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刺激が強すぎる教育論・教育問題

 2つ記事を書いたのだが,冷静に読み返してみて,これはさすがにお蔵入りにせざるをえないと判断した。

 題材は教育改革の方法である。

 今,教育行政は,

 底に穴があいている水そうに,ひらすら水を流し込んでいるだけである。

 そして,「なぜ水がたまらないのだろう」と言っている。

 どうしてそんなとぼけたことを言っているのかというと,

 「穴は存在しない」ことにしているからである。

 だから,教育行政には穴をふさぐ気はない。

 教師も,その穴がないことにすることに加担している存在である。

 教育改革で最も重要なことは,

 「穴」が広がる前に,ふさぐことである。

 だれがこの「穴」をふさぐことができるのだろうか。

 私が「最有力候補」として挙げたいのは,「校長」である。

 ・・・・・もちろん,「本物の校長」ではない。

 「一日警察署長」というのがある。

 これと同じパターンで,「一日校長」を,一年間に50日,つまり50人につとめてもらうのである。

 おもな役割は,教師と子どもの評価である。

 50通りの評価に,「こたえる」ための時間が残りの百数十日である。

 とりあえず,この程度に薄めて,

 「本物の校長」ではない,「本物の校長」を,学校現場に入れる・・・・ことを改革の第一歩として,提案したい。


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宮城谷昌光の言葉

  • 雲のうえに頂をもつ高山を登ろうとするのに、その山相のすさまじさに圧倒され、おじけづいていては何もはじまらない。最初の一歩を踏み出さねば、山頂は近づいてこない。
    「楽毅」第四巻より
  • みごとなものだ。斂(おさ)めるところは斂め、棄てるところは棄てている。楽氏が棄てたところに、われわれの生きる道がある。
    「楽毅」第四巻より
  • 去ってゆく千里の馬を追っても、とても追いつかぬぞ。千里の馬の尾をつかむには、その脚が停まったときしかない
    「楽毅」第四巻より
  • ・・・つくづく人のふしぎさを感じた。道を歩く者は、足もとの石をたしかめようとしないということである。千里のかなたを照らす宝石がころがっていても、気がつかない。それほどの名宝は深山幽谷に踏みこまなければ得られないとおもいこんでいる。
    「楽毅」第三巻より
  • この城をもっとたやすく落とすべきであった。たやすく得たものは、たやすく手放せる。
    「楽毅」第二巻より
  • なにかを信じつづけることはむずかしい。それより、信じつづけたことをやめるほうが、さらにむずかしい。
    「楽毅」第二巻より
  • からだで、皮膚で、感じるところに自身をおくことをせず、頭で判断したことに自身を縛りつけておくのは、賢明ではなく、むしろ怠慢なのではないか
    「楽毅」第二巻より
  • こうする、ああする、といちいち目的と行動とを配下におしえつづけてゆけば、配下はただ命令を待つだけで、思考をしなくなる。この四人はいつなんどき多数の兵を指揮することになるかもしれず、そのときにそなえて自立した思考力をもつ必要がある。
    「楽毅」第二巻より
  • 人は自分の存在を最小にすることによって最大を得ることができる
    「楽毅」第三巻より
  • 勇と智とをあわせもっている者は、攻めるときよりも退くときに、なにかをなすときより、なにもなさないときに、その良質をあらわす
    「楽毅」第二巻より