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何も変えられない教育論という名の戯言

 社会のしくみを変えるのは,簡単なことではない。

 だれかがそのときの「勢い」でその場は変えることはできても,やがて戻っていく。

 本当に必要な改革は,必ず現場の抵抗で実施にうつされない。

 今の学校現場は,底に穴があいた船である。

 漂流船もあれば,沈没船もある。

 間違った針路をとっている船もある。

 そういう船で生活している生徒たちは悲惨である。

 漂流している船の甲板の上では,罰として「希釈塩酸を飲ませる」教師も登場している(愛知県)。

 こういう問題が,次々と発生する。

 以前から,この教育論の場には,

 「罰を安易に用いる教師は指導力が低い」などの

 当たり前のことが氾濫していた。

 漂流船は,魚が生きていない海を航海しているのだ。

 「船」ではなく,「海」に目を向けることが,

 教育改革には欠かせない,という視点を行政は持つべきである。

 東京オリンピックの招致活動が活発のようだが,

 大きなハードルは,国内に反対派が多いことである。

 高速船は,波が高かったり,海面が凍っていては,何の役にも立たない。

 自然現象は人間の力の及ぶところではないが,

 人間社会は,人間の力で変えられる。

 学校でも,船底の穴をふさぐことは不可能ではない。

 一つふさいでも,それをしているすぐ横で穴をあけている教師もいる。

 穴をあけるペースよりも,ふさぐペースの方をあげることしかない。

 もちろん,すぐれた教師は多忙になる。

 穴をあけている教師も,穴をあける作業だけで多忙である。文句ばっかり言っている。

 穴をふさぐのは,無言でやっている。忙しいとは,そういうことである。

 文句を言っている暇がない状態を,忙しいという。

 穴をあけるのは,不満をまきちらしながらやっている。

 自分が教育界にとっていかにおろかな存在であるかを,

 自らが気づいてもらうしかない。

 
 そういう意味で,こういう教師がいたら,絶対にそれには気づけないだろうな,という人が,この村で自分を批判した人と,「病気の人」にさかんにケチをつけている。

 今度は,過去の恨みからかどうか知らないが,裁判官にまでケチをつけ始めた。

 現場では,そういう人は「おだてる」ことで,とりあえず「穴あけ作業」の手を休ませることができる。

 ネット上では,自分を自分で「おだてて」,さらに「穴あけ作業」に没頭している。

 穴をあけすぎて,底が抜けているのに,まだ穴をあけ続けることができるのが,

 この仮想空間である。

 現場はそうはいかない。

 メルトダウンを防がなければならない。

 教師のためにではない。

 子どものために。

 この国の未来のためにである。


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宮城谷昌光の言葉

  • 雲のうえに頂をもつ高山を登ろうとするのに、その山相のすさまじさに圧倒され、おじけづいていては何もはじまらない。最初の一歩を踏み出さねば、山頂は近づいてこない。
    「楽毅」第四巻より
  • みごとなものだ。斂(おさ)めるところは斂め、棄てるところは棄てている。楽氏が棄てたところに、われわれの生きる道がある。
    「楽毅」第四巻より
  • 去ってゆく千里の馬を追っても、とても追いつかぬぞ。千里の馬の尾をつかむには、その脚が停まったときしかない
    「楽毅」第四巻より
  • ・・・つくづく人のふしぎさを感じた。道を歩く者は、足もとの石をたしかめようとしないということである。千里のかなたを照らす宝石がころがっていても、気がつかない。それほどの名宝は深山幽谷に踏みこまなければ得られないとおもいこんでいる。
    「楽毅」第三巻より
  • この城をもっとたやすく落とすべきであった。たやすく得たものは、たやすく手放せる。
    「楽毅」第二巻より
  • なにかを信じつづけることはむずかしい。それより、信じつづけたことをやめるほうが、さらにむずかしい。
    「楽毅」第二巻より
  • からだで、皮膚で、感じるところに自身をおくことをせず、頭で判断したことに自身を縛りつけておくのは、賢明ではなく、むしろ怠慢なのではないか
    「楽毅」第二巻より
  • こうする、ああする、といちいち目的と行動とを配下におしえつづけてゆけば、配下はただ命令を待つだけで、思考をしなくなる。この四人はいつなんどき多数の兵を指揮することになるかもしれず、そのときにそなえて自立した思考力をもつ必要がある。
    「楽毅」第二巻より
  • 人は自分の存在を最小にすることによって最大を得ることができる
    「楽毅」第三巻より
  • 勇と智とをあわせもっている者は、攻めるときよりも退くときに、なにかをなすときより、なにもなさないときに、その良質をあらわす
    「楽毅」第二巻より