ウェブページ

最近のトラックバック

本の検索・注文


  • サーチする:
    Amazon.co.jp のロゴ

« 刺激が強すぎる教育論・教育問題 | トップページ | 怒鳴られることに慣れた子どもたち »

内田樹流の体罰問題へのアプローチ

 内田樹は,橋下市長を批判することに強い使命感を抱いているようで,

 体罰問題も,それに対する橋下市長の動きを批判するためのネタとして使っているわけである。

 
>生徒の自殺は,政治的水準では,教育現場への強権的干渉を正当化する「千載一遇の好機」として功利的に活用されようとしている。

 としているが,こういう

>「ひとの痛み弱みを功利的に利用して成果を上げる」技術の有効性を信じているという点

 では,内田樹も同じことである。


 橋下市長が本心で考えていることは,おそらく内田樹もわかっていると思われる。

 しかし,それが「わからないふり」をして,いかに橋下市長がやろうとしていることが「おかしいことか」を延々と書いている。

 体罰問題を,橋下批判という「使命」を果たすために「功利的に利用」しているわけである。

 大事なのは,次のように述べているとおり,体罰が有効であるという考え方をどう「やっつけるか」だ。

>批評的に対象化すべきなのは「処罰の恐怖のもとで人間はその限界を超えて、オーバーアチーブを達成する」という人間観そのものだと私は思う。

 これについて,どうお考えなのか,発表されるのを楽しみにしたいところであるが,

 「体罰」よりももっと「怖い処罰」も学校にはあるわけで,それが子どもに与える影響がどうなのかも,私たち現場の教師は検証しなければならない。

 「体罰」だけが,問題ではないことに,もう少し早く気づくべきだった。

 教師が生徒を「脅す技術」の解明を急いでほしい。


 
ブログランキング・にほんブログ村へにほんブログ村 教育ブログへにほんブログ村 教育ブログ 教師教育・教員養成へにほんブログ村 教育ブログ 教育論・教育問題へ

« 刺激が強すぎる教育論・教育問題 | トップページ | 怒鳴られることに慣れた子どもたち »

教育」カテゴリの記事

教育改革」カテゴリの記事

ブログネタ」カテゴリの記事

内田樹」カテゴリの記事

教師の逆コンピテンシー」カテゴリの記事

コメント

この記事へのコメントは終了しました。

トラックバック


この記事へのトラックバック一覧です: 内田樹流の体罰問題へのアプローチ:

« 刺激が強すぎる教育論・教育問題 | トップページ | 怒鳴られることに慣れた子どもたち »

2021年11月
  1 2 3 4 5 6
7 8 9 10 11 12 13
14 15 16 17 18 19 20
21 22 23 24 25 26 27
28 29 30        
無料ブログはココログ

宮城谷昌光の言葉

  • 雲のうえに頂をもつ高山を登ろうとするのに、その山相のすさまじさに圧倒され、おじけづいていては何もはじまらない。最初の一歩を踏み出さねば、山頂は近づいてこない。
    「楽毅」第四巻より
  • みごとなものだ。斂(おさ)めるところは斂め、棄てるところは棄てている。楽氏が棄てたところに、われわれの生きる道がある。
    「楽毅」第四巻より
  • 去ってゆく千里の馬を追っても、とても追いつかぬぞ。千里の馬の尾をつかむには、その脚が停まったときしかない
    「楽毅」第四巻より
  • ・・・つくづく人のふしぎさを感じた。道を歩く者は、足もとの石をたしかめようとしないということである。千里のかなたを照らす宝石がころがっていても、気がつかない。それほどの名宝は深山幽谷に踏みこまなければ得られないとおもいこんでいる。
    「楽毅」第三巻より
  • この城をもっとたやすく落とすべきであった。たやすく得たものは、たやすく手放せる。
    「楽毅」第二巻より
  • なにかを信じつづけることはむずかしい。それより、信じつづけたことをやめるほうが、さらにむずかしい。
    「楽毅」第二巻より
  • からだで、皮膚で、感じるところに自身をおくことをせず、頭で判断したことに自身を縛りつけておくのは、賢明ではなく、むしろ怠慢なのではないか
    「楽毅」第二巻より
  • こうする、ああする、といちいち目的と行動とを配下におしえつづけてゆけば、配下はただ命令を待つだけで、思考をしなくなる。この四人はいつなんどき多数の兵を指揮することになるかもしれず、そのときにそなえて自立した思考力をもつ必要がある。
    「楽毅」第二巻より
  • 人は自分の存在を最小にすることによって最大を得ることができる
    「楽毅」第三巻より
  • 勇と智とをあわせもっている者は、攻めるときよりも退くときに、なにかをなすときより、なにもなさないときに、その良質をあらわす
    「楽毅」第二巻より