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35人学級のしくみは必要ない ~教員のばらまきには反対~

 学級の規模に関する判断は,文部科学省ではなく,財務省が正しい。

 単純な教員増は,教育の質の低下を招くことの方が心配である。

 35人学級の効果は,

 たとえば学力調査の結果,体力測定データの結果から分析してみればよい。

 少人数指導にすれば学力が向上するという単純なものではない。

 過疎地ならともかく,

 都市部で

 1学年に36人程度しかいない学校が,そもそも適正かどうか。

 35人学級なら,

 18人,17人の2学級になる。

 教師はたくさん必要になる。

 その効果がどれだけあるというのか。

 今,学校がみんな小規模化してしまって,

 学校の中で若い教師が育っていく環境が失われている。

 団塊の世代がまとまっていたころは,学校規模が大きく,若い教師が学ぶ機会も多かった。

 今は,初任者が単学級の担任,つまり学年主任をつとめる時代である。

 こんな学校に安心して子どもを任せられる親がいるだろうか。

 学校によって,新入学の生徒の規模はさまざまである。

 学校選択自由化の地域では,人気のある学校は常に定員いっぱいである。

 こういう学校では,いい教育はできないのか?

 魅力がないので入学希望者の少ない学校は,学力向上が実現しやすい学校なのか?

 定数は,弾力的に考えるべきである。

 40人学級でよい,と判断する学校は,40人でよいではないか。

 35人という数字は,中途半端なのである。

 36人なら,まだわかる。

 1クラスの人数は,どれだけが本当に「適正」なのだろうか。

 数字を1つだけあげてくれと言われたら,

 多くの教師は36人と答えると思われる。

 6×6,4×9,3×12,2×18・・・・機能に応じたさまざまな規模の集団ができる人数である。

 ただ,36人を上回ってはいけない,ということになると,

 37人だったら18人と19人の2クラスになってしまうのである。

 2クラスになってしまうのならば,37人の1クラスの方がやりやすい,という声もあろう。

 弾力的な運用が求められるのである。

 教員の「ばらまき」よりも,

 重点的な配置が大事だ,という考え方はまっとうである。

 ぜひそのようにしてほしい。・・・というか,実際にはそうなっている。

 学級の人数の規模は,実態として,学校によって様々である。

 今度は,学校の適正な規模を話題にしてほしい。


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宮城谷昌光の言葉

  • 雲のうえに頂をもつ高山を登ろうとするのに、その山相のすさまじさに圧倒され、おじけづいていては何もはじまらない。最初の一歩を踏み出さねば、山頂は近づいてこない。
    「楽毅」第四巻より
  • みごとなものだ。斂(おさ)めるところは斂め、棄てるところは棄てている。楽氏が棄てたところに、われわれの生きる道がある。
    「楽毅」第四巻より
  • 去ってゆく千里の馬を追っても、とても追いつかぬぞ。千里の馬の尾をつかむには、その脚が停まったときしかない
    「楽毅」第四巻より
  • ・・・つくづく人のふしぎさを感じた。道を歩く者は、足もとの石をたしかめようとしないということである。千里のかなたを照らす宝石がころがっていても、気がつかない。それほどの名宝は深山幽谷に踏みこまなければ得られないとおもいこんでいる。
    「楽毅」第三巻より
  • この城をもっとたやすく落とすべきであった。たやすく得たものは、たやすく手放せる。
    「楽毅」第二巻より
  • なにかを信じつづけることはむずかしい。それより、信じつづけたことをやめるほうが、さらにむずかしい。
    「楽毅」第二巻より
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    「楽毅」第二巻より
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    「楽毅」第二巻より
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    「歴史の活力」より
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    「沙中の回廊(下)」より
  • 人を得ようとしたければ、まずその人のために勤めねばならぬ。すなわち、晋が諸侯を従えたいのであれば、諸侯のために骨折りをしなければならない。
    「子産(上)」より
  • 知るということは、活かすということをして、はじめて知るといえる。
    「青雲はるかに(上)」より
  • 師はつねに偉く、弟子はつねに劣っているものでもない。弟子の美点に敬意をいだける師こそ、真に師とよんでさしつかえない人なのではないか。
    「孟嘗君 2」より
  • 人を家にたとえると、目は窓にあたる。窓は外光や外気を室内にとりいれるが、室内の明暗をもうつす。そのように目は心の清濁や明暗をうつす。
    「孟嘗君 2」より
  • 人にものごとを問うということは、質問そのものに、問うた者の叡知があらわれるものである。
    「孟嘗君 3」より
  • 人から嫌われることを、避けようとする者は、心の修養ができていないことである。
    「中国古典の言行録」より
  • 人を利用すれば、かならず人に利用される。・・・企てというのは、人に頼ろうとする気が生じたとき、すでに失敗しているといってよい。
    「太公望 中」より
  • 与えられてばかりで、与えることをしないことを、むさぼると申します。むさぼった者は、なべて終わりがよくない
    「孟夏の太陽」より
  • ・・・料理をつくりながら、人と組織とをみきわめたのか。素材が人であれば、素材を合わせてつくった料理が組織である。それ自体はにがく、からいものでも、他の素材と合わされば、うまさを引きだすことができる。煮るとか蒸すとかいうことが、政治なのかもしれない。
    「太公望 中」より
  • 他人を変革するためには、まず自己を改革しなければならね。
    「太公望 中」より
  • 人が何かを得るには、二通りあります。与えられるか、自分で取るかです。(中略)与えられることになれた者は、その物の価値がわからず、真の保有を知りませんから、けっきょく豊さに達しないのです。
    「奇貨居くべし 春風篇」より
  • みじかいなわしかついていないつるべでは、深い井戸の水を汲むことはできない。
    「奇貨居くべし 黄河編」より
  • 人は目にみえるものを信じるが、そのことにはかぎりがあり、けっきょく、人が本当に信じるものは、目にみえぬものだ
    「晏子」第二巻より
  • 人にはそれぞれこだわりがあり、そのこだわりを捨てて、変化してゆく現実や環境に順応してゆくことの、何とむずかしいことか。
    「奇貨居くべし 飛翔篇」より
  • 失敗を心中でひきずりつづけると、起死回生の機をとらえそこなう。それは戦場における教訓にすぎないともいえるが、大きな勝利とは、相手の失敗につけこむのではなく、自分の失敗を活かすところにある。楽毅の信念はそうである。
    「楽毅」第四巻より
  • 人の頭脳のなかの眼力は、木の幹にあたるであろうが、幹をささえるものは知識という葉ではない。根である。根は地上の者ではどうすることもできない伸びかたをする。その根は天から落ちてくる水を吸い、人からあたえられる水も吸って太ってゆく。
    「奇貨居くべし 春風篇」より
  • 大木にするためには、幹の生長に目をうばわれがちであるが、地中の根を大きく張らせることを忘れてはならない。花を咲かせることをいそぐと、花のあとの結実をおろそかにしてしまう。要するに、大木でなければ豊かな実をつけないということである。
    「奇貨居くべし 春風篇」より
  • あらゆる事態を想定して準備を怠らず、変化に対応できるようなトップでいなければならない。
    「中国古典の言行録」より