ウェブページ

最近のトラックバック

本の検索・注文


  • サーチする:
    Amazon.co.jp のロゴ

« 学力とは ~理科におけるエネルギーの学習=学習指導要領の解説を読もう~ | トップページ | 「現代の名言」と教育-2 ベッケンバウアー »

学力とは ~量より質の話を~

 根本的な学習観・指導観がずれているから,

 量でごまかそうとする行動にでる。

 内容が乏しいから,恥の上塗りになっている。


 学習の質より量を重視していることが,文章からひしひしと伝わってきてしまう人がいる。

 以前に紹介した話だが,

 ある図工の公開授業で,教師が

 「のびのびとした自由な子どもらしい色で表現させる」

 ことを目標にして指導を行った。

 私には,子どもはのびのびと自由に描いているようには見えなかった。

 その理由は,授業中に教師が授業の感想を述べさせてくれたのでよくわかった。

 何人の子どもに聞いても,

 答えは一つ。

 「はみださないで塗ることができました」

 ふだんから,教師の言うことはこれだけだったのだ。

 教師の指導に子どもは本当によく従っていた。

 その結果,のびのびと楽しく絵を描くという時間にはなっていなかったのだ。

 授業実践というのは,それだけ「怖い」ものである。


 さて,量でごまかそうとするのは,

 学力が低い生徒がレポートでいい評価をもらおうとするときに陥る特徴の一つでもある。

 
 文章量は多いが,同じことの繰り返しである。

 電気のしくみをどれだけ書こうが,

 「学力」向上の話には結びついていない。

 こういうのを「ピンポイント思考」というのだろう。

 認知スタイルでいえば,「場依存型」である。

 こういうタイプの人は,外発的動機づけの条件下ではよりよく学習するが,学習には明確な教授が必要となる。しかし,それをしてくれる人がまわりにいないので気の毒である。

 また,「集中型」「収束型」思考の持ち主である。

 事例の紹介の仕方から言うと,「演繹型」の思考スタイルを重視していることもわかる。

 すでに知られている法則・原則を具体的場面に適用することによって理解することを好む。

 さらに,「反省型」ではなく,「直観型」であり,一度気に入らないと判断すると,自分自身への批判をいっさい忘れてしまう。

 何も自己批判はしていないのに,なぜか「自分も反省したい」という言葉だけは残しているところも,ワンパターンである。


 「理科の教師が間違っていた」というスピーカーの話をもとに「学力を語りたい」という衝動はどうしてもおさえられないようであり,話の繰り返しが多い。

 学力を語る上で大切なのは,

 「理科の教師が間違えた」ことを指摘することではなく,

 「ある誤解は,どのような条件のもとで生まれるのか」

 「そのような誤解を防ぐには,どのように『問う』ことが適切なのか」と問い,

 それを指導にどう生かすかを考えることである。


 価格の変化に関する問題を出すときに,

 「需要量が増えました。価格はどうなりますか?」
 
 と教師が問うとする。

 生徒は,どう反応するのが正しいか?

 ある質問をしなければ,正しい答えを出すことはできない。

 「供給量は変化しなかったのですか」


 常に,「問い」が大切なのだ。


 演繹型の思考だけでなく,帰納型の思考もできるように,

 集中型の思考だけでなく,拡散型の思考もできるように,

 直感型の思考も大切な場合があるが,反省型の思考がしっかりとできるように,

 試行錯誤型の思考も大切にして,洞察型の思考と行動ができるような人間に育てる。


 これが教師のつとめである。 

 
 
ブログランキング・にほんブログ村へにほんブログ村 教育ブログへにほんブログ村 教育ブログ 教師教育・教員養成へにほんブログ村 教育ブログ 教育論・教育問題へ

« 学力とは ~理科におけるエネルギーの学習=学習指導要領の解説を読もう~ | トップページ | 「現代の名言」と教育-2 ベッケンバウアー »

教育」カテゴリの記事

ブログネタ」カテゴリの記事

学力向上」カテゴリの記事

教職教育」カテゴリの記事

教師の逆コンピテンシー」カテゴリの記事

コメント

この記事へのコメントは終了しました。

トラックバック


この記事へのトラックバック一覧です: 学力とは ~量より質の話を~:

« 学力とは ~理科におけるエネルギーの学習=学習指導要領の解説を読もう~ | トップページ | 「現代の名言」と教育-2 ベッケンバウアー »

2021年11月
  1 2 3 4 5 6
7 8 9 10 11 12 13
14 15 16 17 18 19 20
21 22 23 24 25 26 27
28 29 30        
無料ブログはココログ

宮城谷昌光の言葉

  • 雲のうえに頂をもつ高山を登ろうとするのに、その山相のすさまじさに圧倒され、おじけづいていては何もはじまらない。最初の一歩を踏み出さねば、山頂は近づいてこない。
    「楽毅」第四巻より
  • みごとなものだ。斂(おさ)めるところは斂め、棄てるところは棄てている。楽氏が棄てたところに、われわれの生きる道がある。
    「楽毅」第四巻より
  • 去ってゆく千里の馬を追っても、とても追いつかぬぞ。千里の馬の尾をつかむには、その脚が停まったときしかない
    「楽毅」第四巻より
  • ・・・つくづく人のふしぎさを感じた。道を歩く者は、足もとの石をたしかめようとしないということである。千里のかなたを照らす宝石がころがっていても、気がつかない。それほどの名宝は深山幽谷に踏みこまなければ得られないとおもいこんでいる。
    「楽毅」第三巻より
  • この城をもっとたやすく落とすべきであった。たやすく得たものは、たやすく手放せる。
    「楽毅」第二巻より
  • なにかを信じつづけることはむずかしい。それより、信じつづけたことをやめるほうが、さらにむずかしい。
    「楽毅」第二巻より
  • からだで、皮膚で、感じるところに自身をおくことをせず、頭で判断したことに自身を縛りつけておくのは、賢明ではなく、むしろ怠慢なのではないか
    「楽毅」第二巻より
  • こうする、ああする、といちいち目的と行動とを配下におしえつづけてゆけば、配下はただ命令を待つだけで、思考をしなくなる。この四人はいつなんどき多数の兵を指揮することになるかもしれず、そのときにそなえて自立した思考力をもつ必要がある。
    「楽毅」第二巻より
  • 人は自分の存在を最小にすることによって最大を得ることができる
    「楽毅」第三巻より
  • 勇と智とをあわせもっている者は、攻めるときよりも退くときに、なにかをなすときより、なにもなさないときに、その良質をあらわす
    「楽毅」第二巻より