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生徒からもらう年賀状から思うこと

 今年度は,中学校の全学年の生徒を教えた関係からか,生徒からの年賀状をたくさんもらいました。

 ここのところの傾向を感覚的に言うと,

 本人の言葉が一言もない年賀状が増えたことでしょうか。

 宛先も機械で印刷されているので,親が勝手に出しているのではないかと疑いたくもなります。

 特に,親の愛情がたっぷりの年賀状を見ると,こういうのをもらってもうれしくないタイプの大人もいるのではないか(私は自分が同じようなのをつくっているので,そうではないですが)と思ってしまいます。

 ほとんど話をしたことがない生徒からもらう年賀状にコメントなしのものが多いので,これは反省材料になります。

 震災後,「家族の絆」が強まったのではないか,という「想像」がなされていますが,

 確かに,20年近くのお付き合いのある方の年賀状が今までと異なり,家族写真入りになった,というものもありました。

 どの年賀状からも,とてもあたたかい雰囲気が伝わってきて,

 これは電子メールや無料通話アプリによる挨拶では伝わらないものだと感じました。

 ちょっとぎこちない,手書きの「決意表明」なんてものを見せられると,

 自然にその生徒の日常に目がいってしまう・・・・というのも,「ひいき」の一例ですかね。

 年賀状は,「私的」な「文書」のやりとりです。

 でも,まさかそれを禁じている学校はないと思いますが・・・。
 
 しかも,その理由が「先生の仕事(年賀状の返事を書く)を増やすことにならないように」

 だったら・・・・。

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宮城谷昌光の言葉

  • 雲のうえに頂をもつ高山を登ろうとするのに、その山相のすさまじさに圧倒され、おじけづいていては何もはじまらない。最初の一歩を踏み出さねば、山頂は近づいてこない。
    「楽毅」第四巻より
  • みごとなものだ。斂(おさ)めるところは斂め、棄てるところは棄てている。楽氏が棄てたところに、われわれの生きる道がある。
    「楽毅」第四巻より
  • 去ってゆく千里の馬を追っても、とても追いつかぬぞ。千里の馬の尾をつかむには、その脚が停まったときしかない
    「楽毅」第四巻より
  • ・・・つくづく人のふしぎさを感じた。道を歩く者は、足もとの石をたしかめようとしないということである。千里のかなたを照らす宝石がころがっていても、気がつかない。それほどの名宝は深山幽谷に踏みこまなければ得られないとおもいこんでいる。
    「楽毅」第三巻より
  • この城をもっとたやすく落とすべきであった。たやすく得たものは、たやすく手放せる。
    「楽毅」第二巻より
  • なにかを信じつづけることはむずかしい。それより、信じつづけたことをやめるほうが、さらにむずかしい。
    「楽毅」第二巻より
  • からだで、皮膚で、感じるところに自身をおくことをせず、頭で判断したことに自身を縛りつけておくのは、賢明ではなく、むしろ怠慢なのではないか
    「楽毅」第二巻より
  • こうする、ああする、といちいち目的と行動とを配下におしえつづけてゆけば、配下はただ命令を待つだけで、思考をしなくなる。この四人はいつなんどき多数の兵を指揮することになるかもしれず、そのときにそなえて自立した思考力をもつ必要がある。
    「楽毅」第二巻より
  • 人は自分の存在を最小にすることによって最大を得ることができる
    「楽毅」第三巻より
  • 勇と智とをあわせもっている者は、攻めるときよりも退くときに、なにかをなすときより、なにもなさないときに、その良質をあらわす
    「楽毅」第二巻より