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学校週6日制復活へ

 教育に対する「民意」が反映されようとしているのが,

 「学校週6日制」の復活である。

 Yahoo!意識調査では,調査初日の今日,賛成が72%,反対が23%となっている。

 東京都小学校PTA協議会が2010年に実施した調査では,保護者の86%と教員の38%が「必要」,保護者の7%と教員の52%が「反対」だった。

 教員の数字が,公立学校の実態をそのまま反映しているといえる。

 私は,4割も「賛成者」がいることに驚いているほどだが,

 保護者の9割近くが希望していることに,反対している教員が半分以上いる現場,

 というのは,公的でない「サービス」を提供する組織ではあり得ない。

 私の意見は,小学校の場合は6日制を急ぐより,

 学習指導要領を見直すことが先決である,というものである。

 現在の時間数で,今よりはるかに多くの内容を学ぶことができることは明らかであるから。

 教科担任制にして,しっかりとした内容を「学ばせることができる」学校をつくれば,土曜授業は必要ない。

 一方,中学校や高校の場合は,6日制導入は不可欠である。

 5日制になって,土曜日が本来の趣旨通りに使われてきたとは言い難い。

 「教育内容が減らされた」ことと,教師の勤務が「ふつうの人らしくなった」というだけの話である。

 質的な面はともかく,量的に測定できる「学力」が低下するのは当たり前である。

 5日制で質がよくなった,ことは実証しにくいばかりか,

 そもそも「質の高い」教育を行う条件は,「学習指導要領を改訂すること」ではないことくらい,

 教師をやっている人間や,授業を受けている子どもならわかるはずである。

 土曜日は,部活動があるから,生徒は実態として,学校に通っている。

 土曜日の午前中4時間の授業で給食まで実施すれば,月曜~金曜の午後に,より充実したことを教師も生徒も行える。

 給食が不可能なら,土曜日だけ「弁当」を納品してくれる業者を利用すればいい。

 最大の難関は,週40時間勤務をどうクリアするかだが,

 教員や教育の質を落としてしまっては,元も子もない。

 非常勤講師に頼らずに,平日に休みがとれるような時間割が組める学校規模を「標準」として,

 統廃合を加速し,「同じ質の教育を行う」という公立学校にとって最も求められるはずの条件を,「同じ規模で実施する」ことで満たすように努力することである。

 学校選択自由化をしている地域では,歩いていける範囲に

 人気が集中する大規模校と小規模校が近接していたりする。

 基本的な学区域をつくり直し,選択自由化の制度は残したまま,

 学校の数を減らす。

 子どもの数は激しく減ってきているのに,学校の数や教員の数は,それと同様に減ってはいないのだ。

 だから,教員の数は増やす必要はない。学校の数を減らし,

 たとえば「どの学校でも35人×数学級」の規模がもてるようにすれば,

 35人学級も,

 学校週6日制も,

 学力向上も,

 不可能ではない。

 教員には研修が義務付けられているが,これは満足にできていない。

 しかし,平日に休みをとって学校を自由に離れるようなことができるようになれば,

 地域の学校や先導的教育を行っている学校にいつでも訪問し,授業を見学したり学習指導法を学んだりすることができるようになる。

 結局,教員に「休みはない」状態になるかもしれないが,

 これが「教育に情熱をもつ教師」の姿なのであろう。

 

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  • 雲のうえに頂をもつ高山を登ろうとするのに、その山相のすさまじさに圧倒され、おじけづいていては何もはじまらない。最初の一歩を踏み出さねば、山頂は近づいてこない。
    「楽毅」第四巻より
  • みごとなものだ。斂(おさ)めるところは斂め、棄てるところは棄てている。楽氏が棄てたところに、われわれの生きる道がある。
    「楽毅」第四巻より
  • 去ってゆく千里の馬を追っても、とても追いつかぬぞ。千里の馬の尾をつかむには、その脚が停まったときしかない
    「楽毅」第四巻より
  • ・・・つくづく人のふしぎさを感じた。道を歩く者は、足もとの石をたしかめようとしないということである。千里のかなたを照らす宝石がころがっていても、気がつかない。それほどの名宝は深山幽谷に踏みこまなければ得られないとおもいこんでいる。
    「楽毅」第三巻より
  • この城をもっとたやすく落とすべきであった。たやすく得たものは、たやすく手放せる。
    「楽毅」第二巻より
  • なにかを信じつづけることはむずかしい。それより、信じつづけたことをやめるほうが、さらにむずかしい。
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  • からだで、皮膚で、感じるところに自身をおくことをせず、頭で判断したことに自身を縛りつけておくのは、賢明ではなく、むしろ怠慢なのではないか
    「楽毅」第二巻より
  • こうする、ああする、といちいち目的と行動とを配下におしえつづけてゆけば、配下はただ命令を待つだけで、思考をしなくなる。この四人はいつなんどき多数の兵を指揮することになるかもしれず、そのときにそなえて自立した思考力をもつ必要がある。
    「楽毅」第二巻より
  • 人は自分の存在を最小にすることによって最大を得ることができる
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  • 勇と智とをあわせもっている者は、攻めるときよりも退くときに、なにかをなすときより、なにもなさないときに、その良質をあらわす
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