧問と生徒という関係以外に,非常に重要なものがある。

 それは「上級生」と「下級生」という関係である。

 部活動の教育効果は,教師なしのところで発揮できる部分が大きい。

 そういうことがわからない人間が部活動のことを語ると,

 見当はずれだったり,大切なものを見落としたりする結果になる。

 自意識過剰の人間は,

 「教育」を常に自分と生徒との関係の中で考えてしまう。

 しかし,「教育の理想」をもつ人間は,そんな「小さな」人間ではない。

 小学生ですら,「教育力」をもっている。

 異年齢集団の活動は,小学校でもある程度はなされているだろう。

 中学校の場合は,委員会活動や部活動,大きな行事でこれが行われる。

 体罰は,教師が子どもにふるうものを一般的にはさすが,

 部活動の先輩が後輩に対して同様の行為をする場合がある。

 なぜ,そういうことをするのか。

 どんなに弱い部でも,同じようなことがあるかもしれない。

 しかし,常に全国大会がねらえるような位置にある学校というのは,

 視野の狭い指導者が言うような

 「顧問や学校の名誉のため」ではなく,

 「自分たち部員のため」に,厳しい練習を貫こうとしているのである。

 こういう集団に対して,やる気のない顧問がとる態度の典型が,
 
 あるブログで紹介されている。

 自分が考える「教育的な姿」を子どもに押しつけようとするのだ。

 全国大会で金賞がとれる学校ばかりか,

 コンクールの審査にまで難癖をつけるような人間は,

 「見下されることが大嫌い」だから,

 「賞がとれない」ことというよりは,

 「自分たちより上」と見なされるものが存在すること自体が気に入らないのである。

 その人間にとっては「残念」であろうことに,

 私が勤務していた中学校の吹奏楽部は,全国大会金賞の常連校だったが,

 その活躍の場は非常に多彩で,「金賞をとるため」に日々の練習があるのではなく,
 
 「金賞はとって当たり前」,「優れた演奏を様々な機会に紹介するのは当たり前」,

 「地域で定期演奏会を開くのは当たり前」,「自治体のセレモニーで演奏するのは当たり前」,

 「学校の成績もよくて当たり前」,「生活の態度はよくて当たり前」,

 「学級委員など,学校の自治に積極的にかかわるのも当たり前」

 などといった姿勢をもつ集団であった。

 それは,教師が「教える」のではない。

 部活動に入部した子どもが,そこで先輩の姿を見て「感じ取る」のである。

 はじめは,「評判」だけで入った子どもも,入学後して入部してから,もっと

 「広い意味」の部活動の意義を知る。

 教育に理想のない人間というのは,

 子どもから「離れられない」という特徴をもち,

 「勝ち負け」にこだわり,

 見苦しい「負け惜しみ」を公開しないと気が済まない。

 もういい加減,「離れる」決断を下してみたらどうか。

 呼ばれたから行く,
 
 のではなくて,

 そういう人間を必要としない

 さまざまな学校を自分で訪問して,

 実際に自分の目でたしかめてみたらどうか。

 そして,子どもの声に耳を傾けてみたらどうか。

 一つだけ,ある学校によっては,正しいことを書いている部分がある。

>よい賞をとったところで、その瞬間は子どもも喜ぶのかもしれませんが、感動はない

 その通り。賞をとって当たり前の学校は,賞をとるためにコンクールに出ているわけではない。


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宮城谷昌光の言葉

  • 雲のうえに頂をもつ高山を登ろうとするのに、その山相のすさまじさに圧倒され、おじけづいていては何もはじまらない。最初の一歩を踏み出さねば、山頂は近づいてこない。
    「楽毅」第四巻より
  • みごとなものだ。斂(おさ)めるところは斂め、棄てるところは棄てている。楽氏が棄てたところに、われわれの生きる道がある。
    「楽毅」第四巻より
  • 去ってゆく千里の馬を追っても、とても追いつかぬぞ。千里の馬の尾をつかむには、その脚が停まったときしかない
    「楽毅」第四巻より
  • ・・・つくづく人のふしぎさを感じた。道を歩く者は、足もとの石をたしかめようとしないということである。千里のかなたを照らす宝石がころがっていても、気がつかない。それほどの名宝は深山幽谷に踏みこまなければ得られないとおもいこんでいる。
    「楽毅」第三巻より
  • この城をもっとたやすく落とすべきであった。たやすく得たものは、たやすく手放せる。
    「楽毅」第二巻より
  • なにかを信じつづけることはむずかしい。それより、信じつづけたことをやめるほうが、さらにむずかしい。
    「楽毅」第二巻より
  • からだで、皮膚で、感じるところに自身をおくことをせず、頭で判断したことに自身を縛りつけておくのは、賢明ではなく、むしろ怠慢なのではないか
    「楽毅」第二巻より
  • こうする、ああする、といちいち目的と行動とを配下におしえつづけてゆけば、配下はただ命令を待つだけで、思考をしなくなる。この四人はいつなんどき多数の兵を指揮することになるかもしれず、そのときにそなえて自立した思考力をもつ必要がある。
    「楽毅」第二巻より
  • 人は自分の存在を最小にすることによって最大を得ることができる
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  • 勇と智とをあわせもっている者は、攻めるときよりも退くときに、なにかをなすときより、なにもなさないときに、その良質をあらわす
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