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「体罰」ではないものに目が向かない理由

 今,体罰がこれだけ問題になっている理由を考えてほしい。

 もし,どうだったら,体罰が問題にならなかったかを考えてほしい。

 それがわかっていない報道が多すぎる。

 教育の問題は,根が深いものである。

 本当は,ありとあらゆるものが「考える」過程には入ってこなければならない。

 現場にいない人にとっては,どうしても「考える」題材が

 「焦点化」してしまう。

 特に,スポーツに縁のなかった人間が書いているものは,

 しかたのないことだが,表面的すぎる。

 経験していない人間,当事者ではない人間の語る言葉は軽い。

 今,わかりやすいメッセージばかりが,報道を介して目立っている。

 もっと重要なことはないか?

 それは実のところ,報道ではふれられないことである。

 報道でふれられないからといって,重要ではない問題であるわけではない。

 ここが,教育問題の一つの限界である。

 あまりにも,表面的な話ばかりで時間が浪費されているが,

 根っこの部分に斬り込んでいくには,相当勇気がいるだろう。
 
 現場を退いた人こそ,そういう部分にふれてほしいのだが,

 現場にいなくてもわかるようなことばかり書かれていて残念である。


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宮城谷昌光の言葉

  • 雲のうえに頂をもつ高山を登ろうとするのに、その山相のすさまじさに圧倒され、おじけづいていては何もはじまらない。最初の一歩を踏み出さねば、山頂は近づいてこない。
    「楽毅」第四巻より
  • みごとなものだ。斂(おさ)めるところは斂め、棄てるところは棄てている。楽氏が棄てたところに、われわれの生きる道がある。
    「楽毅」第四巻より
  • 去ってゆく千里の馬を追っても、とても追いつかぬぞ。千里の馬の尾をつかむには、その脚が停まったときしかない
    「楽毅」第四巻より
  • ・・・つくづく人のふしぎさを感じた。道を歩く者は、足もとの石をたしかめようとしないということである。千里のかなたを照らす宝石がころがっていても、気がつかない。それほどの名宝は深山幽谷に踏みこまなければ得られないとおもいこんでいる。
    「楽毅」第三巻より
  • この城をもっとたやすく落とすべきであった。たやすく得たものは、たやすく手放せる。
    「楽毅」第二巻より
  • なにかを信じつづけることはむずかしい。それより、信じつづけたことをやめるほうが、さらにむずかしい。
    「楽毅」第二巻より
  • からだで、皮膚で、感じるところに自身をおくことをせず、頭で判断したことに自身を縛りつけておくのは、賢明ではなく、むしろ怠慢なのではないか
    「楽毅」第二巻より
  • こうする、ああする、といちいち目的と行動とを配下におしえつづけてゆけば、配下はただ命令を待つだけで、思考をしなくなる。この四人はいつなんどき多数の兵を指揮することになるかもしれず、そのときにそなえて自立した思考力をもつ必要がある。
    「楽毅」第二巻より
  • 人は自分の存在を最小にすることによって最大を得ることができる
    「楽毅」第三巻より
  • 勇と智とをあわせもっている者は、攻めるときよりも退くときに、なにかをなすときより、なにもなさないときに、その良質をあらわす
    「楽毅」第二巻より